箕輪初心:生方▲久保田順一『碓井川谷の戦国史~領主と城館~』安中氏編

令和元年(2019)10月26日、久保田順一先生の講演会があった。
安中の歴史・・・安中氏・諏訪氏・依田氏・後閑氏・飽間斉藤氏
についての話であった。久保田先生に挨拶もした。久保田先生、
ありがとうございました。
10月31日午前2時頃沖縄・首里城の火災で発生した。残念。
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一、八幡荘と碓井荘
1)八幡荘
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』後編
https://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html

箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

2)碓井荘
 鳥羽院政期・・・御願寺領
 鎌倉幕府期・・・守護安達氏が関与か?
        安達被官:飽間斉藤氏 
        佐々木盛綱は磯部荘に在住
南北朝時代・・・上杉家領に転化か?

二、板鼻の景観
1)交通の要点
奥大道と鎌倉上道
【宴曲抄】
●鎌倉上道
源頼朝が鎌倉幕府を開くと同時に・越後・信濃・上州などか
ら鎌倉への道を整備させた。鎌倉街道は大きく3つの道があった。

=====鎌倉街道上道(かみつみち)=======
(★本来の上道は、高崎から先に信濃、越後と続く。)
東山道安中板鼻~ ①高崎→②山名→③藤岡→④児玉→
⑤美里→⑥用土→⑦花園→~荒川~(寄居)→⑧赤浜
→⑨塚田→⑩奈良梨→⑪嵐山→⑫笛吹峠→⑬鳩山→
⑭毛呂山・⑮坂戸→⑯日高の女影→⑰入間~入間川~
⑱狭山→⑲所沢→⑳小手指→その先は府中→本町田→
瀬谷→化粧坂→鎌倉と続いた。        

●====鎌倉中道(なかつみち)==========  
宇都宮→古河→栗橋→岩槻→鳩ヶ谷→板橋→世田谷→
 荏田→鶴ヶ峰→上永谷→鎌倉

●====鎌倉下道(しもつみち)===========  
松戸→堀切→浅草→大手町→丸子→綱島→菊名→帷子
→金沢→六浦→朝比奈→鎌倉


※鎌倉街道上道(かみつみち)は、「大道」などと呼ばれていた。
越後・信濃・武蔵の武者が「いざ鎌倉」を唱え、馳せ参じる軍事
街道であったと言われている。当時の街道幅は馬2頭が並んで
やっと通れる2m程であったと言う。
 (★埼玉県菅谷歴史博物館?名称は?)



・建久4年(1193) 源頼朝の三原(長野原町借猪)の巻狩り→
  源頼朝は鎌倉街道上道を通って、畠山重忠・山名義範・里見義俊
 も随行した。寺尾(高崎)で新田義重の館に寄った。
鎌倉→入間で狩り・入間川の宿泊→大倉(源義賢の館があった)
・児玉の宿→松井田の宿(当時は松枝):山名・里見が警護。
→碓氷峠→信濃(軽井沢)→沓掛の宿→三原の庄狩猪(現群馬県
長野原町北軽井沢)→草津・・・新田義重の館?
★個人的は、松井田→地蔵峠→倉渕→大戸→狩猪と考えている。
『曽我物語』巻5「浅間の御狩の事」(★東京大学付属図書館蔵) 

・建久4年(1193) 4月 小代伊重の置文
 源頼朝が三原の庄へ鷹狩りに訪れた際に、武蔵国の御家人:小代
 行平(こしろゆきひら)が遅れ、「上野国山名ノ宿」で追いついた。
との記述がある。

箕輪初心▲埼玉東松山『小代氏館』=源悪源太義平の家臣:小代氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_28.html




・建久8年(1197) 源頼朝の善光寺参拝
  源頼朝の善光寺参拝の機に多くの人が鎌倉街道上道を通じて
善光寺に参拝した。善光寺式の仏像も岩鼻の寺に残っている。
鎌倉極楽寺の僧:明空によって編まれた歌謡集「宴曲抄」に
鎌倉街道沿いの地名を詠みこんだ「善光寺修行」という作品が
収録されている。
吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、
かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、
小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれに
しといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし井手の沢辺かとよ、
小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる、
おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、
久米河の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、
千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、
草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、
光も細き暁、尋ても見ばや堀難の出難かりし瑞籬の、久跡や是ならん、
あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川、
あの此里にいざ又とまらば、誰にか早敷妙の、枕ならべんとおもへども、
婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵に槻河の、
流れもはやく比企野が原、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、
打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河行過て、
下にながるる見馴川、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、
是やは児玉玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、
矢竝にみゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、いざ倉賀野にととまらん、
夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、豊岡かけて見わたせば、
ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻、誰松井田にとまるらん、
◆宴曲抄

