箕輪初心:生方▲箕輪城№284『長野氏子孫』と『建築家:長野宇平治』


永禄4年(1561)6月21日、長野業政が死んだ。(長純寺の木造背銘・
系図纂要「長野氏」)、永禄9年(1566)9月29日、武田信玄に箕輪城
を囲まれて長野業盛は自刃した。~~~子孫は武田信玄についた長野
正宣、浜川・小塙長野氏、上杉謙信についた長野氏、井伊直政の家臣
になった長野業実などがいる。上杉謙信の家臣:長野氏の子孫には、
越後高田の「長野宇平治」がいる。





【1】長野氏について、
○浜川長野氏・・・一番古い長野氏か?⇒室田長野氏説と箕輪長野氏説
  浜川来迎寺に35基?36基?の墓

1)鷹留長野氏(室田長野氏)…鷹留城(高崎市室田町)を本拠とした
室田堀の内…平時の舘
鷹留城…詰め城
長年寺…菩提寺:6基の宝きょう印塔

2)箕輪長野氏…箕輪城(高崎市箕郷町)を本拠にした。 
 ★箕輪城築城説は12説。一般説は1500年頃。
 私は箕輪城築城1474年以前説を採っている。
 1474年で箕郷の東向八幡神社・長野氏菩提寺:石上寺の石撞が
 分かっている。住居より寺を先に造ることに疑問?
一般的には
長野尚業⇒憲業⇒養子:厩橋長野方業・・(=業政説:飯森康広説)
 ⇒長野業政(憲業の孫説)⇒長野氏業(業盛)の自害⇒亀寿丸・
 (鎮良)・・・

3)厩橋長野氏、厩橋城(前橋市の現群馬県庁)を本拠とした
●厩橋長野氏についての2説
①『前橋風土記』(1868年完成)
初代:固山宗賢(長野左衛門尉)、2代長野道安、3代長野道賢、
4代長野賢忠
 箕輪城の支城で、厩橋(前橋)衆が起こった。
箕輪城の長野一族・長野左衛門尉方業(固山宗賢?、長野方業?)
 により、現在の地に残っている三の丸(金井曲輪→曲輪町)を
 中心に再建した。厩橋城と命名した。
 ★はじめの厩橋城は小規模であったが、城の縄張り、城下町は不明。
「現曲輪町」の金井曲輪が本郭で橋林寺まで広がっていたと考える
 のが妥当性がある。橋林寺も城を守るための寺であったと考えられ
 る。
・永禄三年(1560) 長尾景虎(上杉謙信)の長尾勢が厩橋城に攻め寄せた。
 不明・・・河田長親

※長尾景虎(上杉謙信)の関東幕注文
※厩橋長野氏と「橋林寺」⇒後、長野藤十郎・長野彦九郎、長野彦
七郎が史料に登場
ウィキには「長野業盛は御前曲輪の持仏堂で自刃した。」★しかし、
長野氏時代に御前曲輪はない。広島市立博物館の「浅野家文書:古
城の図」に掲載されているだけである。誰かが長野氏時代に「御前曲
輪」と勝手に言ったのであろう。基本的に上杉謙信の春日山城のごと
く、持仏堂は本郭近くにあるので、箕輪城最高地点274mの2等三
角点の近くと考えられる。遺骸は西光寺?大円寺?の僧法如らが、現
高崎市井出町の井野川沿いの旧大円寺の墓地に葬ったといわれてい
る。
*長野業政墓喝会
「長野業政と知己であった井出の大円寺の旅の僧「法如上人」が埋葬
した。」
*箕輪城語り部の会斎藤さん・西光寺・
「箕輪軍記」は保渡田西光寺の僧が江戸時代に書いた物で、句自体こ
 の僧がかわいそうに思って作ったらしい。業盛が詠んだ辞世の句が
どうかも不明である。・・・西光寺には長野氏家紋「檜扇」(8枚板)
がある。 
長野業盛の子・亀寿丸(2歳)は、家臣の青柳金王(忠家)に抱か
れて落ち延びて、和田山極楽院に匿われたという。後に出家して鎮良と
名乗り、極楽院2代目の院主となった。落城時に同行した家臣:阿保氏
の姪を妻として5子があったといわれている。

