箕輪初心:生方▲伊香保№85ー①≪竹久夢二T8~≫生涯「女遍歴と代表作」

★伊香保を愛した人物といえば、小説家「徳富蘆花」&画家
「竹久夢二」が双璧であろう。「竹久夢二」は新聞・雑誌等に
さし絵や詩を寄稿した。美人画、木版画。楽譜や本のデザイン
も手がけ、多く作品を残した。岡山県の夢二郷土美術館本館や
伊香保竹久夢二記念館にも3回行っている。伊香保温泉の旅館
・ホテル、伊香保・榛名の食堂、レストランでも竹久夢二の作
品を多数見ている。作品は好きであるが、恋愛遍歴を見ると、
複雑な気持ちになる。
竹久夢二ファンは作品で評価し、善意に
解釈するだろうが・・・。例えば、岡山の夢二郷土美術館の松
田基氏は「竹久夢二は女遍歴は大正ロマンの生涯を彩るが、決
してドンファンではない。歌に~なつかしき乙女とばかり思ひ
しをいつしか悲しき戀人となる~~~~夢二は美と恋愛と人生
に対し余りにも人間的、余りにも純情であったに過ぎぬ。・・
永遠なる女性への憧れなくしては夢二の芸術は育たなかったで
あろう。(昭和59年)パンフレットより」といい解釈をする。
私のとって竹久夢二のイメージは「竹久夢二は真剣に女性を
恋したり、愛したりして作品に生かした男であるが、惚れっぽく、
女に溺れる?女を傷つける我が儘な男」である。羨ましい限りだ。
岸他万喜が戸籍上の妻:たまき、よりを戻したたまきと一緒行っ
た房総で暴走、女子大生の長谷川カタを好きになる。「港屋」で
笠井ヒコノ(彦乃)と知り合った後、たまきの東郷青児との浮気
を疑い、殺傷事件で絶縁、笠井彦乃と内緒の恋をして京都で同棲、
結核療養の笠井彦乃には会わせて貰えず、笠井彦乃に似ている帝
劇女優の桜井八重子に恋文のような手紙を出し続けた。途中、モ
デルのお葉(永井カ子ヨ・佐々木かねこ )と知り合うが、最愛
の恋人:笠井彦乃の死後、お葉を同棲。同棲中に作家の山田順
子とHしちゃった。お葉は自殺未遂。高崎でも、料亭で芸妓が
モデルで絵を描き、芸者遊び、(『夢二と群馬』みやま文庫)そし
て、『塚越屋』の女子高生に清純?な気持ちの手紙を書いた。
岸たまきは結核療養中の竹久夢二を信濃に見舞った。岸たまきは
終生、竹久夢二を慕っていたらしい。昭和9年(1934)竹久夢二は
富士見高原療養所で死去(50歳)。天国か地獄へ。竹久夢二は笠
井彦乃と同じ結核で死んだ。
どう、解釈していいものやら~~~。
伊香保竹久夢二記念のキャラメルには「赤色は恋、緑色は旅、黄色
は酒」とあったが、
私のイメージでは「赤色は最高の恋・熱情、憧
れ、青色は思い出、回想・時には自分、緑色は自然、覚めた愛・自
分、黄色は酒は涙かため息か?惜別の情・後悔、黒は女に抱かれた
い寄り添いたい自分の甘え心・恋慕」と思ってみたりもした。

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(お葉:佐々木カ子ヨ・しの:笠井彦乃・たまき:岸たまき
 無料画像より)

箕輪初心■岡山&◆群馬の「竹久夢二」=大正ロマン
https://53922401.at.webry.info/201105/article_25.html

箕輪初心◆群馬:9月の榛名:温泉&竹久夢二&沼の原
https://53922401.at.webry.info/201309/article_10.html

★★ 箕輪初心★若山牧水「伊香保&榛名」
http://53922401.at.webry.info/201301/article_25.html

箕輪初心★若山牧水の上州旅③『伊香保&榛名湖』
https://53922401.at.webry.info/201301/article_25.html

【1】「竹久夢二」の女遍歴と代表作品
・岡山県生まれ。
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・早稲田実業学校を中退。

・明治39年(1906)22歳早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」
 女主人:岸他万喜に恋をした。2歳年上の未亡人で子どももいた。
死別した前夫との間に二児があった。
 竹久夢二は客として毎日店に通いつめた。
 2ヵ月後には結婚となった。

・明治40年(1907) 23歳 竹久夢二は岸たまきと結婚した。
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 読売新聞社に入社し時事スケッチを担当した。。