箕輪初心★高崎:佐野源左衛門常世&「鉢の木」伝説の謎
https://53922401.at.webry.info/201310/article_1.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【旧高崎の歴史③中世前期:新田氏&鎌倉街道】
https://53922401.at.webry.info/201509/article_28.html



板鼻・・・宿町
・平安末期 
 「源義経・伊勢三郎伝承」・・・伊勢三郎は義経の家臣になった。

・鎌倉時代~
時宗のの寺・・・聞名寺
称名寺・・・・・世良田長楽寺末寺
蓮華寺・・・・・世良田長楽寺栄朝開基
・南北朝時代
  「上州朝の市」で牛を売る話 (★『諏方大明神縁起絵巻』)

・室町時代
上杉憲顕の拠点~上杉顕定の拠点

箕輪初心:生方▲20151107久保田順一先生講演会『上杉憲顕と南北朝の動乱』
https://53922401.at.webry.info/201511/article_8.html

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
https://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html
★森田先生、使わせていただきました。
 森田先生、掲載許可もありがとうございます。




三、安中氏と安中城
1)安中氏の系譜
※安中氏の上州入り
 先祖は不詳。
 桓武平氏の平維茂の末裔とする説がある。
 史料上の根拠はない。
安中氏は碓氷郡に古くから居た一族ではなく、越後国から
 碓氷郡の野尻・松井田へ移住してきたとされる。
 その後、野尻と呼ばれていた地は安中と改められている。


『和田記』の系譜

 安中出羽守忠親―伊賀守忠清―越前守忠正(忠政・春綱)
  ―左近忠成―主計(広盛)

箕輪初心●安中忠政=重繁=春綱&安中忠成=景繁=広盛
https://53922401.at.webry.info/201211/article_10.html

箕輪初心:生方▲『安中氏の盛衰』
https://ubu3blog.at.webry.info/201902/article_10.html

2)安中氏の確実な史料
・康正元年(1455)5月13日 岩松持国宛足利成氏「書状」の
  野田忠持が新田庄:岩松持国に出した書状『野田持忠副添状写』
箕輪初心:生方の補足
 「 大井播磨守 越坂 安中左衛門知行分 にて 取陣候由」
 意味…享徳の乱佐久の大井播磨守が碓氷峠または入山峠を越えて
  安中左衛門の知行地に着陣した。
 結果、享徳の乱時には既に安中氏は碓氷郡に拠っていた?。



・長享元年(1487) 安中氏の移住としている。
箕輪初心:生方の補足
  『安中記』には「長享元年丁未四月、上野国碓氷郡松井田小屋
  城ヲ建テ越後国新発田ヨリ引移ル」
 『上野志』には「越後国新発田より長享元未四月、上野国碓氷郡
 松井田西城小屋へ引移り住居す」

結果
①長享元年(1487)近世に成立した史料では安中氏の移住をとする
上記「野田忠持副状」の記述と合わず、正確な年代は不詳である。
②越後のどこから碓氷郡へ土着したのかも不詳である。
 『和田記』『上野国志』では「越後国新発田から移住したと伝えるが、
 新発田に安中氏の痕跡がなく、新発田と断定しがたい状況にある。
が、野田忠持副状の記述と合わず、正確な年代は不詳である。


・永正4年(1507) 安中顕繁がいたことが分かる。
貫前神社所蔵「兜前立裏銘」
  「永正四年安中宮内大輔顕繁」

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html
◆参考書籍~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★戦国史150年
★東国の戦乱
★上杉顕定:森田真一著
★群馬県史
★『古河公方展 古河足利氏五代の興亡』 :古河歴史博物館図録
・関東の大乱・・・群馬県歴史博物館
・中世文書集・・・群馬県歴史博物館
★長尾景春と鉢形城:鉢形城博物館
★埼玉県の城砦1/2


箕輪初心:生方の補足******************
 憲政(実子)4歳=憲当(のりまさ)
・大永4年(1524)
惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景
と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した。
長野方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略したことが知られている。
(★久保田順一先生の以前の講演会より
  ・飯森康広氏講演会より)
・大永5年(1525) 上杉憲房が死去。
  上杉憲房の実子:上杉憲政は2歳と幼少だったことから、
 上杉憲寛は山内上杉氏の家督と関東管領職を継いだ。
山内上杉憲房に嫁いでいた上杉朝昌の娘(朝興妹)は扇ヶ谷上杉
 に戻った。
 (①後、上杉朝昌の娘は甥の上杉朝興の依頼で武田信虎の側室
  となった。→上杉憲房後室と武田信虎の婚姻→晴信が生まれた。
  ②上杉朝興の娘と信虎の嫡子:武田勝千代:
  晴信に嫁いだ。中に入ったのが彦部家である。
  2つの扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり、
  扇ヶ谷上杉家と甲斐武田家の同盟はより強固なものとなった。
 

