箕輪初心:生方▲2018視察研修④『法輪寺・糀屋懐疑~大雲寺・法華寺』

★平成30年(2018)10月12日、箕輪城語り部の会視察研修は高崎で
あった。高崎ボランティアガイドの元会長:須藤先生が案内してくださ
った。今日は、『糀屋~法輪寺~正法寺・一里塚~大雲寺・法華寺』
にしたい。糀屋さんの「高崎市案内板」と高崎新聞」の内容掲載が
私には疑問である。
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【1】高崎市役所21階
【2】高崎城3の丸
【3】高崎城城下町「高崎公園」…吉野秀雄の句
【4】龍広寺
【5】損割坂★かつての遠構=外堀である。
【6】興禅寺

箕輪初心:生方▲清水豊先生・新編高崎市史を加味した
『和田城年表改訂版2016』①和田業繁まで
https://53922401.at.webry.info/201608/article_31.html

【7】高崎シティギャラリー前「山口薫展」
 竹内俊雄先生の絵も弟子としてかざられている。
 金沢さん・栁澤先生の絵も出品されている。

【8】高崎駅前

【9】(安国寺)慈光通り横断

【10】大信寺
1)駿河大納言徳川忠長の墓
三代将軍徳川家光の実弟(三男)である駿河大納言徳川忠長の墓
がある。駿遠甲の計55万石を知行したが、ご乱行があったとして
咎められ髙崎城に幽閉された。
・寛永10年(1633)弱冠28歳にて自害させられた。
・延宝3年(1675)墓石である五輪塔は、家光の死後24年&忠長の
 43回忌にあたる年に建てられた。
●須藤さんの解説「「周囲に玉垣と呼ばれる石柵に囲まれていて、鎖で
 つながれていたので、「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていたそう
 です。」
「硯箱、短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されています。」

②秤座・守隋彦三郎の墓
●須藤さん解説
「秤座(はかりざ)は、江戸時代、江戸幕府の特別認可を得て、秤の
 製造、頒布、検定、修繕などを独占した座でした。」
 徳川家綱の時代に承応2年令が発せられ、日本を二分し、東33カ国
 の秤は江戸の守隨氏が、西33カ国の秤は京都の神氏が支配すること
 になったそうです。」
 元々は武田信玄の家臣で、・・・○○家を名乗りました。」
HP「守隨本店の歴史」
http://www.shuzui.jp/corporate/history/

③大河内松平家家老:堤家の墓(13代堤克政氏ご先祖の墓)
 堤金之丞の墓…下仁田戦争で戦死。合掌   
箕輪初心★「堤金之丞」&下仁田戦争の悲劇
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201403/article_31.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
https://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html 
 堤家の墓…合掌

●元の中仙道を行く。

【●】法輪寺
田口家墓地内に小栗又一忠道の墓がある
小栗上野介忠順の養嗣子・又一忠道
★戦国時代、田口家は(現高崎市)下斎田村の領主で、箕輪城主
 長野業政の同心であった。
 田口一族は箕輪に残った者と下斎田村に戻った者がいる。
 法輪寺は井伊直政の時代以後に建てられたというのが、一般
 的である。根拠は、川野辺寛の『高崎志』に出てこないから
 からであろう。
・倉渕村や下斎田村は小栗上野介の飛び地であった。
小栗上野介忠順は子がいなかった。
旗本日下家より鉞子(よきこ)を養女に迎えた。
また旗本・駒井家から忠道を婿に迎え養嗣子とした。
斬首後、道子は実子(女子)が誕生している)・
小栗上野介の父:忠高は小栗家に婿養子に入っており、後に小栗家に生
まれた義弟は日下家に養子に出されたため、逆にその子を養女に迎える
ことで血脈を小栗家に戻そうとしたと考えられている。
・慶応4年(1868) 西軍から追捕令が発せられたことを受け、忠順は忠道
を高崎藩へ派遣したが、小栗忠道は取り調べもなく高崎城内にで斬首さ
れた。
小栗上野介は取り調べもなく倉渕の烏川河原で斬首された。
小栗忠道の遺体(胴体のみ)は下斎田村(当時)の名主・田口氏が引き取り
墓を作り埋葬した。
 小栗父子の首級は、館林に来ていた東山道総督・岩倉具定の首実検を受け
た後、法輪寺墓地に葬られた。
後に2人の首級は旧権田村の住民により盗み出され、小栗忠順の首級は権田
村の東善寺、小栗忠道の首級は田口家墓地内に葬られた。
 新政府の管轄下にあった首級を盗んだため、権田村の住民はこれを決し
て口外せず、子孫にのみ伝え供養を続けてきた。
昭和30年代後半になって「小栗忠道の首級は田口家墓地内に葬られた。」
 と公表された。小栗父子斬首から100年近く経っていた。
・田口家の子孫・・・
①箕輪田口家…教育界のサラブレッド。
②下斎田村田口家…教育界のサラブレッド。

