箕輪初心●2018高崎№50旧倉渕『栗崎城=三ノ倉城』と『倉渕の戦国時代』

★高崎市:旧倉渕村には「山崎一先生」の『群馬古城累祉の研究』では、
5つの城や砦がある。「宮坂先生」の『境目の城:群馬編』では8城が
掲載されている。三の倉城の1回目の訪問は、平成20年(2008)6月8
日であったが、2回目は平成25年(2013)2月11日?であった。3回
目は平成30年(2013)12月8日の講演会後に、地元:佐藤さんの案内
で約50名が参加した。
画像

画像

・北西側の搦め手口からの攻防である。
・孝ちゃん・星野さん・矢嶋君が一緒だった。
画像

・中島さんと話ながら、
①武者走り
画像

画像



②土塁
・北部分
画像

・南部分
画像


③中の主郭部分
  10m×25m
画像


③南東の虎口
画像


④北の空堀
画像


画像


戻って、
⑤全透院
画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像



◆倉渕の城砦************************
箕輪初心●群馬倉渕『栗崎城=三ノ倉城』
https://53922401.at.webry.info/201302/article_16.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「倉渕の城砦=5城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201103/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「権田城」 ◆◆
1回目 http://53922401.at.webry.info/201103/article_10.html
2回目 http://53922401.at.webry.info/201302/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「大明神砦」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_15.html

箕輪初心:生方▲伊香保№32榛名神社の歴史「座主→武将の俗別当への移行」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_6.html

榛名の城砦**************************
箕輪初心●箕輪城シリーズ45「砦」②旧榛名町
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201011/article_12.html

箕輪初心●群馬「高崎の旧榛名町の全城=29城
https://53922401.at.webry.info/201103/article_7.html


箕輪初心●群馬『榛名山城考察』&榛名神社の氷柱4m
https://53922401.at.webry.info/201302/article_13.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ46榛名②:鷹留城①
https://53922401.at.webry.info/201011/article_14.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ47鷹留城②歴史&長年寺・榛名神社
https://53922401.at.webry.info/201011/article_15.html

箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説
https://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html

箕輪初心●群馬「松山城」=鷹留城支城→北条氏の真田攻撃の拠点 
https://53922401.at.webry.info/201103/article_6.html

箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の親戚衆への攻撃・調略
https://53922401.at.webry.info/201606/article_19.html

箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
https://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

◆◆ 富岡武蔵:栗崎城 ◆◆
1)栗崎城主郭 http://tomioka.at.webry.info/201103/article_31.html
2)栗崎城東郭 http://tomioka.at.webry.info/201103/article_33.html
★一緒にまわった「富岡武蔵さん」自性寺焼青木昇門下で
  10年間一緒。
◆◆余湖さん
http://yogokun.my.coocan.jp/gunma/kurabutimura.htm
2回目の時、ご一緒させていただきました。


◆◆ 栗崎城の歴史 ◆◆ *****************
・応永年間(1400)~ 永正年間の始め頃までの約100年間に
わたって、木部氏が三ノ倉地方を支配。
    (★全透院にある説明版)
  木部氏は木部城+木部北城+山名城を支配していた
  倉渕にも所領があったことになるようだ。

・応永24~28年(1417~1417)頃 足利持氏は木部道金の別当職を
 認めた。
「木部弾正左衛門人道々金申、
上野国榛名寺俗別当職升当寺領、
同国石神・石津・三倉田白・在家・山野林、
同国毛呂田中山田畠・在家・山林、
同国渕名庄内花香塚田畠・在家等事、
当知行無相違候、被成安堵候之様、
早速可有申沙汰候也、恐々謹言、
          三月廿八日   持氏(花押)

     左京大夫入道殿

★鎌倉公方足利持氏が榛名寺俗別当職とその管理下にある寺領の
 安堵を木部道金の申請に基づいて室町幕府管領である左京大夫
 (細川満元)に依頼(申沙汰)した。
足利持氏の花押型から応永24~28年(1417~1417) 頃と推測される。
 (久保田順一先生)
 
 俗別当職は榛名神社と俗世間との媒介を担当する役である。
  (★山本隆志先生)
 木部氏は俗別当職として神社の経営・寺領の管理に携わっていたが、
  この時、安堵を求めたのは地位が脅かされていたからであろう。
  (久保田順一先生)

「榛名山巌殿寺役中諸用記」
「木部左衛門人道道金与申仁、俗別当二相成、神領を押領仕、
 武威を以如何様に取斗候哉、彼是自然与宗風混乱仕候様子に候得共、
 …(後略)
★読み下し文…木部左衛門人道道金と申す仁、
        俗別当に相成り、神領を押領仕つる…(後略)
  
