箕輪初心:生方▲伊香保№58≪金井之恭:伊香保の別荘≫→『ハワイ公使館』

★幕末の「偉人」の人物像は基本的に書くのは無理がある。「勝てば
官軍」で、歴史がネジ曲げられるからである。個人的には金井之恭
も時代の波の中でうまく立ち回った人間であることは間違いない。
■明治初期 ≪金井之恭≫は霧積温泉や伊香保温泉に別荘を持って
いた。「伊香保の別荘」の土地を井上馨の斡旋でハワイ公使に譲渡
する約束をした。
●明治中期 「ハワイ公使別邸」完成。明治31年(1898)まで、
駐日公使ロバート・ウォーカー・アルウィンに別邸として使用された
画像





箕輪初心◆水戸天狗党3-1『水戸~下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html


・天保4年(1933)9月18日(10月30日)
 上野国佐位郡島村(現群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家
 の父:金井烏洲の3男(伊勢崎の系図)4男として生まれる。
本名金井文八郎 

金井之恭(ゆきやす)の家は伊勢崎の利根川南の世界遺産
「田島弥平」の家の近くに家がある。

 金井氏は新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。

 幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。

水戸天狗党に加担し岩松家を持ち上げたり、戊辰戦争での西軍に
味方したりした幕末の勤王の志士である。

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_9.html

①新田官軍の挙兵
・文久3年(1863) 岩松俊純は師:桃井可堂から攘夷の挙兵
 ならびに横浜の外国人襲撃計画を持ちかけられた。
 しかたなく、岩松俊純は56人を集めた。

②新田官軍と水戸天狗党
・元治元年(1864)
水戸天狗党の動き~~~~
3月20日 藤田小四郎(藤田東湖の四男)は水戸町奉行:田丸稲
 之衛門を総帥として府中(=土浦)に迎えた。
3月27日田丸稲之衛門・藤田小四郎ら63名が『尊王攘夷』を旗印
  に筑波山で挙兵した。水戸天狗党と呼ばれる一派であった。
 やがて、若い武士・諸国の浪人・農家の次男三男等が続々と筑波に
 やってきて、総勢400人程になった。 
4月2日 筑波山→宇都宮
※本当は徳川の神廟に立て籠もり、尊王攘夷論を展開するつもり
だった。江戸幕府も大砲は撃たないと考えた。
4月10日 藤田らは藩主:徳川斉昭の遺志を奉じ、館林藩が警護す
 る日光東照宮を参拝して、戦勝祈願をした。

◆◆ 箕輪初心★日光東照宮 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_28.html

◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉:日光編 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201207/article_28.html

4月14日 太平山(栃木市)の蓮祥院を本陣とし、葵の紋をたて
 て、上州(群馬)や野州(栃木)で軍資金の調達を始めた。

4月15日~17日 水戸町奉行:山国兵部が追捕史となった。
江戸幕府からも天狗党追討令が出された。
そして、水戸藩及び江戸幕府は本格的に筑波討伐を始めた。
やがて水戸天狗党が劣勢となった。

5月2日 先鋒軍は太田宿に入った。
 古久屋三郎次の旅籠に水戸天狗党3人泊まった。

5月6日 伊勢崎の柴宿の柏屋
栗田源左衛門らは森村園右衛門の2000両の軍事金を出させた。
 田中げん蔵らは桐生4765両の軍資金を調達した。
 その他の浪士は、藤岡・小幡・天引・国峰・富岡・下仁田・
 で軍資金を調達した。
(★上州の明治維新」:中島明著)

5月28日 鈴木三郎ら5人は、渋川などで、強引に金を出させた。
 そのため、「水戸の天狗」と呼ばれた。

◇5月28日 江戸幕府は水戸天狗党の鎮撫を要請した。
5月31日 本隊は太平山を下りた。
6月4日  筑波山の本坊を本陣にした。
6月9日 ▲江戸幕府は高崎藩以下11藩に対し、厳しい命令を出した。
6月25日 ▲高崎藩2,000人が小山(茨城県)に出兵した。

