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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊香保65≪岩崎弥之助M29≫「2代目三菱」・政治家

<<   作成日時 : 2019/01/12 08:13   >>

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明治29年、9月10日〜22日、岩崎彌太郎?(弟;彌之助と
思われる。)は大隈重信・井上馨・・樫村清徳・河東碧梧桐・
布畦(ハワイ)領事兼領事館出納官吏兼外交官事務取扱は
伊香保『宮内省御用邸』に滞在した。
画像


箕輪初心:生方▲伊香保62≪大隈重信M29『宮内省御用邸』≫:政治家・教育者
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_11.html

箕輪初心:生方▲伊香保64≪井上馨M29『宮内省御用邸』≫井上武子等鹿鳴館の華
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_14.html

箕輪初心:生方▲長崎5回目30−25世界遺産「三菱」前編:写真
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201807/article_11.html

箕輪初心:生方▲長崎5回目30−25「三菱」後編
『歴史秘話ヒストリア:岩崎彌太郎』
https://53922401.at.webry.info/201807/article_12.html




◆岩崎彌太郎の生涯************************
・平安時代末期 
  甲斐武田家の当主:武田信光の五男:岩崎信隆(武田七郎)が、
 甲斐国山梨東郡(東八代郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を
 本拠に岩崎氏を称した。
 家紋も武田菱に由来するという伝承がある。
・戦国時代 岩崎家は末裔と称した岩崎信寛の代に安芸氏、長宗我部氏
 に仕えた。
・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
山内一豊の入国後は山野に隠れて農耕に従事した。
・江戸中期に郷士として山内氏に仕えた。
  曾祖父:弥次右衛門の代に郷士の資格を売り、地下浪人となった。
地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。

*******************************
・天保5年(1835)1月9日土佐の井ノ口村(現在の高知県安芸市)
  の地下浪人・岩崎彌次郎と妻・美輪の長男としてうまれた。

・子供の頃から極貧の中で暮らした。
 幼い頃から文才を発揮した。
 伯母が嫁いだ岡本寧浦について学んだ。
・12歳で頭脳明敏で儒者・小牧米山に弟子入りした。
・ 14・5歳になると詩才を発揮するようになったという。
藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。

・安政元年(1854)21歳 江戸詰めとなった奥宮周二郎(慥斎)
  の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授安積艮斎(あさか
 艮斎)の見山塾に入塾した。
  筆頭塾生は親戚の岩崎馬之助だった。

・安政2年(1855) 父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄された事
を家族からの手紙で知り帰国した。
 奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をした。
 「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴えた。
 壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」
 と大書したため投獄された。
 この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に
 商業の道に進む機縁となった。

・安政3年(1855)3月、吉田東洋が参勤交代に伴って江戸へ出府して
 藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結んだ。
 しかし、吉田東洋は酒宴で旗本殴打事件を引き起こして罷免された。
 帰郷して隠居を余儀なくされた。
 帰郷後は高知郊外に私塾(少林塾)を開いた。
岩崎彌太郎は当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾
 した。
 土佐藩の吉田東洋を知り、吉田東洋の義理の甥の後藤象二郎と親しく
 交わることになった。
 少林塾には後藤象二郎、乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士
 がいたのである。
 やがて、「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の
 動向に大きな影響を与えた。

・安政5年(1857) 1月 吉田東洋は参政として藩政に復帰した。
 岩崎彌太郎は吉田東洋に仕え、藩吏の一員として長崎に派遣された。
 清朝の海外事情を把握するためであった。
 岩崎彌太郎はイギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して
 丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、帰国した。
 しかし、岩崎彌太郎は無断帰国であったため罷免され、官職を失った。
 
・岩崎彌太郎は数え27歳では借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡
 三和村の郷士:高芝重春(玄馬)の次女」喜勢を娶った。

 吉田東洋は門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を
 目的とした改革を遂行した。
 
 しかし、革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐
 勤王党との政治的対立を生じさせることとなった。

・文久2年(1862)4月8日(5月6日)、吉田東洋は帰邸途次の
  帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾
 ・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。享年47。

岩崎彌太郎は吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺さ
 れるとその犯人の探索を命じられた。同僚の井上佐市郎と共に
 藩主・山内容堂の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。
 しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国した。
 武市一派の讒言によるものだった。
 (尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を
 放棄し、無断帰国したともいわれる)。
 この直後、大坂にいた井上佐市郎や広田章次は岡田以蔵らによって
 暗殺された。

