箕輪初心:生方▲草津100ー87『志賀直哉②S12か13』と「暗夜行路」の疑問

志賀直哉と言えば、「城の崎にて」と城崎温泉を思い浮かべる。
でも、志賀直哉は、草津へ3回訪れた。①明治37年(1904)、
②大正11年(1922) 、③昭和12年(1937)夏頃か昭和13
年(1937)頃である。
草津のビジターセンターの「草津に歩み
し100人」コーナーでは3回目が「戦前」とあるだけである。
・昭和12年(1937)4月『暗夜行路』後編の最終部分を一挙に
 発表し、完結した。
・昭和12年(1937)夏頃、里見弴(さとみ・とん)は志賀直哉と
 ????と3人で四万温泉から廻って草津に立ち寄っている。
草津温泉観光協会では昭和13年(1937)頃とある。
『暗夜行路』の阪口のモデルは里見弴である。
「志賀直哉の名作『暗夜行路』の後半は草津の宿で書かれた。」
とあるが、『暗夜行路』後編の最終部分の発表が4月で草津に来
たのは、夏または昭和13年(1937)頃と考えると、疑問も残る。
『明治37 志賀直哉 家 「暗夜行路」「城の崎にて」 「草津温泉」
草図有「矢島抑堂」』
画像

画像

★父が初版本を買ったことに「びっくり?」
  母の方は「私は短歌の先生について、学んでいたが、本は全て
  おとうさんが集めたものだよ。」
  と言っていった。
  でも、父は本を買っても読まなかったであろう。
 この年は、父はピアノを習いにT女子高校の
   音楽の先生:H先生(2期生)についていたはずである。


箕輪初心:生方▲草津100ー71『志賀直哉M37・T11・S12?』①「矢島抑堂」
http://53922401.at.webry.info/201805/article_31.html





◆志賀直哉**********************
※志賀直哉は基本的には「引っ越しの神様=引っ越し摩」であった。
(宮城の石巻)⇒(東京)⇒広島の尾道⇒東京大森⇒島根松江
⇒京都南禅寺北の坊⇒鎌倉⇒鎌倉⇒赤城山大洞⇒千葉我孫子
⇒京都粟田口⇒京都山科⇒奈良市幸町⇒奈良市高畑町⇒東京淀橋
⇒東京世田谷⇒熱海⇒東京渋谷区
★自分の文学に生かすためであった?

・明治16年(1883)2月20日、宮城県石巻で誕生した。

箕輪初心★松尾芭蕉21『奧の細道』⑩【松島】&志津川ダイビング
http://53922401.at.webry.info/201208/article_5.html
★石巻泊

・明治18年(1885) 一家で上京し、祖父母の家に同居した。
祖父は旧相馬藩士で、足尾銅山の開発も行った。

箕輪初心★群馬:足尾銅山街道寄り道旅*日光~足尾~大間々~境
http://53922401.at.webry.info/201311/article_25.html

箕輪初心★『田中正造の生涯』=足尾銅山鉱毒事件を直訴した男
http://53922401.at.webry.info/201404/article_2.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201404/article_2.html

・明治22年(1889)学習院初等科に入学した。

・明治28年(1895) 8月 母が死去、義母を迎える。

・明治34年(1901) 夏、内村鑑三を訪ねた。
   以来7年間、出入りする。
  足尾銅山鉱毒地を視察に行こうとして父と衝突した。

・明治35年(1902 )学習院で武者小路実篤、木下利玄らを知り
   合いになった。

●【1】明治37年(1904)7月志賀直哉が草津にやって来た
1回目は 学習院の高等科1年から2年へ移る時、数え22歳
  の時、学生時代の貧乏旅行であった。


・明治39年(1906) 9月 東京帝国大学英文科に入学した。
  里見弴(とん)と親しくなった。

・明治43年(1910)
 4月 武者小路実篤らと同人雑誌『白樺』を創刊した。
    『網走まで』発表した。
 6月『剃刀(かみそり)』発表した。
   東京帝国大学を退学した。

・明治44年(1911)
4月『濁つた頭』を発表した。

・大正元年(1912)
9月『大津順吉』『クローディアスの日記』を発表した。
 10月 父との不和から家を出て、広島県尾道に住んだ。
  『暗夜行路』の前身『時任謙作(ときとうけんさく)』に着手した。

