箕輪初心:生方▲『安中氏の盛衰』

かみつけの里博物館の清水豊先生による講座「戦国時代の窯
跡~清水遺跡再考~」から、新情報「岩松持国宛足利成氏
「書状」の野田忠持が新田庄:岩松持国に出した書状『野田
持忠副添状写』を紹介してくださった。
ふと安中氏を再考す
ることにした。関東享禄の乱の時、榎下上杉氏:上杉憲当(のりまさ)
が安中氏・小幡氏の擁護され、上杉憲房に味方した長野業政と
争った。長野氏が負け、長野業政は養女を安中忠政に嫁がせた。

安中氏は碓氷郡に古くから居た一族ではなく、越後国から碓氷
郡の野尻・松井田へ移住してきたとされるが、詳細は不明である。
その後、野尻と呼ばれていた地は安中と改められている。
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 (榎下城出土の銭・・・元の時代の貨幣も含む)
 (安中ふるさと学習館)


箕輪初心:生方▲20160320清水豊先生講演会【和田城の再検討】
https://53922401.at.webry.info/201604/article_3.html

箕輪初心:生方▲清水豊先生・新編高崎市史を加味した『和田城
年表改訂版2016』①和田業繁まで
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201608/article_31.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201608/article_32.html

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 (榎下城南隣接の清水遺跡出土のかわらけ)
 
清水豊先生の説
 ①2号窯跡……15C末か?(1490年頃~1500年頃か)
 ②5号窯跡……16C末か?(1590年頃~1600年頃か)


箕輪初心・生方私見(清水豊先生の考えより)
 ①安中氏が15C・・・秋間でかわらけを作らせた。
   1530年代の関東享禄の乱の時も作ったのでは?
 ②井伊直政が16C末、秋間の土でかわらけを作らせた。
   ⇒(箕輪城本丸出土のかわらけ)
    九戸の戦いの出陣式か?
   (井伊谷の初山窯の焼き物も出土している。)
   箕郷町に字名「茶園場」がある。
   茶席は下田邸か?(桃山時代の葡萄模様の欄間)
   茶の湯に安中の焼き物を使用したのではないだろうか?
 ③井伊直勝・重好も秋間の土で焼き物を焼かせたのでは?
   茶席を安中城でせり出しの茶席を儲けた。
   (佐野先生)
  
箕輪初心:生方▲伊香保№75【井伊直政・直孝・直勝の伊香保支配は41年か?】
https://ubu3blog.at.webry.info/201902/article_3.html




安中氏の歴史**********************

・永享12年(1440)~嘉吉元年(1441)結城合戦
安中氏は出てこない


康正元年(1455)5月13日 岩松持国宛足利成氏「書状」の
  野田忠持が新田庄:岩松持国に出した書状『野田持忠副添状写』
 「 大井播磨守 越坂 安中左衛門知行分 にて 取陣候由」
 意味…享徳の乱佐久の大井播磨守が碓氷峠または入山峠を越えて
  安中左衛門の知行地に着陣した。
 結果、享徳の乱時には既に安中氏は碓氷郡に拠っていた?。

長享元年(1487) 安中氏の移住としている。
  『安中記』には「長享元年丁未四月、上野国碓氷郡松井田小屋
  城ヲ建テ越後国新発田ヨリ引移ル」
 『上野志』には「越後国新発田より長享元未四月、上野国碓氷郡
 松井田西城小屋へ引移り住居す」

結果
① 上記「野田忠持副状」の記述と合わず、正確な年代は不詳である。
②越後のどこから碓氷郡へ土着したのかも不詳である。
 『和田記』『上野国志』では「越後国新発田から移住したと伝えるが、
 新発田に安中氏の痕跡がなく、新発田と断定しがたい状況にある。


