箕輪初心:生方■城№954伊勢崎『赤堀城』土塁の残る中規模の古城

平成30年(2018)10月27日、高崎で「高崎学検定」を受けた。
竹内さんとランチでイオン高崎の「源ちゃん」で『日替わり海鮮
丼と唐揚げ』を食べた。笠懸への下道で行く途中、伊勢崎の
『赤堀城』によることにした。『カナディアン・ブラス』at笠懸野文
化ホールでの演奏会まで、1時間の余裕があった。赤堀城は
藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城である
私にとっては
№954番目の登城となる。
画像

(写真左は高さ4~5mの土塁)
≪アクセス≫
先ず、ナビで探した。スマホは役に立たなかった。
前橋から50号線・・・赤堀今井町の信号を左折、赤堀今井2丁目
の信号を左折、・・・粕川の辺りだと検討をつけていった。・・・
途中、左折したのが間違いだった。実珠寺に出てしまって橋がない。
川向こうだった。大通りに出て、粕川を渡った。「赤堀城入り口」の
看板があった。しかし、私のランクルでは入れない。県道から直接
主郭につながる道は細すぎて普通車はまず入れない。東側から回り
込むことにした。それでも、私の車はやっとだった。

伊勢崎市赤堀今井町、R50の「西久保」信号を北西のR76へ入り、
500m程西進した粕川の手前右手にある。
 (実際は帰りのコースであった。)

車で入る左手(主郭の東)に大きな土塁が見えた。
車を住宅の入り口近くに停車した。

【1】訪問
1)大堀切(空堀)
画像
 

2)主郭入り口…虎口出入り口は食い違い虎口だった。
宝塔の後ろは壊されちゃってるな。
画像

3)主郭案内板
画像

「赤堀城は別名今井城。粕川とその支流の鏑木川との自然地形を利用
 した箇所に築かれ、東西170m、南北350mの範囲を占める。一辺
 約80mの本丸を中心とした部分には、土居、堀、虎口があり、他
 にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、赤城山南
 麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。
  藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城で、赤堀下野守親綱の時に由
 良氏の幕下となり、その子影秀までは赤堀城に在城した。その後、後
 北条氏幕下の小菅氏が在城したが、天正18年(1590)、後北条氏滅亡
 と共に廃城となった。
 伊勢崎市赤堀今井町二丁目1405
 <現地説明板>


4)縄張り図の確認
画像

①粕川と鏑木川
赤堀城は、2つの川に挟まれた場所に築かれている。鏑木川が近いのか
②南北350m×東西170m・・・★でっかいじゃん。
③中央…ここは一辺80mの主郭・・・本丸
④南北に出入り口・・・ここと、あの細い道の部分。
⑤土居…本丸東・北には高さ約4m程の土塁が残っている。
⑥堀…さっきの10m幅か?弓の範囲だな?
⑦虎口…出入り口は食い違い構造・・・「ここの事か。」
  確かに敵が侵入しにくいように工夫されている。
⑧二の丸…二の丸が本丸の三方(北・東・南を取り囲み、西は粕川
 本丸(主郭の北と南にも小郭を配した縄張りとなっている。
⑨「城域の外側・・・一小郭があったと考えられ」
⑩「赤城山南麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。
⑪南側の県道を跨いだ南側にも堀跡があったようだ。
 ★さっき車を駐めようとした場所だ。あのへこんだ部分が空堀
  だったのかあ。耕地化でかなり埋められていた。
  団地の部分も4の曲輪になるのかなあ?
    

5)主郭=本丸
本丸内は畑・・・・東西100m×南北100m?
画像


本丸の北側と東側に土塁と堀跡が良く残っている。
画像

 (北側)
本丸の先は宅地となっている。

▽戻って、北東の喰い違い虎口
画像

・堀…残りがいい。
画像

画像


6)二の郭

画像

画像

 ★これも大きい。80m×100m程か?

 宅地の先は堀跡があったようだが、完全に壊滅していた。
画像

画像


★明瞭な遺構の残る城であった。



【2】赤堀城の歴史
・平安末期 ▲将門の乱
  鎮守府将軍:藤原秀郷は将門の乱の鎮圧で大功を挙げたの。
  赤堀氏は、秀郷流藤原姓足利教綱を祖とする善(膳)氏の一族
  である。

・観応2年(1351)、▲観応の擾乱笠懸野の戦い
 赤堀直秀は足利尊氏方となって、山上氏・大胡氏
 らとともに笠懸野で、足利直義方の軍勢と戦ったが、敗北した。
  しかし宇都宮氏の軍勢が到着すると次第に形勢は逆転した。
  結局、足利直義(ただよし)は敗れて没落していく。

・観応・正平年間に赤堀直秀によって赤堀城が築かれた。


・永享12年(1440)結城合戦
 4月16日 
1)分捕頸数(『結城戦場記』)
上杉清方(関東管領:含大石・長尾・上野武士)29
 上州一揆24
 小田讃岐守(常陸)5
 土岐刑部少輔(美濃守護)13
 小山小四郎(下野)5
 上杉治部少輔(京都)5
 長尾因幡守(越後守護代)30
 野田讃岐守(上総)3
 千秋民部少輔(越前奉公衆)7
 武田刑部大輔(甲斐守護)5
 中条判官(武蔵)
 羽川越中守(越後十日町…新田末裔)6
 
2)上州一揆(15氏26名のメンバー)の分捕頸数(『結城戦場記』)
 高山
 赤堀
 高田
 和田八郎
 桃井
 和田左京亮
 大類
 倉賀野
 寺尾
 長野周防守
 長野左馬助
 諏訪
 一宮駿河守
 一宮修理亮
 倉賀野五郎
 発知
 那波
 沼田
 小林
 綿貫越前守
 綿貫多利尻丸・同名亀房丸
 外に上野国以外も含まれる。

★久保田順一先生提示…はじめて見た史料です。
  
・享徳4年(1455) 享徳の大乱
赤堀時綱は足利成氏に与して関東管領上杉方の膳信濃入道の在所
を攻め、膳氏の籠もる膳城を攻め落としている。
 しかし翌年、上杉方の反撃も厳しくなってきた。
 ▲深津の戦
   赤堀時綱は、弟の弥三郎とともに討ち死にした。
 その後、赤堀氏は赤堀で領主として存在しつつけ、関東各地での騒乱
 に参加した。
 ・・・など、関東公方方として転戦した。

 戦国時代
・天文15年(1546)、川越の合戦
  関東管領:上杉憲政 VS 北条氏康
  赤堀上野守が討ち死にした。
  上杉憲政赤堀上野守の娘に対して安堵状を発給している。
 「所領は娘に相続を認めるので安心してもよい。」


 赤堀親綱の時に由良氏の幕下となり、その子:景秀まで赤堀城
 に在城した。赤堀下野守親綱は由良氏の配下となり上杉謙信に従った。 

・天正6年(1578)、上杉謙信は急死した。
  それ以降は後北条氏に従うこととなる。
  子供の景秀が赤堀城に在城していた。
  北条氏の命によって、沼田城攻撃に参加していった。
  さらに赤堀氏は五覧田城(みどりの市)、阿曾城(昭和村)など
  に在城した。
  その間、赤堀城には北条氏の代官として小菅摂津守が
  赤堀城へ派遣され、在城していた。

・天正18年(1590) 北条氏滅亡と共に赤堀城も廃城となった。


★明日は?

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック