箕輪初心:生方▲2018小栗上野介忠順(ただまさ)の生涯:後編「帰国後の活躍」

平成30年(2018)11月2日~7日、【小栗上野介忠順企画展】
2回目が開催されている。私は11月4日、東善寺の村上泰賢先
生、小栗さくら氏、手嶋仁氏の鼎談があるというので出かけた。
11月6日はPM2時、村上泰賢先生の解説があるというので、
出かけた。
画像


箕輪初心:生方▲2018高崎№30『鼎談』と【小栗上野介忠順企画展】
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_10.html



・安政6年(1869) 32歳  本丸御目付となった。
 9月13日 井伊直弼は、遣米使節メンバーを発表。
12月1日  日米修好通商条約の条約批准書交換使節の命令が下る。
 従五位下諸大夫に任命。豊後守。小栗豊後守を名乗った。
 新見正興・村垣範正・小栗忠順がブルッフ大尉と打ち合わせ
①正使:新見正興
②副使:村垣範正
③目付:小栗忠順

≪日米修好通商条約のための遣米使節≫
●日本発の世界一周旅行~~~~~~~~~~~~~~
安政 7年・万延元年 (1860)33歳1月18日(西暦2月9日)
条約文書交換のため。米艦ポーハタン号で品川を出帆。77名。
  日本:品川~~ハワイ~~~サンフランシスコ~~パナマ
  パナマ===鉄道====大西洋側
  パナマ太平洋側~~~~アメリカのワシントン
  ~~川を船で越える~~~
  フィラデルフィア~NY・・・・
万延元年 (1860)
 3月28日  ブキャナン大統領に謁見。
 (3月18日万延と改元)
 4月 3日  外国事務宰相レウス・カスと会見、
            条約の批准を交換。
 NY~ポルトガル領ルワンダ~喜望峰~ジャワ~香港~日本
9月28日  横浜帰着。(★品川説もある)
●~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、
外国奉行に就任する。

※オリガにいたロシア艦隊の中国海域艦隊司令官:イワン・リハチョー
フ大佐は、「不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くこと」を
をロシア政府に提案した。ロシア政府は日本との関係が悪化することを
懸念した。ロシア政府はリハチョーフの提案を拒否した。
しかし、海事大臣:大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦
隊派遣を許可させた。リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が
派遣された。

・文久元年(1861)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生した。
2月3日(3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは
軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量を開始した。
ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、対馬藩内では対応を巡って、
武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争
が起こり、藩内は混乱した。藩主:宗義和は非開港場投錨の非を責め、
速やかに退帆するよう抗議した。
 しかし、ビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、
 修理のために来航した旨を回答し、修理工場の設営資材や食料・遊女
を要求した。
3月4日 芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。
 その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設した。
 (★現地にはロシア人の掘った井戸などが残っている。~
宗義和は穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニッ
 ク号に派遣し、不法を何度か詰問した。
 しかし。ロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅か
したり、住民を懐柔したりした。対馬は山がちで木材・牛馬・食糧・薪炭
を強奪、買収して滞留の準備を整えた。
 ロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲
したり、また水兵の中には婦女を追跡して脅かしたりした。
 ロシア人と対馬住民の間で紛争が起こった。
 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求した。
★館長は上部からの命令なので海事大臣:大公コンスタンチン・ニコラエ
ヴィチ、リハチョーフ司令官の命令なので、勝手には帰れなかった。

3月23日 中尉:ビリリョフ艦長は芋崎の租借を求めて来た。ロシア側
 としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、既成事実として幕府に認めさ
 せる思惑であった。
 対馬藩では面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の
 指示を仰いだ。
4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを
 対馬藩の警備兵が制止した。
 ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、郷士2名を捕虜として拉致し、
 軍艦に連行した。吉野数之助は舌を噛み切って自殺した。
 ロシア軍は番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛
 を奪って帰船した。
 翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。

 藩主:宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも
米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。藩内士民には暴挙を戒めた。
 一方、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。

 長崎奉行:岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を
 指示した。ビリリョフ艦長に不法行為を詰問する書を送り、佐賀、筑前、
 長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させた。
 幕府は箱館奉行:村垣範正に命じて、函館駐在のロシア総領事ヨシフ・
 ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させた。
 また、外国奉行:小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当た
 らせた。
5月7日、小栗忠順は目付:溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した。
5月10日、①小栗忠順は、艦長ビリリョフと1回目の会見した。
  第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、
  小栗は謁見を許可する旨を回答した。
5月14日、②小栗忠順は、艦長ビリリョフと2回目の会見した。
 第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議
 した。
5月18日、③小栗忠順は、艦長ビリリョフと2回目の会見した。
 第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は
 (老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できない
 といわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答した。
 ビリリョフ艦長は「話が違う。」と猛抗議を行ったが、
 小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り、交渉を押し切った。
5月20日には小栗は対馬を離れ江戸に向かった。
★ロシア政府の希望であるから、言っても無駄と感じたのであろう。
 