 帰国後、弥太郎は農事に精を出した。


・慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りた。

・慶応元年(1865)、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営
 を任せた。

・慶応2年(1866) 岩崎彌太郎は土佐藩の開成館貨殖局に勤務した。
  勝海舟が薩摩藩の西郷隆盛に坂本龍馬たちの世話を頼んだ。
  
・慶応3年(1867) 後藤象二郎の命により吉田東洋門下:福岡藤次が
 長崎に行くことになった。岩崎彌太郎は福岡藤次に同行を求められ
 後藤象二郎に許可され、長崎へ行く。
  土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、欧米商人から船舶や武器を
 輸入したり、木材や樟脳(火薬原料)、鰹節など藩物産を販売して
 いた。後藤象二郎が岩崎彌太郎に主任を命じた。
 貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバーと取引し、藩の商務
 組織「土佐商会主任・長崎留守居役」に抜擢され、藩の貿易に従
 事した。

4月、坂本龍馬が脱藩罪を許されたため「亀山社中」は、土佐藩が
  引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」と称した。
  坂本龍馬が隊長となった。
 海援隊が土佐藩の外郭機関となると、岩崎彌太郎は
藩命により海援隊の海援隊の会計=経理担当になった。

4月23日
・慶長3年(1867) 4月 坂本龍馬の脱藩が許された。
  土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。
坂本龍馬が隊長となった。
 海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、
 脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を受け入れた。
 「海援隊約規」には「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、
 海外の志のある者、この隊に入る」「運輸、射利、投機、開拓、
 本藩の応援」とあり、射利=利益の追求が堂々と掲げられていた。
 会社と海軍を兼ねた組織であり、航海術や政治学、語学などを学
 ぶ学校でもあった。

4月23日午後11時頃、 「いろは丸沈没事件」
 瀬戸内海の備讃瀬戸の六島(現岡山県笠岡市)で紀州藩の明光丸
 と衝突し、近くの鞆港(現広島県福山市)に曳航しようとしたが、
 浸水のため宇治島沖で沈没した。

・「いろは丸」…1862年イギリス・バーミンガムで建造された。
 45馬力、160t、三本マストを備えた蒸気船で「アピソ号」と
命名される。
 9月22日(旧暦8月14日)。大洲藩郡中奉行:国島六左衛門が
 長崎において坂本龍馬と五代友厚の仲介によりポルトガル領事
 ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから4万メキシコ・パタカ
 (万延小判で3万3600両となる)で購入した。
 「いろは丸」と改名した。
 伊予国大洲藩(現愛媛県大洲市)が所有していた。
「いろは丸」は数回、海運業としての航海を行った。
 亀山社中の同志:菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎
 などがあたっていた。
「いろは丸」と亀山社中:海援隊は深い係わりを持っていた。
 慶長3年(1867) 4月 大洲藩は、いろは丸を坂本龍馬の海援隊の
 海運業務のため、一航海15日につき500両の使用契約をした。
 坂本龍馬:海援隊が借りた「いろは丸」の最初の航海であった。

・「明光丸」…150馬力、887t、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船
である。積載量は160tあり、いろは丸の6倍近い巨船であった。
紀州藩が、15万5000ドルかけてイギリスから購入した。
◆参考サイト「坂本龍馬人物伝:いろは丸」
http://www.ryoma-den.com/shiryou/irohamaru.html

 瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突。
明光丸は一度いろは丸に衝突した後、あわてて後退し、またもや前進
 して2度にわたり衝突したという。
 いろは丸は自力航行不可能となり、坂本龍馬率いる海援隊乗組員が
 明光丸に乗り移った後、備中:宇治島沖で沈没しました。
 ⇒坂本龍馬は土佐藩の重役:後藤象二郎に事態を報告した。
 

◆平成18年(2018)6月20日、歴史ヒストリア「三菱を造った男」では
お互いに航海日誌を提出し、衝突の原因と責任について激しい攻防戦が
 行われた。
・(7月14日の 深掘亀ケ崎出船 の古い絵図)
いろは丸は伊予大津藩から借りていた船であった。
  当然、土佐藩が弁償しなくてはならない。
坂本龍馬は購入の斡旋・仲介もしている万延小判で3万3600両と
  なるので、「約3万6千両」にはなると、伝えたのであろう。

