箕輪初心:生方▲伊香保№32榛名神社の歴史「座主→武将の俗別当への移行」

榛名神社の歴史で一番興味あるのは、古文書である。特に、榛名神
社座主のトップ権力:座主の権力から戦国武将の制札=俗別当職に成
る過程である。戦国大名にとって、制札をだすことは、榛名山周辺地
域を自分が支配したことを明かす材料になった。
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箕輪初心:生方▲箕輪城№233かみつけの里【榛名神社文書】の解説
&久保田順一先生説
https://53922401.at.webry.info/201612/article_6.html


・平安時代 
  榛名神社は、「延喜式神名帳」において、上野国十二社の群馬郡
 小社として位置づけられた。、
 「上野国神名帳」に「正一位榛名大明神」とみえる。
  古代から上野を代表する神として位置付けられていた。
  その後、同社は神仏習合によって榛名寺とも称された。

 ※鎌倉期以前とみられる御正体(みしょうたい)には十一面観音が
  描かれているが、 榛名神社は密教系の神号である満行権現とも
  称される。
 
・建久元年(1190)11月5日【留守所下文】
 留守所下
 可令早任旧例、任宿願、榛名寺領内停止
 健兄井検非両便事
 右、十一月五日御庁宣、同年十二月七日到束僻、榛名
 御山云垂跡云本地、穿以鎮護国家恒化修良之霊地云々
 者、且任旧例、且任宿願、可令停止健児井検非両便、
 於榛名寺領内之由、御庁宣明鏡也、彷府内国中
 諸人、宜承知、勿遠矢、以下、
   建久元年十二月  日
           惣検校石上 (花押)
          散位石上 (花押)
          日代左衛門尉藤原(花押)
 【解説】
   国衝から榛名神社へ、健児(こんでい)・検非違使(けびいし)
   (ともに軍事警察権力)の不介入を認めたもので、
   文書に名前の残る藤原氏は、都から派遣された役人、
   石上氏は現地の豪族で国衛の役人である。 
   寺領への健児・検非両便の入部が停止された。
  (「榛名神社文書・久保田順一先生訳「榛名山に祈る」)

   
※近藤義雄先生説「2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用
          の長物になった。
 ※久保田先生の新説
 ①八幡庄・・・・新田一族の私領=荘園
    (新田義重→新田義兼・里見義俊・山名義範・豊岡??)
 長野郷・・・・・摂関家:藤原氏の荘園で上野国最大(★上記に記載)
 高崎の浜川・烏川の左岸~倉渕~榛名神社~榛名山南部~箕郷町~
  ※「惣検校石上」・「散位石上」・・石上=長野氏はが現地で年貢を
     徴収する役人だった。     
 国衙・・・・・・天皇家の所領。
   
 ※山本隆志先生「文字が中世前期ではなく、戦国時代のものなので、
 木部氏が榛名神社別当の職にあったとき、長野氏を石上氏に結びつ
 けるための文書ではないか。」

・鎌倉時代 上野国の有力な宗教勢力としての地位を保っていた。

・承元四年(1210)「榛名山邨誌」と「頼印大僧正行状絵詞」によれ
 ば、快良が初代座主になった。
 以来、関白道長の子孫が代々受け継いだと記されている。

・南北朝時代
  「神道集」に「六ノ宮ハ春名満行権現卜申ス、本地ハ地蔵菩薩也」
  とあり、南北朝期以降、地蔵菩薩が本地となっていた。

・観応年間(1350~1352)観応の擾乱・・・南北朝時代の室町幕府
 の内訌。足利政権だけでなく、南朝と北朝、それを支持する武家や、
 公家と武家どうしの争いになった。
 足利尊氏 VS 弟:足利直義+新田義興

・観応年間(1350~1352) 新田義興側の榛名山座主:快尊&忠尊が更迭
  →鶴ヶ岡八幡宮の「頼院」が榛名山座主になった。
 (★今川範国施行状:鎌倉市立図書館所蔵文書)
 ★頼院の墓は倉渕。