7月9日 下妻:高道祖の戦い
天狗党と幕府軍の最初の交戦は下妻であった。
 高崎藩は幕府軍の本陣の寺が火事になったと思い、敗走した。
 幕府軍が勝利をおさめた。
7月9日 水戸天狗党の下妻(茨城県)の夜襲
  水戸天狗党は、勝利に気を良くし祝杯に酔った幕府軍の寝込に
 夜襲をかけ、総崩れさせた。
7月25日~水戸・銚子・潮来と転戦した。 
8月12日 武田耕雲斎が立ち上がった。
8月13日 磯浜(大洗)の戦い
8月17日 ▲幕府軍は大磯の沖より那珂湊を攻撃
8月25日 ▲幕府軍:田沼意尊が水戸講道館本営に入った。
幕府軍は1万3,000人の討伐兵を送り込んだ。
10月10日 幕府軍の総攻撃開始。
10月15日 武田耕雲斎が合流。
10月23日 武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・
   藤田小四郎ら900余名は那珂湊を脱した。・・・大宮へ
10月25日 藤田小四郎らは大子(だいご)村に集まった。
 (★袋田の滝の近く)
 水戸天狗党は、京都在住の一橋慶喜公に決起の心情を訴えようと
 考えた。
10月26日 総帥は田丸稲之衛門から武田耕雲斎となった。
11月1日 西上開始である。
出発地は水戸藩の大子(だいご)村であった。
 水戸天狗党の幕府追討軍&追悼命を受けた通過地点11藩
 と戦いながらの過酷な長旅が始まった。
天狗党の残党920余名は尊王攘夷の素志を貫徹すべしと、在京の
 徳川慶喜へ進言するために西上の途を決めた。
★沿道の11諸藩は何事もなく領内を通り過ぎることを願った
  のであろう。

11月2日 黒羽藩の攻撃を受けた。
11月4日 伊王野→芦野(泊)
11月5日 那須野原→矢板・・
11月6日 ・・鬼怒川・・
11月7日 ・・・今市・・(日光街道)・・・鹿沼・・
11月9日 ・・・・・・・葛生・・
11月11日 太田宿・・・宿割りをした。
※太田金竜寺説=大塚政義氏
※太田橋本家節=中島明氏
  雨天のため、休養日であった。
本陣となった橋本家は武田・藤田らを温かく迎えた。
新田官軍の「岩松萬次郎」を頭主にしようを考えた。
 新田義貞の生品神社での挙兵と同じで、幕府を倒しての
 正当性が生まれるからである。同時に、多くの賛同者が
 出てくると考えたのである。
(★上州の明治維新」:中島明著)
藤田は以前から意を通じていた新田在住の新田一一族も
大舘謙三郎・黒田兆民らとともに、岩松萬次郎の決起を
促した。しかし、失敗に終わった。
金井三郎=おそらく金井之恭(境島村の金井烏州3男)
は子育て吞龍様の大光院を訪ねた。地図を広げ、「前橋藩・
高崎藩…伊勢崎藩がここにいる。従って、この間道を行け。」
と教えた。 
★世良田→境島村→本庄→藤岡コースであった。
 軍事金集めに再び入った。  
▲水戸天狗党の背後に佐野藩兵、追討軍本隊、
前には川越大砲隊・伊勢崎藩兵・連取農民兵がいた。
※前橋藩は87名の部隊を新田に送った。
(下仁田には286人の部隊であったが、到着は内山峠越え後
  であった。)
11月12日 太田昼過ぎ出発・・・
 木崎宿→中江田村→世良田村→
 午後4時~夜~午前3時、境の「平塚河岸」→利根川→武州向島
 (深谷市)・・・
11月13日
現伊勢崎の境島村・・・
 ★あれ、田島弥平さん宅前だ。金井烏州3男:之恭のアドバイス通り
 のコースにしたのだ。・・ 
 本庄宿(泊)
▲岡部藩は利根川を渡る水戸天狗党の最後の方の一部を捕縛した。
11月14日
▲高崎藩は新町川原まで進軍してきた。
藤岡で、町役人に納涼台を持って来させた。休息中でも油断は
していなかった。
 藤岡の武井三岳が500両を田丸に渡した。
吉井藩領の町役人:堀越文左衞門は、城主:松平信発に
 聞いてから、対処したい。しかし、物々しい支度で、
 領内を通られたのでは、殿に申し訳ない。」
 といった。
 薄井蔵人は旗をしまわせた。
 →吉井(泊)
▲高崎藩は夜襲を考えていたが、吉井藩領なので、躊躇した。