5月26日、対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなった。
 ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、
 短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。
 しかし、ロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲
 50門の進献、警備協力などを提案した。
 対馬藩側では「幕府に直接交渉して欲しい。」と回答して要求を
 かわした。
 沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、
 辛うじて事なきを得た。

小栗は、江戸に戻った。
 老中に
 ①対馬を直轄領とすること。
 ②今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
 ③国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。
 などを提言したが、容れられず7月、外国奉行を辞任した。
◆村上泰賢先生
「小栗は3回交渉した。・・・」

7月 イギリスの対馬介入。
 対馬に艦隊基地を置くことは、元はイギリスの考えであった。
 第2次阿片戦争:アロー号事件(1856~1860)は主に清の北京を
 中心とする華北地方で戦われた。北京の外港:天津であった。
 渤海湾、黄海の制海権を制する目的で対馬は日本海の入り口で
 南下を目するロシアへの牽制場所として戦略的な重要性を持って
 いた。先にロシアにしてやられたと感じていた。 
(イギリス VS ロシア の水面下の争い)

・文久2年(1862) 勘定奉行に就任した。
 小栗豊後守から「上野介」に変更した。幕府の財政立て直しを指揮
 する。
 幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入していた。
 総額は実に333万6千ドルに上った。
 小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カション
 と親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、
 製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。
 当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが、当時アメリカは
 南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったた。
大統領がリンカーンになっていた。
★北軍はワシントン海軍工廠で機関銃の大量生産を行うようになっていた。

 結果的にロッシュとの繋がりができたフランス中心の招聘となった。
         ※勝海舟はイギリスに接近。        
         函館出張。
         高崎:茂木惣兵衛が横浜に出店「野沢屋」

・文久 2年 (1862) 36歳
4月13日   ※清河八郎は小栗を暗殺しようと画策。失敗。
   (山形県新庄市の清河八郎の邸宅) 

6月05日  勘定奉行(勝手方)に就任。
上野介と改称。
    ◆最大出費・・44隻の軍艦の購入代333万6000$

閏8月25日  江戸南町奉行に就任。

※生麦事件・・薩摩藩の役人がイギリス人を殺害。
      →小栗は松平春嶽邸で横井小楠と会見。

12月 1日   初代の歩兵奉行に就任。


・文久 3年 (1863) 37歳
※13代:家茂(いえもち)が上洛。・・篤姫。

*******************************

・文久3年(1863)
 小栗上野介は製鉄所建設案を幕府に提出した。
 幕閣などから反発を受けたが、14代将軍徳川家茂はこれを承認した。

11月26日,実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。
 なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡
 中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施
 設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。
  見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、
 鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した。
  ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しばらくの間木炭
 を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。

・慶応元年(1865)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立
木の使用について陸軍奉行と協議をしている。


※薩英戦争・・・薩摩ぼろ負け。
 12月8日  造船所建築案を幕府に提出。→多くの反発。
        将軍:慶喜に信頼され、反対派は沈黙。
    ◆勝海舟・・・「四国を売るのか、売国奴め。」と言った。
    ★勝は貧乏旗本だってので、小栗には反感を持っていた。 

 7月22日  陸軍奉行に就任。
       率軍上京計画を立てたが未然に発覚し、罷免。
・元治元 (1864)年 38歳
  1月26日  造船所実地検分開始・・・・横浜
       ※費用は4年継続の240万$
       ●小栗は、群馬の下仁田中小坂の鉄山開発を計画  
11月10日  横須賀製鉄所(造船所)建設正式決定。
12月18日  軍艦奉行に就任。
       ●栗本鋤雲(じょうん)とロッシュに会見
       ●横須賀造船所が本格化
       ●ヴェルニーが来日。

・慶応元 (1865)年 39歳 財政改革・軍制改革。
フランスと契約
  ●横浜製鉄所の建築
  8月 1日  横浜にフランス語学校を開校。
        (栗本鋤雲・浅見氏祐の協力→ロッシュ)
  9月27日 ●横須賀製鉄所の鍬人穴を挙行。★アジア最大。