・大正2年(1913)
1月『清兵衛と瓢箪(ひょうたん)』を発表した。
  8月 電車にはねられ負傷した。
  10月『范(はん)の犯罪』を発表した。
   傷の養生のため城崎温泉(兵庫県)へ行った。

・天正3年(1914)
志賀直哉と里見弴はともに島根県松江で暮らし始めた。
 2人は同人誌『白樺』の仲間であった。
 志賀直哉は『暗夜行路』に、里見弴は『今年竹』に生かしている。

 7月10日、志賀直哉は松江からはるばる上京し、漱石山房を訪れた。
  志賀直哉31歳は夏目漱石47歳は漱石の自宅書斎で対座していた。


・大正3年(1914)夏、伯耆大山に登る。
箕輪初心▲鳥取「百名山№53大山&鳥取砂丘」
http://53922401.at.webry.info/201105/article_8.html

12月 武者小路実篤の従姉妹:康子(さだこ)と結婚した。

※『時任謙作』(後の「暗夜行路})という題で『東京朝日新聞』に
 連載される予定だったが、完結までに17年間の時を要した。


【●】大正4年(1915) 志賀直哉が赤城にやって来た
5月、京都から鎌倉に移り、すぐにまた赤城山大洞に移った。
 5月 32歳の志賀直哉は結婚したばかりの妻と赤城山大洞に
 やって来た。父との不和から神経を痛めた妻の健康への配慮
 だったという。
約4か月住んだ。

・大正4年(1915) 9月 千葉県の我孫子に住んだ。

・天正6年(1917)
5月『城の崎にて』を発表した。
 8月『好人物の夫婦』を発表した。
   父との不和解ける。
 9月『赤西蠣太(かきた)』を発表した。
 10月『和解』を発表した。

・大正9年(1920)
1月~3月『或る男、其姉の死』を連載した。
  『小僧の神様』を発表した。
  9月『真鶴』を発表した。



・大正10年(1921) 1月~8月『暗夜行路』前編を発表した。
前編の最後には、阪口が登場する。モデルは里見弴である。
 前編の最後には、時任謙作は女の乳房を触りながら「豊年だ!
 豊年だ!」と叫ぶ。


・大正11年(1922) 1月『暗夜行路』後編を断続連載した

●【2】 大正11年(1922)夏 坐骨神経痛の後養生のために
  2回目の草津にやって来た。
  志賀直哉の名を知らなかった番頭に
「お職業はやはり農で?」と尋ねられ、つい
「そうです」と答えてしまった。
(★『草津温泉』)

・大正14年
   京都時代を経て、
  4月 奈良に移り住む

・大正6年(1926)
6月 美術図録『座右宝』を出版

・昭和8年(1933)9月『万暦赤絵』発表

・昭和12年(1937)
 4月『暗夜行路』後編の最終部分を一挙に発表し、完結した。

●【3】昭和12年(1937)夏頃・または昭和13年(1938)頃
志賀直哉が草津にやって来た
 3回目は50歳代半ばころ、里見弴ら3人で四万温泉から廻って
 草津に立ち寄っている。

 訪れる都度、交流を深めたという。
 名作『暗夜行路』の後半は草津の宿で書かれた。

どうしても、疑問が残る。

・昭和16年(1941)7月 日本芸術院会員

・昭和21年(1946) 1月『灰色の月』を発表した。

・昭和24年(1949) 11月 文化勲章受章

・昭和29年(1954) 1月『朝顔』を発表した。

・昭和46年(1971) 10月21日死去した。
青山墓地に葬られた。

********************************



【1】明治27年(1904)7月志賀直哉が草津にやって来た。
1回目は 学習院の高等科1年から2年へ移る時、数え22歳
  の時、学生時代の貧乏旅行であった。



【●】大正4年(1915) 志賀直哉が赤城にやって来た。
 最初は大洞の猪谷旅館:(猪谷六合夫が主人)に泊った。
猪谷六合夫はスキーのため、各地を転々としたが、ここで
 猪谷千春に特訓した。

