箕輪初心:生方▲2018桐生『彦部屋敷』後編「彦部氏の戦国時代」復刻版

平成30年(2018)11月23日、国指定史跡「彦部屋敷」に行った。
永禄3年(1560)近衛前嗣・彦部信勝は長尾景虎(上杉謙信)
に会いに春日山に下向した。しかし、長尾景虎は関東に出兵した後だった。
厩橋で合流した。「長尾景虎は、厩橋で厩橋長野氏を馬が騒いだとし、
殺した。」と関東古戦録にはあるが、真偽は不明。・・・
長尾景虎は近衛前嗣・上杉憲政の権力を背景に、関東の武士に味方になる
ように書状を送った。(翌年2月の関東幕注文となる。)真っ先に同調した
のは白井長尾憲景・惣社長尾氏、箕輪城主:長野業政であった。長尾景虎
は上野国では、鎌原幸重・小幡信定以外を味方に、現群馬県の伊勢崎・桐
生に侵攻し、味方にした。★おそらくは、長尾景虎に同行し、近衛前嗣・
彦部信勝は信勝:妻の実家:桐生城に入り、長尾景虎と近衛前嗣・彦部信
勝は桐生で一端分かれた。長尾景虎は太田・館林・下野の唐沢山城や現埼
玉県の北部深谷・石本・羽生に侵攻し、厩橋(前橋)に戻って越山した。
翌年1月には近衛前嗣(おそらく、彦部信勝も)小田原攻めに合流した。
長尾景虎は北条氏康の小田原籠城にあった。常陸勢の離反もあり、小田原
攻めは失敗した。鎌倉八幡宮で、長尾景虎が関東管領を受け継ぐ、儀式を
行った。長尾景虎は「上杉政虎」という名前になった。近衛前嗣(おそらく、
彦部信勝も)が幕府からの見届け役となった。近衛前嗣(彦部信勝も)桐生
城に戻った。彦部信勝は桐生広沢に定住した。近衛前嗣は5月頃までには、
古河公方にも面会した。4月以降、上杉政虎・上杉憲政・長野業政・厩橋長
野氏・大胡長野氏500人程が集団食中毒にかかった。6月近衛前嗣は上杉
政虎に病気見舞いの手紙を送った。6月21日、長野業政が死んだ。長尾景
虎は、沼田で療養し、病気が治ると、武田信玄の信濃攻めを食い止めるため、
春日山に戻り、信濃に向かった。第4次川中島の合戦が始まった。
・・・近衛前嗣は上杉謙信は亡くなると、武田信玄に歩み寄った。その後、
織田信長、三好と連携を持った。

画像



箕輪初心:生方▲2018桐生『彦部屋敷』前編「式の格闘シーン」等
https://ubu3blog.at.webry.info/201812/article_5.html


===戦国時代=====================
29代:彦部家第10代:彦部国直
  近衛関白政家&足利義政の娘・・・ 
 彦部国直の妻は近衛関白政家の娘であった。
  近衛政家の室は足利家第8代義政の姫であって
  ※彦部家は近衛関白家並びに足利将軍家と結びつくことになる。
  (★彦部家系図) 
  彦部国直の後妻は近衛政家の女である。
  彦部晴直・彦部輝信の兄弟をもうけた。
  
 長享・明応番帳など彦部国直が三河との関係を持っていた。
 しかし、幕府権力の衰退とともに三河との関係は次第に断絶
  していったようである。
 (★岡崎市史・武家家伝Hp)
★新編岡崎市史には「彦部氏」は掲載されていない。


・応仁元年(1467)~文明9年(1477)応仁の乱
約10年間にわたって継続した。
 8代将軍:足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生した。
  管領の細川勝元 VS 侍所所司の山名持豊(山名宗全)
有力守護大名が争い、九州一部などを除く全国に拡大した。
応仁の乱を契機として、戦国時代へと移っていった。
  9代将軍:足利義材は管領細川政元によって追放され流浪の
  身となった。
下剋上の嵐の中で、幕府権力・守護大名は大きく衰退した。
    