箕輪初心:生方★小栗上野介17『小栗祭り20160522』  
https://53922401.at.webry.info/201606/article_2.html
私は小栗研究ではBIG10位に入るかなあ?
 実は、論文で、先祖が徳川家康の親戚のと
 言った論文がないようである





【11】旧中仙道

【12】糀屋
●【糀屋】…
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◆「糀屋」の立て看板
永禄9年(1566)飯島喜兵衛という人が和田宿に居を構え、
 初代糀屋藤平をなのったという記録が残ります。
 醸造技術を持っていたことから、長野氏に武士に取り立てら
 れて、何かあれば、ここから参じていたようです。
 
箕輪初心「永禄9年(1566)は、箕輪城が武田信玄に攻略された
 年なので、長野氏に馳せ参じることは無理があると考えられる。」

★「和田宿」いう言葉は「歴史上の古文書には出てこない。」
 戦国時代:中世には、「赤坂には、金井宿と(□□宿)と馬上宿の
 3である。」

◆高崎新聞************************
高崎アーカイブNo.13 たかさきの街をつくってきた企業
糀屋(1563年〜現在)450年の歴史を紡ぐ
味噌醸造技術で箕輪城主長野氏に仕えた創業者
戦国武将に重宝された味噌
「戦国時代、味噌は重要なたんぱく源として兵糧に重宝されました。
戦闘能力にもかかわることから、各地の戦国武将も味噌作りを大きな
経済政策の一つと見るようになりました。
現在、味噌の生産量の多い長野県、愛知県、宮城県、新潟県などは、
武田、織田、豊臣、徳川をはじめ、上杉、伊達など有力な武将の本拠地
であったことが知られています。」

★まるで、私のブログをうつしたような文章である。
箕輪初心:生方▲箕輪城№220『戦国武将と味噌』&『高崎の糀屋:
飯嶋一族の歴史&味噌造り』
https://53922401.at.webry.info/201611/article_7.html

創業は1563年、室町時代中期
「室町時代中期に築城された箕輪城。城主・長野業政は、攻め入る
 武田軍を何度も退けたとしてその武勇が知られる武将でした。
 その業政が死去した後、二十歳にも満たない業盛が跡を継ぎま
 すが、永禄九年(1566)に武田の猛攻に屈して自刃し、落城します。
 この長野業政〜業盛の下で、城の穀物番として年貢を管理してい
 たのが、元紺屋町で商売を興した糀屋の初代です。“飯嶋喜太夫
 という人が永禄6年(1563)に和田宿(現高崎市)に居を構え、
 初代糀屋を名乗った”という記録が残っています。元紺屋町の自宅
 で商売を営み、何かあれば箕輪城に参じていました。

中山道に面した蔵で味噌醸造を営む
「江戸に入府した徳川家康は、信州、越後と関東の勢力がぶつかる最
 前線の西上州を国防の要衝ととらえ、徳川四天王のひとり、徳川最
 強軍団といわれた井伊直政を軍事拠点の箕輪城に配置しました。
 その後直政は、信州、越後へと街道が通じる要衝・和田に城を移し、
 慶長3年(1598)に高崎が誕生しました。
 創業450年に及ぶ歴史ある糀屋は、高崎城下に最初につくられた
 中山道の通り沿いにあります。周辺は道路も拡張されず、蔵のたた
 ずまいなども加わり往時の雰囲気を伝えています。」

