箕輪初心:生方▲伊香保№02≪堯恵(ぎょうえ)文明18年(1486)≫『北国紀行』

文明18年(1486)5月末、美濃の郡上を出て、飛騨~越中+善光寺
~越後を旅した。8月末越後柏崎を発ち、三国峠~上野国:沼田~
白井:上杉定昌にあって~草津に行った。「是より桟路をつたひて、
草津の温泉に二七日(2×7日=14日)計入て、詞もつゞかぬ愚作
などし、鎮守の明神に奉りし・・・」草津に14日滞在後。10月草津~
伊香保温泉に浴した。伊香保温泉7泊、榛名湖に行った。
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」
10月2□日、上野国国府の長野陣所に行った。・・関東管
領:藤原(上杉)顕定に会った。その後、善光寺に詣でたり、
諸所の歌会に臨んだりした。12月半ばに武蔵国に入り、
翌年文明19年(1487)の2月に相模~鎌倉~三崎等に遊び、
6月に武蔵に行った。9月、再び上野国府の長野陣所小野景頼
を訪ねた。11月には越後に帰った。
画像


箕輪初心:生方▲伊香保№01≪長尾景仲→景信→景春→上杉定昌の
伊香保温泉開発?≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_3.html


箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
https://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html

箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』
https://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№219【2016山本隆志先生『堯恵&浜川木部氏』
・『宗長&浜川長野氏』
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201611/article_6.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html


◆◆ 堯恵の「北国紀行」 ◆◆
・正長2年(1430)~没年不詳

・寛政6年(1465) 加賀から信濃善光寺に詣でた。
  『善光寺紀行』を著した。

・文明17年(1485)秋 
  堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在していた。

・文明18年(1486)~文明19年 (1487)
※堯惠は『北国紀行』を著した。
*************************



【1】歌僧尭恵(ぎょうえ)
・文明17年(1485)秋~堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在
していた。

箕輪初心●岐阜の城10-⑤『郡上八幡城』=見事な石垣&天守
https://53922401.at.webry.info/201210/article_18.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201210/article_18.html

(・永録2年(1559) 遠藤盛数が東殿山城の東家を滅した。  
            八幡城を築城。)


・文明18年(1486)5月末、郡上を出て・・・
6月(上旬)・・・飛騨・・・越中魚津 ・・・・・・・・・・
6月13日~8月12日頃 越後国府(現上越市)
8月14日~15日 善光寺 
8月16日~8月末  越後国府(現上越市)
9月(朔日?)  越後柏崎~~~▲三国峠~~~~
 三国峠越えて上野に入った。
「越後信濃上野の堺三国峠といへるを越えて侍るに諏訪の
 伏拝(三国権現)あり」
9月?日 上野国:沼田
9月9日 上州白井にうつりぬ(旧子持村・現渋川市)

箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城
https://53922401.at.webry.info/201204/article_14.html


9月9日(重陽の節句)  白井:上杉定昌(正)

「重陽の日、上州白井といふ所に移りぬ。則藤戸部定昌
(上杉定昌)、旅思い愛隣を施さる。十三夜の一続侍し
に月に寄る神祇、
「越ぬべき 千年の坂の 東なる 守る神月 やめづらん」


9月13日 草津、
「是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、
詞もつゞ かぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし・・・」
 草津に滞在27日(ふたなのか2×7=14日)。
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」


9月末
「また山中を経て伊香保の出湯に移りぬ。雲を踏むかと覚ゆる所より、
浅間の嶽雪をいただき、白く積り初て、それより下は霞の薄く
匂へるごとし。
「なかばより 仁へる上の 初雪を 浅間の嶽の 麓にて見る」
一七日伊香保に侍ろ(り)し、出湯の上なる千嶽の道をはるば
るよぢ登りて、大なる原あり(榛名沼ノ原)
其一方に聳たる高峰あり。ぬの嶽(榛名富士)といふ。麓に
流水あり。これを伊香保の沼(榛名湖)といへり。いかにして
と侍る往躅を尋ねて分登るに、
「から衣 かくる伊香保の 沼水に 今日は玉ぬく あやめぞひく」
と侍り、京極黄門(藤原定家)の風姿まことに妙なり。
枯たるあやめの根、霜を帯たるに、まじれる杜若(カキツバタ)
の茎などまで、昔むつましく覚えて
「種しあらば 伊香保の沼の杜若 かけし衣の ゆかりともなれ」