 志賀直哉は猪谷六合夫から「夏場は客で混雑する。」と聞いて、
 近くに山小屋を建ててもらった。
 9月半ばまで住んだ。

 『焚火』はその時の生活を素材にしている。
猪谷旅館に泊まった。

 山小屋を建てて貰って住んだ。
 赤城大沼で湖水浴も味わった。
 『焚火』を執筆した。
「 その日は朝から雨だった。午(ひる)からずっと2階の自分の
 部屋で妻も一緒に画家のSさん、宿の主人のKさんたちとトラン
 プをして遊んでいた。部屋の中にはタバコの煙がこもって、皆も
 疲れてきた。トランプにも飽きたし、菓子も食い過ぎた。3時ごる
 だ。・・・
  一人がたって窓の障子を開けると、雨はいつか上がって、新緑の
 香りがを含んだ気持ちのいい冷気が流れ込んできた。・・・」

「・・・ Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く放った。
 薪は赤い火の粉を散らしながら飛んでいった。それが、水に
 映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んでいく。
 上と下と、同じ弧を描いて水面で結び付くと同時に、ジュッ
 と消えてしまう。そして辺りが暗くなる・・・
 舟に乗った。わらび取りの焚火はもう消えかかっていた。
 舟は小鳥島を回って、神社の森のほうへ静かに滑っていった。
 ふくろうの声がだんだん遠くなった。」

「・・・旅館の若主人K、画家のSと夜の大沼にボートを漕ぎ出す。
 静かな晩で星空が湖水に映っていた。小鳥島に焚火が見え、四人
 も別の岸で焚火を始めた。そこで蛇や山犬、「大入道」などの話
 がはずんだ後、Kから不思議な話を聞く。前の年の冬、東京の姉
 の病気を見舞っての帰り、深い雪を踏み分けて鳥居峠を越えたこ
 とがあった。体力には自信があり、雪にも慣れていた。月明かり
 で峠もすぐそこに見えていた。ところが、その手の届きそうな距
 離が容易でなかった。恐怖は感じなかったが、気持ちが少しぼん
 やりして来た。ようやく峠を越えた時に、提灯の明かりが見えた。
 Kの呼ぶ声を寝耳に聴いた母が迎えをよこしたのだった。彼の帰
 る日は未定だったし、呼んだとしても聞こえる距離ではなかった。
 「夢のお告げ」を母が聴いたのは、彼が一番弱っている時だった。
 そんな不思議が生じたのは、K思いの母、母思いのKの関係だか
 らだろう。」
 ★赤城の大自然と人間の「不思議」な交感を描いた。



箕輪初心■群馬パワースポット④「赤城神社2社」
http://53922401.at.webry.info/201011/article_31.html

箕輪初心▼赤城大沼1360mの高所ダイビング:清掃AWARE
http://53922401.at.webry.info/201309/article_9.html

箕輪初心▲群馬百名山:赤城山
http://53922401.at.webry.info/201011/article_19.html

箕輪初心★『猪谷千春』&【Myコルチナ・スキー】
http://53922401.at.webry.info/201111/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201111/article_1.html
★『焚火』の主人公:Kは猪谷六合雄がモデルである。
日本スキー界の草分けの一人である。
英才教育で息子千春をオリンピック選手に育てた人である。
「コルチナ・ダンペッツォで銅メダルを獲得した。」
私は赤城山第三スキー場に1回だけ滑った。赤城地蔵岳山スキー
とセットにした。

Kが遭難しかけた赤城の鳥居峠には、現在は道路が通じてい
る。Kが迎えの提灯に出合った覚満淵近くの「ビジターセン
ター」には、志賀が滞在した頃の猪谷旅館の写真が掲げてある。
当時は湖畔の大洞に旅館が二軒しかなかった。
現在、国民宿舎や土産物屋を兼ねる宿、ボート屋などが建ち並ぶ。
小鳥島にも橋がかかり、赤城神社も引っ越した。
赤城神社に志賀直哉の『焚火』の末尾を刻んだ文学碑が建って
いる。2回、写真を撮ったが、見つからない。
志賀直哉は、大正4年の夏の4ヵ月間を赤城山で過ごした。
 後に「赤城にて或日」と「焚火」の作品を残した。