永正4年(1507) 安中顕繁がいたことが分かる。
貫前神社所蔵「兜前立裏銘」
  「永正四年安中宮内大輔顕繁」

・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹
  の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。
①扇ヶ谷上杉朝昌
 長男:永明軒東永(宇田川親定)
 次男:上杉朝寧・・・子:上杉朝興
 3男:上杉朝良
 娘・・・・上杉憲房室
②扇谷上杉朝良の室:長尾顕忠の娘である。
  娘・・・長野業正正室
  藤王丸(生母長尾氏)
  養子:上杉朝興
③山内上杉憲房の正室は扇ヶ谷上杉朝良の妹である。
  扇ヶ谷上杉朝昌の娘(上杉朝良の妹)は上杉憲房の死後
  は扇ヶ谷(甥)上杉朝興の依頼で武田信虎の側室となった。
  →上杉憲房後室と武田信虎の婚姻、
 後、上杉朝興の娘は武田勝千代:晴信(信玄)に嫁いだ。
  扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり、扇ヶ谷上杉家
  と甲斐武田家の同盟はより強固なものとなった。
 
④長野業正の正妻は扇谷上杉朝良の娘である。
 私は理由を考えた。★上杉憲房が自分の妻の兄:上杉
朝良の娘を長野業正に嫁がせることで、権勢を維持しようとした
からであると考えた。

箕輪初心:生方▲箕輪城№180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

⑤上杉憲寛の正室:実弟小弓公方:足利義明の娘


・永正4年(1507) 古河公方足利成氏の次男:顕実が上杉顕定
  の養子:上杉顕実になった。
 上杉憲房は後継者から外されて庶流としての地位が確定した。
上野白井城に駐屯していたが、

・永正7年(1510)長森原の戦い(永正の乱の一部)
 上杉顕定と養子:上杉憲房は越後守護代:長尾為景を討つため
 出陣した。
山内上杉顕定が戦死した。
 上杉顕定配下の山内上杉憲房も撤退した。
上杉顕定の遺言により関東管領職は上杉顕実が継いだ。 

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html
★戦国史150年
★東国の戦乱
★上杉顕定:森田真一著
★群馬県史
★『古河公方展 古河足利氏五代の興亡』 :古河歴史博物館図録
・関東の大乱・・・群馬県歴史博物館
・中世文書集・・・群馬県歴史博物館
★長尾景春と鉢形城:鉢形城博物館
★埼玉県の城砦1/2
 などなどたくさん。

大永5年(1524) 安中忠清は榎下城・榎下神社を建てた。

・●大永3年(1523) 上杉憲房56歳の実子:上杉憲政が生まれた。

4)北条氏綱の侵攻
・大永4年(1524) 北条氏綱の侵攻。
 ①北条氏綱が江戸城を攻撃→占領。
 ②北条氏綱が岩付城城を攻撃→占領。
 ※扇谷上杉氏は、江戸城と岩付城を続けて失った。
 →江戸湾=東京湾の西部沿岸一帯を完全に制圧した。
 江戸湾東部沿岸を小弓公方・真里谷氏・里見氏が
 支配していた。
 後北条氏の軍事力に対する危惧・警戒感が一気に高まった。
 
 小弓公方・真里谷氏は江戸湾の制海権を掌握しかねない
 という危惧感を持った。後北条氏との対立を決意した。
 
 ところが、足利義明の排除を図る古河公方&
  江戸湾の制海権の確立を図る後北条氏の利害が一致
 した。・・・足利高基&北条氏綱が盟約を結ぶきっかけ
 となっていった。


・大永4年(1524) 山内上杉家の内訌
惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景
と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した。
長野方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略したことが知られている。
(★久保田順一先生講演会より)
箕輪初心:生方▲箕輪城№180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