・戦国時代
・応永24~28年(1417~1417)頃 足利持氏は木部道金の別当職を
 認めた。
「木部弾正左衛門人道々金申、
上野国榛名寺俗別当職升当寺領、
同国石神・石津・三倉田白・在家・山野林、
同国毛呂田中山田畠・在家・山林、
同国渕名庄内花香塚田畠・在家等事、
当知行無相違候、被成安堵候之様、
早速可有申沙汰候也、恐々謹言、
          三月廿八日   持氏(花押)

     左京大夫入道殿

★鎌倉公方足利持氏が榛名寺俗別当職とその管理下にある寺領の
 安堵を木部道金の申請に基づいて室町幕府管領である左京大夫
 (細川満元)に依頼(申沙汰)した。
足利持氏の花押型から応永24~28年(1417~1417) 頃と推測される。
 (久保田順一先生)
 
 俗別当職は榛名神社と俗世間との媒介を担当する役である。
  (★山本隆志先生)
 木部氏は俗別当職として神社の経営・寺領の管理に携わっていたが、
  この時、安堵を求めたのは地位が脅かされていたからであろう。
  (久保田順一先生)

「榛名山巌殿寺役中諸用記」
「木部左衛門人道道金与申仁、俗別当二相成、神領を押領仕、
 武威を以如何様に取斗候哉、彼是自然与宗風混乱仕候様子に候得共、
 …(後略)
★読み下し文…木部左衛門人道道金と申す仁、
        俗別当に相成り、神領を押領仕つる
…(後略)
  
 つまり、木部氏が榛名神社神領を押領したと記されている。
 榛名神社から木部氏を排除する動きが起こったのであろう。
 (★久保田順一先生)
つまり、榛名神社のトップである座主の権力が落ち、別当職
 が実質的な地位を持った。

・文明17年(1485)秋~堯恵は美濃国郡上の東頼数の家に滞在
していた。文明18年(1486)5月末、美濃の郡上を出て、飛
騨~越中~越後を旅した。8月末越後柏崎を発ち、三国峠~
上野国:沼田~白井~10月草津~伊香保温泉に浴した。
10月2□日、上野国国府の長野陣所に行った。・・関東管
領:藤原(上杉)顕定に会った。その後、善光寺に詣でたり、
諸所の歌会に臨んだりした。12月半ばに武蔵国に入り、
翌年文明19年(1487)の2月に相模~鎌倉~三崎等に遊び、
6月に武蔵に行った。9月、再び上野国府の長野陣所小野景頼
を訪ねた。11月には越後に帰った。

・文明19年9月、尭恵は「長野陣所小野景頼が許」で連歌を興行した。
 (★「北国紀行」)
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
https://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html

木部氏は小野を本姓とする一族である。
 (森田真一先生・山本隆志先生)

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№25『小野妹子→小野和泉守政直(道高)』
https://53922401.at.webry.info/201701/article_36.html


①森田真一先生「木部氏は上杉顕定の被官で、上杉氏の命によって
 別当職として榛名寺に進出したことが想定される。」
(森田真一先生「上杉顕定」・長年寺での講演会)。

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

★上杉顕定の晩年は板鼻が中心であった。

②山本隆志先生「建久元年(1190)11月5日【留守所下文】の文字が
 中世前期ではなく、戦国時代のものなので、木部氏が榛名神社別当
 の職にあったとき、長野氏を石上氏に結びつけるための文書ではな
 いか。・・・
 戸榛名神社(★地元民は「とばんなじんじゃ」と呼んでいる」は、
 長野憲業の里宮であり、小野(木部)景頼の命で、別当扱いに
 なっている。と考えられる。」と説明された気がするが、・・・
 
私見…別当職は座主(僧侶・公家)の下にあった俗別当(僧・公家
 以外の者、この場合、木部という武士)が対外的な交渉に当たっていて、
 権力を持ち、座主に変わって、支配権を握ったと考えられる。
座主職はいたかもしれないが、実質的には座主が置かれず、衰微の一途
 をたどっていたのであろう。武士にとって変わられた。

