箕輪初心:生方▲2019西伊豆ダイビング旅行10-⑩『伊豆のいるか漁の歴史』

私は伊豆の食べ物は、昼「海鮮丼」と夜「金目鯛」に期待
している。イルカ肉は食わず嫌いで食べなかった。
8月5日、①大瀬崎ダイビング2本⇒昼「海鮮丼」
 土肥矢木沢温泉泊、「金目鯛の刺身等」
8月6日、②黄金崎ダイビング3本⇒土肥温泉泊、
 「金目鯛の煮付け」
8月7日、③安良里ダイビング2本⇔昼、海鮮丼1600円」
イルカ漁の歴史を概観し、明治以降の伊豆のいるか漁にしぼり
込む。

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【1】群馬におけるクジラとイルカの歴史
世界的にも日常語レベルではクジラ(ホエール)・イルカ(ドルフ
ィン)は別のカテゴリーとして認識され、区別して呼ばれることが
多い。
『群馬県立自然史博物館』の群馬の木村敏之主幹(学芸員)・長
 谷川善和名誉館長による研究の結果「1150万年前の
 群馬のジョウモウグジラ・群馬のイルカKentriodon nakajimai
 (ケントリオドン ナカジマイ)令和元年8月、展示中」の
 論文をアメリカの、アメリカの古脊椎動物学会に出された。
木村敏之主幹(学芸員)には2回お会いした。
 木村敏之主幹(学芸員)はクジラ研究の第一人者である。
私は木村敏之主幹(学芸員)にお会いして、一回目、15分の講義、
2回目、1時間半の私の持っているヒゲクジラの「ひげ」から、
発展的な大きな話となった。
木村先生、お忙しいところありがとうございました。
 
木村先生は「クジラとイルカの明確な区別はありません。
 分類学上は「イルカ」に相当する系統群はありません。
 一般的にはハクジラ亜目に属する生物種のうち比較的小型
 の種を総称して「イルカ」と呼ぶことが多いようです。
 4mを境に大きいハクジラ亜目をクジラ、小さいハクジラ
 亜目をイルカと呼んでいます。・・・」
 ジョウモウグジラはヒゲクジラの進化を考える上でも重要な
 発見です。「ジョウモウクジラ」(群馬県立自然史博物
 館所蔵)のナイフの刃のように見える部分の右側が上顎骨で
 ・・・この大きさから体長は4m以上と推測しました。
 ジョウモウクジラが発掘されたのは群馬県西部(安中、高崎、
 藤岡)て広く分布する「安中地層群」の「原市層」の上部で鏑
 川で発見されました。原市層が1350~1100万年前に堆積した
 地層であることから、ジョウモウクジラは1100万年前のものと
 考えられています。原市層はこれまでに発掘された貝などの化
 石から、堆積した当時は水深180~1,800mの海だったこ
 とがわかっています。
安中市在住の中島 一氏が長年にわたって収集した碓氷川の6標
 本と吉井町の北川道啓(氏(発見当時小学5年生で在住)が平成
 14年に発見した1標本を平成31年(2019)3月、木村敏之主幹
 (学芸員)・長谷川善和名誉館長による研究の結果をアメリカの
 古脊椎動物学会に提出した。学名は、Kentriodon nakajimai(ケ
 ントリオドン ナカジマイ)と命名された。
 ★私は論文のコピーを戴いたが、ちんぷんかんぷんであった。
 木村先生は「群馬は海とのつながりがないように思われているが、
 実際には350~1100万年前、水深180~1,800mの浅からぬ海だ
 った時代があり、イルカやクジラが泳いでいた。ジョウモウクジ
 ラ・ケントリオドン ナカジマイ(イルカ)は群馬の大地の歴史
 物語っている。もし、興味あったら、化石を探してください。」
 と言っておられた。
 私は「縄文遺跡や古墳・戦国時代の遺跡の方が興味あります。」
なんて、大先生の前で言ってしまった。馬鹿な私~~~。


【2】ヨーロッパにおけるクジラ・イルカの食文化
中世、ヨーロッパではバスク人によって組織的な捕鯨が行われ、
鯨の舌が珍重された。鯨肉は広く沿岸民の食糧となった。
(今でもバスク料理にクジラが出るとTV番組でやっていた。)
中世ヨーロッパにおいては、特にイルカが食用として好まれ、
 串焼きやプディング、パイなどに用いられた。
15Cのイングランド家庭料理についての本にもイルカ料理が登
場する。17Cまでイングランドの宮廷ではイルカの肉が出された。
捕鯨船などでイルカの脳みそのフライが挙げられる。
19Cに刊行されたハーマン・メルヴィルの『白鯨』にも「イルカ
の美味はよく知られている」とある。
大型鯨が食品とはみなされなくなった後も、イルカについては
比較的最近まで食用とされていた。