赤城山には志賀直哉が所有した土地が1600平方mあるが、近い
赤城神社境内に、昭和45年11月、群馬県民の手で文学碑が建
てられた。
 直哉
 船に乗った。蕨取りの焚火は
 もう消えかかって居た。船は小
 鳥島を廻って、神社の森の方へ
 静かに滑って行った。梟の聲が
 段々遠くなった。





【2】 大正11年(1922)夏 2回目の草津にやって来た。
直哉の名を知らなかった番頭に
「お職業はやはり農で?」と尋ねられ、つい
「そうです」と答えてしまった。
(★『草津温泉』)
 草津温泉観光協会では発表している。
「暗夜行路」原稿を書いていた。

草津温泉観光協会に書いた出典は『矢島柳堂』であった。
 (★『昭和文学全集12巻:志賀直哉集より。』昭和28年)
 
『矢島柳堂』
白藤(の章)
 書家の矢島柳堂は冬の終りから春へかけ座骨神経痛でひどい
苦しみをした。・・・・

 7月中旬、蒸し暑い日だった。田舎から出てきた柳堂は日暮里で
新潟行きの夜行に列車に乗り込んだ。
 ★本当は長野行き・・・

 新軽井沢駅ー旧軽井沢駅、赤い煉瓦を・・・

(『草津温泉』の場面)
 温泉の宿では床も縁もない屋根裏のやうな3階の部屋に通された。
却って静かでいいだろうと彼は思った。
 発病以来、彼は全く禁酒してきたが、扠(さて)かうして落ち着いて
みると、夜食の膳にまるでその気のないのは何か物足りなかった。そし
て、少しばかり飲んだが、彼は直ぐにいい気持ちなり、四つ折りにした
座布団を枕に疲れた体を横たえてゐた。
 宿帳を持って番頭が入ってきた。
「そちらでつけて下さい。」
柳堂は寝たまま、物臭そうに言った。ー
「千葉県葛飾郡ーー」
「東葛飾郡」
「我孫子町新田」
「我孫子町新田」
「矢島柳堂」
「矢島・・・・・?」
番頭は筆を止め、頭を上げた。
「さうだ。矢島丑之介。干支の丑だ、スケはカイ」
「・・・へい。」
「年は48歳」
「・・・へい」
「それから」
「お職業は?」
「お職業と・・・・・」
彼はちょっと考へた。
「やはり農で・・・?」
「農?百姓ですか?・・・・ああ、そうです」
 番頭はそれを書き込むと御辞儀をし、矢立を腰にさして出て行った。
 柳堂はこれまでも、東京の書家仲間から、
「村長さん」とよく云われてゐた。

 『赤い帯』
 柳堂は退屈すると、よく低い欄干についた東向きの出窓に腰掛け
戸外の景色を眺めてゐた。『湯畑』のまはりを終始人が往き来をしてい
た。此の温泉に来て10日にもなると、その往き来する人々の顔にも
段々と馴染みが出来た。
『時間湯』で客の世話をする散切り頭の背の低い、男のやうな醜い
女とか、もと旅役者で女形をしてゐたといふ大きな若い男とか、・・・。
『あの男は・・・・』
或時、柳堂は膳を運んできた女中に話しかけた。
「此間、玉突き場の前で洗濯してゐるのを見たが、褄(つま)をかう
膝の間に挟んで姉さんかぶりをすてゐる様子が、お前さんたちより
余程女らしかった。」
・・・・・(後略)
 (『草津温泉』)


【3】昭和12年(1937)夏頃? 昭和13年(1937)頃?
①昭和12年(1937)夏頃、里見弴(さとみ・とん)は志賀直哉と
????と3人で四万温泉から廻って草津に立ち寄っている説。
3回目は50歳代半ばころ、四万温泉から廻って草津に立ち寄
 っている。