そこで、岩崎彌太郎・坂本龍馬の一計・・・
 
・5月15日 土佐藩と紀州藩の談判が始まった。
  しかし、議論は平行線をたどる。
 
 坂本龍馬「此度は西洋式の船同士の初めての事故・・・。
  『万国公法』だけでござる。

 …国際的な航海規則・・・

 坂本龍馬は紀州藩に弁償させることに成功した。
 「8万4千両・・・船、積みに銃400丁…ここにからくりが・・」

※1989年「いろは丸の潜水調査」
  鉄砲・弾薬の類はなかった。

●水中考古学研究所「吉崎伸さん」
 「部品は見つからなかった。積んでいなかった」
 

●岩崎彌太郎「瓊浦(けいほ)保日記」
「坂本良馬密談、紀州償金ノ帖面相調べ」
  
 ⇒坂本龍馬・岩崎彌太郎のはったり? ごまかしだった?

井上「やはり 2人の「ハッタリ」だったのかもしれません。」

彌太郎「いや〜 こたびばかりはさすがに肝が冷えたぜよ。
龍馬「アッハッハッハッ!わしもぜよ。」

井上「共に危機を乗り越え絆を深めた2人。・・・」

****************************

◆賠償の交渉…坂本龍馬・岩崎彌太郎がとったいろは丸事件の交渉術
海援隊は坂本龍馬をはじめ、総掛りで賠償の交渉に55万石の紀州藩を
 相手に、あたった。
整理すると
1)坂本龍馬は「いろは丸の事件を後藤象二郎に報告した。
 いろは丸は伊予大津藩から借りていた船であった。
 当然、土佐藩が「約3万6千両」を弁償しなければならない
「紀州藩と一戦交える臨戦態勢で望まなくてはなりません。」
 と後藤象二郎に伝えたと考えられる。

2)岩崎彌太郎・坂本龍馬の一計を案じた。・・・
坂本龍馬が「家には誰も近づけんように」と見張りを付け、岩崎彌太郎と
作戦を考えた。
@作戦は、『万国公法』を元に、航海日誌を見せあい、どちらに非があるか
 争い、紀州藩に賠償金を出させる。土佐藩が弁償する船の「約3万6
 千両」以上に紀州藩に出させるために、積み荷の中に最新式鉄砲400挺
 ・弾薬代も払わせてしまおう。はったりを咬まそう。

A京都の出版元に「万国公法」の印刷を依頼した。
Bいろは丸に乗っていた海援隊のメンバーに航海日誌の詳細に記させた。
Cさらに談判記録を詳細に書くように命令した。

・5月15日 土佐藩と紀州藩の談判が開始された。
  しかし、議論は平行線をたどる。
D坂本龍馬「此度は西洋式の船同士の初めての事故・・・。
  『万国公法』だけでござる。
 と、『万国公法』を見せた。
  …国際的な航海規則に乗っ取り、・・・
 まず、航海日誌をお互いに持ち出すようにした。

E坂本龍馬は紀州藩の船長らと直接交渉する運びにさせた。
  紀州藩の交渉役も坂本龍馬の言い分がもっともなので、
  船長を交渉の席に呼ばせた。
  紀州藩の船長は実際の航海、航海日誌でも不利な状況は承知して
  いた。
  

F土佐藩から後藤象二郎を呼び、交渉にあたるように仕向けた。
 坂本龍馬・岩崎彌太郎は交渉に土佐藩の後藤象二郎が加わり、
 土佐藩と紀州藩の事件に発展した
 坂本龍馬・岩崎彌太郎も一緒に応戦した。
 さらに、後藤象二郎も「約3万6千両」を弁償があるので、
 ひつこく、紀州藩に損害賠償の請求を責め立てた。
 例えば、「10万両」などと喚いたのであろう。

Gこの間、坂本龍馬は長崎の繁華街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」
 という歌を流行らせ、世論を味方につけた。

H紀州藩としては、賠償金を多く払いたくない。
 しかし、土佐、薩摩、長州を敵に回すことを恐い。・・・・
 紀州藩は、和解を求めて、やむなく、いろは丸のもう一人の仲介者
 :薩摩藩の五代友厚に仲介を依頼した。