29代:彦部家第11代:彦部晴直(1507~65)
 彦部晴直の母は近衛関白政家の娘である。足利義政の外孫である。
足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝
 の4代の将軍に仕えた。
 ・彦部稙直から彦部晴直になった。
 
・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文15年(1546)足利義輝が元服。
  彦部晴直は、朝廷の使い番をした。
  従五位下となった。
やがて従四位下、雅樂守になった。

・天文17年(1546)?「仁田山紬文書」(彦部家文書)
「仁田山紬を10疋調達してほしい。」
足利義輝のお妾から彦部晴直宛の文書
*彦部篤夫氏説・・・彦部家傍系の彦部加賀守師光は
 桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷にいたからであろう。

・天文19年(1550)足利義晴が死去。
  第13代:足利義輝となった。
彦部晴直は、将軍義輝の申次衆として晴直朝廷・寺社の
  使い番をした。
彦部晴直は関東に下向し、北条氏康・里見義尭から
馬・太刀・小袖などを送られた。

  番衆に彦部輝信がみえる。
   彦部氏が将軍側近として行動していた。

  足利義輝は細川氏、三好氏らの下剋上により近江国朽木に流浪
  することが長かった。

30代:彦部家第12代:彦部輝信************
彦部晴直の長男:彦部輝信(晴直弟説あり)
彦部晴直の2男:彦部信勝

・永禄2年(1559) 長尾景虎(上杉謙信)は近衛前嗣に謁見した。
2人は血の血判状で盟約を結んだ。


・永禄3年(1560)
6月10日 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
申し送る。「みのわ」から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)
箕輪城主:長野業政の親族と有力家臣の息子であろう。


8月 長野景虎が上杉憲政を奉じて関東に出陣した。
8月14日付 長尾景虎→足利長尾景長
「来月(9月、)出陣するので参加せよ。」

8月25日付 長尾景虎→柿崎和泉守景家などへの書状
「在陣留守中掟之事」

8月26日 安房稲村城・館山城主:里見義堯からの救援要請が
  あった。
(★『正木家文書』)
 里見義堯は久留里城で北条氏康に包囲されていた。
★里見義堯の妻は長野憲業の娘である。長野業正は里見義樹を
 養子とし、富士見の石井→榛名の鷹留城の城主に任命した。
 (★中世の西上州:黒田基樹著・『箕輪城着到帳』)

8月29日 ▲第一次関東出兵
 長尾景虎は将軍から「関東を支配してよい。」という大義名分を得た
  越後勢8000余りを率い北条氏康を討伐するため、関東へ
  出陣した。
  長尾景虎は関東管領:上杉憲政(平井城)を擁立して
・・・
  直江実綱(与板城)・北条高広(柏崎北条城)・柿崎景家
 (柿崎城)を引き連れて・・・・

※越後も関東であるが・・・・・

 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
 長尾景虎は北条氏康を討伐するため越後から関東へ向けて
  出陣、三国峠を越えた。
(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
■①説:群馬県史説
※経路は明らかではない。(『加沢記』・『沼田記』がベース)
①宮野城(猿ヶ京)→
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箕輪初心●群馬:みなかみ【宮野城】=ホテル湖城閣
http://53922401.at.webry.info/201202/article_19.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

10月初旬 
→②沼田城に侵攻。
 城主:北条孫次郎(北条氏秀=沼田康元)ら数百人を討つ取
  った。
 ※北条孫次郎は撤退し、沼田顕泰は降伏した説もある。
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箕輪初心●群馬【沼田城】=北条・武田・上杉の狭間で揺れ動いた城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html