現在は、ヨーロッパにはクジラ・イルカを食べる文化は少ないよ
うだ。
海外旅行で、オーストラリアでワニ肉も食ったな。韓国のプルコ
ギ、フランスでマトン、ハンガリーで豚の丸焼き。トルコのケパ
ブ、スペインのハモンセラーノ・・・

アラスカのイヌイットが食べているイッカク科のシロイルカは
(和名に「イルカ」)成体は5 mに達するためクジラと見なされ
ることもある。
ウナギもオランダ・スペイン・イタリア韓国には食べる文化があった。
欧米人の多くは菜食主義者を除いて、牛やブタをとさつし、食べ
ることには何の批判が出ない。魚だって生き物なのに、
・・・クジラの捕鯨制限があるし、イルカだけ、殺し、食べる
ことに問題視されているのは甚だ疑問である。とは言っても、
私は殆どは魚料理しか、食べない。やっとスキー場でカツ丼を
食べられるようなった。肉料理が食べれるようにと奮闘中である。
豚肉・牛肉・鶏肉・マトン・犬肉(中国・ベトナム料理)・クジ
ラ肉・イルカ肉も好き嫌いなく食べれるといいな。後、10年か
20年の内に・・・人生が終わらぬうつに、・・・




【3】日本に行けるイルカ猟と食文化***********
【1】イルカ漁の歴史
1)縄文時代のイルカ漁
古代のイルカ追い込み漁の位置(日本内)
①真脇遺跡(石川県) 日本最古のイルカ漁の跡が見つかっている。
追い込み漁は特別の道具を使うことは少ないため、考古学的な
 遺物が残りにくいが、・・・・。
★1回、行っている。

②沖ノ島遺跡(千葉県館山市沖ノ島)
縄文時代早期の約1万年前からイルカ漁が始まっていた。
・谷向貝塚(南房総市)
・稲原貝塚(館山市)大量にいるかの骨が出土。稲原貝塚からは黒曜石
  が刺さったイルカの骨も見つかっている
・根郷貝塚(鎌ケ谷市)
・古作貝塚(船橋市)
・鉈切洞窟遺跡(館山市)
・入江貝塚(北海道)
・稲荷山貝塚(神奈川県)
・井戸川貝塚(静岡県)?

※伊豆半島の縄文時代の遺跡からイルカの骨が発掘されたり、
イルカの土偶が発掘されたりしている。
古くからイルカを捕食していたことが確認されている。

2)南北朝時代のいるか漁
①永和3年(1377)青方重(あおかた・しげし)の置文(譲状)
長崎県・五島列島の豪族青方氏の青方重(あおかた・しげし)
が残した置文(譲状)があり、「海豚網」(いるかあみ)が存在して
いたとうかがわれる。
 イルカ(小型鯨類)の組織的捕獲に関する最古の記録と
 される・
青方重置文案
「かつをあミ、しひあみ、ゆるかあみ、ちからあらハせうせうハ人
 をもかり候いて、しいたしてちきょうすへし、
 ゑいわ三年三月十七日
 (『青方文書』)
静岡産業大学教授の中村羊一郎氏は「鰹・鮪・海豚を狙った網につ
いて、もし力があるなら人足を駆り出しても精出して管理運営すべ
きである、」と解釈し、建切網を仕掛けて回遊する海豚を捕獲する
追い込み漁の存在を推測した。

3)室町時代
応永11年(1404)  対馬の宗正永(貞茂)の判物
享保8年(1723) 『宗家御判物写 與良郷 下』写し)


4)戦国時代 
15世紀末から16世紀前半にかけて食べられたと見られるイルカの
骨が大量に見つかった(静岡県伊東市の井戸川遺跡)
 静岡県教育委員会はイルカ漁が縄文時代から続いていた可能性
 が高いとしている。

5)江戸時代
・延宝3年(1675) 現宮城県気仙沼市の唐桑では、イルカの群れが
押し寄せてきた時には、唐桑半島と大島の間に建切網を張って
の追い込み漁が行われていた記録が残っている。
唐桑では明治初めの頃まで追い込み漁が行われていた。