10月17日 伊香保着・・・・滞在7日
 「からころも かくるいかほの  沼水に
    けいふは玉ぬく  あやめをそひく 」
    (★藤原定家の歌)
10月20日頃? 伊香保温泉に浴した。
 (★伊香保露天風呂)
★伊香保の温泉+大なる原あり(榛名沼ノ原)+榛名湖を見て
+ぬの嶽(榛名富士)登山

画像



箕輪初心▲『榛名』:榛名山&榛名湖&榛名信仰&榛名文学
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201410/article_27.html

箕輪初心:生方▲『榛名湖温泉』と「用水」と【榛名ブログ一覧】
https://53922401.at.webry.info/201707/article_7.html


10月20頃
「神無月廿日あまりに、彼国府長野の陣所に至る事、晡時(申
さるの刻。日暮れ時。(現在の午後4時頃)になれり。
 此野は秋の霜を争ひし戦場いまだ掃はずして、軍兵野に満てり。
枯れたる萩、われもかうなどを引結びて夜を重ぬ。」

★国府長野の陣所で関東管領:上杉顕定に会った。、

「(白井上杉)定昌の指南により藤原顕定(関東管領上杉顕定)の
旅哀の心有て、旅宿本陣に移されし後は厳霜も穏やかなり。
平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会、羇中雲、
「武蔵野や 何の草葉に かかれとて 身は浮雲の 行末の空」

10月2□日? 上野国国府の長野陣所に行った。
  関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。

1)「無神月廿日あまりに」・・・
  「カンナヅキ」=10月の20何日か?

2)「国府長野の陣所に至りぬ」 
 長野憲業(★系図の説によっては信業と同一人物)が
 国府に陣を張ったと思われる。しかし、一体、長野憲業
 の館はどこにあったのだろうか?
 ★もしかしたら、堯恵は箕輪の館あるいは箕輪城に行った
 とも考えられる。つまり、国府は旧群馬町の国府から、
 旧箕郷町に移されていた。足利尊氏が箕輪に『安国寺』を
 建てさせたからである。
 
3)哺時 15時→中心16時→ 17時
伊香保温泉から長野憲業?の陣営に来たら午後4時頃
  になった。

4)「此野は秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、
  軍兵野に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引
  むすびて夜を重ぬ。・・」
この野原はずうっと前から戦が絶えないでいる。霜や露も
払わず、甲冑を着けた軍兵が野原に満ちていて、、枯れた
萩やワレモコウなどが生い茂った野原に(蒲団かわりに)
引き抜いてきて、寝て夜を過ごしている。

5)定昌・・・上杉顯(顕)定の実兄の越後の上杉定昌である。
・文正元年(1466) 1歳年下の弟:顕定が山内上杉家の家督
 を継いた。
・文明3年(1471)頃~ 関東の軍事を任されるようになった。
・文明6年(1474) 上杉定方から定昌と改めた。
         五十子に在陣していた。
・文明8年(1476) 長尾景春の乱
・文明9年(1477) 正月 五十子の陣が崩壊した。
   上野国白井へと引いた。~~~白井城に在城した。
 ・文明18年(1486 ) 父:上杉房定の民部大輔を譲り受けた。
    翌年、越後守護の家督を継いだ。
   長享の乱    
   上杉定昌は弟:山内上杉顕定を支援していた。
・長享2年(1488) 3月24日 長尾景春の攻撃
   白井で自害した。享年36。

6)「定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心あ
 りて旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。」
※藤原顯定・・・「関東管領上杉右馬頭顕定」は国府が危険な
ため、堯恵の谷の宿を東の本陣に泊めてあげることにした。
※おそらく、父:上杉房定の大事な客人であったからであろう。
その後は,厳しい霜にあわず、穏やかに過ごせた。
 
7)平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
長尾顕忠が上杉顕定の家宰を勤めたのだ。
※平顕忠・・・・「館林長尾修理亮」
 (★群馬県立歴史博物館)
★黒田基樹氏の本では、惣社長尾氏・・・・だった。
★兄上杉定昌・弟藤原顯定=上杉顕定・家臣:平顕忠を
  用いるのは理由はなんなのだろうか?。
「長尾忠景の子:顕忠は 鉢形城に在城した。
※永正6年(1509)連歌師宗長は長尾顕忠の家督をついだ
   長尾顕方の鉢形城に訪れている。 
   
8)羇中雲・・・旅の道中における雲
  羇中暮・・・旅の道中における夕暮。
  羇中花・・・旅の道中における花。
9) 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて
   身は浮雲の  行くすゑの空 』