→③岩下城(岩島飽間氏出身斉藤憲弘)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心■群馬【岩下城】=小田原攻めに参加した斉藤憲弘の城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
→④明間城(群馬県史では安中市)
 (★箕輪初心説=川戸城の秋間氏と考えている。
   秋間7氏がいるが、・・・明間城という名前の城はない。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●群馬【川戸内出城】=長尾景虎の第一次関東出兵
「明間」では?
http://53922401.at.webry.info/201201/article_12.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
同族白井城:長尾憲景・惣社城:長尾顕景は長尾景虎の陣所に来た。
箕輪城:長野業正(群馬県史:「政」の字を使用)も加わった。

→⑤厩橋城(=後、前橋城)

赤城三夜沢神社に戦勝祈願・・・・

⑥那波城:那波顕宗(伊勢崎)
那波顕宗は激しく抵抗した。・・・
堀口城で降伏し、人質を出した。
北条高広は那波氏と同族:大江広元の子孫であるが・・・
  
→国峯城(富岡):小幡氏

★実際には、長野業正は病気のため、長野氏業(業盛)が参加した。
※久保田順一先生は「長野業政も小河原攻めに参加した。」説と採る。

◆近衛前嗣・彦部信勝の動向*****************
9月 近衛前嗣が越後の長尾景虎のもとに下向した。
 彦部晴直の子:信勝が同道した。
 しかし、長尾景虎は厩橋(前橋)にいた。

厩橋城で長尾景虎(上杉謙信)と近衛前嗣・彦部信勝は
あった。
●長尾景虎は関東諸侯に傘下に入るように書状を送った。
長尾景虎は小田原城攻略に大規模な兵力を必要とした。
 そこで無血開城した厩橋長野氏の城:厩橋城から
 旧主:上杉憲政および関白:近衛前嗣(前久)を奉じ、
 上杉憲政の旧幕下の諸将に檄を飛ばして参陣を促した。
上野・武蔵の諸将は、長尾景虎のもとへ参集した。

 彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である
 近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になっていた。
由良成繁は太田~桐生~大胡一帯を支配していた。

★長尾景虎の支配下に入り、任されたといってよいであろう

*****************************
同族白井城:長尾憲景・惣社城:長尾顕景は長尾景虎の陣所に来た。
箕輪城:長野業正(群馬県史:「政」の字を使用)も加わった。
★実際には、長野業正は病気のため、長野氏業(業盛)が参加した。

・9月上旬 長野信濃守業正らが味方した。
(★双林寺伝記)

・9月29日 龍渓寺(市原市)に説得を依頼した。
  (★『謙信公御年譜』】・『上越市史』)

・10月2日 
「白井・惣社・簑匂(箕輪)□望の段風聞」
 正木時成は長尾景虎に「簑匂(箕輪)」が味方したことを伝える。
 (★正木時成書状写)
 里見義弘の家臣:正木時茂の戦勝を祝う書状がある。
「明間城→沼田城の順になっている。」
 (★群馬県史P576・★千葉県里見一族の正木家文書)

 しかし、下野・常陸の反応は微妙だった。
 常陸・下野の諸将は北条か長尾・上杉のどちらに付くか決め
 かねていた。双方の実力を均等と見て決断は難しかった。
下野・常陸の諸侯は長尾景虎が関東を去れば、北条が攻め込
 んでくるし・・・と不安であった。
 
10月~12月 長尾景虎は厩橋城でいらいらしていた。
★長尾景虎は「義」を重んじ、どっちつかずのコウモリ的な
武将を嫌った。羽生城:木戸氏・太田氏タイプが大好きで
あった。

12月初旬→
今村城・→赤石(伊勢崎)落城・・・
 長尾景虎が率いる連合軍の勢いは止まらなかった。
長尾景虎は武蔵国へ進撃を開始した。
 深谷城→忍城→羽生城→河越城包囲
河越城:北条氏尭は籠城に徹した。