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≪1長州の動き≫
・文久3年(1863) 長州藩は幕府によって海外渡航が禁じられていた
 ため、密航という形をイギリス留学をさせた。。長州藩の内命を受け
 たのは、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助、半年前には英国公使館焼き
 討ち事件に加わっていた伊藤博文と井上馨の5名であった。
 5月に横浜を出港し、11月にロンドンに到着した。5人の留学生
 を迎え入れてくれたのが、UCL(ロンドン大学)のアレクサンダー
 ・ウィリアムソン教授であった。5人は教授の分析化学の講義を聴講
 したりするなど様々な学問に接した。

・文久3年(1863) 5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメ
 リカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。
下関戦争(馬関戦争)が起こった。

・文久4年(1864)4月、5人は長州藩に対して列強4カ国が報復攻撃
  を準備していると知った。5人は、相談して伊藤博文と井上馨を
  帰国させることにした。

・元治元年(1864) 7月、海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた
  イギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定した。
  イギリスはフランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼び
  かけ、艦船17隻で連合艦隊を編成した。
  8月5日~7日にかけて馬関(現下関市)と彦島の砲台を徹底的
   に砲撃、各国の陸戦隊が下関を占拠・破壊した。
  長州藩 VS イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国
  2回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件であった。
 長州藩は馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって破壊され、西洋に
 対する武力攻撃による攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的
 に導入し、軍備軍制を近代化することに方向転換した。
 
 

≪2薩摩の動き≫ 
・元治2年(1865) 3月22日、薩摩藩は新納中三・五代友厚・松木弘安
(寺島宗則)の3人から成る外交使節団を、町田
 久成、森有礼ら15名の留学生と共にイギリスに派遣した。
 使節は薩摩国串木野羽島(鹿児島県いちき串木野市)から出航した。
 使節団及び留学生一行19名は西欧の進んだ文化や技術を目で確か
 め学び取ろうと、イギリスへ出発した。船旅の途中様々なカルチャ
 ーショックを受けながら、約2か月後・・・・
・慶応元年(1865)5月28日、イギリスのサウザンプトンに到着した。
  汽車にてロンドンへ向かった。長崎のイギリス商人トーマス・グラ
  バーの兄:ジェームス・グラバーの出迎た。
 
使節団:新納久脩、五代友厚、松木弘安、堀孝之は紡績機械、銃砲、
 艦船などの交易及び外交面の交渉に奔走した。
 五代友厚(後大阪商法会議所初代会頭)らはイギリス国内の進んだ
 産業技術の導入のため、マンチェスターで紡績機械を、バーミンガム
 で小銃数千挺を購入契約した。
 留学生は語学合宿後、オリファント卿やロンドン大学:ウイリアム
 ソン教授らの計らいによりロンドン大学へ入学した。
 13歳の長沢鼎だけは大学に入れず、グラバーの実家アバディーン
 (スコットランド)へ引き取られ、地元の中学校で最優秀の成績を
 修めた。

 留学生が驚いたことには、国内で最も強硬に尊王攘夷を唱えていた
 長州藩の留学生:山尾庸三、井上勝、遠藤謹助と出会ったことであった。
  ロンドンでは薩摩と長州は仇敵同士であった。
 長州藩の長州五傑と遭遇している。

 使節団はフランス・プロイセン・オランダ・ベルギー各国を歴訪・視察
 した。
 ロンドンでは、ベルギー貴族(フランス国籍)のシャルル・ド・モン
 ブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッ
  セルにで薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。
 モンブラン伯爵とは商社設立の契約は薩英戦争後の集成館事業再興
 に大きく貢献した。また、2年後のパリ万国博覧会参加を協議し、
 参加する方向が決まった。
  また、松木弘安(後外務卿、寺島宗則)はローレンス・オリファ
 ントを通じてイギリス外相:ラッセル伯に雄藩連合政権樹立の構想
 を説いた。外相:ラッセル伯と交渉は当時の英国の対日政策を幕府
 寄りの政策から薩摩寄りの政策に方向転換させることになった。
 イギリスの対日外交に影響を与えた。結果、外交上大きな成果を挙
  げた。
 ・慶応2年(1866)に帰国した。

・慶応2年(1866)1月21日(3月7日)坂本龍馬や中岡慎太郎などの
 仲介により、薩長同盟が締結された。
  薩摩藩と長州藩は近代化路線を進め、共に倒幕への道を進む。

≪3幕府の動向≫
 小栗上野介は軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させる
 ことを計画した。
 ★個人的には、イギリスかフランスのはずであると考えている。