当主は代々「藤平」と改名
「創業当初、糀屋では味噌づくりに必要な種糀を旅籠や農家に売って
いました」と話すのは、糀屋の22代目当主・飯嶋藤平さん。初代は
「喜太夫」、その後が「藤兵衛」、8代前から「藤平」を名乗ってきた
といいます。当主が亡くなると、次の当主は戸籍の名を「藤平」に変え
て跡を継ぎました。
 現当主の祖母は、飯嶋家の直系だったにもかかわらず、東京の親戚
に預けられ、婿となる祖父が早くから養子として飯嶋家に入るなど、飯
嶋家では男子が跡を取ることを重視し、家業の存続を第一としてきまし
た。」


多角経営でリスクを回避
糀屋店舗と従業員
「また、経営上の危機を分散するため、一方で多角経営にも取り組みま
した。明治12年の群馬郡高崎驛元紺屋町の戸籍帳には、“糀渡世”の
他に“太物渡世”として商売を営む親族の存在が示されています。
また、江戸時代から終戦頃まで、東京の御徒町に販売所兼旅館を持ち、
上州の人たちが商売で上京した時などに利用されました。
 昭和30年代に入ると、「食品のデパート」と看板を掲げ小売業にも
熱心に取り組みました。その後、食品の卸売や、埼玉・栃木・長野など
周辺地域を含んだ県内のスーパー等40店舗にテナントを出店するなど
多店舗化も進めました。」

明治初頭、高崎の人口を賄える量の味噌を生産
「糀屋の蔵には、6尺樽という六トンもの味噌ができる樽が10樽あり、
6カ月で一回転し、1年で20樽・120トンの味噌を製造しました。 
明治初頭の高崎の人口は約1万人。一人が年間8〜10キログラム
消費すると考えると、単純に高崎の人口が食する味噌を一軒で賄える
量といえます。
 6尺樽は、以前は木の樽でしたが、樽を締める箍(竹製の輪)を
作る職人がいなくなり、今では繊維強化プラスチック(FRP)製
に代わりました。」

80年で建て替えた味噌蔵
「糀室に息づく糀菌の世代交代はほぼ7日周期で、80年もするとそ
の原形は失われるといいます。それに伴い糀屋では蔵の建て替えが行
われてきました。「祖父の代で建て替えたので、次は20年後です」と
話す藤平さんの言葉には、時に対する大らかな視点と計画性があります。
 蔵は周辺に火災が発生した時、戸や壁などに味噌を塗り込み火災を
防いだことから、寺の重要な文書なども保管されたといいます。」

宮大工の腕と気迫で魅せる火伏稲荷
「330年前に造られた火伏稲荷の祠
糀屋には330年前に造られたと伝わる「火伏稲荷」と呼ばれる祠があり
ます。高さ145センチ、幅75センチ、奥行き89センチの祠は、全体に
見事な彫刻が施され、江戸中期建造の蔵の解体に伴い、現在の事務所に
安置されるようになりました。伝わるところによると、当主が宮大工を
出雲に派遣し、本物の社を造るのと同等の技術を学ばせるなどして半世
紀をかけて仕上げたというもの。精緻な技術、精巧な出来栄えに、職人
の確かな腕と気迫が感じられます。祠は200年前に一度組み直しが行わ
れ、平成元年にも修繕されました。藤平さんは「宮大工さんと60年先
の約束をしています。もう孫の時代ですね」と言います。

未来への布石を打ち夢を馳せる
「群馬県内でも有数の老舗ですが、古い歴史をアピールするより、「目立
つな、一番になるな」「家族が同じ商売をするな」「商売を絶やすな」
という家訓を守りながら、今まで続いてきた糀屋の歴史以上に長い未来を
築きたいというのが22代目藤平さんの考えです。
 味噌の製造工程でできる上澄みのたまりを主原料とする調味液に野菜
を漬け込むたまり漬けの製造や、手作りみそ教室の開催等で〝食育”活動
に取り組むなど、時代に柔軟に対応しながら、未来への布石としています。」