★国府から武蔵野にこれから行こうと思うが、
  ・・・何の草かは分からないが、かかる・・・関係する? 
  覆い被さる。・・・立ちはだかる困難、戦に遭うだろう。
この身は浮き雲のような身の上、どこに行くのか、
どうなるのか この先は分からない。あ~あ、大変。
まあ、いいか。・・・行って見なけりゃ、わからない。
  凄く勝手な解釈なのだ。
  
※文明18年(1486)は、箕輪城は長野業正の父:長野憲業
 の時代である。系図によっては、憲業=信業である。
 文明18年10月26日に太田道灌暗殺と大事件が起きて
 いるが、上杉顕定が鉢形城で画策したというのは地理的
 時間的に少し無理があるかもしれない。


11月15日
「十一月五日には佐野の舟橋(高崎市佐野)に至りぬ。
・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

●12月半ば  武蔵国に入った。
『12月のなかばにむさしの国へうつりぬ。曙をこめてちやう
のはな(※埼玉県深谷市国済寺庁鼻和(こばなわ)城跡)
といふ所をおき出。ゆくゑもしらぬかれ野を駒にまかせて過侍
るに。幾千里ともなく霜にくもりて。空は朝日の雲もなく。さ
しあがりたる風景肝にめいじ侍しかば。
 「朝日かげ 空はくもらで 冬くさの
    霜にかすめる むさしのの原 」

○庁ノ鼻(★深谷市国済寺)・・・深谷上杉氏が最初に館を
構へた庁鼻(こばなわ)のことである。


 「朝日欠け  空は曇りて 冬草の
    霜に霞める   武蔵野の原 」

 ★国済寺で一泊した朝の歌であると思われる。
 武蔵野は入間郡の丘陵をいうのだが、霞の中に広がる
 枯花などの冬草のイメージが武蔵野といふ歌枕にふさわ 
 しかったのだらう。 
 朝日が出てこないで空が曇っている。冬枯れの草の上に霜が
 うっすらと架かっている。なんと武蔵野の台地は寂しいのだろう?

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉憲英~
https://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html


○堯恵は馬を走らせ、箕田といふところを経て、狭山
(熊谷市三ヶ尻の観音山)に行った。
ふもとの池を見て歌を詠んだ。
 「氷りゐし 水際の枯野 ふみ分けて
   行くは狭山の  池の朝風  」
其夜は箕田(★埼玉県鴻巣市箕田)といふ所にあかして。
武蔵野を分侍るに。野涀のほとり名に聞えし狭山有。
朝の霜をふみ分て行に。わづかなる山のすそにかたち
計なる池あり。
「氷ゐし 汀の枯野 ふみ分て
   行はさ山の  池のあさかせ 」

其日の半より漸々富士はみえ侍りぬべきを。よるのしもなごり
猶かきくもりて。かぎりもしらず侍り。からうじて鳩が井の
さと(★埼玉県鳩ケ谷市)滋野憲永がやどりにつきぬ。廿日の
よの殘月ほがらかにかれたる草のすゑに落かゝりて。朝の日又
東の空より光計ほのめきたり。富士蒼天にひとしくして雪みど
りをかくせり。唯それならむとおもふに。忙然として大空にむ
かへり。
「けさみれは はや慰みつ ふしのねに
   ならぬ思ひも  なき旅の空 」