I最終的には土佐藩参政:後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行:茂田一次郎
 とのトップ会談に持ち込まれ、遂に紀州藩は賠償金の支払に同意した
 のである。
 紀州藩は 「船、積みに銃400丁の賠償金8万4千両」を支払った。
 
 …ここにからくりがあった。
※1989年「いろは丸の潜水調査」では鉄砲・弾薬の類はなかった。

 決着の裏には、坂本龍馬や岩崎彌太郎の根回しや対応が実を結んだ
 物であることは確かであろう。
岩崎彌太郎の計算力、坂本龍馬の人脈、交渉力の勝利であった。


・慶長3年(1867)7月 中岡慎太郎が陸援隊を組織した。
  中岡慎太郎は倒幕運動に奔走した。
 坂本龍馬は大政奉還、内戦回避の考えていた。
 中岡慎太郎は薩摩・長州の武力倒幕を主張した。
 意見が相違した。

11月15日(12月10日)、坂本龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の
 中岡慎太郎とともに暗殺された。

しかし、岩崎彌太郎は紀州藩が支払いに応じた知らせを聞いた頃、
坂本龍馬は近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されたとの知らせが
入ったころだったという。

 戊辰戦争が始まった。

・明治元年(1868) 閏4月 長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館
  大阪出張所(大阪商会)となった。
岩崎彌太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、開成館大阪出張所
 に移った。
岩崎彌太郎は藩営事業である開成館大阪商会の責任者として海運に貿易
 に縦横無尽の活躍をしていた。
 しかし、高知にはそれを快く思わない勢力があった。
 横目付の石川七財もその一人であった。
 石川七財は岩崎彌太郎の行状を監査すべく大阪に派遣された。
石川七財は西長堀の船着場に降り立った。石川七財は岩崎彌太郎の
 周辺を探り始めた。私腹を肥やしていると疑われ、岩崎彌太郎は
 金銭出納帳など全てを石川七財に見せた。
 岩崎彌太郎は日本の置かれた立場を語り、海運・貿易の重要性を
 説いた。石川七財は岩崎彌太郎の話に共鳴してしまった。
 目付として派遣された石川七財を勧誘し、商会に入れた。
 石川七財は大阪に留まり、やがて岩崎彌太郎の右腕になった。
 
 さらに、明治政府が藩営事業を禁止しようとした。

・明治2年(1869) 10月、土佐藩首脳:林有造は海運業私商社
  として土佐開成社を立ち上げた。
  代表は海援隊の土居市太郎と長崎商会の中川亀之助であった。
  岩崎彌太郎は事業監督を担当した。
土佐開成社は「九十九(つくも)商会」と改称し、岩崎彌太郎は
  再び海運業に従事した。

・明治3年(1870) 岩崎彌太郎は土佐藩の少参事に昇格し、大阪
  藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した。
 10月 九十九商会の海運業を行う私商社の指導者となった。

  維新後、グラバーは造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との
 関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収
 が滞った。グラバー商会は破産した。
 グラバーは高島炭鉱(後、官営)の実質的経営者として日本に留
 まった。三菱に雇われた。海援隊の残務整理を担当した。

・明治4年(1871)廃藩置県
岩崎彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者と
 なった。
  九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航した。
 鴻池や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現大阪市西区堀江
 土佐稲荷神社付近)を買い戻した。

 英国P&O社がすでに日本の国内航路にまで進出していた。
 日本にとって、産業の基盤となる海運の育成は急務であった。
 しかし、和船や老朽化した汽船がほとんどの日本海運には競争力が
 なく、沿岸輸送は米国のPacificMail Steamship社(PM)や英国の
  Peninsularand Oriental Steam Navigation社(P&O)に独占されつ
 つあった。
  明治政府は「廻漕会社」を設立し、幕府所有の蒸気船を与えた。
 しかし、太刀打ち出来なかった。
 
 九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で快調だった。

・明治5年(1872)、明治政府は「日本国郵便蒸汽船会社」を三井、
 鴻池、小野組などに設立させた。井上馨・渋澤栄一等の推薦で諸藩から
 取り上げた蒸気船16隻を与え、運航助成金も支給した。

 九十九商会は三川(みつかわ)商会となった.
代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助であった。
 
・明治6年(1873) 廃藩置県後のに、後藤象二郎の肝煎りで
 土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、
 現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九
 商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立した。
 三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。この時、土佐藩主
 山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマーク
 を作ったということはつとに有名である。