 つまり、木部氏が榛名神社神領を押領したと記されている。
 榛名神社から木部氏を排除する動きが起こったのであろう。
 (★久保田順一先生)

★つまり、榛名神社のトップである座主の権力が落ち、別当職
 が実質的な地位を持った。   

・延徳元年(1489) 木部新九郎が全透院を開基。
         (★倉渕村誌)
・延徳2年(1490)1月20日、木部新九郎は没した。
  開基の位牌「萬流院境山随心庵主」として祀られている。
 木部新九郎は、鎌倉公方足利持氏から榛名寺別当職を補任された
 木部弾正左衛門入道道金の一族と推定される。
  全透院裏手の栗崎城を守護していたと考えられる。
(箕輪初心)

 木部氏は榛名神社別当職(べっとうしき)・・・・
  つまり、榛名座主が榛名神社・巖殿寺を監理し
  別当職が外交に当たる。
  (★筑波大学名誉教授:山本隆志先生の説明)
木部氏は榛名神社の座主より権力を持った。
 長野憲業は榛名神社の里宮「戸榛名神社」を担当していた。
 (山本隆志先生)


・明応5年(1497) 3月7日 長野伊予(業尚)が
  戸榛名神社の禁制を出した。
「上州戸榛名神領」と見える。
 (★『桜沢文書』・・・群馬県史に出てこない文書)
「戸榛名神社」…地元の人は「とばんなじんじゃ」を発音している。

・文明19年9月、尭恵は「長野陣所小野景頼が許」で連歌を興行した。
 (★「北国紀行」)
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
https://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html

木部氏は小野を本姓とする一族である。
 (森田真一先生・山本隆志先生)

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№25『小野妹子→小野和泉守政直(道高)』
https://53922401.at.webry.info/201701/article_36.html


①森田真一先生「木部氏は上杉顕定の被官で、上杉氏の命によって
 別当職として榛名寺に進出したことが想定される。」
(森田真一先生「上杉顕定」・長年寺での講演会)。

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

★上杉顕定の晩年は板鼻が中心であった。


・永正年間(1504)~大戸:浦野氏(滋野系真田と同族)が侵攻。
  大戸宮内少輔真楽斎家の分家:弟系浦野民部少輔氏の支配下。
三ノ倉城は大戸の海野氏一族の浦野氏によって再構築されたと
  考えられる。室田長野氏の鷹巣城・長野氏の監視、防衛を目的に
  であったであろう。

・永正10年(1513) 箕輪の長野兼業?に攻撃→敗戦・和睦。
         長野氏から栗崎城を授与。
     ○大戸氏・浦野氏は大戸城・手古丸城が本城。
        浦野氏が権田城・栗崎城が支城。
          大戸・三ノ倉地方を支配。
・永正10年(1513)
 大戸要害令落居
 憲業属本意候者
 百疋之下地お
榛名満行権現江
末代可奉寄進候、
 永正十年四月吉日
長野伊予守憲業(花押影)
奉懸 巌殿寺

長野憲業は大戸要害(東吾妻町)の攻略を企図し、そのための祈祷を
 榛名神社・巌殿寺に求め、百疋の地を寄進した。
 

・永正11年(1514) 榛名神社の制札(上杉憲房)
制札
   一 当山におひておきての事、
   一 喧嘩之事、
   一 押かい狼せきの事、
   一 はくち・はくゑきの事、
   一 国しち・かうしちの事、
  右、このむねをそむき候ハんともからにおひては、かたくせいはい
  をとくへき者也、
  永正十一年甲成四月一日  (花押)

★押紙に「上杉憲房制札」とあるが、花押型は上杉憲房のものとは
   異なり、同人に比定することはできない。
  (★久保田順一先生)
★上杉憲房は長野業政と関わりが強かった。
  上杉憲政の子ども時代には、鷹留長野氏は安中氏・小幡氏と
  上杉憲房と長野業政と対立したようである。
 (★黒田基樹氏「関東享禄の乱」)


・大永2年(1522) 大戸城主・浦野弾正忠重勝は栗崎城内に
         堂宇を建立。
         長年寺5世紹舜大和尚を招いて、
         全透院を中興開基。

・文明期・・・・長野業政は大戸氏に娘を嫁がせた。
◆◆ 箕輪初心●群馬『手古丸城=大戸城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html