 
長野氏の榛名神社への進出についてはどう考えられるべきであろうか?
木部氏の没落によって、木部氏に代わって長野氏が上杉氏(顕定か憲房)
から別当職(俗別当)を任されたと考えられる。

  
・永正10年(1513)
 大戸要害令落居
 憲業属本意候者
 百疋之下地お
榛名満行権現江
末代可奉寄進候、
 永正十年四月吉日
長野伊予守憲業(花押影)
奉懸 巌殿寺

長野憲業は大戸要害(東吾妻町)の攻略を企図し、そのための祈祷を
 榛名神社・巌殿寺に求め、百疋の地を寄進した。
 

・永正11年(1514) 榛名神社の制札(上杉憲房)
制札
   一 当山におひておきての事、
   一 喧嘩之事、
   一 押かい狼せきの事、
   一 はくち・はくゑきの事、
   一 国しち・かうしちの事、
  右、このむねをそむき候ハんともからにおひては、かたくせいはい
  をとくへき者也、
  永正十一年甲成四月一日  (花押)

★押紙に「上杉憲房制札」とあるが、花押型は上杉憲房のものとは
   異なり、同人に比定することはできない。
  (★久保田順一先生)
★上杉憲房は長野業政と関わりが強かった。
  上杉憲政の子ども時代には、鷹留長野氏は安中氏・小幡氏と
  上杉憲房と長野業政と対立したようである。
 (★黒田基樹氏「関東享禄の乱」)

・天文22年 榛名神社制札
 制札
  一 喧嘩之事
  一 相伝之事
  一 押買狼籍之事
  右、於榛名山祭礼之町、此条有違犯之聾者、可処罪科之条、如件、
   天文廿二年四月 日     (花押)
※近藤義雄先生説
     ①けんか禁止 
     ②逃亡した下人をとらえる行為の禁止
     ③押し売り行為の禁止

※久保田順一先生説
     ①けんか禁止 
     ②家臣の人身売買為の禁止 
     ①押し買いディスカウント(自分の売り込み)の禁止    
※久保田順一先生は「はじめは長野業政としていたが、不詳としている。」
 (★「箕輪城と長野業政」久保田順一著)
※通説…長野業政
※飯森康広先生説…長野方業。長野方業=長野業政

・永禄年間、武田信玄は信濃松原神社、新海三社神社、榛名神社などで
 戦勝祈願をした。

・永禄5年(1562)頃、武田信玄の侵攻によって室田長野氏は没落した。

・????年 年未詳の浦野中務少輔宛の武田信玄書状に
 「今日室田放火、為始長野三河入道、随分之者八十余人討捕候
   五月八日 」
  (「大竹源三郎氏所蔵文書」)。
  長野三河入道は長野業通であろう。
(★久保田順一先生)
 ※峰岸純夫先生。黒田基樹先生は永禄9年説を採っている。

・????年 年未詳9月10日
  武田信玄は榛名山に軍勢甲乙人の濫妨狼籍を禁ずる制札をだした。
 (「榛名神社文書」)

・文亀3年(1572) 正月23日、武田信玄は箕輪城将の内藤昌秀を
 奉者として戸榛名神社に「神木の刈り取りを禁じる制札」を出
 した。(栗原修「戸榛名神社文書」)。

・天正8年(1580) 文書に「榛名山御師光吉」の名があり、「御師」が
 確立されていた。(「榛名神社文書」)

・????年 年不詳 真田昌幸の制札
 「禁制 榛名山
   於干彼小屋、
   濫妨狼籍之事、
   若此旨於違背之聾者、
   可処厳科者也、

   三月廿三日  真田安房守昌幸(花押) 」

  ★文書は年号がない。
  ※通説…天正4年説
    真田昌幸が安房守と自署するのは天正8年以降である。
  ※久保田順一先生…天正9年説
  ※私見…天正10年に滝川一益に人質の城として箕輪城を任された
    時ではないかと考えている。
  ※栗原修先生…花押型から天正10年以降説