 最初に岩崎彌太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一
 貨幣制度に乗り出した時、各藩が発行していた藩札を新政府が買い
 上げることを事前にキャッチした。岩崎彌太郎は、十万両の資金を
 都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な
 利益を得る。
 情報ソースは新政府の高官:後藤象二郎である。
 後藤象二郎は最初から、政商:岩崎彌太郎を想定していた。
 現在のインサイダー取引である。現在でも続く。
 田中角栄氏のロッキード事件・・・
 中曽根総理の□□□□事件、・・・
 □□□□の加計学園疑惑事件・・・結論がでていない
 ★全く、腐りきっている政府と企業の癒着を暗示させている。
  しかし、岩崎彌太郎は、これが悪とは考えていないことが
  面白い。

 新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%を
 手中に収めた。 これと並行して海運業からの多角化によって三菱財閥
 の基礎を築いた。


・明治7年(1874) 明治政府は台湾出兵を決定した。
明治政府は軍事輸送を英米船会社に依頼した・しかし、中立を理由に
 拒否された。次に「郵便蒸汽船会社」に依頼しようとした。
 「郵便蒸汽船会社」は蒸気船を16隻持っていたが、軍事輸送の間に
 三菱に顧客を奪われることを恐れたため、躊躇した。
 それ故、明治政府は「三菱」に大量の軍備輸送を依頼した。
 岩崎彌太郎は「千載一遇のチャンス。」と三菱が引き受けることにな
 った。しかし、三菱の蒸気船は3隻しかなかった。
 政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託した。
 三菱は陸上要員も含め、海上輸送に当たった。
明治政府の

・明治8年(1875)、明治政府は「日本国郵便蒸汽船会社」の解散を
 命じた。
 岩崎彌太郎は横浜ー上海間に航路を開いた。
 米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争
 に陥った。
 明治政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、
 さらに「日本国郵便蒸汽船会社」の船舶18隻が無償供与した。
 岩崎彌太郎は社名を「郵便汽船三菱会社」と変更した。
 駅逓頭:前島密はPM社営業権買取を主張し、三菱は買取に成功した。

・明治政府は三菱に命じ、霊岸島に三菱商船学校(東京商船学校)
 を設立した。


・明治9年(1876)
 3月、世界最大の海運会社である英国のピー・アンド・オー社が
 上海・横浜航路のみならず大阪・東京航路にまで進出してきた。
英国P&O社が香港:上海・横浜・大阪・東京間に割り込んで、
 新興三菱に反発する顧客を取り込んだ。
(@天保13年:1842、イギリスと最大の植民地であるイギリス領
  インドへの旅客サービスを開始した。、
  A弘化元年:1845、イギリスとシンガポールと香港への旅客サー
  ビスも開始した。
B安政7年:1860、イギリス〜日本間の旅客サービスを開始した。
 
P&O社と熾烈な価格競争となった。
 新興日本の「三菱」は早くも危機に直面した。
三菱は大胆なリストラと徹底的な経費削減を実施した。
岩崎彌太郎は50%減給宣言し、社員は給与の3分の1カットとなった。
陸上の事務員も海上の船員も顧客確保と安全運航にあたった。
・・・必死の防戦6カ月・・・。
9月、P&O社は三菱と明治政府は合同で保守したため、上海・日本航路
 からの撤退を決めた。
岩崎彌太郎はこの勝利は社員の奮闘の賜であるとして、 各人の働きを
上中下に査定した上で年末に賞与を支給することにした。
金額はほぼ1カ月分の給与にあたる。
 岩崎彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則
で三井住友にない社長独裁を謳っ。その他、福沢門下生で三菱に入ったも
のは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治
 生命創業)がいた。

・明治10年(1877) 西南戦争
明治政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送を担った。
 三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにした。
 政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送した。
 
 鎮圧後、三菱は金一封や銀杯が下賜された。
 戦費総額4156万円のうち三菱の御用船運航収入総額は299万円、
 当期利益は93万円(東京市年度予算超)となり、西南戦争によって
 得た運輸代金は1300万円という莫大な額にのぼった。
更に戦争終了後の軍需品の処分でも大きく儲けた。
 三菱は、無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納した
 のち、買い増して所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占
 めた。
(★ウィキペディアより)
三菱は政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた。
・明治11年(1878) 三菱商業学校を神田錦町に設立した。
 また、岩崎彌太郎は、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、深川清澄
 の屋敷(清澄庭園)、駒込の庭園(六義園)を購入した。

