箕輪初心:生方▲井伊直政№261久保康顕先生初出史料『西郷正次・椋原政直と榛名神社』
久保康顕先生の初出史料『差出人:西郷正次・椋原政直』から、榛名神社
が井伊直政の支配下にあることが分かる。
★天正18年(2018)8月井伊直政は箕輪城に12万石で入城した。8年
間在城し、慶長3年(1598)10月頃、高崎城に入城した。慶長6年(1601)
1月か2月、佐和山城に移った。箕輪・高崎城時代、井伊直政の支配地は
信濃県境~松井田~安中~板鼻~榛名~(赤坂=高崎)~箕輪~(旧群馬
町)~現榛東村~現吉岡町一部~榛名神社、榛名湖、伊香保温泉~渋川
金島も支配地であったと考えられる。井伊直政は中仙道と三国街道の整備
をし、宿場町を造らせた。旧碓氷の関所(今の場所ではない)と金島の関所
を設けた。
【1】戦国武将と榛名神社
・戦国時代
①榛名神社の座主は僧であったが、別当は木部氏であった。
②長野氏は里宮の戸榛名神社(地元ではどばんな)を祀った。
榛名本郷?の神戸(ごうど)城の隣である。
③長野氏系?松田加賀守は浜川にあった、宗長を出迎えた。
松田氏は並榎の天竜護国寺の別当である。
(★山本隆志先生講演会)
長野憲業は戦勝祈願をした。
やがて、大戸氏(滋野系=浦野氏)が一時、倉渕に侵入した。
長野氏が大戸氏を破り、親戚関係になった。
長野氏は榛名神社の別当になったと考えられる。
長野氏が制札を出した。通説は長野業政である。
・天文3年(1534) ・・・秋本先生・みさとの歴史
長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出す
(★業政の唯一の古文書・・・・秋本先生)
=長野業政が榛名神社に制札を掲げる。
内容①けんか禁止 ②逃亡した下人をとらえる行為の禁止
③押し売り行為の禁止(近藤義雄説)
内容①けんか禁止 ②家臣の人身売買為の禁止
③押し買いディスカウントの禁止(久保田順一説)
・天文4年(1535)4月
飯森先生
□(長野方業) 榛名神社に制札を出す。
(★榛名神社文書)
飯森先生・・・長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城した。
・永禄年間、武田信玄は信濃松原神社、新海三社、榛名神社などで
上野国での戦勝祈願をした。特に、箕輪城主:長野業政に勝つこと。
榛名神社には「矢立杉」が伝承として存在する。
・永禄6年(1563) 武田信玄は箕輪城侵攻の際、戦勝祈願を行い
杉の巨木に矢を立てた(伝)。樹齢1000年。高さ55m。
榛名神社の制札を出した。
・天正10年(1582)・・・北条氏邦が制札を出した。
・天正18年(1590)8月~慶長6年(1601)1月、榛名神社は井伊直政の
支配下にあった。
①ちなみに榛名民俗資料館には「井伊直政の鐙」が展示されている。
②久保康顕先生の初出史料『差出人:西郷正次・椋原政直』から、
榛名神社が井伊直政の支配下にあることが分かる。
・慶長19年(1614)、徳川家康の家臣:天海僧正は「上野国天台宗榛名
山巌殿寺法度之事」を出し、上野山寛永寺の支配下に置いた。
上野の寛永寺末寺:旧榛名町中里見の光明寺が学頭、榛名山満行院
が別当に任命された。その下に衆徒五ヶ院、吟味役、年寄という職が
置かれた。この3役人が御師の代表であった。その下に脇年寄、行事、
山見役、神楽頭取などの役もあっ た。
榛名神社信仰は「榛名講」として広がった。『榛名講』では、榛名神社
に代参し、村の豊作を願って代表者が榛名神社に木札
をもらいにいく仕組みがあった。御師は「榛名講」を案内する役である。
箕輪初心:生方▲井伊直政№158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