 アメリカのワシントン海軍工廠の技師等を呼びたかっ
 たが、南北戦争中であった。
 
・慶応元年(1865) 閏5月、外国奉行:柴田剛中がフランス・イギリス
 に派遣された。薩摩藩は坂本龍馬の仲介で西郷隆盛・大久保利通など
 などはイギリスとの交渉を進めていた。
 柴田剛中は薩摩藩との関係を強めつつあったイギリスとの交渉には
 成功しなかった。
 7月 柴田らはフランスに入った。フランスとの横須賀造船所建設と
 軍事教練に関する交渉を行った。
 顧問団派遣はナポレオンⅢ世の承認を受け、外務大臣ドルーアン・ド
 ・リュイス(英語版)がフランス政府の同意を伝えた。

顧問団は陸軍大臣ジャック・ルイ・ランドンの権限で選ばれた。
顧問団は、各分野の専門家からなる士官6人、下士官兵9人の
計15人であった。後に4人が追加派遣され、総勢19人とな
 った。
団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉が率いた。
①顧問団団長:シャルル・シャノワーヌ大尉
②士官
◆ジュール・ブリュネ大尉、近衛砲兵連隊、砲兵教育担当。
◆アルベール・シャルル・デュ・ブスケ中尉、第31歩兵連隊、
  歩兵教育担当。…★群馬県に来ている。
◆エドゥアルド・メスロー中尉、第20猟騎兵大隊、歩兵教育担当。
◆オーギュスタン・デシャルム中尉、皇后竜騎兵連隊、騎兵教育担当。
  ★草津温泉・伊香保温泉に来ている
◆ジョルダン大尉、第一工兵連隊。
③下士官兵13人


≪4小栗上野介の動向≫
・慶応2年(1866年)経済面では、関税率改訂交渉に尽力した。
天保小判→蔓延小判(大きさが3分の1)とした。
 かつて、安政6年、ハリスは以下の2案を提案してきた。
「①銀貨の量目を増大させ、金銀比価を是正する」
「②小判の量目を低下させて同様に金銀比価を是正する」
 安政の幣制の小判そのものであったが、幕府にも抗議する力はなか
 った。水野忠徳は小判の量目低下は激しいインフレーションを招き、
 幕府が吹替えにより利益が帳消しなることを恐れ、小判を小さく
 することには消極的であった。
 イギリスのオールコックは健全な貿易取引促進のため日本の金銀比価
 の是正させるようハリスに進言した。
 幕府側は金銀比価の是正手段として金地金の保有高の事情から小さな
 小判を小さくする案を採らざるを得なかった。
 天保小判に対し、品位はそのままで量目を3割以下と大幅に低下させる
 吹替えを行った。質は変わらないが、含有金量は慶長小判の約8.1分の
 一となった。
 
 小栗は特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全
 国の商品流通を掌握しようとした。

・慶応 2年(1866) 40歳
  ※坂本龍馬の斡旋で、薩長同盟締結。
●海軍伝習所建築
●勝海舟に対仏借款の計画を依頼。       
 ●造船学校を設立
※第2次長州征伐・・・
  ★小栗は無駄な出費だと思った。
  ●陸軍伝習所開設。
  ●共同商社=国益会所・・絹取引計画は失敗。
 勝海舟より「日本を担保に600万$の借金をした。」
  と抗議があったが、していなかった。
         
8月     海軍奉行に就任。
       ● 貸し付き金制度
※徳川慶喜が15代将軍になる。

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・慶応2年(1866)11月19日 顧問団一行はマルセイユ を出航~~
・慶応2年(1866)12月8日(1867年1月12日)に横浜に到着した。
 駐日フランス公使レオン・ロッシュとフランス東インド艦隊司令官ピ
 エール=ギュスターヴ・ローズ(ロゼー)提督の歓迎を受けた。
********************************


・慶応2年(1866)12月9日 小栗上之介の要請でフランス軍事
 顧問団が到着の翌日から訓練が開始された。

 また、小栗上野介はフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を
 含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵
 器・装備品を発注した。購入金額は総計72万ドルにも上った。

・慶応 3年 (1867) 41歳
※徳川昭武・渋沢栄一がパリ万博へ
          
・慶応3年(1867) 株式会社「兵庫商社」の設立案を提出した。大阪の
 有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。
 ●兵庫商社設立案・・・★日本初の株式会社

◆村上泰賢先生「①パナマの鉄道での誰かの質問で資本は民間がお金を
 出し合って作った。②幕府財政の資本金だ無いこと。③日本商人が海
 外貿易で不利益を被っていることを受けたことによる。日本で最初は
 坂本龍馬の「亀山社中」ということなっているが、実際は「兵庫商社
 」が一番早かった。」…
  解決には大資本の商社が必要であるという認識によるものであった。
 100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも
 大きく抜きん出たものであった。

 8月9日 日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。
 小栗の発案・主導のもとに清水建設2代目:清水喜助らが建設した
 ものである。翌年8月10日に完成する。
★(場所はかちどき橋手前、右)