箕輪初心加筆
 高崎新聞の「二十歳にも満たない業盛が跡を継ぎま
 すが、永禄九年(1566)に武田の猛攻に屈して自刃し、落城します。
 この長野業政〜業盛の下で、城の穀物番として年貢を管理してい
 たのが、元紺屋町で商売を興した糀屋の初代です。“飯嶋喜太夫
 という人が永禄6年(1563)に和田宿(現高崎市)に居を構え、
 初代糀屋を名乗った”という記録が残っています。元紺屋町の自宅
 で商売を営み、何かあれば箕輪城に参じていました。」
 という記述は、
①「長野業政〜業盛の下で、城の穀物番として年貢を管理してい
 たのが、元紺屋町で商売を興した糀屋の初代です。」
長野業政が永禄4年(1461)、6月21日死亡なので間違っている。
  (★長純寺の長野業政木造の背銘)

②「永禄6年(1563)に和田宿(現高崎市)に居を構え、」
 「糀屋前の看板が「永禄9年・高崎新聞が「永禄6年」・・・
 永禄6年(1563)は和田業繁が武田信玄に臣従した年で、
 武田信玄は
 跡部勝資の長男が養子になったとしてある。
 従って、武田信玄の許可で金井宿と馬上宿のどちらかとなる。
③高崎新聞の「元紺屋町」とあるのは、間違いである。
 「元紺屋町」は井伊直政の時代に許可されたことを意味する。
  
従って、武田信玄の許可で。
「飯嶋家は武田の家臣であったので、永禄年間に、長野業政の
  味噌を作ったのは間違いである。飯嶋家は伊奈の片切
  一族で飯嶋城主・・・永禄6年に和田宿に店を出したのでは、
  敵同士で、あって、長野業政は永禄4年に死んでいるので、
  味噌供給なんて、出来ようはずがありません。ちなみに、
  飯嶋半右衛門が慶長7年には井伊直政の家臣に登録されています。
私は「武田家臣団の本を持っていますので、・・・」
 と飯嶋藤平当主に話したのに、また、間違った看板を出していた。
   
 親父の死亡、49日、1年期で、7万円以上?も使っているのに、
  関係ないか。

・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃
12月 武田信玄は倉賀野城攻撃のため、木部城を再興して、
  陣をはった。
 (★浦野家文書)
12月5~6日 大規模な箕輪城攻撃
 武田軍は箕輪に向かって『行(くわだて)』を行い、城外はもちろん
 長純寺まで悉く放火した。
  (峰岸先生・浦野家文書:榛名町誌:久保田順一先生)

12月5日 武田信玄の長年寺への制札
 ・・・乱妨狼藉・波却の事、これを停止おわんぬ。
(★榛名町誌:久保田順一先生)
 
@12月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・
   甘利は木部城に逗留(★浦野家文書)
  受連は甘利昌忠→武田信玄に2回目の制札を金持って貰いに
  行った。木部城(高崎市木部町)に行って、
 金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。
 でも、長年寺に武田軍が侵攻し、殺害。生き残ったのは独り。
  (★まんが箕郷の歴史・峰岸純夫著・久保田先生など)

12月 *和田城主:和田業繁が武田氏に降伏した。
 (★山田博久氏:残雲・・中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
 後、跡部資勝の長男5歳が和田業繁の養子:信業となった。
 和田業繁は譜代並みの扱いになっていった。

閏12月 武田信玄は利根川を越えて、太田金山城の由良成繁を
  攻撃した。
(★峰岸純夫著)

・永禄7年(1564) 和田城大改修 
武田信玄は馬場信房(信春)に命じて、上杉謙信側の
  倉賀野城に対抗するため、和田城の大改修を行った。
(★新編高崎市史)
 ★おそらく、幅20mの堀が4つ・・・