https://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html
【2】『井伊家伝記』にある『御付人』
「木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門」
○直政公御立身の事。
「(略)…天正十年の秋、 権現様甲州御入国、直政公御伴にて一倍の御
加増四万石の大名に御取立、一方の大将に被仰付候て 権現様近仕の侍、
木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を家老にられ仰付
候。其上信玄幕下に飯冨兵部と申侍大将は数度の軍功一時に其隠れ無之
故、井伊兵部(此節、直政公御元服被成、兵部少輔様と申候えども万千
代と申候御名、権現様被下置候故御元服の後も多くは万千代と申候なり。)
と飯冨兵部と実名仮名共に響近く似より申候故、則直政公武具其外不残
赤備に被仰付候故、尾州長久手御出陣の節、軍中にて井伊赤鬼と申候て
殊外恐れ申候由なり。」
(★『井伊家伝記』)
【3】久保康顕先生初出史料『西郷正次・椋原政直と榛名神社』
平成30年(2018)10月26日榛名民俗資料館で事務局の中島さんが
久保康顕先生をご紹介してくださった。「私、生方と申します。」「私の
妻の姓と同じです。」とおっしゃった。「今日は井伊直政の家臣、西郷
と椋原から入ります。」「西郷正次と椋原政直ですか?私は井伊直政
の家臣団形成を中心に研究しています。楽しみです。」と答えた。
久保康顕先生の講演会「戦国時代の榛名神社」を拝聴した。
~~講演会~~終わって、久保先生の本を購入し、サインをいただいた。山本隆志先生もお見えになっておられた。山本先生から「赤城の
養蚕」についての論文をいただいた。お二人の先生、誠にありがとう
ございました。
★山本隆志先生は昭和56年?の時に、書き下し文がされていますが、
間違いが多く、正確な訳は久保康顕先生の初出と言ってもよいでしょう。」
とおっしゃられた。初出の西郷・椋原の文書である。
★久保先生の写真掲載の許可を得ませんでしたので、
掲載できません。
●久保康顕先生講演会「戦国時代の榛名神社」
はじめに
①近世・近現代の榛名山信仰 農耕神 風雨順調 雨乞い→「榛名講」
②近世榛名山信仰→明治初期 御初穂所書上
11月23日 新嘗祭:秋の初穂を供えて、豊作御礼の祭典を行う。
慶応2年「吉井在御初穂并ニ入用帳」(一宮修家文書)
1)鐘を撞かせられる者
史料A【戦場から逃亡した疑いのある者】
(差出者:西郷藤左衛門正次(正友:正員)→榛名神社別当)
「彼者陣より懸落
申候間、則可成敗
者ニ候へ共、春名之
かねをつかせ扶可
申上間、無心之申事ニ
候へ共、於御神前ニ
急度被仰付候て
可給候、誠御無心之
申事ニ候へ共、人を
御たすけ候と思召、
可被仰付候て可
給候、恐々謹言
七月六日 西藤左(花押)
・・・・・・・・・・・・・・・(継(
箕輪より
春名別当人
尚々、□□不申通候、
御宜敷奉存候、於
其元能々可被仰
付候て可給候、様子者
関方。宮沢両人
可申候、已上
2)鐘を撞かせられる者
史料B【殺人の疑いのある者】
(差出者:西藤左=西郷藤左衛門正次(正友:正員)
椋原次右=椋原平次右衞門政直(正直)
→□□別当坊)
「急度申入候、仍
彼者浜川之郷ニ
おゐて外記えお申
者をころし候由
申懸候へ共、しやうこ(★証拠)
無之二付而、かねを
御つかせ候間、三日之
内ニいかにも念
を入、御つかせ
可有候、委細者
彼両人可被申
候条、不能具候(つぶさにあたわずそうろう)
恐々謹言
椋原次右
卯月廿六日 西藤新次(花押)
・・・・・・・・・・・・・・・(継)
箕輪
□□
別当人坊
参
返々、かたく
御意ニ候間、、念を
入れ御つかせ可有候、
無念ニ被仕候ハ者、別当坊
曲事たるべく候、已上
★明日の伊香保・榛名関係は安積艮斎かな?