 ●築地ホテル建築・・・日本初の水洗トイレ・株式
信濃小布施の髙井鴻山にアドバイス

◆村上泰賢先生「これも株式会社であった。小栗の財政、経済及び軍事上
 の施策・手腕には見るべきものがあり、倒幕派も認めざるを得なかっ
 た。」           
 ●火薬製造所の設立
●江戸陸軍伝習所へ移転

・慶応3年(1867)10月14日(11月9日)、15代将軍:徳川慶喜が
 朝廷に大政奉還した。
 10月14日 ※大政奉還
       勘定奉行・海軍奉行・陸軍奉行に兼任。
※西郷隆盛は江戸の放火を命令
        相良総三など500人が放火・強盗をした。 
 12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
→鳥羽伏見の戦いの火種に発展
(さらに、薩摩の恨みを買った。)

・慶応 4年 (1868) 42歳
 1月3日 ※鳥羽伏見の戦い・・・旧幕府軍が敗退。
 1月12日  ※徳川慶喜が京都から海路で横浜入り。
 1月15日  異国との抗戦論&薩長根への主戦論を主張→罷免。
※小栗上野介&榎本武揚は主戦論
●小栗の秘策・・「薩長軍を箱根峠で待ち伏せ、
洋式軍隊で攻撃。後続部隊を駿河湾から
新鋭艦8隻で攻撃・・・。」
※勝海舟は薩長に恭順の考え→徳川慶喜も恭順の意    
●徳川慶喜の袖をつかんで説得した小栗だが→罷免。
※大村益次郎「実行されていたら、我らの首はなかった。」

※勝海舟と西郷隆盛が、江戸の洗足池の勝邸で密談
 西郷「幕府の金はどげんしたのか?」
     勝「わからない。小栗が隠したかもしれん。」
★★→勝海舟の安易な回答が、埋蔵金騒ぎに繋がった。
(写真は、東京都大田区洗足池の勝海舟の別宅)

●地図
    (西郷隆盛を祀った神社)

※江戸城の無血開城・・・


12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
→鳥羽伏見の戦いの火種に発展
★さらに、薩摩の恨みを買った。→倉渕で斬首へ発展。
 ※新田官軍(太田市の平安時代末期の新田一族)の動き
  ・大将・・・・・岩松俊純
  ・副大将・・・大館謙三郎
   新田官軍総帥達は相良総三と懇意で、幕府側:小栗の薩摩藩邸
   襲撃で、山形に敗走。
★新田官軍・相良総三の逃げ延び先は清河八郎の家かもしれない。
★勝海舟は相良総三の相棒:益満休之助と昵懇であった。

・慶応 4年 (1868) 42歳
 1月3日 ※鳥羽伏見の戦い・・・旧幕府軍が敗退。
 1月12日  ※徳川慶喜が京都から海路で横浜入り。
 1月14日  小栗上野介は 徳川慶喜に攘夷を訴えた。 
        異国との抗戦論&薩長根への主戦論を主張
      ※小栗上野介&榎本武揚は主戦論
 小栗の秘策・・「薩長軍を箱根峠で待ち伏せ、洋式軍隊で攻撃。
   後続部隊を駿河湾から新鋭艦8隻で攻撃・・・。」
  徳川慶喜の袖をつかんで説得した小栗だが
  ※勝海舟は薩長に恭順の考え→徳川慶喜も恭順の意

 1月15日 登城 →罷免。
※大村益次郎「実行されていたら、我らの首はなかった。」

※勝海舟と西郷隆盛が、江戸の洗足池の勝邸で密談
 西郷「幕府の金はどげんしたのか?」
     勝「わからない。小栗が隠したかもしれん。」
★発信先は勝海舟の曖昧な西郷隆盛への答え方とも言われて
 いる。
※「幕府の公金、数十万両を勘定奉行であった小栗上野介が
 持ち出した。」という噂が流れた。

★★→勝海舟の安易な回答が、埋蔵金騒ぎに繋がった。
※江戸城の無血開城

1月28日●小栗・・幕府に、土着願い提出

2月 ●上野彰義隊の渋沢喜作(渋沢栄一従姉妹の訪問
小栗は官軍との交戦依頼を断った。
「大義名文はたたない。もうし群雄割拠なら、・・・」

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箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」
http://53922401.at.webry.info/201409/article_14.html

箕輪初心★埼玉深谷【尾高惇忠】初代富岡製糸場長:富岡製糸場6-⑦
http://53922401.at.webry.info/201409/article_15.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2月22日 徳川慶喜は上野寛永寺に居を移し謹慎の意を
     表した。
    これを機に関東の諸藩は一気に官軍へなびいた。