・同永禄7年(1564) 松井田城・安中城:落城。
  →②長野業政の叔父の娘婿:安中忠政・安中忠成が
  武田信玄の支配下となった。
 安中忠成(景繁)は甘利昌忠の妹説(有力説)・娘?を貰った。
 以後、安中景繁を名乗ったようである。
 
6月27日付 上杉謙信→里見義弘
  倉賀野直行は若輩故油断があった。・・
  私が川中島に侵攻し、信玄を背後から襲うのでよろしく・・  
 (★峰岸先生・久保田先生)

11月17日 長野氏業→赤城神社:奈良原紀伊守の手紙
  河西の戦乱を鎮められるよう、・・妙法僧を送ってくださり、
  ありがとうございました。・・・鎮められた暁には、代官を
  参内させます。
(★峰岸先生・榛名町誌:久保田先生)



箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】②永禄4年~永禄9年:箕輪城攻略
https://53922401.at.webry.info/201606/article_29.html


箕輪初心:生方▲伊那『西音寺&飯島城遠望』:片切氏分流飯島氏の城
https://53922401.at.webry.info/201606/article_11.html  

箕輪初心:生方▲井伊直政№170「直政の家臣団形成と彦根藩の家臣団」
https://53922401.at.webry.info/201802/article_12.html

こんな問題、高崎学ではだして欲しくない。

●【金沢屋】

【13】正法寺
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箕輪初心:生方加筆
・浜川の現榛名神社の所に正法寺があった。
・長野業政が箕輪に日蓮宗:長中山正法寺を移動させた。
  長野氏の「長」・中沢氏の「中」を採って、長中山となった。
・武田信玄が庇護した。
・文禄2年(1593)井伊直政が箕輪より分寺した。
   開山は本龍院日敬、創始とある。(「新編高崎市史資料編14」)
・寛文年中(1661~1672)「寛文年中ヨリ数度ノ類焼ニテ旧記不詳」
 (「正法寺」の由緒)
・享10年(1725)火災に遭った。
・明治13年(1880)火災に遭った。
  しばらく木造の仮本堂であった。
・昭和50年(1975) 現在の鉄筋コンクリートの本堂が建てられた。

●入り口の寺紋は「日蓮宗橘」(井筒に橘、井桁に橘)である。
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「丸に橘」は井伊家の家紋。
「井桁」は井伊家の旗じるし。
 井伊家の初代・藤原(井伊)共保(ともやす)は「井戸」の傍らで
 生まれ、「橘」の木が生えていた。
 「日蓮宗橘」は井伊家の「井桁」と「橘」がひとつになった紋である。
日蓮宗の開祖・日蓮上人は、井伊家から分流した貫名(ぬきな)家4代
目:重忠の4男である。
井伊家とつながりのある日蓮上人の寺紋を掲げる正法寺。・・・

ほとんどの日蓮宗の和尚様でのこの寺紋の由来をしっていない。
井伊直政がつくらせた城下町高崎・・・・
といっても井伊直政の菩提寺は全て曹洞宗である。龍潭寺も
 箕輪龍門寺も、高崎龍広寺、彦根清涼寺も・・・
 



・慶長20年(1615) 大坂夏の陣で徳川方:酒井家次の家臣として
 北爪九蔵が天王寺の戦いで勝利に導いた。
戦功により九蔵町となった。
「 元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった。
 徳川方の武将である高崎城主酒井家次は武士の他に高崎城下から
 四人の町人を選んで従軍させた。
 北爪・梶山・須藤・反町の四人、これを高崎城下四人衆という。
 酒井の軍は中山道を大阪へ向かったが、北爪一人は酒井家の旗印を
 ふところにして東海道を進んだ。
・・・大阪城下は乱戦混戦の修羅場を現じた。
 そんな中で北爪はひとり主君に離れて、大阪城中に迷い込んだ。
 必死の血戦のなかで、一町人の迷い子を、さして気にかけるものも
 なく、北爪はいつの間にか城中の一つの矢倉にたどりついてしまった。
 高い矢倉から見おろせば、下は敵味方入り乱れての戦闘である。
 しばしはわれを忘れてながめていたが、ふと気がついてみると、自分
 は酒井家の従臣である。ふところには酒井家の旗じるしがある。
 そうだ、これだ。そう気がついた北爪はその旗じるしをさっとなびか
 せて矢倉の窓からひるがえした。
高い矢倉からひるがえった旗は剣かたばみの紋所、まがう方なき酒井
 家の旗じるしである。
 徳川方は、酒井家次が大阪城中一番乗りをしたぞ、あれに続けとばか
 り勢いづいた。大坂方は必死に守ったのに、はや敵に乗り込まれたかと、
 意気阻喪した。 こうして大阪落城のきっかけをつくったのは関東の
 片田舎、上州高崎の一町人だった。」
  (★田島武夫「高崎の名所と伝説」)