・明治41年(1908)24歳 長男・虹之助は誕生した。
・明治42年(1909)25歳 岸たまきと協議離婚した。
 最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊し、ベストセラーとなった。

・明治43年(1910)26歳 岸たまきと再び同棲した。
  その後、2児をもうける。(実子は3人である。)
 
・明治43年(1910)27歳の夏、よりを戻した岸たまきと2歳の
 息子虹之助を伴って、房総に避暑旅行する。銚子から犬吠埼に
 向かい、あしか(海鹿)島の宮下旅館に滞在した。あしか(海鹿)
 島で長谷川カタ(賢:19歳)に出会った。長谷川カタは秋田美人
 であった。
 長谷川一家は秋田から宮下旅館の隣家に転居していた。長谷川カ
タは成田の高等女学校の教師をしていた姉のところに身を寄せて
いたが、夏休みに父母を訪ねて来て、竹久夢二と出会った。
竹久夢二は長谷川カタは親しく話すうちに心を惹かれてしまった。
しょうもねえ、女好き・・・
竹久夢二は逢瀬を持って、デート・・・する。
 しかし、竹久夢二は岸たまきにバレた。
 竹久夢二はたまきと虹之助連れて帰らねばならなかった。
長谷川カタも成田へ戻った。父親は娘の結婚を急がせた。

・明治43年(1910)竹久夢二はたまきの故郷:金沢に初めて
 金沢を訪れた。たまきへの思いを募らせて何通もの手紙を
 書き、思いを日記、紀行文にも書いた。

・明治44年(1911)4月、長谷川カタは和歌山出身の音楽教師で作曲
 家の須川政太郎と結婚した。
竹久夢二は再びをあしか(海鹿)島を訪れた。竹久夢二は長谷川カタが
嫁いだことを知り、失恋した。
この海辺で、「宵を待って花を咲かせる宵待草にこと寄せ、実らぬ恋の
詩を着想となった。
「宵待草」は恋多き竹久夢二は実ることなく終わったひと夏の恋によっ
て、詩は創られた。原詩が作られた。~~~原詩変更~~~~
「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬ
 さうな」となった。
「少女」より、発刊された。

明治44年(1911) ある日、竹久夢二は12歳の少女からの
 一通の手紙で伊香保温泉を知った。
 伊香保在住ノ松沢(加藤)ミドリからのファンレターであった。
「夢二先生は伊香保にいらっしゃったことがおありでしょう。
 私は、お姿を見て声をおかけしたかったのですが気が引けて
 言えませんでした」。
★(『竹久夢二伊香保記念館』所蔵文書)

「イカホとやらでお逢ひになったのは私ではありません。」
★(『竹久夢二伊香保記念館』所蔵文書)
竹久夢二は伊香保へは行ったことがなかった。
結局、少女の思い込みに過ぎなかったのだが、夢二は手紙
を喜び、少女へ丁寧に返書を送った。


・大正3年(1913) 竹久夢二の商品を扱う店「港屋」が日本橋に開店
 した。
たまきは竹久夢二のデザインの小間物・製作された木版画を販売
 する「港屋絵草紙店」の女店主となる。

秋、竹久夢二は「港屋」に通ってくる紙問屋の娘:笠井彦乃18歳と
 知り合った。笠井彦乃は女子美術学校の学生であった。
 笠井彦乃は新進作家として人気が出ていた竹久夢二に
「絵を教えてほしい。」と申し込んだのをきっかけであった。
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・大正4年(1915) 竹久夢二はしっかり者未亡人「たまき」と店の客
 だった東郷鉄春(青児)との関係を疑った。
 ★竹久夢二は以外と嫉妬ぶかい性格だったかもしれない。
 竹久夢二は画学生:東郷との仲を疑い、富山県の海岸でたまきの腕
 を刺した。
 竹久夢二は刃傷沙汰をおこし、破局を迎え絶縁した。
竹久夢二は離婚後もずるずると続いていた前妻:たまきとの関係
 完全に切れた。

・大正5年(1915)「港屋」が閉店した 。
 たまきと別れたからである。
 
 竹久夢二は笠井彦乃と仲良くなった。
 2人は愛し合うようになった。
 しかし、宮内省御用達の父:笠井宗重は竹久夢二には岸たまき
 との離婚歴があり、結婚を反対した。

 竹久夢二は京都で過ごした。(~7年(1517))
 一つには判本・販売先「柳家」なったこともある。
 竹久夢二は大槻笹舟を親友・堀内清を通じて知り合った。
 大槻笹舟は信頼できる印刷所の主人として、深い親交を重ねた。
 竹久夢二が下絵を描き、清文堂が印刷した木版刷りの絵封筒・
 便箋などは、大阪「柳屋」や京都「つくし屋」で販売されて
 人気を呼んだ。