知行所上野国権田村に移住
   ①初代:小栗??・・系図では、徳川家康の祖父の弟?。
   「安詳譜代」・・古くからの譜代で徳川の特権階級
領地・・2500石+200石=2700石 
      上総の稲葉村
下総の五反田村・堀内村・大川村・田辺村
下野の高橋村・大沼田村
上野の倉渕村375石・下斉田村・与六部村
◆東善寺・・5代:小栗政信が現在の地に建立

2月28日 
奉行を罷免された小栗上野介は、住み慣れた駿河台の屋敷
  を出て、上州の権田村(現群馬県高崎市倉渕町権田)へ向
  かった。
  小栗上野介は江戸幕府から帰農許可を得ており、野に下る
  ことを決意していたのである。
 小栗上野介は旗本という身分をあっさりと捨て、帰農を選
  んだ。 
 ★このときの彼の心境をどの理解したらよいのか難しい。
  ここに小栗の人間性を理解する鍵があるのであろうが
  私には理解は難しい。

江戸出発・・桶川泊・・・深谷泊・・高崎泊
(旧暦のままのため) 
  江戸から権田村に同道したのは、妻の道子、母の邦子、 
  養子の又一(またいち)、養女の鉞子(よきこ)の4人と、
  用人や従者、人足たちであった。
※総勢・・家族5人+家臣8人+権田足軽16人

3月 1日  権田村に土着。
      東善寺を仮住まいとして居住。

3月 2日  三ノ倉に暴徒が集結し、騒ぎを起こしているとの通報
    があった。
    隣村である暴徒の大将は長州の浪人・金井壮助といい、
   「世直し」を掲げて近隣の農民を巻き込み気勢をあげていた。
    集まった暴徒の数は2000人に達し、権田村に入った小栗
   を征伐すると息巻いていた。
 
  打ち壊し暴徒博徒:鬼定・鬼権が江戸から追従。
  箕輪・金古・引間・有馬・渋川・などを襲撃。
★「徳川の持参金・埋蔵金めあて」だったらしい。
つまり、煽ったのは薩摩藩であろうという説が有力である。

家臣:大井は「500両は預かった。」と鬼定に伝えた。
さて、暴徒を諌めるために小栗上野介は、権田村生まれの
 家臣・大井磯十郎を三ノ倉に行かせた。話し合いでことを
 納めようと50両を差し出したが、暴徒たちは納得せず、
 交渉は決裂した。

3月 4日  暴徒7000人来襲(★群馬郡誌のみ)
     暴徒2000人来襲(★ほとんどの資料)
  →小栗上野介は洋式の鉄砲・軍隊で約20人+村人で撃退。
 ※一説には、小栗は、フランス式訓練を受けた歩兵10数名
  と村の若者100人ばかりで東善寺の周辺を固めた。そして、
  小栗は養子の又一と部下の歩兵20余名を率いて、暴徒の
  本陣椿名神社に先制攻撃を仕掛けた。訓練を受けた歩兵の
  力は絶大で、数十名で暴徒2000余りをあっさりと蹴散らし、
  倒した20人の首を東善寺の石段に並べた。この戦況に仰天
  した三ノ倉など近隣村の名主らが、この夜に詫び状を持参
  し、捕虜となったものたちを引き取りに来た。用人たちに
  歩兵訓練を受けさせていたことで、小栗は難を乗り越える
  ことができた。
  しかし、暴徒による襲撃は、薩長軍が仕組んだ巧妙な罠で
  あることに小栗は気付かずにいた。
     
 塚越家から避難していた妻:道子達が帰って来た。  
 ※先導者:金井荘助・・・西郷隆盛の雇われ大将説あり。
 ※勝海舟・・・・熊谷まで出向いて、東山道総督:岩倉に面会
    「関東には官軍に従わない不心得な旗本がいる。」
   と、わざわざ告げ口に行った。その後、板垣は近藤勇の
  甲陽鎮撫隊を撃破した。→江戸に向かった。
 勝海舟の情報提供による可能性が高い。・・・
 ★勝海舟はわざわざ、板倉退助に
 「官軍の敵は、小栗上野介&近藤勇である。」
 と知らせたのでは?   
   
  小栗上野介あh暴徒の反乱を鎮圧した。~~~
  それから2か月余りを権田村で生活する。
  倉渕に永住を決めた小栗上野介は、観音山に住居の建設を始
  めた。また、山頂を開墾し、畑と水田を開く作業も開始した。
  母屋が完成すれば、家臣たちの住まいを建て、塾も開いて村
  の若者たちに学問を教えることも考えていた。

3月 5日 ●小栗「権田村から太政大臣を出すぞ。
    東善寺に勉強に来なさい。」と言ったとか?