・延享2年(1745) 現静岡県の湯川村で、イルカの大規模捕獲
  に関係しての争いがあった様子が記録されている。

・安永2年(1773) 3月、唐津藩士の木崎攸軒(きざき・ゆうけん)
が描いた『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網
・海士』が成立した。「海豚漁事」(又は「江豬漁事」)は、海豚の
群れを捕獲する追い込み漁の様子が描かれている。

・天保9年(1838) 北村穀実が書いた『能登国採魚図絵』には、
石川県真脇村のイルカ漁についての記録が「いるか廻し」
として残されている。
(ウィキペディア)


【2】伊豆のイルカ漁***********************
・嘉永年間(1848~1855) 浜野健雄『伊東誌』が書かれた。
 当時の静岡では追い込み漁ができるほどの組織だった漁業団体が
 少なく、実施されているのは湯川村、松原村(現伊東市)、稲取
 村(現東伊豆町)のみであった。

・昭和9年(1934) 発行の『静岡県史』(静岡県史編集所)には、
湯川村、松原村(現伊東市)、稲取村(現東伊豆町)妻良、子浦
(現東伊豆町)、安良里(現西伊豆町)、御前崎も挙げられている。

【伊東市(湯川村/松原村】
 ・延享2年(1745)から組織的に行われた。
 ・嘉永年間(1848~1855)の『伊東誌』(浜野建雄1780~1859)
    「両村が連携し協同でイルカ漁を行う。」
 ・明治27年(1894)以前に終焉した。

【稲取】
 ・文政年間(1818~1831)から始まった
・明治初年に追い込み漁を廃止した。
・稲取ではイルカが押し寄せるたびに追い込み漁が
復活している。

【妻良、子浦】
 ・天保10年(1839) 3月、イルカ漁獲をした。


1)明治時代
 明治時代にに追い込み漁が廃止となった地区もある。
例1、明治27年(1894)以前、静岡の湯川、松原では廃止された。
例2、明治初年(1868)、稲取では追い込み漁を一旦廃止した。
   年に1、2度の追い込み漁では採算が採れない
   との証言が残されている。
  しかし、稲取ではイルカが度々押し寄せ、追い込み漁が
   復活している。

 明治になってから追い込み漁が行われるようになった港もある。
 例えば、静岡県の川奈、富戸(現伊東市)、田子(現西伊豆町)
 などでは明治以降に始められている。

【安良里】
 ・明治4年(1871)~昭和48年(まで。

【田子】
 ・明治12年(1879)からカマイルカ網を創設した。
 ・昭和20年(1945)6月20日 戦闘機に襲われ、中断。
9月以降に再開。
 ・昭和26年(1951)までイルカ漁獲が記録されている

【土肥】
 ・明治13年(1880)、1,000頭のイルカ漁獲した。
 ・昭和34年(1901 ) 3月大藪弁才天にイルカ供養塔を建立した。
★土肥の「昭和館」から徒歩1分だったが行かなかった。
★土肥の「つかさ」から徒歩20秒だったが行かなかった。
 前を通っただけ・・・・

【川奈】
・寛永7年(1630) 灯油を燃料とする灯台:湊明堂が建設され、
  近海航路の要衝として、村民が毎夜当番で管理した。
 川奈港からも江戸城築城の石材が毎月2回積み出された。
・江戸時代、川奈はカツオ、マグロ、サンマ漁が主であった。
 川奈で獲れた魚は、廻船や押送船 で小田原や江戸に運ばれた。
・文政年間(1820頃)に伊豆へ根拵網が伝えられた。
 川奈村は「村網」という形で、村全体で費用を出し経営する
 ようになった。村経営の根拵網の成功は漁獲高の急増をもた
 らした。
・明治21年(1888) 川奈で川奈の持つ地形を巧みに利用して
 イルカ漁が始まった
イルカの追い込み漁が完成し、イルカ漁で有名になった。

・大正11年(1922) 地元の神社にイルカ漁の絵馬が奉納された。
・昭和時代 漁船の動力化、大型化により、沿岸漁業から沖合
 漁業へと発展したが、 豊かな漁場が近くにあるため、安良里
 のような遠洋漁業へは発展しなかった。

・明治36年(1903) 11月30日、いるかを巡り川奈と富戸との間で
   海上大乱闘事件が起こった。
静岡県の川奈(現伊東市)でのいるか小型鯨類の追い込み漁は、
カンカンと呼ばれる孟宗竹の節を抜いた棒で海面を叩いたり、
ドウズキと呼ばれる150cm位の棒を投げ込んだりして、13 ノット
(24 km/h)ぐらいの速度で行われた。
1回の漁獲量が1000 ~ 2000頭ほどだった。