・大永5年(1525) 上杉憲房が死去。
  上杉憲房の実子:上杉憲政は2歳と幼少だったことから、
 上杉憲寛は山内上杉氏の家督と関東管領職を継いだ。
山内上杉憲房に嫁いでいた上杉朝昌の娘(朝興妹)は扇ヶ谷上杉
 に戻った。
 (①後、上杉朝昌の娘は甥の上杉朝興の依頼で武田信虎の側室
  となった。→上杉憲房後室と武田信虎の婚姻→晴信が生まれた。
  ②上杉朝興の娘と信虎の嫡子:武田勝千代:
  晴信に嫁いだ。中に入ったのが彦部家である。
  2つの扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり、
  扇ヶ谷上杉家と甲斐武田家の同盟はより強固なものとなった。
 

????年 上杉憲寛の正室:小弓公方:足利義明の娘を
 貰った。
上杉憲寛の子:上杉憲当(のりまさ)は「榎下上杉氏」を名乗っていた。
(★おそらく安中原市の榎下城)

????年 長野業政の正室は扇ヶ谷上杉朝良の娘である。
兄弟姉妹
姉・・・・長尾景英正室
 長野業氏
 長野業正
 妹・・・・里見義堯正室
(★ウィキペディアの説)
長野憲業の娘が里見義堯正室
 ( 黒田基樹先生説)

・大永7年(1527)
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔と
ともに総社城を攻めすすめる。  
(★上杉家文書:山田邦明2002)

・享禄元年(1528) 長尾景誠が家臣に殺された。
長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房
を招き、正統をを継承させる。
長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
(★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)

●享禄2年(1529)~享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)

・享禄2年(1529)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)

8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (『続本朝通鑑』)

9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。
  (★黒田基樹説)
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS 安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 


・享禄3年(1530)
1月 上杉朝興は兵を率いて居城:河越城より出陣した。
   小沢・瀬田谷(世田谷)の両城を攻め、南武蔵に進んだ。

5月 
(小幡)「左衛門尉」が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
 ▲甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。

5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。

6月12日 ▲小沢原の戦(府中の南・・・多摩河原の小沢原)
  上杉朝興は武蔵国府中に出陣した。
北条氏綱は嫡男:氏康に出陣を命じた。
    北条氏康にとってはこの合戦が初陣だったという。
 上杉朝興 VS 北条氏康
北条氏康は乳母の子:清水吉政(静岡県下田)・中島隼人佐
  (麻生区万福寺)を引き連れ、上杉の陣を急襲したという。
 北条氏康は上杉勢を退け、初陣を飾った。
 北条方の圧勝に終わった。

9月 上杉朝興は太田資頼の攻撃で岩付城を奪回した。

10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。

・享禄4年(1531)
9月 関東享禄の内乱終了
足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

9月3日 上杉憲政が関東管領を継いだ。
   ・享禄4年(1531)
  
●結果

1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、足利高基
   は隠棲した。
2)結果、上杉憲寛は管領職を失った。
   上杉憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して、足利晴直と
   名を改めた。
 (★黒田基樹著)
  上杉憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲した。
上杉氏を追われた後は、「足利」に復姓した。
   同母兄の足利晴氏と同様に、将軍:足利義晴(古河公方
   :足利晴氏説)から偏諱の授与を受けて足利晴直(はるただ
    ・はるなお)と名乗った。
市川の宮原御所にいたことから宮原晴直と名乗ったとも
言われている。

3)敗れた上杉憲寛方の諸氏の処遇
  上杉憲寛方の諸氏は許された。
※箕輪長野方業=長野業政(飯森康弘説)
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹説)
 あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
(★黒田基樹説)


・天文元年(1532) 上杉朝興は藤王丸を殺害(享年15)し、実子:
  朝定を正式に後継者にした。


・天文2年(1533) 上杉朝興は武田信虎の嫡男勝千代(晴信)12
  歳の正室として娘を嫁がせた。



・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文6年(1537)4月27日、上杉朝興は河越城で病死した。享年50。
  跡を上杉朝定が継いだ。


◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:黒田基樹著:安中市ふるさと学習館
・『上州の戦国史』など
◆参考サイト
ウィキペディア

箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏
・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html