12月24日 長尾景虎は岩附城主:太田三楽斎資正に常陸・
  下野の諸将の参陣の仲介を依頼した。

 太田資正に正木時茂と原胤貞の抗争の仲介を依頼した。
 (★『上杉家文書』)。
 しかし、原胤貞が実権を掌握していて、下総の守惣領家:千葉胤富
 は古河の北条氏に援軍を送くることになった。


****************************
■ ②説:黒田説
『長尾景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城
・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方
 の諸城を次々に攻略した。厩橋城を関東における拠点とし、厩橋
 城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下
 し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、
 次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。』
 (黒田基樹説)
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■永禄4年(1561) 群馬県史説&黒田基樹説&ウィキペディア説
・永禄4年(1561)
1月 長尾景虎は厩橋城厩橋城で越年した。

2月 長尾景虎は上杉憲政の居城:上野平井城にいた。
  長尾景虎は直ぐに8千の兵を率いて唐沢山城救援に向った。

2月 越後府内の直江山城守実綱に参軍を指示した。
   高梨政頼は春日山城に残った。

2月19日 長尾景虎は唐沢山城西に着陣し、唐沢城を囲む
  北条の大軍を見られる場所に陣取った。
  長尾景虎は 精兵を率いて自ら北条に挑んだ。
   長尾景虎は北条方の首級1300余を討った。
  唐沢山城は危機を脱した。

▲北条氏康は、野戦は不利と判断した。
  相模の小田原城や玉縄城(藤沢)、武蔵の滝山城(八王子)や
  河越城などへ退却し、篭城策をとった。

 下野・常陸の参陣を渋っていた諸将関東管領:上杉憲政の
 元に集った。多くは厩橋城に参集した。
 関東の諸大名の多くが長尾景虎に付き、軍勢は10万に膨れ上
 がった。
『松陰夜話』・・・7万余
『『関八州古戦録』:久保田順一訳・・・11万3000

※関東幕注文~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
長尾景虎は「関東幕注文」を作成した。
1)上野(群馬県)  
箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
  長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
  小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
  羽田彦太郎(東吾妻町) 八木原与十郎(渋川市)
  須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
★真田幸隆の同族は①羽田彦太郎(東吾妻町)②大戸中務少輔
  (東吾妻町)羽尾修理亮(吾妻)は長野業正の檜扇を
  使っている。娘婿だから・・・・・・
  しかし、真田幸隆の甥:鎌原幸重は加わっていない。

厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
  
岩下衆・・・斉藤越前守・山田某(山田城)
  紙が切れていて、岩下衆の残りの武将が不明。
(★群馬県史)
 岩下衆は他に、富澤豊前守が確実にいたであろう。
が、川戸内出城の武将が不明である。おそらく、斉藤越前
守の一族の者であろう。
群馬県史の明間城は安中の秋間と考えているが、
斉藤越前守の一族として、明間城主がいたのであろう。
★個人的には、明間城を地理的にみて、川戸城:秋間氏と
 考えている。
 また、富沢豊前守等も参加してしていたはずである。

小幡重貞(富岡国峰城)・白倉(甘楽白倉城)・高山(藤岡
 高山城)・小林(藤岡)、小幡三河守(下仁田青倉城)

由良成繁(太田金山城)など、・・・・
★つまり、上野国:99%・・・鎌原幸重以外・・・
 (★群馬県史)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2)武蔵(埼玉県)
上田朝直(松山城:東松山市)・・・しかし、北条についた。
成田長泰 (忍城:行田市)
太田資正 (岩付城:岩槻市)


3)武蔵(東京都)
三田綱秀(勝沼城:青梅市)


4)下野(栃木県)
 佐野昌綱 (唐沢山城:佐野市)
 宇都宮広綱 (宇都宮城:宇都宮市)

 小山秀綱 (小山城:小山市)・・・幕注文には書いてない。
 那須資胤 (那須城:那須市)・・・幕注文には書いてない。

5)常陸(茨城軒県)
小田氏治 (小田城:小田市)・・・・幕注文には書いてない。
佐竹義昭 (太田城:常陸太田市)
多賀谷

6)下総・上総・安房
簗田晴助 (下総関宿城:千葉野田市)
里見義堯、里見義弘 (久留里城)
正木時茂、正木信茂(大多喜城)