●草津温泉観光協会①
 「 草津に歩みし100人・草津温泉観光協会の本やHpには、
『37.志賀直哉:不朽の名作数多く、“小説の神様”と称された
白樺派作家。 直哉は、草津へ3回訪れています。 最初は、
学生時代の貧乏旅行。二度目は文名も売れ出した大正11年でし
たが、直哉の名を知らなかった番頭に「お職業はやはり農で?」
と尋ねられ、つい「そうです」と答えてしまったと『草津温泉』
に著しています。3度目は戦前。訪れる都度、交流を深めたとい
う。名作『暗夜行路』の後半は草津の宿で書かれたことが分かっ
ています。』
.
②『草津町広報2015年5月号』②
・大正 11 (1922)年、作家の志賀 直哉も草津を訪れます。
直哉は明治 37 (1904)年と昭和 13 (1938) 年にも
訪れています。
 大正期に書かれた随筆風の作品『草津温泉』には坐骨神経痛から
癒えた体を後養生するために湯治に行くと書かれています。
 彼は前回の草津の旅と比較して
「草津の町そのものは余り変わっていなかった。湯畑に時間湯、
そして私達が前にいた古い二階の部屋もそのままにあった。」
と述べ、ある時は本を読み、多少の書き物をし(『暗夜行路』の
後編の一部が書かれたと言います)。
「出窓に腰掛け、湯畑の前の広場を往き来する人々を眺め・・・
(後略)」
と過ごします。
 また、
「噴火口の景色も特別な気持ちのものなり
…(中略)…湯釜実に異様なり」
と白根山登山をしたことも『日記』に記しています。
  (『草津温泉誌  第弐巻』p63


『六里ヶ原』
 学習院の高等科一年から二年へ移る時だから、明治三十七年、数へ年
で二十二歳の時だ。私はHといふ友達と上州の草津温泉で一ㇳ夏過
ごす事にしたが、Hは何かの都合で、一ㇳ足遅れ、私だけで先に出か
けて来た。
 軽井沢の駅前の旅人宿に一泊し、翌朝、和鞍の馬に乗って沓掛から
浅間の中腹の峠を越し、六里ヶ原といふ水楢の林を抜け、応桑に出て、
草津に行った。七里位の道程だった。
 六里ヶ原は却々いいところで、水楢は、楢といっても、平野にある
楢とは全く別種のもので、常緑樹ではないが、寧ろ樫に近く、洋家具
の用材にするオークといふのはこの水楢であるといふ事を後年、赤城
へ行って初めて知った。非常に堅い木だ。赤城で、私の住む山小屋を
造る時に、猪谷旅館の六合さんがそれに五寸釘を打つのだが、釘の方
が曲がって、どうしても貫らなかった。
 さういふ強い木だから、太い下枝を三間も四間も水平に伸ばし、そ
の為の姿はなかなか立派である。私が見たかぎりでは六里ヶ原には殆
ど他の木はなく、何里四方か知らないが、この水楢だけが生えていた。
 七月初めの浅い緑の葉を透した日光で、その辺一帯、緑色になって、
まことに爽やかな、又ハイカラな感じの景色だった。私はこんな所に
住む事が出来たら、さぞいいだらうと其時思ったが、牧夫の小屋が一
里に一つあるかなしで、此所が後年、北軽井沢の別荘地になるとは、
当時では想いひも及ばぬやうな所だった。
   (★「草津温泉」志賀直哉)


『暗夜行路』~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

序詞
「 私は自分に祖父のあることを知ったのは、私の母が産後の病気で
 死にその後2月経って、不意に祖父が私の前に現れた来た、その時
 であった。私の6歳の時であった。
第一
 「 時任謙作(私)の坂口(モデルは里見弴)に対する段々に積もっ
 た行った不快も坂口に今度の小説で到頭結論に達したと思うと、彼は
 腹立たしい中にも清々しい(すがすがしい)気持ちになった。・・・」

●「前編」あらすじ
 時任謙作(私)は、6歳の時、母を亡くし、父や兄から離されて祖父
 と暮らすことになった。祖父亡きあとは、祖父の愛人だったお栄と暮
 らした。時任謙作(私)は、生活費は父からの仕送りで、小説を書い
 て日々すごしている。気楽な生活であるが、神経質な青年なのである。

時任謙作(私)は愛子という母の幼馴染の娘に結婚を申し込むが、体
よく断られる。 時任謙作(私)は自尊心を傷つけられ、芸者遊びに熱
中する。
  ところが20歳も年上のお栄を意識するようになり、一人尾道へ転居
 する。
時任謙作(私)は尾道で謙作は自伝小説を書き始める。