・天文年間
 安中氏は、関東管領:山内上杉憲政の配下であった。
 安中顕繁の後継の惣領は安中長繁であった。


・天文15年(1546)「河越夜戦」(かわごえよいくさ)
本隊・・北条氏康・大道寺政繁(後松井田城主)・
    多目元忠(後下仁田西牧城主・多米長定は箕輪城主)

上杉憲政の配下には長野業政・長野吉業(怪我で後死亡)・
  ・上泉信綱・小幡憲重・安中長繁・倉賀野行政・赤堀上野介
などがいた。
 後北条氏は旧上杉氏所領を直轄領とした。
    重臣:大導寺氏を配置した。
    
 ※川越の原型は、大導寺政繁によって、建造された。
          (★川越のパンフレット他)
    その後、大導寺政繁は、上野の松井田城の城主
    も兼任した。
川越夜戦ののち北条氏康が上野に侵攻して来た。
「川西衆」は北条方についた。
(★群馬県史、通史編)
 安中氏は
 ①北条方に変わった系統
 ②山内上杉憲政に最後まで従った
  安中七郎太郎系に分裂してしまった。
 ※惣領:安中長繁については
  北条方に変わったとする説・
  七郎太郎長繁説
   ・惣領家の交替説がある。
  上杉憲政について越後へ行くが消息不明となっている。

・天文16年(1547)
武田信玄が碓氷峠を越え愛宕山城に駐留させていた浅利・小宮山らが、
松井田(松枝)衆と競り合った。
(『甲陽軍鑑』)

・天文18年(1549)、「三尾寺合戦」
安中忠政を大将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦った。
(★富原道晴氏所蔵「三尾寺合戦の図」)

・天文19年(1550) 3月、武田信玄が松井田城を攻撃した
    (『上野志』)

・天文21年(1552)、山内上杉憲政を庇護した長尾景虎(上杉謙信)は、
平子・庄田・宇佐美氏らを将として兵を出し平井城を奪還した.。
 安中忠政が長尾軍を先導した。
 

・弘治3年(1557) 瓶尻の戦い
  箕輪城主の長野業政を大将として安中忠政らの上州諸将は、瓶尻に
 おいて武田勢と戦った・
  (瓶尻は松井田城の南にある人見原:人見団地付近)であろうと
  いわれる。
武田信玄は箕輪まで兵を出した。

・永禄2年(1559)安中忠政(重繁)が安中城を築いた。
  移るまでの
  35年間、安中氏の本拠地:榎下城は支城となった。
●榎下城発掘調査
★遺跡範囲は方形の館であったことがわかる。
 方形の館で、回りが土塁で囲まれてるのだ。
 原市城と同じ縄張りである。また、長野氏の
 北新波の砦・矢島砦(今は埋め戻し)と全く同じ
 構造だよ。
  中国のお金が大量発掘された。「元」の時代のものもあった。

 ★城址の歴史を紹介するような案内板などはない。
安中市教委の発掘調査報告書は一番詳しい。

・永禄2年(1559)
武田信玄は倉賀野16騎の一人、金井秀景が信玄に寝返った。

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵

 信濃国は甲斐武田信玄により領国化されていた。
 武田信玄は北信地域をめぐり越後の上杉謙信と敵対していた。


・永禄4年(1561)
長野景虎は小田原城を攻撃した。
近衛前嗣の前で、関東関東管領を嗣ぎ、上杉政虎と名乗った。
6月21日、長野業政が死んだ。
 
 第4次 川中島の戦い
  武田・上杉間の争いは上野方面へ移ってきた。

 武田氏は西上野侵攻を開始する。
 安中城を持つ安中惣領家は、安中重繁が箕輪城主長野業政と結び
 上杉方に属し抵抗した。

・永禄4年(1561)11月、武田信玄は梅原明神に西牧・高田・諏訪の
  三城の攻略を祈願して兵を進め、高田城を降した。
・西牧・・・西牧根小屋城・西牧城
  ・高田・・・高田城・菅谷城
  ・諏訪・・・松井田西城(金剛寺)★長野憲業の息子の城?