が井伊直政の支配下にあることが分かる。
★天正18年(2018)8月井伊直政は箕輪城に12万石で入城した。8年
間在城し、慶長3年(1598)10月頃、高崎城に入城した。慶長6年(1601)
1月か2月、佐和山城に移った。箕輪・高崎城時代、井伊直政の支配地は
信濃県境~松井田~安中~板鼻~榛名~(赤坂=高崎)~箕輪~(旧群馬
町)~現榛東村~現吉岡町一部~榛名神社、榛名湖、伊香保温泉~渋川
金島も支配地であったと考えられる。井伊直政は中仙道と三国街道の整備
をし、宿場町を造らせた。旧碓氷の関所(今の場所ではない)と金島の関所
を設けた。
【1】戦国武将と榛名神社
・戦国時代
①榛名神社の座主は僧であったが、別当は木部氏であった。
②長野氏は里宮の戸榛名神社(地元ではどばんな)を祀った。
榛名本郷?の神戸(ごうど)城の隣である。
③長野氏系?松田加賀守は浜川にあった、宗長を出迎えた。
松田氏は並榎の天竜護国寺の別当である。
(★山本隆志先生講演会)
長野憲業は戦勝祈願をした。
やがて、大戸氏(滋野系=浦野氏)が一時、倉渕に侵入した。
長野氏が大戸氏を破り、親戚関係になった。
長野氏は榛名神社の別当になったと考えられる。
長野氏が制札を出した。通説は長野業政である。
・天文3年(1534) ・・・秋本先生・みさとの歴史
長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出す
(★業政の唯一の古文書・・・・秋本先生)
=長野業政が榛名神社に制札を掲げる。
内容①けんか禁止 ②逃亡した下人をとらえる行為の禁止
③押し売り行為の禁止(近藤義雄説)
内容①けんか禁止 ②家臣の人身売買為の禁止
③押し買いディスカウントの禁止(久保田順一説)
・天文4年(1535)4月
飯森先生
□(長野方業) 榛名神社に制札を出す。
(★榛名神社文書)
飯森先生・・・長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城した。
・永禄年間、武田信玄は信濃松原神社、新海三社、榛名神社などで
上野国での戦勝祈願をした。特に、箕輪城主:長野業政に勝つこと。
榛名神社には「矢立杉」が伝承として存在する。
・永禄6年(1563) 武田信玄は箕輪城侵攻の際、戦勝祈願を行い
杉の巨木に矢を立てた(伝)。樹齢1000年。高さ55m。
榛名神社の制札を出した。
・天正10年(1582)・・・北条氏邦が制札を出した。
・天正18年(1590)8月~慶長6年(1601)1月、榛名神社は井伊直政の
支配下にあった。
①ちなみに榛名民俗資料館には「井伊直政の鐙」が展示されている。
②久保康顕先生の初出史料『差出人:西郷正次・椋原政直』から、
榛名神社が井伊直政の支配下にあることが分かる。
・慶長19年(1614)、徳川家康の家臣:天海僧正は「上野国天台宗榛名
山巌殿寺法度之事」を出し、上野山寛永寺の支配下に置いた。
上野の寛永寺末寺:旧榛名町中里見の光明寺が学頭、榛名山満行院
が別当に任命された。その下に衆徒五ヶ院、吟味役、年寄という職が
置かれた。この3役人が御師の代表であった。その下に脇年寄、行事、
山見役、神楽頭取などの役もあっ た。
榛名神社信仰は「榛名講」として広がった。『榛名講』では、榛名神社
に代参し、村の豊作を願って代表者が榛名神社に木札
をもらいにいく仕組みがあった。御師は「榛名講」を案内する役である。
箕輪初心:生方▲井伊直政№158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
https://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html
【2】『井伊家伝記』にある『御付人』
「木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門」
○直政公御立身の事。
「(略)…天正十年の秋、 権現様甲州御入国、直政公御伴にて一倍の御
加増四万石の大名に御取立、一方の大将に被仰付候て 権現様近仕の侍、