●「正法寺」の「九蔵稲荷」…猫背のお地蔵さま、「夜泣き地蔵」 
 「九蔵稲荷」が正法寺(しょうぼうじ)本堂右奥にある。
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酒井家次はその功績で五万石から十万石に加増されて越後高田藩主
 として転封、北爪九蔵も酒井家次に従って高田へ移った。
 北爪一族は4家に分かれた。(★上越市史)
ちなみに箕輪滝沢寺は現在「酒井家次の家紋である。」滝沢寺の和尚
  が恵徳院を開山したのにね。

これ修士論文の一部です。



【14】一里塚
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井伊直政時代の中山道は現大信寺のお堂前の入り口の細い道で
 ある。通町・北通町から九蔵町~椿町を抜けて、本町三丁目へ繋がる
  ルートである。
 ★法華寺の前を直角に左折・・・所にある。
 ★正法寺の門の左に出て、次の十字路を右折した角に一里塚
 の解説版があった。

【15】大雲寺
●須藤さん解説
「①高崎市の重文に指定されている武居梅坡(ばいは)の
「水墨雲竜の図」があります。」
「②大河内家の家老・・・武田信玄家臣:山本菅助子孫:山本
 幸運の墓があります。」
箕輪初心:生方【中村茂先生講演会『山本勘助→子孫は高崎藩山本菅助』】
http://53922401.at.webry.info/201507/article_26.html

箕輪初心:生方【中村茂先生+安中ふるさと学習館+加筆
『山本勘助→高崎藩山本菅助』】
https://53922401.at.webry.info/201802/article_27.html

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【15】法華寺
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高崎城下町は実際には西郷正次の設計であろう。法華寺が西郷正次
 の開山である。開山は法華寺と同じ本龍院日敬である。






【16】八間道路(旧中仙道・新中仙道)

【17】恵徳院


【○】 ランチ「弥助寿司」:焼き肉定食
★須藤さんは物知りだった。
 

【18】 高崎民俗資料館・・大工原先生・田口先生・青山さん


【19】 長野堰円筒分水

【20】 三国街道


【21】高崎シティギャラリー前「山口薫展」

箕輪初心★高崎偉人伝【山口薫】モダンアート洋画家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_25.html
<< 作成日時 : 2013/10/25 05:37 >>

輪初心:生方★2015高崎【山口薫の生涯:復刻版】
https://53922401.at.webry.info/201509/article_13.html

箕輪初心★高崎偉人伝【山口薫】モダンアート洋画家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_25.html

箕輪初心:生方★2015高崎【山口薫の生涯:復刻版】
http://53922401.at.webry.info/201509/article_13.html
京都「何必館」・・・祇園近く。八坂神社から四條通り100m

箕輪初心:生方◆『山口薫ミニ展覧会at関口コオ美術館in高崎箕郷』写真集
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201711/article_17.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№234群馬県立近代美術館「山口薫と箕輪城
・箕輪武士のコラボは無理か?」
https://53922401.at.webry.info/201612/article_9.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201612/article_9.html

【22】高島屋「長崎・福岡物産展」
 ①カステラ
  
 ②福岡豚骨ラーメン



【23】スズラン高崎「大群馬展」





★明日は


下の動画を入れていないのに勝手に入ってきてしまう。
 エロ動画も入ってしまう。
 システムが分からない。

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