  武田信玄は、安中・松井田間に楔を打ち込むカタチで八幡平に
  陣を築きいた。八幡陣城(安中原市:梁瀬二子塚古墳北隣)
  (発掘された頭骨は南北朝時代の物)
碓氷の麦作を刈り取り、苗代を薙ぎ払い、安中氏の戦力低下を
  狙った。
  磯部城も整備した。

・永禄5年(1562)9月 安中・松井田両城に攻撃をかけた。
  安中城の安中忠成(景繁)は武田方に服属した。
  武田家臣曽根虎長が取次を務めている。
  安中景繁は甘利昌忠の妹を娶った。
  (先妻は長野業政の娘)
  松井田城にいた安中忠政(重繁)の妻は長野業政の養女
  (沼田顕泰の娘)が妻だったので、最初は武田信玄に
   つくのは渋ったようである。
 広盛(左近将監)
「騎馬高百十八騎、武田信玄へ降参。安中の城本領共に甘利左衛門
妹婿に仰付けられ候。信州・美濃信玄軍場に詰むるなり」
(『上野志』)
 甘利の幕下として信州・上野に詰めていた。

◆参考文献
黒田基樹「戦国期上野安中氏に関する基礎的考察」永禄6年説
「戦国期安中氏の動向」永禄5年説に戻した。  


武田方として箕輪城などの攻略に参加した。

・永禄9年(1566)武田信玄は箕輪城を攻略した。
  安中氏は、安中重繁からその子:景繁に代わった。

箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】②永禄4年~永禄9年
:箕輪城攻略
https://53922401.at.webry.info/201606/article_29.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑪「武田信玄の西上州侵攻」
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_16.html

・永禄10年(1567)8月、曾根三河守宛安中左近大夫景繁の起請文
  安中左近大夫景繁 宛名曽祢三河守殿 (原文)

 ★僕の家の母方先祖も「塚越伴七」も生島足島神社の起請文にある。

 安中景繁は安中忠政の改名と考えられている。
 起請文が安中家繁・同繁勝から曾根三河守に出されている。
 
 安中衆は「武田家の時、西上州地付騎馬に、碓氷郡一騎当千といふ
 衆あり。是を甲州にて西上先方衆といひ、亦安中衆ともいふ」
   (『上野志』)

・永禄11年(1568) 武田信玄が駿河今川領に侵攻した。
  武田氏は相模後北条氏と敵対する。
 武田信玄は小田原城に侵攻した。

 後北条氏は越後上杉氏との越相同盟をもちかけた。
 西上野は武田と上杉・北条間の最前線となった。

・永禄12年(1569) 高崎の根小屋城築城。狼煙の「集積地」



箕輪城には、内藤昌豊、・・・城番、禰津しょうよう軒
 根小屋城、大井・伴野
 倉賀野城は金井(倉賀野に改姓)景秀
 和田城・・・和田業繁
 安中城・・・安中景繁
 国峰城・・・小幡憲重・小幡信定
 小幡城・・・小幡憲重年寄:熊井戸半右衛門

 結果、小幡氏・安中氏等は北条に対する武田領の最前線の守将に
 位置づけられた。

  その後、北条氏康から氏政に代わると甲相同盟の回復により北条と
 武田は和睦し西上野は安定した。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
武田軍が敗北した。
①甘利昌忠の重臣として、安中景繁が戦死してしまった。
  安中に帰国したものは一人もなく、安中城は荒廃化して耕地と
  化してしまった。という説もある。
  年寄の須藤氏・松本氏・萩原図書などは生き残った。
  松本兵部は安中衆として武田家で扱われているが、安中氏と血縁
  関係があった訳ではなさそうである。
安中ふるさと学習館の山頂部に城があった。
須藤縫殿介久守と松本縫殿助定吉は同一人物と思われる。