12月23日
「廿三日には角田川(★隅田川)のほとり鳥越(★東京都台東
 区鳥越)といへる海村に善鏡といへる翁あり。彼宅に笠やど
りして。閑林にあがめ置る金光寺に在宿し侍。」
※鳥越、金光寺



~~~隅田川沿いに江戸方面
★鎌倉街道下道か?~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・文明19年(1487)1月1日
 同十九年元日に。
 「おさまれる 波をかけてや つくはねの
   大和嶋根に  春の立らん 」
五日立春。
 「春はけふ たつともいはし むさしのや
    霞む山なき  三吉野の里 」

正月二十日  堯恵が鎌倉の地を訪ねた。
・・・「極楽寺へいたるほどに、いとくらき山間やまあいに、
 星月夜というところあり、むかしこの道に 星御堂 
 (★虚空蔵堂)とて侍りき
・・・(中略)・・・・
 「今なお 星月夜 こそ のこるらめ
     寺なき谷の 闇のともし火 」
                                     
同月の末。武藏野の東のさかひ忍岡(★台東区上野公園周辺)
に優遊し侍。鎭座社五條天神と申侍り。おりふし枯たる茅原を
燒侍り。
 「契り置て 誰かは春の はつ草に
   忍ひの岡の  露の下もえ 」
ならびに湯嶋(★文京区湯島)といふ所有。古松はるかにめぐり
てしめのうちにむさしのの遠望かけたるに。寒村の道すがら野梅盛
に薫ず。これは北野御神(湯島天神)と聞えしかば。
  
 「忘れすは 東風(こち)吹むすへ 都まて
    遠くしめのゝ そての梅かか(香) 」

二月の初。鳥越のおきな艤して角田川にうかびぬ。東岸は
下総西岸はむさしのにつゞけり。利根入間の二河おちあへる所に
彼古き渡りあり。東の渚に幽村あり。西渚に孤村有水面悠々とし
て両岸にひとしく。晩霞晩霞曲江にながれ。帰帆野草をはしるか
とおぼゆ。筑波蒼穹の東にあたり。富士碧落の西に有て絶頂は
たへにきえ。すそ野に夕日を帶。朧月空にかゝり扁雲行盡て
四域にやまなし。
「浪の上の むかしをとへは すみた川
   霞やしろき  鳥の涙に 」

2月20日 鎌倉着
「廿日を過る比鎌倉山をたどり行に。・・・」

※2月に相模~鎌倉~三崎等に遊んだ。
三浦半島の芦名に赴き、約4ヶ月逗留・・・・。

 「五月の末帰途に就き、
 再び武蔵を過ぐ。・・・・ 」

・5月末  六浦金沢称名寺
「同じ比六浦金澤(★横浜市金沢区)をみるに。乱山かさなりて
嶋となり。青嶂そばだちて海をかくす。神霊絶妙の勝地なり。
金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。
「いかにして 此一もとに 時雨けむ
  山に先たつ  庭の紅葉葉」
と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹
くち殘て仏殿の軒に侍り。
 「さきたゝ は此一もとも 殘らしと
    かたみの時雨  靑葉にそふる 」


6月 武蔵に行った。
「六月の末角田川のほとりにて。遠村夕立。
 「雲わくる ひかけの末も 夏草に
    いるまの里や  ゆふ立のそら 」


・6月28日  再び武蔵(中野)
「同二十八日。むさしののうち中野(★東京都中野区)といふ所に
平重俊といへるがもよほしによりて。眇々たる朝露をわけ入て
瞻望するに。何の草ばのすゑにも唯白雲のみかゝれるをかぎり
と思ひて。又中やどりのさとへかへり侍りて。
「露はらふ 道は袖より むらきえて
     草はにかへる  むさしのの原 」
漸(ようやく)日たかくさしのぼりて。よられたる草の原をしのぎ
くる程。あつさしのびがたく侍りしに。草の上にたゞ泡雪のふれる
かとおぼゆる程に。ふじの雪うかびて侍り。
「夏しれる 空やふしのね 草のうへの
    白雪あつき  武藏のの原 」

★6月28日 中野に立ち寄っている。
「同廿八日、武蔵野のうち中野といふ所に平重俊といへるが催もよほし
によりて、眇々びょうびょうたる朝露をわけ入りて瞻望せんぼうするに、
何の草葉の末にも唯白雲のみかかれるをかぎりと思ひて、又中やどりの
里に帰り侍はべりて、
「露はらふ 道は袖より むら消の 草葉に帰る 武蔵野の原 」
(★意味…露を払って進む道は、袖より高い丈の草がむら(ところどころ)
 消えていて、原を分けて武蔵野を進んで・・・?向かった?)

「漸ようよう日高く昇りて、よられたる草の原をしのぎ来るほど、暑さし
のび難く侍しに、草の上にただ泡雪の降れるかとおぼゆるほどに、富士の
雪浮びて侍り。
「夏知れる 空や富士の嶺 草の上の 白雪あつき 武蔵野の原」
(★意味…今は夏であることを(富士山は)知っているのだろうか、
 空の彼方に富士山は草の向こうに白雪(冠雪)を戴いている涼し
 そう、でもここは糞暑い武蔵野の原なのですよ~ん。) 
★最高に美しい和歌だ。本当に圏央道高速から八王子に向かう方向
 には富士山の冠雪がみえる。中野からも当然。国立市は都市計画の
 中で、冨士が見える道路を設定している。

「其日の半ばより、やうやう富士は見え侍りぬべきを、夜の霜の名残