・昭和59年(1954) イルカ漁を廃止した。

【富戸】
・明治30年(1897)頃 イルカ漁を開始、
富戸では川奈から10年ほど遅れて始まった.
・明治36年(1903) 11月30日、いるかを巡り川奈と富戸との間で
   海上大乱闘事件が起こった。
  川奈と乱闘になるなどして戦後になるまであまり追い込み漁は
  行われなかった。
 
・平成16年(2004)11月11日、5年ぶりのイルカ漁獲
 2004年11月に行われたイルカ追い込み漁の様子。
   群れを港内まで追い立てた=伊東市の富戸港
(★富戸に写真有り)
(バンドウイルカ100頭、うち14頭は水族館へ、残り大半は放逐)
・現在まで続いている

◆引用サイト
http://nature.i-ra.jp/e90015.html

追い込み漁の方法は、漁船50 - 60艘で半月状に群れを取り囲み、
投石、水面を叩く、船縁を叩くなどして湾内に追い込み、湾を
「建切網」で塞ぐというものだった。
 小型鯨類の漁法は追い込み漁以外にも、呼吸の際を狙った突取
と呼ばれる銛を使った方法も行われた。

7)大正時代~昭和初期
  静岡では、イルカの回遊が減ったために一時的に衰えた。

8)昭和時代
・昭和17年(1942)から静岡県では再び大規模な回遊が始まった。
安良里で約2万頭の漁獲が報告されている。

【戸田】
 ・昭和17年9月、静岡県の許可を受けイルカ漁を開始した
 ・村をあげて全漁業者が従事した
 ・昭和18年の従事者数580名
・1960年代、静岡県ではイルカの追い込み漁がピークとなって 、
  年平均1万1千頭が捕獲されている。
・1970年以降は減少した。
・1980年代初期には年1000頭程度にまで減っている。



【3】安良里の歴史
・戦国時代
・???年 安良里城築城 。時期は定かではない。
・天正8年(1580) 重須沖(三津浜・長浜)の駿河湾で海戦。
武田勝頼 VS 北条氏直
安良里の梶原日向守も関船で出陣した。
・天正17年(1589)
  安良里港&安良里城には梶原備前守兼宗・三浦茂信は大将
  として水軍の基地に派遣された。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  徳川家康の家臣本多重次&向井正綱の率いる水軍に攻められて
  落城し、城将梶原兼宗&三浦茂信ら多数が討死にした(伝)。

・江戸時代初期…幕府領であった。
・正徳4年(1714)旗本間部氏領となった。(幕末まで)
・正徳4年(1714)の指出帳によると、
「家数118・人数540。」
・宝暦12年(1762)の高帳によると、
「百姓47・漁師39・船乗14・杣(そま)7・五十集(鰹節製造)7
 ・船宿7・商4・船大工2・石切2・屋根葺1・廻船2」
 安良里は湾を中心とした半漁半農の集落であった。

【2】【安良里イルカ漁】
・江戸時代、イルカ漁の記録がない。
 していたらしい。
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・明治4年(1871)、1300頭の記録あり
・明治以降で、漁業が急速に発展した。
 港入江が入り込んでいるので、イルカを港に追い込む追い込
み漁が行われていた。

・明治7年(1874)
※伊豆に「海豚(イルカ)供養塔」が7つあるが、安良里に3つある。
 「供養塔は、大量のイルカの捕獲に対して霊を慰めるために建て
 られた。安良里の3基の供養塔はどれもイルカを捕獲した頭数な
 どが記載されている。イルカ漁の史実を正確に知ることができる
 史料である。また当時の人々が何を考えたのか分かる史料である。」
(★TATSUMI・黄金崎ダイブセンター:高木剛彦氏)
正面:海豚供養塔
右側面:大海豚壹千四百七拾貮本
/総貫(九)拾七萬貫/
賣上金壹萬壱千五百参拾九圓/
追込昭和七壬申歳一月二十八日/
捕(終)同□二月二十一日
※碑は昭和七年の大漁に報いるものであった。

・明治15年1月19日「大小600頭余」の記録
碑文
①正面:海豚供養之碑/□住(岡)覺  克久書

②右側面:明治十五年壬午之春余應請□豆□那賀郡安良里村
 龍泉寺修授菩薩會
 尾輻輳于海門外於是一村漁人相集□馳小舟
者長ニ丈小者不下九尺自本日至二月十日ニ十間
壹萬餘圓大賑村民云先開會一日有網組當番□□介龍
来相見説某實便□願為海豚建供養塔開□□□曰□開