・天正6年(1916)

2月1日、竹久夢二は京都で次男:不二彦と生活を始めた。
 
 父:笠井宗重は娘:彦乃と夢二との結婚に反対していた。
 禁じられた恋~抑圧された恋は・・・
 3月15日、彦乃宛の夢二の手紙
「逢(あ)える日がだんだん近づいて来る。…(中略)…せっかく
 ここまでこぎつけたのだから、うまくしっぽを出さないように。
 …(中略)…なんだか遠くから花嫁さんをもらうような心のさわ
 ぎがおかしい。」
◆参考サイト「朝日新聞」
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200705050082.html

竹久夢二は彦乃を「しの」または「山」と呼んだ。
 彦乃もまた夢二を「川」と呼んで手紙を交わした。
 (★「竹久夢二伊香保記念館」解説)
 
 笠井彦乃は作品が雑誌「少女の友」や「新家庭に口絵が掲載され
 るなど本格化した。目標は院展入選であった。
 父:宗重に「絵の勉強をしたい。」と説き伏せて京都行きを実現
 した。
 笠井彦乃は日本橋の絵草紙店「港屋」で出会って2年8カ月。
 
 6月8日、彦乃は父の目をごまかして、京都・高台寺門前の
 竹久夢二の借家にやってきた。同棲生活が始まった。
 (京都・東山の二年坂(二寧坂)は清水寺につながる石畳の
  両側には京人形、清水焼、甘味処などさまざまな店が並ぶ。
  途中に竹久夢二の石碑「竹久夢二 寓居跡」が立っている。

 7月5日、笠井彦乃は 日記をつけ始めた。
(笠井彦乃「夢二日記」)
 ★(『竹久夢二伊香保記念館』販売中3000円?)

・天正6年(1916)『宵待草』に歌詞にヴァイオリン奏者・多忠亮が
 曲をつけ、初演した。

・天正7年(1917)『宵待草』が竹久夢二作詞、多(おおの)
 忠亮作曲・・・「セノオ楽譜」より表紙竹久夢二で出版さ
 れ、一世を風靡した。
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9月24日、竹久夢二は笠井彦乃と食中毒になった不二彦の静養を
 兼ね、金沢の湯桶(ゆわく)温泉にいった。
 夢二たちは、雨の中を人力車で到着した当時は3軒(現在9軒)
 しかなかった旅館の一番奥の「温泉旅館 山下新右ヱ門」(現
 お宿「やました」)に泊まった。
約3週間滞在した。竹久夢二は女中をモデルに絵を描いたり、
 笠井彦乃や不二彦と一緒に散策や川遊びを楽しんだりした。
 金沢・湯涌(ゆわく)温泉では、彦乃は初めて既婚女性の髪形の
 丸髷に結い、記念写真を撮った。
 (★「金沢湯涌夢二館」所蔵?)
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 笠井彦乃は金沢で開いた「夢二抒情小品展覧会」に、夢二がつけ
 た「山路しの」の名で出品された。
 
 笠井彦乃にとって、竹久夢二との66日間に及ぶ北陸旅行は充実
 した日々だった。

・大正7年(1918)夏、竹久夢二は九州旅行中であった。
 笠井彦乃は竹久夢二のもとに向かった。
 が、別府で結核のため倒れた。
 笠井彦乃は京都で入院した。 
 笠井彦乃は父:宗重に連れ戻された。
竹久夢二は東京へ向かった。
 竹久夢二は本郷菊富士ホテルに移った。
 御茶ノ水順天堂医院に入院していたが、父に面会を遮断された。
 笠井彦乃は竹久夢二と引き裂かれてしまった。
 
 
11月1日、笠井彦乃の「夢二日記」は終わった。
竹久夢二は、彦乃の日記を初めて読み胸を打たれる。
竹久夢二は笠井彦乃を最も愛していた。
 笠井彦乃の死後、竹久夢二は絵筆をとれないほどに落胆した。

 
 しばらくショックから立ち直れなかった。

・大正 8年(1919)
 

 春、本郷・菊富士ホテルに寄宿していた竹久夢二
 は佐々木カ子ヨ(永井かねよ・お葉)と知り合った。

 佐々木カ子ヨ(かねよ)は竹久夢二を気遣う友人たちの紹介
 でモデルとなった。
 佐々木カ子ヨ(かねよ)は彦乃と引き裂かれて消沈していた
 竹久夢二を心配していた。
お葉は東京美術学校のモデルとして活躍していたが、竹久夢二の
 専属モデルになった。