????年 上杉憲寛の正室:小弓公方:足利義明の娘を
 貰った。
上杉憲寛の子:上杉憲当は「榎木上杉氏」を名乗っていた。
(★おそらく安中原市の榎下城)

????年 長野業政の正室は扇ヶ谷上杉朝良の娘である。
兄弟姉妹
姉・・・・長尾景英正室
 長野業氏
 長野業正
 妹・・・・里見義堯正室
(★ウィキペディアの説)
 黒田基樹先生説・・・長野憲業の娘が里見義堯正室
*****************************

・大永5年(1525) 四月十六日 上杉憲房の死
憲廣(養子) VS 憲政(実子)

箕輪初心:生方▲箕輪城№180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html
・享禄2年(1529) 関東享禄の乱
正月廿四日 長尾八郎忌同族長尾景誠振権、□令矢野氏害之、
八月十四日 上杉憲寛上州安中城、上杉朝興止之
憲寛不聴而発兵
九月廿二日 上杉憲寛部下西氏、小幡氏等叛、立故管領
憲房子憲政・時称竜若、継山内家、而破憲寛
安中陣、而移上州程田陣、長野一族従之
「★初見公開は黒田基樹氏
 「続本朝通鑑(しょくほんちょうつがん)」
久保田先生
 憲寛側・・・長野一族・白井長尾氏・高田氏・守山氏・三富氏
 憲政側・・・安中氏・西氏・小幡氏・藤田氏・用土氏

箕輪初心:生方の補足
①上杉憲政4歳が勝利・・・つまり、安中氏・小幡氏は担ぎあげた。
 ことになる。
 ②
 青柳説・生方説
箕輪長野氏 VS 室田長野氏 があったのでは?

箕輪初心:生方▲箕輪城№232【山内上杉憲房・上杉憲寛・長野業政
&扇ヶ谷上杉朝良】
https://53922401.at.webry.info/201612/article_2.html
◆参考サイト
青柳さん
http://kouzuke1059.wiki.fc2.com/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E4%BA%AB%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%86%85%E4%B9%B1

○天文2年(1533)
 安中宮内少輔  「快元僧都記」

★箕輪初心:生方の補足
・天文15年(1546)川越夜戦
 北条氏康が上野に侵攻してくると、安中氏は北条方についた。
(群馬県史・埼玉県史)
 
 北条方に変わった安中長繁?系統
 山内上杉憲政に最後まで従った安中七郎太郎系
   安中七郎太郎を長繁説または後継者とする説がある
 上杉憲政の没落とともに惣領家の交替があったとする説
 がある。
 
 七郎太郎系は上杉憲政について越後へ行くが消息不明と
 なっている。
 (ウィキペディア)


○天文21年(1552)
( 安中)長繁 「長繁判物」『市谷八幡神社文書』

箕輪初心:生方の補足
 安中氏は、平井城にあって上野国を支配していた山内上杉氏の
 配下であった。
 安中顕繁→安中長繁であった。

箕輪初心:生方▲箕輪城№232【山内上杉憲房・上杉憲寛・長野業政
&扇ヶ谷上杉朝良】
https://53922401.at.webry.info/201612/article_2.html

・永禄元年(1558)
安中越前守 「北条氏康書状」『井伊家史料』
重繁か?(久保田先生)
★重繁(黒田基樹先生は「安中の中世」で比定)

箕輪初心:生方の補足
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
武田・上杉間の争いは上野方面が戦場となった。
 武田氏は西上野侵攻を開始した。
 安中城を持つ安中惣領家:安中重繁が箕輪城主長野業政と結び
 上杉方に属し抵抗した。
・永禄5年(1562)9月、安中景繁は武田方に服属し、武田家臣
 :曽根虎長が取次を務めた。
  安中氏は武田方として箕輪城などの攻略に参加した。
安中重繁→安中景繁


○永禄8年(1565) 9月21日
 安中左近大夫景繁

○永禄9年(1566)頃 
  安中越前守入道 

○永禄9年(1566)
 安中左近大夫景繁
箕輪初心:生方の補足
箕輪城は武田信玄に攻略された。
 青柳説では「武田信玄は箕輪城に来ていないのでは?
  武田義信は大勝(『榛名神社書状陣立て図の写し』)