木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門三人を家老にられ仰付
候。其上信玄幕下に飯冨兵部と申侍大将は数度の軍功一時に其隠れ無之
故、井伊兵部(此節、直政公御元服被成、兵部少輔様と申候えども万千
代と申候御名、権現様被下置候故御元服の後も多くは万千代と申候なり。)
と飯冨兵部と実名仮名共に響近く似より申候故、則直政公武具其外不残
赤備に被仰付候故、尾州長久手御出陣の節、軍中にて井伊赤鬼と申候て
殊外恐れ申候由なり。」
(★『井伊家伝記』)
【3】久保康顕先生初出史料『西郷正次・椋原政直と榛名神社』
平成30年(2018)10月26日榛名民俗資料館で事務局の中島さんが
久保康顕先生をご紹介してくださった。「私、生方と申します。」「私の
妻の姓と同じです。」とおっしゃった。「今日は井伊直政の家臣、西郷
と椋原から入ります。」「西郷正次と椋原政直ですか?私は井伊直政
の家臣団形成を中心に研究しています。楽しみです。」と答えた。
久保康顕先生の講演会「戦国時代の榛名神社」を拝聴した。
~~講演会~~終わって、久保先生の本を購入し、サインをいただいた。山本隆志先生もお見えになっておられた。山本先生から「赤城の
養蚕」についての論文をいただいた。お二人の先生、誠にありがとう
ございました。
★山本隆志先生は昭和56年?の時に、書き下し文がされていますが、
間違いが多く、正確な訳は久保康顕先生の初出と言ってもよいでしょう。」
とおっしゃられた。初出の西郷・椋原の文書である。
★久保先生の写真掲載の許可を得ませんでしたので、
掲載できません。
●久保康顕先生講演会「戦国時代の榛名神社」
はじめに
①近世・近現代の榛名山信仰 農耕神 風雨順調 雨乞い→「榛名講」
②近世榛名山信仰→明治初期 御初穂所書上
11月23日 新嘗祭:秋の初穂を供えて、豊作御礼の祭典を行う。
慶応2年「吉井在御初穂并ニ入用帳」(一宮修家文書)
1)鐘を撞かせられる者
史料A【戦場から逃亡した疑いのある者】
(差出者:西郷藤左衛門正次(正友:正員)→榛名神社別当)
「彼者陣より懸落
申候間、則可成敗
者ニ候へ共、春名之
かねをつかせ扶可
申上間、無心之申事ニ
候へ共、於御神前ニ
急度被仰付候て
可給候、誠御無心之
申事ニ候へ共、人を
御たすけ候と思召、
可被仰付候て可
給候、恐々謹言
七月六日 西藤左(花押)
・・・・・・・・・・・・・・・(継(
箕輪より
春名別当人
尚々、□□不申通候、
御宜敷奉存候、於
其元能々可被仰
付候て可給候、様子者
関方。宮沢両人
可申候、已上
2)鐘を撞かせられる者
史料B【殺人の疑いのある者】
(差出者:西藤左=西郷藤左衛門正次(正友:正員)
椋原次右=椋原平次右衞門政直(正直)
→□□別当坊)
「急度申入候、仍
彼者浜川之郷ニ
おゐて外記えお申
者をころし候由
申懸候へ共、しやうこ(★証拠)
無之二付而、かねを
御つかせ候間、三日之
内ニいかにも念
を入、御つかせ
可有候、委細者
彼両人可被申
候条、不能具候(つぶさにあたわずそうろう)
恐々謹言
椋原次右
卯月廿六日 西藤新次(花押)
・・・・・・・・・・・・・・・(継)
箕輪
□□
別当人坊
参
返々、かたく
御意ニ候間、、念を
入れ御つかせ可有候、
無念ニ被仕候ハ者、別当坊
曲事たるべく候、已上
★明日の伊香保・榛名関係は安積艮斎かな?
この記事へのコメント
彦根藩2代目の長男井伊直滋の甲冑発見 滋賀・永源寺で(京都新聞) https://t.co/aDusc0U2mfN村(現在はIに改姓)が関わってない話ならいいのだけど— Plum梅子@11月11日こはぜ会の鎧噺 (@PlumUMEKO) 2018年10月30日
今週か来週の金曜日、よろしかったらお邪魔させてください。ご連絡いたします。
https://twitter.com/PlumUMEKO/status/1057399876055523329?ref_src=twsrc%5Etfw
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