3月 6日  ●観音山の邸宅予定地を下見。
   ※熊谷次郎直実の愛馬:権田栗毛を祀った観音堂の上
     (★マス重・・・これはおいしい)
     (邸宅の入り口は、マス重の看板の反対から)
     (邸宅は、群馬県前橋市総社町の都丸邸に移築…現存)
     (浅間隠山を望む)
 
3月 11日
●邸宅の測量開始・・・フランス式
小栗又一と荒川祐蔵が測量・設計か?
       
●小高用水着手。※小栗は完成を見ないで斬首。

●アラビア馬で散策。
●「サンキュー」と度々使っていた。
●服装も西洋式だった。靴も履いていた。
       ★以外と西洋かぶれだった。

4月22日  
 東山道総督が高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗の追補命令。  
 ※東山道総督:岩倉具定(具視の子17歳)
東山道福総督:岩倉具経(具視の子16歳)
参謀:板垣退助 & 伊知地正治・・・実質的な指令。 
「小栗上野介・・陣屋を厳重に相構え・・・。」
 先の小栗襲撃に加わった近隣の村の名主たちは、小栗が7000
の大軍を打ち破る兵力を以ち朝廷に対する反逆の意図をもって
いると、東山道軍(薩長軍)総督府に対して訴えた。
これを受けて総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗誅戮
(ちゅうりく)の厳命を下した。東山道軍総督は岩倉具定
(岩倉具視の子)で、参謀には板垣大助(土佐)、伊地知正治
(薩摩)がいた。

4月29日  東山道総督の命  神山宿で大井・沓掛が面会。
      →三藩は追補兵を三ノ倉に宿陣(全透院)。
高崎、安中、吉井の3藩の兵800余りが三ノ倉に集結した。
 話せば分かると踏んでいた小栗上野介は、2人の家臣を
 三ノ倉に派遣し、交戦する意志のないことを伝えた。
 しかし功を奏さなかった。

閏4月 1日  高崎藩の宮部八三郎らが兵を率いて東善寺を包囲
    した。
    小栗上野介は
  「観音山は自分が所持し、雨露を凌ぐ家作をなしただけで要害
   などなく、異心はないので、十分に見聞し、その旨を総督府
   に伝えてほしい。」
   と説明した。
    さらに大砲や小銃も使者に手渡し抵抗する意志のないこと
    を示した。
    観音山を視察した宮部らは謀反の企てはないと判断したが、
    養子の又一に高崎まで出頭すること求めた。

   又一が高崎に向かったあと、三ノ倉に再び三藩の兵が終結
   しているという不穏な情報が小栗の耳には入る。

    小栗は権田村の名主たちと相談した結果、会津への脱出を
   決意した。
    信頼のおける村年寄の中島三佐衛門の案内で小栗一家は諏訪
   山麓を抜け、湯治場の亀沢に入った。
   ここへ権田村の名主:佐藤藤七が駆け込んできた。
     藤七によれば、
   「東山道軍の先鋒:原保太郎に捕縛された藤七は小栗の脱出
    を吐かされ、小栗が戻らなければ村を焼き払う。」
    と脅され、小栗を連れ戻すために追ってきた。」
    というのである。
   小栗上野介は、人質になっている養子又一らのこともあり、
    家族を三佐衛門に託し、わずかな望みを頼りに村に引き返
    すことを決断した。


閏4月 2日  養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を
       随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向いた。

閏4月 3日 妻の脱出計画。・・・後。会津へ。

閏4月 4日 ※東山道鎮撫総督府軍監副巡察使:原保太郎・豊永貫一郎
「小栗上野介は大罪人であるから、追補せよ。」と激怒。
「従わない場合は、3藩に保証はない。」と脅迫。
 巡察使:大音龍太郎の意向もあった。(★村上先生)
 ★大音龍太郎・・・近江伊香郡木之本村大音(小谷城近く)
 の出身で、勤王浪人・・・箕輪村龍門寺(井伊直政建立の
 鬼門の寺)に2年程滞在・・龍門寺19世に大音は世話に
 なった。上野通なのだ。・・・ 巡察使・・初代:岩鼻県知事)
 
閏4月 5日 早朝、東善寺に戻った小栗を原保太郎21歳ら
  東山道軍の兵1000人余りで進入。
     3藩の兵が東善寺裏山より侵入。
     小栗と二人の家臣を捕縛した。
     3藩は観音山等を検分。
     逆謀私心無き事を知り、銃5挺などを押収。  
    小栗上野介らを捕縛
       →三ノ倉の陣屋(戸塚宅)に連行。

閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
小栗上野介を斬首。
・・安中藩徒目付:浅田五郎作が原に命じられ、斬首。


閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。
   ※勝海舟の陰謀説もあるが、不明である。
   ★でも、勝海舟は小栗が嫌いで、陰険な男で
     性格であった可能性も大いにある。
    つまり、幕府の中に、小栗の敵がいたことになる。


4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」
   ★捏造だった。

●小栗道子・母:くに子・養女:よさ子・塚本家族の動向
  権田村・・・二度上峠経夕コース&大戸コース ・須賀尾に別れて・・
  六合村・・・
「やまに」の家…★私も行った。
  「小栗清水」…★私も行った。
 (現野反湖)・・・1200年前の新田系里見一族のコース・・・・
「和山郷」…★親戚のマーちゃんちの隣だった。
  「秋山郷・妻有「…★小栗道子の泊まった家に行った。
  ・・・十日町・・・小千谷・・・新潟・・
  中条・・・会津へ
南郷で子どもを産んだ。

 翌年、会津から        
   ①宇都宮経由か? 村上泰賢先生の最初の説
②大内宿経由か? 村上泰賢先生の今年の説

 江戸に行った。
 元小栗家中間の三野村の家で厄介になった。
  ★三野村家は浅草にある。岩崎彌太郎の屋敷から300m。
   看板のみである。

★参考文献・資料**********************
①『小栗上野介』市川光一・村上泰賢・小板橋良平共著 
   みやま文庫(県立図書館内)
②「遣米使節三船」東善寺住職村上泰賢著 \300円 
③週刊:日本の100人番外編「小栗忠順」  \560円
④「上州風」 29号 上毛新聞社
  特集「もっと小栗上野介を知りたい」 \840円 
⑤月刊「上州路」2003(平成15)年10月号
 特集「時空を超えて甦るー『小栗上野介と高井鴻山の夢』」
 小栗上野介と高井鴻山の「船会社」 村上泰賢
 波乱の幕末~新しい日本に夢をかける高井鴻山 山嵜 實
 ※小布施の豪農:商高井鴻山は
  小栗上野介の日本最初の株式会社の「船会社」に大出資者。
 小布施の北斎館・・・北斎はたくさんの絵を残した。
⑥上州路344 復刻版  700円(税込み)  あさを社
  「上州倉渕村に眠る偉人
   ・小栗上野介忠順と小栗騒動   小板橋良平
   ・佐藤勘兵衛のアメリカ土産から 塚越真一
   ・埋もれ木をほる        市川八十夫
   ・小栗上野介略年表
⑦上州路346  700円(税込み) あさを社
  特集「小栗上野介史跡めぐり」

⑧『郷土に光をかがげた人々 Ⅱ巻』 群馬県教育委員会
 「開国の先覚者」外国奉行 小栗上野介」
●小栗上野介企画展・・明治大学博物館 2008年4月 
  小栗上野介の業績を再評価。
●小栗まつり・・・2008年5月
⑨市川光一先生の講演会の資料(箕郷公民館) 2009年?月
 市川光一先生の講演会の資料(かみつけの里)2010年6月26日
⑩「小栗上野介と幕末維新の高崎」高崎市歴史民俗資料館
2010年10月1日~11月24日
●倉渕の小栗散策             2010年5月
●「ヴェルニーと横須賀」&ヴェルニー博物館 2010年7月訪問
⑪小栗上野介展・・・高崎シティギャラリー 
2010年12月4日~12月14日
⑫「小栗上野介」村上泰賢著 2011年1月
⑬島田先生:小栗ボランティアの資料2011年5月24日




★幕末の偉人伝************************

●箕輪初心:生方「小栗全集」~~~~~~~~~~~

◆◆箕輪初心★小栗上野介①「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介②「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介③「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介④「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑤「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑥「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑦「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗⑧「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗⑨「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑩「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑪「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑫「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑬「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介⑭童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html

箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_20.html

箕輪初心:生方▲小栗上野16:岩下哲典先生の講演会
『幕末情報社会と小栗上野介』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_1.html

箕輪初心:生方★小栗上野介17『小栗祭り20160522』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_2.html

◆ 箕輪初心★『小栗上野介とボーハタン号』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆ 箕輪初心★『ボーハタン号&咸臨丸』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆ 箕輪初心★『小栗上野介の功績&提唱』 ◆◆
★大隈重信・大久保利通・東郷平八郎などは
「日本の近代化の父」と思っているようだ。
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★小栗上野介の妻:道子=会津への逃避行 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

箕輪初心■群馬倉渕の文化財&小栗上野介&温泉・酒
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201302/article_18.html





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