2月下旬 直江実綱と合流した。
→長尾景虎は古河御所の包囲した。
関東公方:古河御所を制圧し、北条氏康に擁された足利義氏
  (妻は北条氏康の娘)を追放し、足利藤氏を古河御所内に
  迎え入れた。
 
  松山城(東松山市)着陣した。

2月27日 長尾景虎は鎌倉を落とした。

 鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げた。
  (妙本寺文書・上越史)
 
3月3日? 上杉軍先軍は当麻(相模原市南区)に陣を取った。
3月8日  中筋(中郡)に着陣した
3月14日 大槻の戦い 
  上杉軍先軍は大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊
   と激突した。

3月22日 上杉軍は曽我山(小田原市曽我)に着陣した。

3月24日 怒田(ぬた)山(南足柄市怒田)の戦い

3月中旬 上杉政虎軍本隊はさらに北条氏康の居城:小田原城を
 目指して現東海道沿いを進撃した。
先鋒・・・岩付城城主:太田三楽斎資正・忍城城主:成田長泰。
前衛・・・柿崎和泉守景家
本隊・・・直江山城守、宇佐美駿河守など。

 藤沢→平塚

 小田原城支城を包囲、攻撃を開始した。
相模の岡崎氏・三浦氏の一部なども長尾景虎に寝返った。

 小田原の酒匂川辺に陣を張った。

3月下旬 ▲小田原城の戦い
▲北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城
  していた。  
  長尾景虎は関東管領:上杉憲政を擁して、宇都宮広綱・
  佐竹義昭・小山秀綱・那須資胤・小田氏治(常陸小田城)
  成田長泰(忍城)、太田資正(岩付城)、三田綱秀(青梅)、
  里見義弘(安房稲村城)ら旧上杉家家臣団を中心とする
  10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲
   した。
  
  小田原城の攻撃を開始した。
  太田資正軍が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、
  籠城する北条氏康を窮地に追い込んだ。
(★『関八州古戦録』:久保田順一訳)
  長尾景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。
長尾景虎は小田原城下に放火をして挑発しても北条方は小田原
  城から討って出ることはなかった。
   (★『上杉家文書』)

 長尾景虎は小田原城を包囲は1ヶ月続いた。
 佐竹義昭・小田氏治・宇都宮広綱が飢饉のため撤兵を要求した。
 そして、佐竹義昭ら一部諸将が無断で陣を引き払った。
 武蔵松山城(東松山城)では上田朝直が反旗を翻した。

 参陣諸将の足並みが乱れていった。

★長尾景虎は背後の信越国境を固めることは急務となった。
 そして、武田信玄の前進拠点:海津城を攻略して、武田軍を叩く
 必要があった。
長尾景虎は小田原城の包囲を解いた。
 長尾景虎は鎌倉に兵を引いた。
 
 結局、小田原城を落城させられなかった。
 滝山城、河越城、江戸城、玉縄城等の支城も落城
 させられなかった。
閏3月16日 長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続
  と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めた。
関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ち
  を務めた。
(★後、上杉&北条との相越同盟の際、柿崎景家の子が小田
 原城に入った。)
鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得したのだ。

★伝説・・・忍城:成田氏が馬上で挨拶したため、成田の烏帽子を
  たたき脅した。成田氏は撤兵した。
(★NHK大河ドラマ『天地人』)  
  
 ※古河公方問題
 小山秀綱が足利藤氏を推した。
 簗田晴助が足利藤政を推した。
 同16日 上杉政虎は簗田晴助に起請文を与え、
   足利藤氏が擁立されることにさせた。
古河御所には足利藤氏とともに近衛前久がおかれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_9.html
★梁田の城
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上杉政虎は鎌倉山内に数日間滞在し、関東諸将と談合した。
  また参陣をねぎらった。