・天文22年 榛名神社制札
 制札
  一 喧嘩之事
  一 相伝之事
  一 押買狼籍之事
  右、於榛名山祭礼之町、此条有違犯之聾者、可処罪科之条、如件、
   天文廿二年四月 日     (花押)
※近藤義雄先生説
     ①けんか禁止 
     ②逃亡した下人をとらえる行為の禁止
     ③押し売り行為の禁止

※久保田順一先生説
     ①けんか禁止 
     ②家臣の人身売買為の禁止 
     ①押し買いディスカウント(自分の売り込み)の禁止    
※久保田順一先生は「はじめは長野業政としていたが、不詳としている。」
 (★「箕輪城と長野業政」久保田順一著)
※通説…長野業政
※飯森康広先生説…長野方業。長野方業=長野業政

・永禄3年(1560) 長尾景虎=上杉謙信の第一次関東出兵
   大戸中務少輔(東吾妻町)は長野業政と同じ家紋で出撃。
  大戸十騎とある(★甲陽軍鑑)


・永禄年間、武田信玄は信濃松原神社、新海三社神社、榛名神社などで
 戦勝祈願をした。

・永禄年間(1558)~武田信玄が小山田、穴山、土屋、諸星、
         曽根を派遣し占領。
★旧榛名は鷹留城を中心として、長野業政の勢力下なので
 嬬恋→大戸→旧倉渕と侵攻してきたと思われる。
         →武田氏の勢力下。
・永禄5年(1562)頃、武田信玄の侵攻によって室田長野氏は没落した。

・????年 年未詳の浦野中務少輔宛の武田信玄書状に
 「今日室田放火、為始長野三河入道、随分之者八十余人討捕候
   五月八日 」
  (「大竹源三郎氏所蔵文書」)。
  長野三河入道は長野業通であろう。
(★久保田順一先生)
 ※永禄5年説…久保田順一先生、飯森康広先生?「たぶん」
 ※永禄9年説…峰岸純夫先生。黒田基樹先生。

・????年 年未詳9月10日
  武田信玄は榛名山に軍勢甲乙人の濫妨狼籍を禁ずる制札をだした。
 (「榛名神社文書」)


・永禄7年(1564) 浦野氏は真田幸隆のアドバイスもあり、
         箕輪城攻撃の一貫として、榛名に付け火。
         長年寺の消失。
(★上杉家文書)


★甘利昌忠が武田信玄に取りなし、浦野が武田信玄の
 正式な家臣となった。

・永禄6年(1569) 9月29日 武田信玄は箕輪城を攻略した。

・文亀3年(1572) 正月23日、武田信玄は箕輪城将の内藤昌秀を
 奉者として戸榛名神社に「神木の刈り取りを禁じる制札」を出
 した。(栗原修「戸榛名神社文書」)。
 
◆倉渕の城に対する私見*******************
1)真田昌幸の連絡網は2つあった。
 ①岩櫃城→殖栗城→岩戸山城?(小野上)→吾根小屋城→箱田城→金古砦
   →保渡田城→根小屋城(山名)
②岩櫃城→千人隠陣城→(手古丸城?)萩生城→天狗山砦城→権田城→
 鑰掛城→三ノ倉城→□□砦(落合付近)→湯殿山城(トンネル上)
 →雉郷城→(高浜砦)七曲砦→・・・根小屋城(山名)
 と考えられる。ネットワーク上の関係にある
2)権田城・明神山砦・天狗山砦・鑰掛城・三の倉は倉渕に入ってくる
 時に北条氏の備え・街道の押さえと考えている


◆飯森康広先生の考え**********************
1 )3城は「く」の字型・孤を描いているので、榛名方面からの押さえ
  であろう。
  ★なるほどと思った。
 ▲ 権田城
▲明神山砦
▲ 天狗山砦

2)2城は不明
「▲鑰掛城  ▲三ノ倉城 」は意図が不明である。とおっしゃられた。

・天正10年(1582)
 3月 武田氏の滅亡→6月織田氏(滝川一益)の勢力下。
     大戸の浦野氏が在城(60~70年)
 6月 織田信長の死後
      →真田昌幸が岩櫃城より直接統治。
 6月19日・20日 後北条軍は滝川一益を神流川の戦で破った。
  
 北条氏康は厩橋城より沼田城と吾妻郡に侵攻した。攻撃。
  ①沼田方面隊・・・北条氏邦を沼田城に侵攻。
  ②岩櫃方面隊・・・内藤丹波守、富永主膳(=★猪俣邦憲)、
  元武田家臣:小幡信貞を5000の将兵で榛名町室田(室田口)
  より出撃。