 岩崎彌太郎はは「国あっての三菱」という表現をよく使った。
 しかし、海運を独占し「政商」として膨張する三菱に対して世論の批判
 が持ち上がっていた。
 農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、岩崎彌太郎
 は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それ
 でも政府は大丈夫なのか?」と反論した。

・明治11年(1878) 紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺された。
ここで、三菱はバックボーンを一人失った。

・明治13年(1880) 三菱は東京風帆船の株を買い占め、東京株式取引場
  と東京米殻取引株を買収した。

・明治14年(1881) 官営事業払い下げで三菱の岩崎彌太郎が
  高島炭鉱を買収してからもグラバーは所長として経営に当たった。
  大隈重信は自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して、
 早期の憲法公布と国会の即時開設を説いた。
 一方、開拓使官有物払下げを巡り、盟友である伊藤博文・井上馨ら薩長
 勢と対立した。

 10月12日、大隈重信は参議を免官となった。
 10月15日付で、辞表を提出した。
 明治十四年の政変で三菱の最大の保護者・後援者であった大隈重信が
 失脚した。
 大隈重信と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強めた。
岩崎彌太郎は三井家の背後にいる井上馨・渋沢栄一を敵に回した。
 共同運輸会社と死闘を繰り広げた。

 岩崎彌太郎は借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭鉱を買い取った。

・明治15年(1882)7月 第一国立銀行頭取:渋沢栄一や三井財閥の
 益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い
 共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
 三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争
 開始以前の10分の1にまで引き下げられた。

・明治18年(1885) 2月7日 満50歳で病死した。
 岩崎彌太郎の死後、三菱商会の郵便汽船三菱会社は政府の後援で熾烈
 なダンピングを繰り広げた三井系国策会社:共同運輸会社と政府の仲
 介で合併し「日本郵船会社」を設立し、価格競争を避けた。
 三菱の後を継いだ弟:岩崎弥之助は帝国議会の創立時に天皇から勅選
 され貴族院議員となった。
 現在では、日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

 グラバーは三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプ
 リング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒
 (現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。


岩崎彌太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を
輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだ
けの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は
他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。


岩崎弥之助
・明治6年(1873) 11月、父の弥次郎が急逝し、兄:岩崎彌太郎の
懇願もあって1年で留学を中断して帰国した。
 三菱商会に入社。
・明治7年(1874) 秋、岩崎彌太郎夫婦の仲人で後藤象二郎の長女:
 早苗子と結婚した。
兄:岩崎弥太郎の事業を助け、米国の太平海郵便汽船や英国のP&O
汽船会社との競合に手腕を振るった。

・明治18年(1885) 2月 岩崎彌太郎弥太郎が死亡した。
 2代目総帥として三菱の多角化に尽力した。
 三菱商会に共同運輸会社を合併して日本郵船を誕生させ、海運部門を
 切り離すことで、鉱山開発や造船建造、地所、金融、倉庫などの事業
 を興した。

・明治23年(1890)、政府から丸の内の土地購入の打診があり、荘田
平五郎や末延道成に相談したうえで120万円で購入した。
  『三菱の三大買い物』の1つに挙げられている。

・明治26年(1893) 三菱合資会社を設立した。
  三菱の総帥の座を甥の久弥(弥太郎の長男)に譲り、監務(相談役)
 の役職に就いた。

・明治29年(1896) 川田小一郎の後任として第4代日本銀行総裁とな
 った。大蔵大臣と折り合いが悪かった。

●明治29年、9月10日〜22日、岩崎彌太郎?(弟;彌之助と
思われる。)は大隈重信・井上馨・・樫村清徳・河東碧梧桐・布
畦ハワイ領事兼領事館出納官吏兼外交官事務取扱は伊香保
『宮内省御用邸』に滞在した。

・明治31年(1898) 日本銀行総裁を2年ほどで退職した。
 帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった。


◆明治時代編************************
箕輪初心▲伊香保33≪新居守村:明治3年(1870)≫榛名神社の神仏分離取締
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_9.html