しかし、成田長泰事件もあり、関東諸侯の不安感が増し、
た。
 (★『天地人』)

3月下旬 上杉政虎に
 「武田信玄の援軍が甲斐吉田に到着した。」
★実際は初鹿野源五郎率いる300の兵のみであった。
天正壬午の乱後、大宮に居城を構えた。
 
 「今川氏真の援軍も近日出陣のための準備ができた。」
     と知らせが入った。

上杉政虎は、川中島において武田信玄と雌雄を決する意図もあり、
 再び小田原城に戻らず、軍を引き、鎌倉を発った。
   (★『上杉家文書』)


4月 ▲松山城の戦い
上田朝直は北条氏康方の城主となっていた。
  武蔵国の松山城を攻撃した。
  上田朝直の抗戦を受けたが、落城させた。
  松山城には城将として上杉憲勝を残した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●埼玉『松山城』=上杉・武田・北条の激戦地
http://53922401.at.webry.info/201406/article_25.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  厩橋城には・・・・
①厩橋城城代:北条高広である。
平井城代:義弟:長尾謙忠となっている。
(★群馬県史)
厩橋城には河田長親→北条高広が入った。
 (★由良成繁事書案:群馬県史)
★北条高広は同族:那波顕宗の所領を与えられた可能性
がある。

②厩橋城代に義弟:長尾謙忠をおいて帰国した説。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏~北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上杉政虎は、将軍:足利義輝から関東出兵をねぎらう御内書を
  受け取った。

▲武田信玄は北条氏支援のため北信濃に出兵した。
4月? 割ヶ岳城を落とした。
上杉政虎にとって割ヶ岳城は重要拠点であった。
春日山城→野尻城・・柏原(小林一茶の生まれ故郷)
飯山城の押さえ・善光寺への道・戸隠への道の
分岐に近かった。
   
   また、武田信玄の三条婦人の弟:顕如と縁戚関係にあった
   ことから石山本願寺の一向一揆も越中神保長職に味方
   していた。
    武田信玄が扇動した一向一揆が信玄の後援を受けて
    神保長職が増山城を奪還した。


◆久保田順一先生講演会から==================
4月中旬~ 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
1)上杉政虎(謙信)の病気
④4月4日 『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」

②4月13日 『武田信玄書状(群馬県史2247)』
「長尾弾正草津湯治、・・・上州衆倉賀野前後在陣之由候、・・
  卯月(4月)十三日       信玄(花押影)
  小山田弥三郎殿 」

①4月16日上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」


6月10日『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 

2)上杉憲政の病気
『謙信書状』
「・・・憲政事、病者被渡候之間、・・・憲政煩反複之間、・・・」

3)長尾憲景の病気
『そう林寺伝記』
「4月3日、・・・此節憲重依脳病(★意識がない)、・・嫡子」

4)長野業政の病気
『赤城神社年代記』永禄4年の条
「9月14日、赤石(館林)・厩橋彦太郎・大胡馬充?生害(死)
   両城の親類・家僕五百余人死ヌ、陣中病流行テ、敵味方共
   多死」

※久保田先生「・・・陣中で、集団感染があった。・・・」
★食中毒O157かなあ?

箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
https://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

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6月21日*箕輪城主:長野業政が死去。
  ①説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  ②説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
 ※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。

6月下旬 上杉政虎は厩橋城を発ち、春日山城に戻った。
  10ヶ月に及ぶ関東大遠征を終えた。

▲上杉政虎が関東から居なくなると、再び勢力を盛り返した。

永禄5年(1562) 関東下向した近衛前嗣は桐生城に入った。
 のち、古河城・宇都宮城を回ってから京へと帰って行った。
 彦部信勝は関東に残る道を選んだ。
 以後、彦部氏は桐生広沢に土着した。