  浦野重成は栗崎城周辺で迎撃した。
  大戸城主大戸真楽斎、大戸但馬守父子(兄弟説)は
     三ノ倉に出て交戦。
   →三ノ倉から撤退。権田、荻生の諸城を放棄。

◆◆ 箕輪初心●群馬『萩生城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_11.html

  大戸の手古丸城
    に籠城。
   →3日間の奮闘。大戸父子は自刃。
           浦野重成も自刃。


   北条勢は大戸の「千人隠陣城」より侵攻
   →岩櫃城主真田信幸(昌幸嫡男)の勝利 
   →栗崎城は北条氏の支配。北条の家臣:小笠原播磨守
     長範が城主。
   北条氏は吾妻の大戸:仙人隠陣城から岩櫃城に侵攻。

 

・天正8年(1580) 文書に「榛名山御師光吉」の名があり、「御師」が
 確立されていた。(「榛名神社文書」)

・????年 年不詳 真田昌幸の制札
 「禁制 榛名山
   於干彼小屋、
   濫妨狼籍之事、
   若此旨於違背之聾者、
   可処厳科者也、
   三月廿三日  真田安房守昌幸(花押) 」

  ★文書は年号がない。
 ①通説…天正4年説
    真田昌幸が安房守と自署するのは天正8年以降である。
 ②久保田順一先生…天正9年説
 ③栗原修先生…花押型から天正10年以降説
  ④★私見…天正10年に滝川一益に人質の城として箕輪城を任された
    時ではないかと考えている。
  
・天正11年(1583) 北条氏邦安堵状
一 其山諸法度之儀、
   万端共如先法可有之事、
 一 榛名山建立之義、
   氏邦為檀那之上着、
   何分仁茂随身之可馳走事、
 一 箕輪城中堅固、
   諸願成就之祈念頼入上、
   本意付面者、
   一所可寄附事、
      以上
  右、三ケ条有違背間敷候、
   若横合非分之儀有之者、
   早速可承者也、乃如件、
          未二月十三日   氏邦(花押)
     榛名山別当坊
  
・天正18年(1590) 
  豊臣秀吉の北条征伐→北条氏滅亡。
  徳川家康の家臣:大給松平五左衛門近正を5000石で入封。
  ★全透院あたりに居館をが設けられたと考えられる。

・慶長5年(1600) 関が原の戦い
   →松平五左衛門は鳥居元忠らと伏見城に入城。
   石田三成の大軍に攻められて松平五左衛門は伏見落城で討死。
戦後、徳川家康は松平近正の子・松平一生を下野国板橋(日光市)
  1万石に移封。
   栗崎城は廃城となった。

・幕末 西軍が全透院が東善寺の小栗上野介の攻撃の
     本陣として、活用。                 
   (★倉渕村誌他)

 全透院から200m離れた烏川河岸で小栗上野介が斬首された。


********************* 
●箕輪初心:生方「小栗全集」~~~~~~~~~~~
◆◆箕輪初心★小栗上野介①「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介②「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介③「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介④「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑤「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑥「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑦「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗⑧「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗⑨「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑩「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑪「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑫「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介⑬「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介⑭童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html

箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_20.html

箕輪初心:生方▲小栗上野16:岩下哲典先生の講演会
『幕末情報社会と小栗上野介』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_1.html

箕輪初心:生方★小栗上野介17『小栗祭り20160522』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_2.html

◆ 箕輪初心★『小栗上野介とボーハタン号』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆ 箕輪初心★『ボーハタン号&咸臨丸』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆ 箕輪初心★『小栗上野介の功績&提唱』 ◆◆
★大隈重信・大久保利通・東郷平八郎などは
「日本の近代化の父」と思っているようだ。
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★小栗上野介の妻:道子=会津への逃避行 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

箕輪初心■群馬倉渕の文化財&小栗上野介&温泉・酒
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201302/article_18.html

箕輪初心:生方▲2018高崎№30『鼎談』と【小栗上野介忠順企画展】
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_10.html

箕輪初心:生方▲2018小栗上野介忠順(ただまさ)の生涯:前編「~世界一周」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_15.html

箕輪初心:生方▲2018小栗上野介忠順(ただまさ)の生涯:後編「帰国後の活躍」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_16.html

箕輪初心:生方▲福島旅行①『会津』横山常守と海老名季昌・新島八重・小栗道子
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_44.html