 佐々木カ子ヨ(かねよ)は竹久夢二好みの立居振舞を身につけ
 モデルだった。
 竹久夢二は「絵から抜け出したような美人。」
 竹久夢二は「お葉」と名付け、愛称で呼んだ。
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 (無料画像)

  竹久夢二は『黒船屋』を制作した。
構図はアール・ヌーヴォーのヴァン・ドンゲンの「黒猫を抱ける女」
を参考にしたといわれる。
(『竹久夢二伊香保記念館』所蔵
 本物は9月10日前後に2週間ほど伊香保で展示)
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モデルは「お葉」であるが、作品の雰囲気は「彦乃」のほかの
作品に似ていると私は思った。


モデルは「佐々木かねよ。お葉」16歳の娘であった。しかし、
竹久夢二はお葉の向こうに、明かに別の女性「しの」の姿を
見ていた。竹久夢二が死ぬまではずすことのなかった指輪に、
「しの」名前を刻んでいた。
★(『竹久夢二伊香保記念館』解説・館長ブログ)

「黒船屋」のモデルに抱かれる黒猫は竹久夢二だと言われ
 ている。
 ★自分が笠井彦乃になでなでしてもらっている。甘えん坊
 だこと、・・・おっぱいを触って・・・いいきぶん?


・大正8年(1919)『宵待草』が大ヒットし、竹久夢二は有
 名になっていった。竹久夢二は人気の絶頂期にあった。
(『竹久夢二伊香保記念館』にオルゴールあり)

●大正8年(1919)竹久夢二が初めて伊香保を訪れたのは、手紙
から8年後だった。
『橋本ホテル』(2019廃業)・『木暮旅館』(ホテル木暮)
などに泊まった。
★(『竹久夢二伊香保記念館』年表)
それ以来、竹久夢二は伊香保がお気に入りの場所になった。

・大正9年(1920) 木版画の名作≪宝船≫は制作された。
「しの」をしの(偲ん)だ作品であろう。
1月 下絵大槻笹舟・久米正雄も賞賛した。
版画『宝船』
 (『竹久夢二伊香保記念館』所蔵)
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大正9年(1920)竹久夢二を支えた最愛の女性・笠井彦乃が死んだ。
彦乃は満23歳、夢二は35歳だった。

竹久夢二は恋人:彦乃を亡くし、また、榛名・伊香保温泉を訪れた。


・大正10年(1921)38歳 モデルのお葉17歳と渋谷に所帯を
持った。
 お葉(佐々木カ子ヨ・永井かねよ)は竹久夢二が
 笠井彦乃にふっ切れないでいるのを知っていた。
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 お葉は与太郎を出産するが夭折してしまった。

・大正13年(1924)、竹久夢二は新聞の連載小説『秘薬紫雪』
 を書いた。竹久夢二と笠井彦乃がモデルである。二人が愛を
 誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっている。

・大正14年(1925)42歳、作家・山田順子と交渉を持った。
  お葉が 自殺未遂。⇒竹久夢二と別れた。後、山田順子とも
別れた。
(ウィキペディアでは)
 お葉は彦乃の面影を追い求める夢二との恋に悩んだ末に自殺
 未遂をはかり、夢二は彼女の養生先として、金沢郊外の深谷
 温泉を選んだ。一度は夢二のもとへと帰ったお葉であったが、
 悩みは去らず、再度訪れた金沢の地で夢二との別れを決意す
 る。
(金沢湯涌夢二館Hpでは)
どっちか分からない。

・大正時代の末期から昭和初期
 竹久夢二は急速に人気を失った。
 好況期から不況期に入ったことも理由の一つだった。
 竹久夢二自身の複数の女性との関係を報じられた醜聞の影響も
 大きかったとされている。
 
 竹久夢二は経済的にも困窮するようになっていった。

昭和3年 (1928)竹久夢二は有島生馬と『塚越七平』の旅館に
 泊まった。娘:塚越迪子・二郎を可愛がった。

 ★塚越迪子が可愛かったかもしれない。
 伊香保の気候、風土、人情が夢二の心を捉えたのだろうか?
 スポンサーがいたせいであろうか?

昭和4年 (1929)45歳
 ◆群馬①3月 高崎市教育委員会主催「文芸大講演会」
          直木三十五・吉井勇らと。
→高崎の割烹「宇喜代」で宴会。
 芸妓:喜美龍をモデルに12編描いた。
 芸妓遊びにふけった。
 (★「夢二と群馬」みやま文庫)
  
働き盛りの夢二はすけべエロ中年親爺は夜の帝王
  になったのかも?
  高崎の???泊
 
 

4月 榛名湖畔の土地を高崎市の実業家桜井伊兵衛
が提供した。
 竹久夢二は高崎の料亭で芸者相手に楽しんだ。
また遊んでいる。性懲りもなく・・・・。
 (★「夢二と群馬」みやま文庫?)
 