4)大胡城(前橋市大胡町)を本拠とした大胡長野氏がいる。
(新編高崎市史)
永禄4年(1561)厩橋長野氏勢・大胡長野氏勢500人が死んだ。
 (久保田順一先生講演会)


【2】長野氏の子孫
①箕輪城主左衛門大夫氏業(業盛)の子(極楽院)亀寿丸(鎮良)は、
 箕輪極楽院が武田信玄に安堵され、西上野の年中行事職に補任され
 ている。北条氏邦や徳川家康(2度)も極楽院に制札・安堵状を出
 している。(群馬県立古文書館所蔵:書き下し文未発表)
 また、来迎時塔頭善長院を開基して子孫が住職を務めている。
 つまり、極楽院系長野氏、来迎寺系長野氏とも言える。
 武田信玄の家臣(証人=人質)になった鎮良の子どももいるようだ。

2)長野業政の傍系?子孫・・・井伊直政の家臣⇒井伊家№3家老:長野業実
ウィキペディアでは
「長野業政庶子:業親の子だいう向坂伝蔵(長野業実)は、武田氏滅亡
後に徳川四天王の一人で箕輪を領した井伊直政の家臣となって4000石を
有し、彦根藩の次席家老を務めた。(『新編高崎市史』)。」とある。
★結構、『新編高崎市史』を鵜呑みにした記述が書かれている。

彦根藩の『侍中由緒書』には、
「天正10年(1582)以前に井伊直政の小姓になり、天正壬午の乱に
参加した。」
『侍中由緒書』では天正10年(1582)以前となっているが、・・
疑問も残る。


「天正18年(1590)長野業実は笹郭の攻撃の功で、井伊直政かた刀・
豊臣秀吉から木下を通じて馬を戴いた。そして、箕輪城入城の時、
浜川に一貫文の土地を貰った。」とある。
(『侍中由緒書』)
(『貞享異譜』群馬県立文書館所蔵…★翻刻はないので、箕輪初心の訳)
★『侍中由緒書』は長野業実の孫の時代に書かれた文書であるので、信
憑性にやや欠ける面があるが、『新編高崎市史』の「井伊直政の家臣と
なって4000石賜った。」というのは、かなり無理がある。
 ]
つまり、文禄年間の検地でもまだ貫高制である。貫高制の時代に4000
石になった訳ではない

宗春さんの指摘が正しいです。書き直します。


◆「新編高崎市史』での疑問①「12万石」

天正18年以前、徳川家は伊奈忠次・大久保長安が駿河の検地を
 していた。けれど、私は石高制かどうかは覚えていない。
4月、豊臣秀吉から伊豆を与えられ、家康から本多正信が監理を依
頼された。この時、伊奈忠次が検地をした。関東移封後は榊原康政が
真っ先に検地をやったようである。北条氏の時代は貫高制である。
徳川家は関東で貫高制から石高制の時代に移った。したがって、
8月入封段階で「井伊直政は箕輪 12万石で入封」というのも、
貫高制の時代からの移行期で、本当に「12万石」と当時に記述
されたのか不明である。『貞享異譜』では「長野業実は浜川に一
千貫文を貰った。」とある。また井伊家の検地は文禄年間であるので、
ますますもって不明である。
家康は榊原康政・伊奈や大久保に命じて北条氏の貫高制を石高制
に換算しなおさせたのかな?配置の責任者は当初は榊原康政であ
った。
誰が「井伊直政は箕輪 12万石で入封」って、言い始めたのだろ
うか?
やがて、長野民部業実⇒長野十郎左衛門業実と名乗った。

◆「新編高崎市史』での疑問②「4000石」
私も、ブログで4000石って書いたことがあるが、正しいのは、次の史料
である。
② 「彦根藩井伊家文書」『新編彦根市史』・「与板藩井伊家文書」から
・慶長7年(1602)長野業実2000石(6番目)である。 
 ★つまり長野業実は井伊直政時代には同高の№6であった。
 尚、2月に井伊直政が死んでいるので、死後の石高であろう。
 何故なら、井伊直継の記述がなく、井伊直孝5500石とあるからで
 ある。
・慶長12年(1607)長野業実2000石(含上州800石:同石高6番目が
 3人だから、6/7/8番目である。)
 である。
  ★大坂冬の陣の2年前、・・・
(・慶長14年(1614)井伊直勝(←直継)は安中3万石となる。)
・慶安4年(1651)長野業輝5500石(彦根市立図書館所蔵)となる。
  ★大坂夏の陣で貢献したことになる。
   長野業輝が5500石で№3になったと考えられる。
  (後の史料では、1位:狩野一庵から養子木俣守安が1万石のよう
   である。
   