●海豚供養塔碑文「解説板の内容」
明治十五年壬午の春、余請いに応じて、豆州群那賀郡安良里村
龍泉寺に赴きて、菩薩
戒会を修授す。
これに先立つ一月十九日、この村に大漁有り。その実際を聞く
に、イルカの大小六百余尾。海門の外に輻湊す。これにおいて
一村の漁人相集い、たちまちにして小舟十数
隻を馳せて、それを海門の内に駆り、港口に竹網を張り、ことご
とくこれを捕う。大なるものは二丈、小なる者も九尺を下らず。
本日より二月十日に至る二十三日の間、港内にこれを養い、魚商
の来たるを待ちてこれを売り、代価およそ一万余円を収得して、
おおいに村民を賑わすと言えり。
開会に先立つ一日、綱組当番のなにがし有りて、龍泉の長老を介し
来りて相見し、その事実を説き、更に乞う。イルカの為に供養塔を
建て、甘露門を開かんことを願う。
余賛成して曰く、明日勝会を開くに、汝、漁人隊において人を選
び、イルカの為に戒徒となり、懺悔礼拝を行ずれば、即ち最上の
追善なり。漁人もまた必ず滅罪の益あらん。なにがし謹みて趣を
諾し去り、余の命に従いて浜方五人組の内にて人を撰し、戒徒と
作して、毎日出頭し懺悔礼拝す。遂に塔下に戒脈を埋納して、今、
井山一会の浄侶を宰して焼香、無遮会を修す。
ちなみに、漫に小伽陀一首をねんじて、すなわちイルカの供養に
充つる者なり。伽陀に曰く、善なるかな大イルカ 安良里に輻湊し 
解脱門に結縁す 六百有余尾
時に明治十五年壬午の春四月二十七日
円覚寺管長 権大教正 今北洪川 謹誌

昭和九年 一九六頭 三、五ニ八メ
仝十一年 一、○ニ七〃 一八、四八六メ
仝十七年 ニ○、一三一〃 四七一、六八七メ余
仝十八年 七、七六一〃 一九一、六六四メ余
仝十九年 六、五七九〃 二一八、一九七メ余
仝ニ十年 四、四七三〃 一○一、八九一メ余
仝廿一年 五、四七○〃 一五一、九六ニメ余
仝廿ニ年 三九五〃 一五、四六五メ余
仝廿三年 五八一〃 一五、ニニ○メ
仝廿四年 六、八一ニ〃 一八○、九五六メ余
計 五三、四ニ五〃 一三六九、○五九メ余
*明治9年~24年までに、53,425頭の漁獲(イルカ供養碑から)
*明治15年以降~明治27年までの間に協同漁業となった。

★引用サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~rn2h-dimr/ohaka2/12kujira/14cyubu/izuiruka_arari.html
明治27年、漁船が74隻もあり、イルカ漁と鰹節製造を生業とした
集落であった。
町並は海岸に沿ってと安良里川河口で安良里川に沿ってある。
町は漁村集落であり、板壁・ナマコ壁の家屋が混在している。
伊豆まだら石を用いた石造土蔵も散在していた。

◆参考文献
「角川日本地名大辞典」角川書店角川日本地名大辞典編纂委員会
●昭和時代のイルカ漁獲数
  昭和7年 1,472頭
  昭和9年 196頭
  昭和11年 1,027頭
 ※昭和12年~16年までは漁獲少なく記載なし
   昭和17年 20,131頭
    (村の人の証言では「ゴンドウイルカ」)
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  昭和19年 6,579頭
  昭和20年 4,473頭
  昭和21年 5.470頭
  昭和22年 395頭
  昭和23年 581頭
  昭和24年 6,821頭
 一時は、「イルカ漁といえば安良里」と言われていた。
*安良里イルカ=マダライルカ(斑海豚)のこと
 (昭和になって初めて安良里で捕れたことで命名)
(★TATSUMI・黄金崎ダイブセンター:高木剛彦氏)
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●イルカの追い込み漁
 「沖から多くの小船で、竹竿で水面を叩きながら、深く入り込
 んだ湾内の漁港に追い込んだ。」
 (★よこ田食堂の写真・冊子「安良里のいるか漁」)
イルカ組合があった。イルカを捜す組が順番で決められていた。
 それ以外の全部の船は港で待機していた。
  安良里港の入り口に弁天島がある。
  安良里では、弁天島の反対の「崖端(がけっぱた)」から
 50m程北の方へ、監視所があった。そこに役員さんが5、6
 人、双眼鏡を見ている。
 船がイルカを見つけると、大磯のところにマネという旗を
 立てる。
マネ(旗)が1枚の場合は50頭~100頭前後、
 マネ(旗)が2枚の場合は、200頭以上位、
 マネ(旗)の1枚表に2枚旗を揚げた時は500頭以上、
 その後、すぐ崖端の方へ旗を立てる。
 安良里村の人は「崖端にマネが立ったから、イルカを発見し
 たぞ。」を村の中にみんなに知らせる。
 待機の船の人は一斉に出て行って、イルカを包囲する役割
 した。」
 「イルカは先頭のイルカに後がついてくる習性があるので、
 追い込むときには右左に分かれて袋状にした、剣先という一番
 先頭の船が先に立って後続船がついていく。先頭の剣先は安良
 里の港に行くように誘導する。
 当時は弁天様の前が浅かったので、北の裏側を通った。
 イルカが多いときには坂本海岸へ、音に脅されて怖がって、
 浅瀬で干上がったときもある。船の若い衆は、短刀ですばやく、
 頸動脈を切って血を出して処理した。」
 イルカの場合は網屋岬を越えると安良里湾の中が深いので、
 大海へ出たと思ってピョンピョン飛ぶはねる。湾内をグルグル
 廻る。弁天様の前が浅かったので、湾内に戻ってしまって、
 外洋には出て行かなかった。」
(★TATSUMI・黄金崎ダイブセンター:高木剛彦氏)

 ★安良里の場合は天然の良港があるので、田子や土肥比べ、
 捕獲量が多かった。地形的にも安良里が有利だった。
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「若い衆制度があり、12,13歳くらいからイルカ漁を始めた。」

村の方の証言では
 「若い衆がモリでイルカをつく。つかれたイルカに他のイルカが
 おしかぶるんですよね。幾重にもイルカが重なって、つかれた
 イルカを守ろうとするんですよ。仲間を奪われまいとして必死
 なんですよ。人間と同じですよね。可哀想と思いました。」
 
「イルカ漁で親子のイルカがいて、赤ちゃんが港の中で死んで
 しまったら、お母さんイルカが赤ちゃんを頭の上に乗せて、
 港の中をいつまでもいつまでも泳ぎ回っていた。イルカが
 涙を流していたというのを聞いた。」

 
村の方の証言では
「入りたての若い人は寒中に海に入って、イルカを担ぎあげ
  てくる。海の中なので、いるかは重くはなかったが、
 寒かった。皆はイルカを背負って運んだ。」
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村の方の証言では
 「イルカがきーきーと泣くのでかわいそうだった。」
 「それだから先祖様が供養塔を立てたんです。松明を燃やし続け
 る浜施餓鬼はいるかの供養、水死した人、遭難した人の供養た
 めに、浜施餓鬼は伝統的にやっています。」

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「陸にあげると、年寄が、カギでイルカをひっかけて、腹を
  割って血を抜く。」

村の方の証言では
「腹が減っているので、腸を焼いて食った。
多く捕獲すると、1カ月以上かかって水揚げした。
 1月~3月なので、寒くて重労働であった。」

「イルカに赤ん坊はいるときは、腹を割いて、へその緒を切って
 海に放してやると、泳いでいくイルカもいた。メスは腹がピンクに
なっていて、お腹が大きい。」

「イルカの揚げたてのときに頸動脈を切って血を出す。いか
 に早くそれをやるか。イルカも苦しまないで済む。」

 伊東あたりでは、網をかけて陸へ上げるので、イルカが
 もがき苦しむ。安良里はすぐに血抜きをするので、肉質も
 良かったので、沼津港で伊東より高く売れた。」
「イルカが揚がって解体は猟師がやった。」
「参加した全員に、シロ(報酬)渡たされた。仕事によって、
  分けるシロが決められていて、組の代表が決めた。」
安良里のいるか漁は原始共産制に似た組織で、秋田や新潟秋山郷
 のまたぎのクマ猟に似ている。イルカの恵みによって地域が潤う
 ような組織だった仕組みであった。