箕輪初心:生方▲伊香保35群馬県立土屋文明記念文学館
「榛名・伊香保文学紀行46人」
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心:生方▲2018高崎30『鼎談』と【小栗上野介忠順企画展】
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_10.html

箕輪初心:生方▲伊香保35≪デシャルム大尉:M6≫フランス人将校
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_12.html

箕輪初心:生方▲伊香保36≪三遊亭円朝M7≫落語家『霧隠(陰)
伊香保湯煙』
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_13.html

箕輪初心:生方▲伊香保37≪アーネスト・サトーM10 ・M28≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_14.html

箕輪初心:生方▲伊香保38≪ベルツ博士M10・M13・M14≫「楽山館」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_17.html

箕輪初心:生方▲伊香保39≪小林虎三郎M10≫『米百俵』と「伊香保日記」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_19.html

箕輪初心:生方▲伊香保42≪英照皇太后陛下(考明天皇の皇后)M12≫「凌雲閣」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_21.html

箕輪初心:生方▲伊香保43≪大槻文彦M12・M15・M40 ≫「楽山館」「村松旅館」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊香保44≪岸田吟香:安政6年(1859) ・安政7・M12≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_24.html
★非常にユニークな人生を歩んだ。

箕輪初心:生方▲伊香保46≪箕作麟祥M12楽山館≫法学者
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_25.html
箕輪初心:生方▲伊香保47≪田中芳男:M12≫パリ万博→上野動物園設立
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_26.html

箕輪初心:生方▲伊香保48≪島田三郎:M12「楽山館」≫書記官:衆議院議員
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_28.html

箕輪初心:生方▲伊香保49≪森槐南M12≫漢詩人、官僚
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_30.html

箕輪初心:生方▲伊香保50≪鈴木(鯱)松塘(しょうとう)M12≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_31.html

箕輪初心:生方▲伊香保51≪北村重威M12≫築地精養軒・上野精養軒
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_34.html

箕輪初心:生方▲伊香保52≪成島柳北M12:木暮武太夫泊≫ジャーナリスト
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_35.html

箕輪初心:生方▲伊香保53≪末広鉄腸M12木暮武太夫11泊≫ジャーナリスト
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_36.html

箕輪初心:生方▲伊香保55≪英照皇太后:M12/M13「楽山館」≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_38.html

おまけ****************************
箕輪初心:生方▲歴史に隠れた大商人「清水卯三郎」のパリ万博と
『ジャポニズム』
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_40.html



箕輪初心:生方▲伊香保55≪内村鑑三M16(1883)?≫
「榛名湖水質調査報告書」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_39.html


箕輪初心:生方▲伊香保54≪三島中州:M13木暮武太夫泊≫漢学者・官僚
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_37.html

箕輪初心:生方▲伊香保55≪内村鑑三M16?≫ 「榛名湖水質調査報告書」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_39.html

箕輪初心:生方▲伊香保55≪内村鑑三M16(1883)?≫ 「榛名湖水質調査報告書」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_39.html

箕輪初心:生方▲伊香保56≪新島襄・新島八重M22:千明仁泉亭で療養≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_43.html

箕輪初心:生方▲伊香保57≪小沢如風:M22≫
&「伊香保・榛名ブログ途中経過一覧」
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_2.html

箕輪初心:生方▲伊香保58 ≪金井之恭:伊香保の別荘≫
→『ハワイ公使館』
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_3.html

箕輪初心:生方▲伊香保59≪ロバート・W・アルウィン≫ハワイ公使別邸
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_4.html

箕輪初心:生方▲伊香保60−1『夏目漱石M27』大塚楠緒子との結末?
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_5.html

箕輪初心:伊香保60−2『徳川家康家臣:夏目吉信と子孫夏目漱石
の温泉廻り』
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_6.html

箕輪初心:生方▲伊香保61≪夏目漱石の憧れ大塚楠緒子M27≫
『湯の香38』
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_8.html

箕輪初心:生方▲伊香保62『大塚楠緒子をめぐる夏目漱石
と大塚保治M27』の関係
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_10.html

箕輪初心:生方▲伊香保62『大塚楠緒子をめぐる夏目漱石と大塚保治M27』
の関係
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_10.html

箕輪初心:生方▲伊香保番外編『原田龍二「昼めし旅」
『伊香保温泉&水沢:わたりや』
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★明日の伊香保関係は河東碧梧桐かな?

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