  安中久繁(七郎三郎)が継いだ。


②内藤軍団の500騎(含相備高山50騎・多比良50騎)
(『甲陽軍艦』)
 一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり候。
鉄砲を以て、散々に打ち立てられ、引き退く。
 二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けば引き付け、
御下知の如く、鉄砲にて過半人数うたれ候へば、其の時、引
 き入るゝなり。
 三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の攻め者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓
を打ちて、懸かり来たり、人数を備え候。身がくしとして、鉄砲に
て待ち請け、うたせられ候へば、過半打ち倒され、無人になりて、
引き退く。
 四番に、典厩一党、黒武者にて懸かり来たる。かくの如く、御敵
入れ替へ候へども、御人数一首も御出でなく、鉄砲ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。
 五番に、馬場美濃守推し太鼓にて、かゝり来たり、人 数を備へ、
右同断に勢衆うたれ、引き退く」
(『信長公記』)
  
 ★内藤軍団の1500人
「権現様御備より鉄砲きひしく御打セ被成候、北の方に備罷有候内藤
 修理千五百の人数にて三重めの柵を乗こし既に二十人余押込来候所を
 忠勝様、御覧被成、鑓を御取被成、

 (「参州長篠御合戦之節忠勝様御鑓御入しほ之御武功之事」
『忠勝公御武功其外聞書』 岡崎市美術博物館所蔵(中根家文書) 

③小幡軍団400騎など
  上野国出身者が多く死んだ。


・天正6年(1578)上杉謙信が死んだ。
  御館の乱・・・
  甲越同盟の成立 武田勝頼の妹:菊姫は上杉景勝に嫁いだ。
  甲相同盟の破綻で西上野は再び緊張する。

  安中久繁は武田勝頼に仕え、上野侵攻の一翼を担った。

・天正10年(1582)3月11日 武田家が滅亡。
 4月 安中久繁は織田家の重臣・滝川一益に仕えた。
 6月 神流川の戦い
    安中久繁は参陣した。
    滝川一益が伊勢に帰還すると、安中久繁は後北条氏に仕えた。
    

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原の陣
   後北条氏が敗れると、安中氏は所領を失い四散した。

①安中姓の武士が真田氏の家臣として沼田に入った。
    
②安中氏は箕輪城主:井伊直政に仕え、禄をはんだ可能性もある。
   (★『新編彦根市史』に安中氏が出てこないため、
     長野業実か里見、萩原の傘下か?)

③宗家の安中左近忠成(景繁)の弟・忠基は出羽に逃れた。
    (『安中市誌』)
 安中忠基の嫡男三郎左衛門は安藤重長に仕え、次子五郎左衛門が
   秋元喬知に仕官した
    (『安中記』)

★参考図書
黒田基樹「戦国期安中氏の動向」安中市学習の森ふるさと学習館編
 『西上州の中世』2010年

黒田基樹『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院(2013年)


箕輪初心●安中一族の城【原市城→榎下城→松井田城→安中城】
https://53922401.at.webry.info/201211/article_13.html

◆◆ 箕輪初心★安中一族:安中忠政&忠成 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_10.html

◆◆ 箕輪初心★安中の城一覧35城  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html

◆◆ 箕輪初心●安中城  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_12.html

箕輪初心●群馬:旧安中の城【山崎26城<井上35城】
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201211/article_11.html

箕輪初心●群馬:旧松井田町(現安中市)の城9城一覧
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201210/article_3.html

箕輪初心●群馬【松井田城】=安中忠政→大導寺政繁の城
https://53922401.at.webry.info/201112/article_2.html


箕輪初心●群馬『安中遠足侍マラソン』=日本初のマラソン。
https://53922401.at.webry.info/201106/article_4.html

箕輪初心◆群馬「第39回:安政遠足(とおあし)侍マラソン2013」
https://53922401.at.webry.info/201305/article_13.html



★明日は伊香保関係か旅関係か?

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