但し、「系図纂要」は長野業輝が小田原在とあるので、この時点で
長野業輝が61年前、15歳だとしても76歳にはなっていることになる。
  承応3年(1564)長野業輝が死んだ。家督を長野業利に譲らなかった
  のかな?
となると、「系図纂要」は長野業輝はちょっと苦しいかな?

『分限帳』では「長野民部」と表記されている。
『貞享異譜』では、「長野十左」家と表記されるようになった。

①長野民部業実……長野十郎左衛門業実、慶安2年死
②十郎左衛門業輝…初め伝蔵、与惣兵衛、伊豆、承応3年死
③十郎左衛門業利…民部、叶山
④十郎左衛門業則…民部、享保6年死
(彦根藩の『侍中由緒書』)

長野業綱→業行→業高→業景→業久
信業→業正→業盛→業輝→業真
(信業弟:定俊→藤井豊前守)
①長野業綱・・・小四郎。右京亮。飛騨守。
永享十年生。長禄二年嗣。文明中、属上杉顕定陣五十子。
同(文明)十八年二五 実巻合戦先陣討死
②長野信業・・・長野彦二郎。右京亮。伊予守。
大永六年四築箕輪城。天文三年七五卒。
※久保田先生「?年、長純寺が信業に下柴に造営された。」
 ★正確には「水草・・・第五保育園北隣です。」
③長野業正・・・信濃守。右衛門大夫。永禄四年六廿一卒七十一
④長野業盛・・・
④長野業輝・・・長野伝蔵。天正十八年属井伊直政、在小田原
 (★『系図纂要』)
※久保田順一先生「井伊家に仕えた家系伝承と一致する。」

長野信濃守の子出羽守(業親)、その業親の子である嫡子が「向坂伝蔵」
と名乗っていたが、徳川家康に召しだされて井伊直政の小姓に取り立て
られた。


●箕輪から高崎に移った11の寺?★私見12寺
①石上寺⇒分寺高崎石上寺
②正法寺(武田時代に妙福寺)⇒高崎正法寺
③慈上寺⇒移転高崎慈上寺
④延養寺⇒移転高崎延養寺
⑤日向峯(松の沢寺?)⇒万松寺(滝沢寺四世開山)→分寺高崎恵徳寺
(井伊直政の伯母:中野直之の妻の菩提寺)
⑥長純寺⇒(高崎金剛寺?)⇒分寺彦根長純寺(井伊直政の姉:高瀬の墓)
長野業政再建・長野氏菩提寺、但し、彦根長純寺に長野氏の墓はない。
⑦法華堂→高崎日蓮宗法華寺(西郷重員開基)→分寺彦根蓮華寺
⑧安国寺→高崎安国寺→分寺彦根宗安寺(室田長野一族開山)
⑨大信寺→高崎大信寺→分寺彦根大信寺(室田長野一族開山) 
⑩大雲寺→高崎大雲寺→分寺彦根大雲寺(室田長野一族開山)
④龍門寺⇒分寺高崎龍広寺⇒彦根清涼寺(元長純寺和尚愚明正察開山)
  龍門寺(井伊直政の実母の再嫁:松下清景・松下一定・松下高冬に墓
(井伊直政の墓、岡本(旧姓熊井戸)半助宣就の墓」)
⑫法峰寺→分寺高崎法輪寺
⑬安中北野寺→彦根北野寺

※井伊谷龍潭寺→彦根龍潭寺(井伊谷龍潭寺の五世昊天開山)
⇒分寺安中龍潭寺(松下一定=中野一定が祖母の要請で開基)


3)長野業盛の弟:長野正宣
 武田信玄に仕え、53貫文の地を拝領した。
 長野正宣の子・長野久左衛門正信は、上野国三寺郷に住し、三寺姓を
 名乗った。(ウィキペディア)
 ★長野系図19には、長野正宣にが掲載されていなかった気がする。
  ウィキペディアには出典が出ていないので、信憑性がない。