・天正11年(1583) 北条氏邦安堵状
一 其山諸法度之儀、
   万端共如先法可有之事、
 一 榛名山建立之義、
   氏邦為檀那之上着、
   何分仁茂随身之可馳走事、
 一 箕輪城中堅固、
   諸願成就之祈念頼入上、
   本意付面者、
   一所可寄附事、
      以上
  右、三ケ条有違背間敷候、
   若横合非分之儀有之者、
   早速可承者也、乃如件、
          未二月十三日   氏邦(花押)
     榛名山別当坊

・天正12年(1584)保渡田城主:内藤昌月は(里宮)戸
    榛名神社(★榛名町神戸)に外護に当たった。」
 ★箕輪初心:生方「内藤昌月は保科正俊の2男である。」


・天正18年(2018)8月井伊直政は箕輪城に12万石で入城した。
 8年間在城した。
・慶長3年(1598)10月頃、高崎城に入城した。
・慶長6年(1601)1月か2月、佐和山城に移った。
 箕輪・高崎城時代、井伊直政の支配地は信濃県境~松井田~安中~
 板鼻~榛名~(赤坂=高崎)~箕輪~(旧群馬町)~現榛東村~
 現吉岡町一部~榛名湖、伊香保温泉~渋川金島も支配地であった。
 井伊直政は中仙道と三国街道の整備をし、宿場町を造らせた。
 旧碓氷の関所(今の場所ではない)と金島の関所を設けた。
 ※榛名神社は井伊直政の支配下になっていた。
 ちなみに榛名民俗資料館には「井伊直政の鐙」が展示されている。


箕輪初心:生方▲井伊直政№158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
https://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html

【1】久保康顕先生初出史料『西郷正次・椋原政直と榛名神社』
★山本隆志先生は昭和56年?の時に、書き下し文がされていますが、
間違いが多く、正確な訳は久保康顕先生の初出と言ってもよいでしょう。」
とおっしゃられた。初出の西郷・椋原の文書である。
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はじめに
①近世・近現代の榛名山信仰 農耕神 風雨順調 雨乞い→「榛名講」
②近世榛名山信仰→明治初期  御初穂所書上
11月23日  新嘗祭:秋の初穂を供えて、豊作御礼の祭典を行う。
慶応2年「吉井在御初穂并ニ入用帳」(一宮修家文書)

1)鐘を撞かせられる者
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史料A【戦場から逃亡した疑いのある者】
  (差出者:西郷藤左衛門正次(正友:正員)→榛名神社別当)
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「彼者陣より懸落
 申候間、則可成敗
 者ニ候へ共、春名之
 かねをつかせ扶可
 申上間、無心之申事ニ
 候へ共、於御神前ニ
 急度被仰付候て
 可給候、誠御無心之
 申事ニ候へ共、人を
 御たすけ候と思召、
 可被仰付候て可
 給候、恐々謹言
七月六日  西藤左(花押)
 ・・・・・・・・・・・・・・・(継(
        箕輪より
 春名別当人
 
  尚々、□□不申通候、
  御宜敷奉存候、於
  其元能々可被仰
  付候て可給候、様子者
  関方。宮沢両人
  可申候、已上

2)鐘を撞かせられる者

史料B【殺人の疑いのある者】
(差出者:西藤左=西郷藤左衛門正次(正友:正員)
椋原次右=椋原平次右衞門政直(正直)
      →□□別当坊)
「急度申入候、仍
 彼者浜川之郷ニ
 おゐて外記えお申 
 者をころし候由
 申懸候へ共、しやうこ(★証拠)
 無之二付而、かねを
 御つかせ候間、三日之
 内ニいかにも念
 を入、御つかせ
 可有候、委細者
 彼両人可被申
 候条、不能具候(つぶさにあたわずそうろう)
 恐々謹言
        椋原次右
卯月廿六日  西藤新次(花押)
 ・・・・・・・・・・・・・・・(継)
        箕輪
 □□
  別当人坊
  参