●安良里のイルカの料理
 臭みを抜くために味噌で煮たり、タレを作って焼いたり、イルカの
 肉を薄く切って塩漬けにした後、焼いたりして食べた。
食用としてはゴボウなどと共に味噌煮にするのが一般的だった。
 イルカのわた(大腸・小腸)は、裂いて乾かしてスルメみたいに、
 焼いて食べた。
 絞った後の皮は揚げて菓子として食べられた。
 静岡県では醤油漬けや味醂漬けを天日に干したものが焼いて食べられ
た。
●イルカの使用法
肉は食用、脂肪は油採取、革は革製品(とりわけ靴)に用いられた。
なお、皮からは油が取られ、揚げ油や石鹸の原料として使われた。
残りは良質の肥料とされた。
捨てるのは骨だけだった。

  昭和25年 13,896頭
  昭和26年 11,365頭
  昭和27年 6,285頭
  昭和28年 1,501頭
  昭和29年 335頭
  昭和30年 2,553頭
  昭和31年 6.066頭
  昭和32年 3,897頭
  昭和33年 1,940頭
  昭和34年 6,082頭
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  昭和35年 1,137頭
  昭和36年 1,531頭
  昭和37年~39年 記録なし
*昭和30年代まで 安良里地区のイルカの追い込み漁は、盛んに
行われていた。
北は国後、択捉、南は硫黄島以南、朝鮮の済州島、東支那海
  のサバ漁・いるか漁が行われていた。
(★TATSUMI・黄金崎ダイブセンター:高木剛彦氏)
猟師のシロ(分け前)は役所・先生の約3倍~5倍であった。
イルカ漁のお金はボーナスであり、本業はカツオ漁・サバ漁・
 サンマ漁(棒受け漁は伊豆発祥)であった。カツオ漁の方が
給料がよかった。
近くでは三宅島、御蔵島附近でムロアジ漁をした。

*昭和30年半ば(昭和35年か?)で組織的ないるか漁の出漁は
 行われなくなった
*以後、各地の水族館から依頼を受けた時に出漁した程度である。


  昭和40年 57頭
  昭和41年 記録なし
  昭和42年 27頭
  昭和43年 7頭
  昭和44年 36頭
  昭和45年 115頭

・昭和48年以降~イルカ漁はなし。終焉した。

 
・平成2年7月11日、イルカ数十頭と安良里港へ追い込んだ。
  イルカがは利口すぎて、岬の突き出た半島地形が浅くなる
ため、湾の外には出ず、湾内に留まった。
イルカ漁の捕獲を静岡県水産課に申請していなかった。
  静岡県水産課の指示で湾外放逐を示唆されて水揚げを断念
  した。
 完全に一世紀近く続いたイルカ追い込み漁業が終止する。
 (★TATSUMI・黄金崎ダイブセンター:高木剛彦氏)
20190806arariirika007.JPG
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・平成21年(2009)和歌山県・太地町でのイルカ追い込み漁を
 批判的に描いた、アメリカの映画『ザ・コーヴ』が公開さ
 れた。第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞などの
 受賞をはじめ、映画賞を総なめにした。

 その影響~~~~~
国際組織の世界動物園水族館協会(WAZA)は、「イルカ漁を
やめなければ、日本動物園水族館協会(JAZA)を組織から除
名する」と日本側に通告してきた。
JAZAは加盟する水族館が、イルカ漁で捕獲したイルカの展示
 を禁止することを発表した。日本の水族館からイルカショー
が激減する可能性が高まった。

・現在、安良里の特産品はイルカをタレに漬けて天日干ししたもの
 が売られていた。「よこ田」の近くの店にあった。
イルカ肉のほとんどが岩手県産であるらしい。
キンメダイ(金目鯛)漁は伊豆が全国屈指の水揚げを誇る。
 特に稲取。
 しかし、 深海魚のキンメダイを引き上げる途中で、イルカ、
 バラムツ、サメなどが食べてしまう。特にイルカによる食害
 が深刻だそうである。
日本の水族館のイルカショーが代人気である。


【4】【伊豆半島ジオパーク】
イルカ漁、平成16年以降行われず、漁協関係者「伝統漁法守る」 
 県内のイルカ漁は、明治時代から伊豆半島の東海岸を中心に
営まれ、最盛期の昭和30年代には年間捕獲数が1万頭を超え
ていた。しかし、現在は伊東市のいとう漁協のみとなり、平成
16年にバンドウイルカ24頭を捕獲して以降、漁は行われて
いない。
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)などが世界ジオパーク認定
に絡めてイルカ漁をやり玉に挙げていることについて、地元の漁
協関係者からは「伝統的な漁法を守る」と憤りの声が上がっている。
 静岡県水産資源課によると、イルカ漁をめぐっては水産庁が水
産資源の保護を目的に、2年から資源量と捕獲実績を基に年間捕 
獲枠を設定。同(伊東)漁協の枠は16年に600頭あったが、
年々縮小傾向にあり、今年は137頭まで減少。今後さらに捕獲枠
が減っていくことが懸念されている。
 同漁協では食用の漁はせず、生態調査や水族館展示用に、主に
バンドウイルカやオキゴンドウなどの捕獲を目指している。今後
も捕獲枠は維持していきたい考えで、漁法を継承する同漁協の40
代男性は「伊豆半島はイルカ漁ととも発展してきた。この伝統や文
化をしっかり後世に残していきたい」と話している。