★志賀直哉の幼いころの思い出・・・。「自伝」。

 ところが、時任謙作(私)は小説は書けず、苦しむ。
 時任謙作(私)は金毘羅詣りなどをするが、孤独を感じた。
 挙げ句の末に「お栄と結婚しよう」と、唐突に思ってしまう。
20歳も年上の女と。
時任謙作は、兄の信行に紙でその旨を書いた。
 信頼する兄:信行からの返信が来た。
 「お前は祖父と母の子だ。父の子ではない」
 という内容であった。

 時任謙作は、「自分が祖父と母の不義の子であったこと、お栄は
 祖父の妾 (祖父の愛人)で、であったこと。」を知り苦悩する。

時任謙作は、憔悴して東京に帰った。
 時任謙作は、またお栄と暮らした。
 しかし、時任謙作は、居を移し心機一転のつもりでも、ますます
 虚ろになった。
 兄、信行は会社をやめ、禅の修業を始める。

●「後編」あらすじ
 時任謙作は、京都へ来た。
 時任謙作は、ひとりの女性を気に入ってしまう。
 名は直子といい、「鳥毛立屏風」風の美女であった。
 兄:信行や友人の奔走で話は順調に進み、2人は結婚する。
 お栄は、旧知の女性と天津へ旅立った。

 初冬に結婚し、秋には直子が出産する。
 ところが、お栄が大連で窮地に陥っていることが分かった。
 そんな矢先、生まれたばかりの男児が丹毒で亡くなってしまう。

 無邪気だった直子も病に苦しむ。
 時任謙作は、またもや運命に苦しめられる。

 時任謙作は、気分転換を兼ねて、京城までお栄を迎えにいく。
 ところがお栄を連れて京都に帰ってくると、直子が従兄の要に無理
 やりの関係をされていたことが判明した。
しかし、留守中に妻:直子が従兄と過ちを犯したことで再び苦悩する。
 
 時任謙作は、またもや運命に翻弄され、苦しみつつも、謙作は
 「自身の内にあるものとの闘争」という考えに至る。
 長年の友人の末松は「それでいいのじゃないかな。それを続けて、
 結局憂いなしという境遇まで漕ぎつきさえすれば」と、励ます。

そして、直子が妊娠したことが分かる。自分の子であることに間違い
はないのであるが、要の子かもと疑心暗鬼になる。
 時任謙作は、直子に辛く当たるようになる。
  しかし、、時任謙作が1月末に法隆寺に出かけているうちに、女児
 が誕生する。
時任謙作は頭の整理のつかない。
 時任謙作は、ある日、汽車に乗車する瞬間に、直子を突き飛ばした。
 そして、直子に「貴方が私の悪かった事を赦していると仰りながら実
 は少しも赦していらっしゃらない。」と怒る。
 しかし、時任謙作は「お前を憎んでいるとは自分でどうしても思えない」
 と言い張る。

 時任謙作は、伯耆大山へ行くことにした。行く先で大乗寺の丸山応挙
 の絵を見た。蓮浄院の寺坊で過ごす。
 時任謙作は、野に咲く草花を眺めながら大山へ登った。
 
 時任謙作は、「今までなかった世界が自分に展けた喜び」と、直子あて
 に手紙を書いた。
 
夕方烈しい下痢になった。・・鯛にあたったらしく、・・・
12時頃寺を出た。
  時任謙作は体調の悪いのをおして山へ登った。
  時任謙作は頂上へは行けず、同行の者と別れ山中で夜を明かすこと
  になった。後、2時間程で夜が明ける。

  そして、時任謙作は眠ってしまっている間に夜が明けた。
 時任謙作は明けゆく大山をみた。
 空が柔らかい青みを帯びていた。・・・
 明け方の風物は変化は非常に速かった。
 ・・・感動を覚えた。
 (★実に美しい描写である。)

 彼は10時頃、ようやく寺に帰ってきた。熱が39℃・・・
 意識不明になる。急性大腸カタルで、下痢止めがいけなかったと
 いう医者の診断が下った。
 浣腸は効き目がなかった。ヒマシ油を飲まされた。
 時任謙作は夢うつつながら浄化されていくのを感じた。
 