  
    返々、かたく
   御意ニ候間、、念を
    入れ御つかせ可有候、
    無念ニ被仕候ハ者、別当坊
    曲事たるべく候、已上



・慶長19年(1614)、「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、
 上野山寛永寺の支配下におかれた。 上野の寛永寺末寺:旧榛名町中里
 見の光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命された。その下に衆徒
 五ヶ院、吟味役、年寄という職が置かれた。この3役人が御師の代表
 であった。その下に脇年寄、行事、山見役、神楽頭取などの役もあっ
 た。その後、榛名神社信仰は「榛名講」として広がった。『榛名講』
 では、榛名神社に代参し、村の豊作を願って代表者が榛名神社に木札
 をもらいにいく仕組みがあった。
「名所案内」の観光パンフレットも作られ、倉賀野浅間山は富士山を
望む休憩場所であった。倉賀野宿や高崎宿に泊まる者もいたであろう。
下豊岡には「道しるべ」が設置された。正面には「榛名山・草津温泉
 かわなか・かわらゆ・はとのゆ温泉」、右側面に「従是 神山三里
・三ノ倉五り半・大戸九り半」、左側面に「左中山道 安中・松井田
・横川」とあり、多くの旅人たちが榛名神社・榛名山・草津温泉など
の榛名神社への『榛名講』・浅間温泉郷・川原湯温泉・草津温泉地へ
の案内板としての役割が大きかった。
御師の活動により上野国を中心とする関東各地に榛名講が結ばれ、
参詣客も増えていった。村々からは2~3人が代表として選ばれ、集
めたお金で榛名神社を参詣した。雹よけ・嵐よけ・雨乞いの神として
崇拝されたからである。信濃・甲斐からも「榛名講」は組まれた。
 榛名神社への「代参講」の拡大により、「御師(おし)」と呼ばれ
る神職の者が道案内をしたり、宿坊の斡旋をしたりした。門前には
御師の営む宿坊が建ち並んで門前町が形成された。榛名神社の門前町
「社家町」には代参者に食事や宿泊を提供するための「宿坊」が参道
に建ち並ぶようになった。榛名神
社の御師は参詣者を社家町の「坊」に泊まらせ、榛名講を案内し、崇
敬者のために祈祷やお札を授けた。 天保期には榛名講の最盛期を迎
え、社家町の御師の「坊」は94にもなった。 榛名湖や伊香保にも
案内した。絵入りのパンフレットなども制作された。
 「御師(おし)」は榛名神社の参拝の案内し、祈祷など様々な便宜を
図ったりした。さらに、「御師」(おし)は神社の裏の関所を越えさ
せ、榛名湖にでる。此処も雨乞いの場所であった。「御師(おし)」は
代参者たちを伊香保案内した。伊香保
に宿を取って、自分たちの村にの人たちにお土産を買って帰る。
従って、伊香保は更に賑わった。榛名神社代参講・伊香保温泉の
遊山を済ませ、村に戻ると、榛名神社の木札とお土産を各家に配った。

※用語解説
御師…「御祈祷師」・「御祈り師」を略したものである。
特定の社寺に属し、信者のために祈祷を行い、参詣のために宿泊・案内
 などの世話をする下級の神職である。(出典 小学館)
 平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社
 の参詣の世話をする神職も指すようになった。

・慶応4年(1868)神仏分離令が出された。
  光明寺立ち会いのもとに什物等の受け渡しが行われ、榛名神社とし
 て復活することになった。 

・明治3年(1870)、新居守村が岩鼻県から神仏分離取締に任命された。
 新居守村が赴任して、仏教的なものをすべて破壊するよう指導し、実行
 させた。榛名神社から仏教色は殆ど一掃された。




★明日の伊香保・榛名関係は新居守村かな?

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