【5】イルカ追い込み漁再開へ いとう漁協、飼育用に限定
静岡新聞NEWS (2019/6/16 07:24)
 伝統漁法「イルカ追い込み漁」を継承するいとう漁協(伊東市)
が、水族館などで展示・飼育するための「生体捕獲」に限定した
上で本年度漁期(2019年10月1日~来年3月31日)にも漁
を再開する方針を固めた。水産庁と県に協力を要請している。
10月15日、関係者への取材で分かった。
 飼育用イルカの需要を見込み、これまでの食用捕獲から方針を
転換し、伝統漁法の再開を図る。捕獲すれば15年ぶりとなる。
 関係者によると、同漁協は同市における追い込み漁の基準と
なる作業マニュアルの改定について、水産庁と県に協力を要請
した。現行は食肉用の捕殺・解体の手順が中心だが、同漁協は
水産庁、県と協議しながら生体捕獲に対応した内容に変更する。
 生体捕獲への方針変更は、残酷なイメージが強い食用捕獲
より漁再開への批判が少ないという判断がある。また、タンパ
ク源が少なかった時代と異なる現代で、食肉用より飼育用の方が
需要が高いという目算もある。
 国内で追い込み漁を行うのは同市と和歌山県太地町の2カ所。
いとう漁協には毎年、同庁からの捕獲枠が付与され、昨年はバン
ドウイルカ34頭、オキゴンドウ11頭などの捕獲が認められた。
だが、2004年を最後に、捕獲数ゼロが続いている。
追い込み漁によるイルカの生体捕獲は、世界動物園水族館協会
の働き掛けを受け、日本協会が15年から会員施設に追い込み漁
イルカの入手を禁止している。一方、繁殖による確保が難しいな
どの理由で脱退する施設もあり、関係者によると、同漁協は昨年、
県内外から10頭程度の注文を受けていたという。
 水産庁の幹部は取材に対し、「(マニュアル改定の)意向は聞
いている。漁が行われるよう助言していく」と話した。県の担当
者は協力要請の有無は明らかにしないものの、「具体的に操業の
意思が示されれば環境整備を進める」としている。

現在、県内ではいとう漁協(伊東市)だけがイルカ追い込み漁
(明治時代から伊豆半島で営まれてきた伝統漁法)継承する。




~~~西伊豆シリーズ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

箕輪初心:生方▲伊豆西⑬【大瀬崎散策】と『鈴木繁伴館』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_12.html

箕輪初心:生方▼西伊豆⑭【2016夏:大瀬崎ダイビング15回目】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_13.html

箕輪初心:生方▲西伊豆⑮沼津市井田「井田の歴史とダイビング」
http://53922401.at.webry.info/201609/article_14.html

箕輪初心:生方▲西伊豆⑯【戸田&プチャーチン】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_16.html

箕輪初心:生方▲西伊豆⑰【伊豆市土肥の散策&グルメ】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_17.html

箕輪初心:生方★西伊豆⑱『土肥の若山牧水』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_19.html

箕輪初心:生方▲西伊豆⑲【土肥の富永一族の歴史】と『菩提寺:青雲寺』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_21.html

箕輪初心●西伊豆⑳【土肥高谷城】後北条№3の富永一族の本拠地
http://53922401.at.webry.info/201609/article_23.html

箕輪初心●西伊豆21:土肥の八木沢「丸山城」
=天正17年富永助盛=猪俣邦憲は?
http://53922401.at.webry.info/201609/article_24.html

箕輪初心:生方▲西伊豆22【土肥DIVE】&
早食い競争「カエルアンコウVSミノカサゴ」
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箕輪初心:生方▼西伊豆23▼ダイブ№162宇須久『黄金崎5回目』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_27.html

箕輪初心:生方▲西伊豆24▲『安良里城』&「イルカ猟の盛んだった
安良里」&「グルメ:よこ田」
http://53922401.at.webry.info/201609/article_27.html


★明日は?

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