箕輪初心:生方▲福島旅行①『会津』横山常守と海老名季昌・新島八重
・小栗道子
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_44.html
★慶長2年12月~翌年1月 小栗叉一忠道は横山常守にフランス語を
 教えた。横山常守はパリ万博・ヨーロッパ視察に行った。・・・
慶長4年、小栗上野介の詮議無き死の3日前、会津横山常守邸に向かった。
 5月1日 横山常守は白川口で戦死。首を横山邸で松平容保と見た。
 会津若松城に籠城した。後、南郷で出産した。

箕輪初心:生方▲2018高崎№47『小栗上野介顕彰碑』と「小栗家の歴史」
https://ubu3blog.at.webry.info/201812/article_12.html


箕輪初心:生方▲2015高崎【旧倉渕村の歴史散策】
https://53922401.at.webry.info/201509/article_25.html

箕輪初心◆高崎倉渕の▲名山&名所旧跡
https://53922401.at.webry.info/201410/article_23.html

箕輪初心★高崎倉渕「碓氷貞次伝説」&倉渕の偉人
http://53922401.at.webry.info/201410/article_22.html

箕輪初心●群馬倉渕『大明神砦』&小栗上野介の観音山屋敷
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201302/article_15.html

箕輪初心:生方★2015高崎【♯高橋貞春Cla.演奏会in倉渕】&倉渕の史跡
https://53922401.at.webry.info/201510/article_19.html

箕輪初心◆箕輪城№101『落城悲劇:藤鶴姫の死』
https://53922401.at.webry.info/201302/article_17.html
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%88%9D%E5%BF%83%E2%97%86%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E%E2%84%96101%E3%80%8E%E8%90%BD%E5%9F%8E%E6%82%B2%E5%8A%87%EF%BC%9A%E8%97%A4%E9%B6%B4%E5%A7%AB%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%80%8F


★明日は?

この記事へのコメント

宗春
2018年12月14日 12:03
今日は今回の記事も面白いですね。気になった点を挙げてみます。

>★上杉憲房は長野業政と関わりが強かった。
>上杉憲政の子ども時代には、鷹留長野氏は安中氏・小幡氏と
>上杉憲房と長野業政と対立したようである。
 (★黒田基樹氏「関東享禄の乱」)

上記は
   鷹留長野氏は安中氏・小幡氏
      VS
   上杉憲房と長野業政

という事でしょうか、これは私の考えと一致します。
つまり鷹留長野氏は上杉被官で長野宗家は上野国衆であるため独自の行動をとっていた。これは長尾景春の乱以前からそうであった。鷹留長野氏が享禄の乱時憲政側だったとは意外ですが。

それとも
    鷹留長野氏は上杉憲房と長野業政
         Vs
    安中氏・小幡氏
の書き間違いでしょうか?

>・文明期・・・・長野業政は大戸氏に娘を嫁がせた。
これは、文明が誤り、それとも長野業政が誤り?文明じゃなくて天文の解釈でいいのでしょうか?

>・天文22年 榛名神社制札
>※通説…長野業政
>※飯森康広先生説…長野方業。長野方業=長野業政
これは普通に天文22年まで長野方業は生きていたで良いのではないでしょうか。あとは方業・業政親子説と方業=業政同一人説を検討で良いと思います。親子説を取った場合鷹留(室田)長野氏との関わり合いが気になる所です。この辺りはあまり議論したくない領域になりますが。

長くなったのでこの位にさせて戴きます。次回資料を見せて戴ければ幸いです。
宗春様
2018年12月17日 12:29
①鷹留長野氏は安中氏・小幡氏
      VS
   上杉憲房と長野業政 です。
②飯森先生は「方業=業政同一人説」から「方業・業政親子説」に変更した画像がありましたが、迷っておられるようです。
宗春
2018年12月18日 10:50
>②飯森先生は「方業=業政同一人説」から「方業・業政親子説」に変更した画像がありましたが、迷っておられるようです。
 でしょうね。親子説を唱えたら、尚業・憲業からの業政への系図を破壊しかねませんからね。私は否定派ですが、地元でこれを大っぴらに唱えることは難しいでしょう。あまり議論したくない領域ですからね。
 ただいま小説は、海野平の合戦から川越城の合戦へと舞台を移して執筆中です。このまま続くと良いのですが、なかなか文章にするのは難しいです。ありがとうございました。
宗春
2018年12月18日 10:53
>尚業・憲業からの業政への系図
これの否定派です。
宗春様
2018年12月21日 07:21
小説、頑張ってください。

この記事へのトラックバック