4)長野業政の娘婿子孫・・浜川左衛門尉 (浜川右京亮)子孫
 :長野桂次郎⇒長野智子
 万延元年(1860)長野桂次郎=立石斧次郎は、日米修好通商条約の批
 准書交換の派遣船=米国軍艦「ポーハタン号」で渡米した。
 小栗上野介たちの通訳16歳「トミー」(小塙氏)
 ⇒長野智子アナウンサー
 (小鼻長野氏系図)

3)長野業政の長男系子孫・・・群馬F元総理
神明山善龍寺は長野憲業・業政が長野信業のために建てた寺(伝)
菅谷F氏=須賀谷筑前守(F五郎左衞門)の菩提寺
 武田信玄が箕輪城攻めで焼いた。
⇒満行山善龍寺:武田信玄の費用で内藤昌豊の再建。
保科正俊2男は松井田補陀寺の和尚で、善龍寺の中興開山
 菅谷F氏=須賀谷筑前守(福田五郎左衞門)は箕輪城代:内藤昌豊
 ・内藤昌明の庇護下の可能性が高い。でないと、子孫がいない。
 菅谷F氏の菩提寺は内藤昌豊・昌明の菩提寺と同じく箕輪善龍寺
 分流金古F氏の菩提寺は金古徳□寺である。
→内藤昌豊→(不在)→保科正俊3男からの養子:内藤昌月
(★ 昌明3男:内藤直矩は井伊直政の家老⇒子孫:保科正之の第2家老)
 
4)長野業政の娘婿系子孫・・・長野長和町H元総理
吾妻の大柏木城主・・・

5)長野一族:下仁田長野氏・・・長野見山
  水戸天狗党に下仁田での戦闘を避けようと、安芸神社で交渉した。


5)長野業政の傍系子孫・・・長野???
上杉謙信の証人(人質)として越後高田に行った長野一族である。


【3】上杉謙信の家臣?証人(人質)?になったであろう長野氏子孫
長野 宇平治(ながの うへいじ)
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(慶応3年:1867年9月28日 ~昭和12年:1937年12月14日)
越後国高田(現新潟県上越市高田)生まれ。
辰野金吾の下で学んだ。(東京駅の建設で有名。長野も手伝った。)
M26年:1893年 東京帝国大学造家学科卒業 
M27年 奈良県嘱託。
M30年 日本銀行技師
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M33年 日銀大阪支店臨時建築部技師長
T元年 台湾総督府嘱託 (~T3年)
   台湾総督府本庁舎(現:中華民国総統府)竣工:T8年
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T2年 横浜税関嘱託・建築設計監督事務所を開設

T10年 上並榎の「長野堰改修紀功碑」
高崎藩の大河内輝耕・建築家長野宇平治などが寄附している。
 長野宇平治100円で2番目の高額
  (長野業政が先祖であると言っている。)
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S2年 日本銀行臨時建築部技師長、日本勧業銀行本店建築中顧問
銀行建築の設計に多く関わった。
日本銀行… 小樽支店・岡山支店・広島支店・松江支店など
 銀行…北海道銀行 本店 三井銀行 下関支店など



★明日は不明。

この記事へのコメント

宗春
2019年07月09日 17:32
先生今日は
>>つまり、文禄年間の検地でもまだ貫高制である。
青柳家の文書では、検地の結果籾米で何表収めよとありますが、これって石高制じゃないんですか? ほかの土地では検地して何貫収めよとしているのでしょうか? そもそも太閤検地は石高を図る枡を京枡に統一して、大名などの国力を画一的に把握したと理解しております。またこのことは、朝鮮の役へ投入する軍事力を、各大名に宛てはめる物差しとも教わりました。まあ、文禄の頃までは家臣の知行を表わすのに、貫高が主流であったという事なら納得です。ことばのあやで、揚げ足取りだったらごめんなさい。
2019年07月10日 09:51
お久しブリです。指摘は正しいです。
「文禄年間には石高制になっています。」
変更しますので、お待ちください。
「榊原康政は天正18~19年頃には検地を始めたようです。
 この時に初めて、徳川家は石高制にしたようです。」
「井伊直政は文禄年間のようです。・・・そうです。石高
 制です。」