11月16日 水戸天狗党に触発されて東毛出身の金井之恭は
 岩松時兼の子孫:大館謙三郎・高木七平らに「岩松満次郎を
 説得して討幕運動の大将に据えようと考えた。岩松が満次郎
 が新田義貞の子孫であったからである。討幕派や尊皇派から
 見れば、新田義貞は英雄である。だから、新田一族を旗頭に
 する意味は大きかった。
→しかし、一度は岩松満次郎は拒否した。
箕輪初心◆水戸天狗党3-1『水戸~下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html


③新田官軍と小栗上野介
・慶応3年(1867) 岩松満次郎は新田勤王党を結成。
10月14日 大政奉還が行われた。
※西郷隆盛は江戸の放火を命令
   →相良総三など500人が放火・強盗。 
★ 新田官軍総帥達は相良総三と懇意で、同行したらしい。

12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
  幕府側:小栗の薩摩藩邸襲撃で、山形に敗走。
★新田官軍・相良総三の逃げ延び先は清河八郎の家かも
   しれない。
★勝海舟は相良総三の相棒:益満休之助と昵懇であった。

★小栗上野介はさらに、薩摩の恨みを買った。
 →鳥羽伏見の戦いの火種に発展
→倉渕で斬首へ発展。


 
・慶応4年(1868)
・1月12日 新田官軍を結成した。
  岩松満次郎は、勤王党の精鋭40名程を選び出し、新田官
 軍を組織した。岩松満次郎の新田官軍の中に群馬郡権田村の
 農民が2人いた。金井之恭や大館謙三郎は、この2人に、倉
 渕の東善寺にいる小栗忠順の行動を探索させた。
 総督府に小栗上野介の動向を通報することにした。

小栗上野介を敵対視し、新田官軍を立ち上げた張本人で
ある。

3月12日 新田官軍を結成した。(★ウキペディアでは)
※新田官軍(太田市の平安時代末期の新田一族)の動き
・大将・・・・・岩松俊純
箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国~岩松代々の館
http://53922401.at.webry.info/201303/article_11.html  
・副大将・・・大館謙三郎
箕輪初心●群馬旧尾島町6『大舘館』=新田一族
http://53922401.at.webry.info/201303/article_9.html

※新田官軍は東山道総督府に従軍嘆願書を提出。
 領内で発生した世直し一揆を鎮圧。

 江戸に行った。
新田官軍隊員の素性の悪さ・素行の悪さで
新田官軍は謹慎扱いとなった。
しかたなく、一度は新田の下田島村に帰還した。

※金井之恭は新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵
 を企て事が露顕して投獄された。
  
4月2日 行田に入った総督府に、新田官軍は従軍した。
東山道総督府に従軍~~~~。
 岩松満次郎は「小栗に反逆の意思がある。」と報告した。

4月5日 総督府は、小栗を捕らえて、斬首した。
小栗上野介が斬首された。

4月8日 岩松満次郎は、総督府から銃35丁と弾薬、食料な
  どをもらうとともに、菊の章旗を授けられ正式に官軍として
  認められた。  
(★『群馬県史』)
★小栗上野介の斬首されたきっかけを作ったのは、新田一族の末
裔:岩松満次郎ということになる。

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介④「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介③「業績&提唱」
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

・慶応4年(1868)
 新田官軍は総督府に復帰を願い入れると、そのまま、
東山道先鋒総督の東下の従軍を命じられた。
 上野戸倉における会津軍追討を担当することになった。


・明治時代
・明治元年(1868)9月、東京府市政局に出仕した。
金井之恭は「新田官軍の行軍」により明治時代に官僚となった。
・明治2年(1868) 太政官少史になった。
三書家の1人と言われている。
字は子誠。号は金洞(きんどう)・梧楼・錦鶏などがある。


明治政府で内閣大書記官、元老院議官、貴族院議員を勤めた。


・明治40年(1907) 5月13日 浜松で客死した。

※上毛カルタでは、意外と話題に登らない人物であった。





★明日は

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