  伊香保温泉『岸権』泊


5月 草津温泉
草津では草津館の主人「山口力男」などと3人展を開催した?
 (「草津館の若い超美人女将の説明・・竹久夢二の絵展示あり」)


6月 赤城山登山
6月22日・23日「文芸大講演会」

昭和4年 (1929)
竹久夢二は『塚越七平』の娘:塚越迪子(みちこ)に手紙を書いた。
 特に塚越迪子(女子高生)と塚越二郎はお気に入りだった。
★(『竹久夢二伊香保記念館』書簡)

伊香保温泉の塚越旅館(現塚越七兵衛)の娘「前橋女子校の子」が
可愛かったのか?

昭和5年 (1930)、竹久夢二は伊香保温泉に1ヶ月の長滞在を
 した。

 おそらく『塚越屋』であろう。???
  
→高崎の榛名にアトリエを建設開始


5月 榛名湖美術学校にしようと志したのだった。
 島崎藤村、藤島武二、森口多里、篠原秀吉といった文化人・経済
 人たちの賛同を得て「美術研究所」の設立宣言を公表した。
★(『竹久夢二伊香保記念館』書簡本物あり)
 竹久夢二は榛名湖畔に湖畔亭の北に住居兼アトリエを建てる
 ことが決定し、工事が始まった。

 

代表作『榛名山賦』を制作した。
 『榛名山賦』では榛名山を背景に、春の女神佐保姫が描かれて
いる。
 画賛
 「久方の 光たたえて 匂ふなり 
    榛名の湖(うみ)に 春たちにけり」
榛名湖を詠んた。
★(『竹久夢二伊香保記念館』所蔵)
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「立田姫」
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 ★(夢二郷土美術館パンフレット)
これもこの時期か?


淡谷のり子主演のパーティーを企画して資金集めを行った。
 パーティーは群馬県内の主要都市各所で行われた。

★関係ないけど、山口薫も淡谷のり子をモデルとして、
 「淡谷のり子のの裸像」を描いていた。

竹久夢二は資金が集めた。


●12月 アトリエ完成。入居して越年した。 

  
・昭和6年(1931)
しかし、竹久夢二は海外視察に行くと言い出した。

「榛名湖美術学校で教えるための海外研修」としている。
★(『竹久夢二伊香保記念館』館長Hp)


5月:横浜港よりホノルル経由でアメリカへ向かう。
6月:サンフランシスコ着。
各地で展示会を開くも売れず。
・昭和7年(1932)
9月:アメリカよりパナマ運河~大西洋を経て渡欧。
10月:ハンブルク着。
  約1年の滞欧中、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス
  ・スイスの諸都市を巡った。
   日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残した。
・昭和8年(1933)
9月:神戸に帰港。
『青山河』はこの頃か?

10月26日、台湾講演「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。
(『群馬と夢二』:みやま文庫)
 11月:台湾
(ウィキペディアでは)
 竹久夢二は旅行中に病を患った。途中、体調を悪化させ帰国。
11月11日 帰国後、結核で病床につく。
アメリカ、ヨーロッパ、台湾に渡った資金は海外旅行で使い切って
 しまった。
 

・昭和9年(1934)
1月:信州富土見高原療養所に入院。
  ?月 たまきは結核療養中の竹久夢二を見舞った。
9月1日 永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬。
   有島生馬らにより、葬儀→東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬。
               戒名「竹久亭夢生楽園居士」
 ★榛名湖畔の美術研究所は実現しないままおわった
★岸たまきは竹久夢二亡き後も慕い続けたらしい???

・昭和56年(1981) 竹久夢二伊香保記念館が開設された。
★3回しか、行っていない。


・昭和59年(1984)夢二郷土美術館が岡山の後楽園・岡山城のそばに
   竹久夢二生誕100年を記念して本館が開館した。

・平成6年(1994)、アトリエが湖畔に復元。・・・一般公開。
中は5回位、外から見物は50回以上かな?

・平成7年(1995)「本館 夢二黒船館」は、夢二の代表作『黒船屋』
の寄贈をきっかけに、 開館した。3階建ての洋館である。
 外観は洋風であるが、内装は日本の伝統的な尺寸法を用いて造ら
 れた。和洋折衷の建築物である。

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