 なほ掻き曇りて、限りも知らず侍り。からうして鳩が井の里、滋野
 憲水が宿に着きぬ。二十日の夜の残月ほがらかに枯れたる草の末に
 落ちかかりて、朝の日又東の空より光ばかりほのめきたり。富士蒼
 天にひとしくして、雪みどりを隠せり。ただそれならんと思ふに、
 茫然として青空に向かへり。」
「今朝見れば やや慰めつ 富士の嶺に ならぬ思ひも なき旅の空」
★しっとり感がなんとも言えない。

※ 堀兼の井を訪問
 ほりかねの井ちかき所にて。
「そことなく 野はあせにけり 紫もほり
   かねのゐの   草葉ならねと 」

7月7日
七日に鳩が井の里(★埼玉県鳩ケ谷市)滋野憲永がもとにて。
 秋増変。
 「 きのふかは 思ひし色の あさは野も
   木からしになる  秋の夕暮 」

初秋の比。よふかき道をくるに。入間の舟渡りまでみをくる人
あまた侍りしに。角田川の朝ぎりいづこをほとりともしらず。
小舟の行ちがふかひの音のみ身にしみて哀に覺え侍りしかば。
彼翁かたへ申送り侍し。
「おもかけそ 今も身にしむ 角田川(隅田川)
   あはれなりつる  袖の朝露 」


9月13日
「九月十三夜、白井戸部(上杉定昌)亭にて松間月(松の間の月)
「澄まさる 程をもみよと 夏の葉の 数あらわなる 嶺の月影」
白井戸部(上杉定昌)亭は(★群馬県渋川市旧子持村)


9月30日?
「九月尽(末)、長野陣所小野景頼が許にて、暮秋時雨(しぐれ)
「誰が袖の 別れの櫛の 歯の黒髪 山ぞ間なく 時雨るる」

★9月上野国国府に再びやってきた。
『九月尽に長野陣所小野景頼がもとにて、
  暮秋時雨
  「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』
10)「九月尽に」・・・九月の終わりに
 (★現11月?日毎年違うので日めくりカレンダーを見る
  とよい。)

11)小野景頼・・・
 
①小野景頼=木部景頼(★森田真一先生・黒田基樹氏)
②小野妹子・・・小野道風・小野小町・・・
    小野系藤田氏・由良氏など。(箕輪初心調べ)
③木部氏は京の公家との結びつきが
  深かった(山本隆志先生説)


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№25『小野妹子→小野和泉守政直(道高)』
https://53922401.at.webry.info/201701/article_36.html

12)「暮秋時雨」・・秋の夕方のしぐれ雨

13)「 誰が袖の 秋の別れの くしのはの
   黒髪山ぞ まなくしぐるる 』
★黒髪山=榛名山
私の?小野景頼?長野憲業?との秋の別れは、
まるで榛名山に雨が降り注いでいるように
櫛の歯が黒髪に流れるように涙が落ちてくる
涙涙の別れなのだ。・・・
残念ながら、掛詞が難しくてわかんないや?



11月末
「十一月の末に上野の境近き越後山中石白(上杉相模守房定法名
常康)旅所といふ所へ源房政たぐへて帰路を催すべき由、侍し
 かば、白井の人々餞別せしに、山路雪
 「帰るさも 君がしほりしに 東路の 山重なれる 雪や分まし」
★11月下旬 上野から越後へ帰る。 
11月末 再び上野~越後に旅立った。
再び同じ道を通り、三国峠を越えた 。

11月27日
廿七日、山雪に向ひて朝立ち侍。利根川を□(★「木」の下に
 「日」で「よう」・「ハルか」=遥かと同じ意味)に見侍りて、
「降積みし 雪の光や 誘ふらむ 浪より明くる 天の利根川」
明ければ、三国山を越侍るとて、・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・(後略)・
「かくて重れる山連なる道を過ぎ行程、曠絶無人ともいふべし。
越後・信濃・上野の境、三国の峠といへるを越けるに、諏訪の
伏拝みあり。諏訪の海に幣と散らさば三国山よその紅葉も神や
惜しまむ。

こうして、堯恵の約2年間の旅だった。

◆参考文献
・『新古典文学全集98「北国紀行」より』
・群馬町史など


************************

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この記事へのコメント

宗春
2018年10月05日 14:45
『★国府長野の陣所で関東管領:上杉顕定に会った。』について
 旅宿本陣は、「武蔵野や--」にあるように対扇谷上杉に備え鉢形城と思われる。平顕忠は武蔵守護代であり家宰なので顕定の近くにあったはず。顕忠の弟定明(高津家)は上野守護代で惣社在住・板鼻出仕と思います。長享の乱勃発時の下野国足利庄勧農城攻撃は、定昌率いる上野(総社集結)・越後(白井駐屯)勢によるものらしい。宗春説
 論文忙しそうなので、来月お邪魔させて戴ければ幸いです。戦国期の話は実に楽しいです。それでは。
宗春様
2018年10月17日 13:20
相変わらず、よく勉強していますね。「里見発見伝」では、白井城は扇谷定正になっています。是非、来てください。

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