  直子が着いたが、容態が予想以上だったので驚く。
 しかし、時任謙作は「実にいい気持なのだよ」と言う。
直子は「子どもは置いてきました。」

 直子は「この人はこの儘、助からないのではないか」と思った。
 そして「助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分は此人を
 離れず、何所までも此人に随いて行くのだ」とというようなこと
 を切に(しきりに)思いつづけた。

 結果****************************
「主人公:時任謙作は、年上のお栄という女に家事をまかせ、放蕩
 の毎日を送る小説家である。しかし、尾道に移り住み、生活を立
 て直し、小説執筆に専念する。時任謙作は旅に出た。時任謙作は、
 お栄と結婚したいと思うようになる。時任謙作は、兄の信行に手
 紙でその旨を書いた。信行からの返信が来た。時任謙作は、「謙
 作が祖父と母の不義の子であったこと、お栄は祖父の妾であった
 こと。」を知り苦悩する。
 時任謙作は京都に移った。時任謙作は、直子という女性と知り合
 って結婚した。
 時任謙作はお栄を引き取るため旅に出る。しかし、留守中に妻:
 直子が従兄と過ちを犯したことで再び苦悩する。
 そして、時任謙作は鳥取の大山の蓮浄院の離れを借りて別居する。
 時任謙作は大山に登山する。時任謙作は、明け方の光景に強く感
 動する。しかし、時任謙作は蓮浄院に戻ったが、高熱で倒れる。
 最後に妻:直子は「兎に角、自分は此人を離れず、何所までも此人
 についていくのだ」と思うと締めくくっている。

以上のように「暗夜行路」には、3つの衝撃的なできごとが登場する。
1)前編では
①「自分が祖父と母の不義の子であったこと
    (実の父が祖父であったこと。)」
  ②結婚しようと思った20歳も上のお栄は祖父の妾
   (祖父の愛人)で、であったこと。」
2)後編では
  ③「妻:直子の不義(従兄の要と)」である。

  結局、祖父、母と妻の罪=「身近な男性・女性の罪」である。
主人公:時任謙作は、身近な女に振り回されている。
 志賀直哉(時任謙作)は母や妻が苦しみの原因だと考えている。
 女には運命のいたずらで苦しみ悩まされるのであった。
『暗夜行路』は女性に振り回されるあらすじの面白さもあるが、
 時任謙作の精神の揺らぎが詳細に書かれている。
 時任謙作は運命に翻弄される度、女性への思考も深まっていく。
 多くの女性たちが登場してくるが、主人公:時任謙作の好みや
 気持ちを行動・様子を表現している。

男性については
①小説家:坂口が登場するが、里見弴(さとみ・とん)がモデルである。
②誠実な兄:信行は禅の修行を始めるが、おそらく志賀直哉が尊敬して
 いたキリスト教の内村鑑三(高崎藩出身)がモデルではないかと思っ
 ている。しかし、『暗夜行路』を大山に登る1カ月ほど前に夏目漱石
 に会いに行っているので、夏目漱石とも考えられる。


父(実は祖父)と息子(時任謙作=志賀直哉)の確執
 =争いの影に女ありである。
※志賀直哉の祖父・父ともに明治の政財界の重鎮であった。
・明治16年(1883)2月20日、宮城県石巻で誕生した。
・明治18年(1885) 一家で上京し、祖父母の家に同居した。
  志賀直哉は幼くして祖母に育てられた。
・明治28年(1895) 8月 母が死去。義母を迎えた。
・大正元年(1912)10月 父との不和から家を出て広島県尾道に住んだ。
・天正3年(1914) 夏、伯耆大山に登った。
・天正6年(1917) 5月『城の崎にて』を発表した。
  8月『好人物の夫婦』を発表した。父との不和が解けた。
 10月『和解』を発表した。
 父(実は祖父)や父と言われた人とは長い間、不仲であったが
 やっと解消できた。

『暗夜行路』に「尾道」は生かされている。
「大山登山」にも行って、生かされている。
時任謙作は、運命の苦悩から大山で立ち直る。大自然の力で
癒やされる。





★明日も草津関係かな?

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