画像


*彦部篤夫氏説「彦部信勝桐生滞在理由」
 ①近衛前嗣・父:彦部晴直から関東の情勢を探るように命じら
  れたのであろう。
 ②近衛前嗣は古河城・宇都宮城に行っている。

古河公方足利高基の次男→関東管領になった上杉憲寛は
5年程で上杉憲政に家督を譲った。上杉憲寛の子:上杉
憲当は「榎木上杉氏」(★おそらく安中の榎下城)を名乗
っていた。その名跡を彦部信勝に譲るというものであった。
彦部信勝は「榎下猿次郎」(「上杉信勝」)を名乗ったことも
ある。
(★彦部家文書)

★古河で近衛前嗣は「前久」を名乗った。
  足利義輝は三好長慶と和睦した。
  追い出されていた足利義輝は京に帰った。

・永禄7年(1564)三好長慶が病死した。

・永禄8年(1565) 三好の乱
  松永久秀・三好三人衆によって足利義輝が暗殺されてしまった。
  彦部晴直・輝信は奮戦したが彦部雅楽頭晴直、兄:彦部輝信が
  戦死した。
  彦部氏の嫡流は断絶となった。
  しかし、桐生広沢にいた彦部雅楽頭晴直の2男:彦部信勝が
  跡を継いだ。


・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃
 由良氏は桐生・太田から牛久に移動した。
 彦部信勝は由良氏の家臣ではなかったので、移動せず、
  所領は安堵された。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
 彦部屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって
 桐生領54ヶ村は賦役御免になったという。


★彦部氏はやっと流浪の歴史に幕を閉じ「桐生広沢」に定住したので
ある。箕輪初心:生方▲城№873「彦部家住宅」国重要文化財
http://53922401.at.webry.info/201611/article_24.html

箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代~戦国時代』
https://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html

箕輪初心:生方▲『長尾景虎(上杉謙信)&近衛前嗣&彦部信勝』
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201612/article_3.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№232【山内上杉憲房・上杉憲寛・長野業政
&扇ヶ谷上杉朝良】
http://53922401.at.webry.info/201612/article_2.html

箕輪初心:生方▲岩手①「斯波氏・彦部氏先祖の地:紫波」
の歴史的重要性
http://53922401.at.webry.info/201710/article_23.html

箕輪初心:生方▲岩手②「紫波」の『野村胡堂あらえびす記念館』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_24.html

箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代~戦国時代』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html

◆彦部先生のツアー**********************
箕輪初心:生方▲岩手③「紫波」の『彦部氏館&彦部氏の墓:正養寺』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_25.html
★彦部氏は斯波氏の家臣であった。

箕輪初心:生方▲岩手④「紫波」の『高水寺城』&「高水寺」
http://53922401.at.webry.info/201710/article_26.html

箕輪初心:生方▲岩手⑤「紫波」の『陣ヶ岡』:有名武将の陣場
http://53922401.at.webry.info/201710/article_27.html

箕輪初心:生方▲岩手⑥「紫波」の『湯楽々懇親会・曲屋:武田屋敷
・志和稲荷神社』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_28.html

箕輪初心:生方▲岩手⑦「宮沢賢治記念館」:盛岡
http://53922401.at.webry.info/201711/article_2.html

箕輪初心:生方▲岩手⑧『世界遺産:中尊寺5回目』&
My日本の世界遺産ブログ
http://53922401.at.webry.info/201711/article_3.html

箕輪初心:生方▲岩手⑨『平泉:高舘義経堂と義経妻子の墓』
&「源義経の生涯」
http://53922401.at.webry.info/201711/article_4.html

箕輪初心:生方▲岩手⑩『世界遺産:②毛越寺、③無量光院跡、
④観自在王院跡』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_5.html

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箕輪初心:生方▲桐生彦部家と「関口先生の箕輪紹介」と「式の格闘シーン」
https://53922401.at.webry.info/201711/article_27.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201711/article_27.html



★明日は高崎関係かな

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