○永禄10年(1567)
安中左近大夫景繁

久保田先生【甲陽軍鑑】
 内藤修理亮・・・250騎 (補足+箕輪衆250騎)
 真田信綱・・・・200騎
真田昌輝・・・・・50騎
和田業繁・・・・・70騎 (信濃先方衆)
 和田左衛門尉信勝・30騎 (西上野先方衆)
 小幡信貞・・・・500騎
 平(多比良)・・・ 40騎
高山泰重・・・・・50騎
 白倉・・・・・・・50騎
 海士曳・・・・・・50騎
 木部宮内少輔・・・50騎
 倉加野淡路守・・・50騎
 依田六郎・・・・・80騎
 後閑伊賀守信澄・・50騎
 長根隼人・・・・・30騎
 大戸丹後守・・・・10騎
 安中左近大夫・・150騎(安中)
 松本兵部丞・・・・15騎(安中)



・天正3年(1575)
安中左近大夫景繁・・・長篠の戦いで討ち死に
★箕輪初心:生方の補足
 安中景繁は甘利昌忠の妹を貰い、甘利昌忠の隊に属した。
箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
https://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html
安中久繁(七郎三郎)が継いだ。

★箕輪初心:生方の補足
・天正6年(1578)
 上杉謙信の死→御館の乱→甲越同盟の成立・甲相同盟の破綻。
 安中久繁は武田勝頼に仕え、上野侵攻の一翼を担った。



○天正7年(1579)
安中七郎三郎 「武田勝頼朱印状」『慈雲寺所蔵文書』

箕輪初心:生方の補足
・天正10年(1582)3月武田家が滅亡。
 4月 安中久繁は織田家の重臣:滝川一益に仕えた。
 6月 神流川の戦い
    安中久繁は参陣した。
    滝川一益が清洲会議に遅刻。伊勢長島城に帰還する。

  安中久繁は後北条氏に仕えた。


3)安中氏の支配領域
○天正10年(1582) ?「安中領」
  安中久繁から北条安房守氏邦宛て文書
「陣中へ来伝馬、安中領之事無異儀相立候様、自其方相心得、
 可被申届者也、仍如件、
 六月廿九日 「竜朱印)
 安房守殿
 (「北条家朱印状『安中本陣文書』)
★箕輪初心:生方の補足「読み・・・」
「陣中へ伝馬来た、安中領の事、異議無く相立ち候よう、
 自らその方相心得、申し届けらるべきものなり。
 よってくだんのごとし。
 6月29日 
  北条安房守氏邦殿
★箕輪初心:生方の補足「解釈・・・」
 天正10年(1582) 6月19日・20日安中久繁は滝川一益側
 として神流川の戦いに参加し、滝川一益が敗戦。
 北条氏は天正壬午の乱で信濃に進出した。その際、・・・
 「信濃?の陣中に馬(または食料・武器)が届いた。・・
 安中領を安堵するので、命令に従うように振る舞うように
 その方(安中久繁)心得よ。申しつけたのでよろしく。
 6月29日、北条安房守氏邦 」
 
 ★竜朱印を出せるのは北条安房守氏邦・陸奥守氏照である。
(その後、宇津木・佐野が朱印を許されているが、・・・)
 しかし「殿」がおかしい?久保田順一先生の間違いでは
 ないだろうか?おそらく、1行ぬけたのでは?

久保田順一先生は「須藤安房守」と想定しているようである
 が?、私は竜朱印のため、北条氏邦が須藤に出した。
 ★須藤・松本氏の居城は安中の生涯センターの上の場所
 にある。


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め
 7月 後北条氏が滅亡。
  安中氏は所領を失い四散した。

 宗家の左近忠成(景繁)の弟・忠基は出羽に逃れた
 (『安中市誌』)
 忠基の嫡男三郎左衛門は安藤重長に仕え、次子五郎左衛門が
 秋元喬知に仕官した(『安中記』)
 安中一族らしき安中姓の人物かいる。真田・井伊家臣。
 (ウィキペデア)

箕輪初心:生方の補足
真田信幸家臣・・・安中七郎三郎
(信濃史学会『信濃』)
井伊直政家臣・・・安中氏2人
 安中大膳・・伊豆土肥で家臣になった。
 (『新修彦根市史』・『侍中由緒帳』)

  
戦国期の古文書から構成した系譜
安中左衛門―宮内大輔顕繁―宮内少輔長繁―越前守重繁
  ―左近大夫景繁―久繁



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この記事へのコメント

宗春
2019年11月01日 11:50
先生こんにちは
ブログ再開できて何よりです。やはり中世の記事が良いですね、なんか心が落ち着きます。私は今、PDF化された甲陽軍鑑とか武田三代記を呼んでいますが、長野氏に関係する記述は少ないですね。特に箕輪落城に関する事は、義信事件にかくれてなおざりになっているみたいです。それとも箕輪落城なんて、武田氏にとって些細な出来事だったのかもしれません。残念です。