箕輪初心:生方▲2019『支倉常長と慶長遣欧使節』復刻版

平成13年(2001) 12月23日(日)に私(=箕輪初心)はメキ
シコに行った。メキシコシティで支倉常長が泊まっていた青タイ
ルの家ホテル、支倉常長が洗礼を受けた教会に行った。
令和元年(2019)09月18日、 TV での
「支倉常長の像や絵」の事をやっていた。
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支倉常長像は
①宮城県石巻市の月の浦港
②メキシコのアカプルコ
③キューバのバハマ
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④スペインのコリア・デル・リオ
⑤イタリアのチビタベッキア
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支倉常長の絵
①仙台市博物館所蔵「支倉常長像」
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②ボルケーゼ美術館(ローマ教皇庁の迎賓館)所蔵「支倉常長像」
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③イタリアのチビタベッキア
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慶長遣欧使節は仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布
教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を
求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもと
に派遣した外交使節である。伊達政宗の家臣支倉常長は宣教師
ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン
・ファン・バウティスタ号」で太平洋を渡り、メキシコを経て
キューバ、スペインで国王フェリペ3世に謁見、南フランス、
イタリアのローマに入り教皇パウロ5世に拝謁した。支倉は洗
礼を受けたが、交易はスペイン王に任せると言われ、再び、ス
ペインへ、スペインで交易拒否で目的を達することができず、
7年後、仙台へと戻った。支倉常長を待っていたのは幕府のキ
リスト教弾圧だった。

◆参考・引用サイト
サン・ファン館「伊達政宗と慶長遣欧使節」
https://www.santjuan.or.jp/history.html

支倉常長物語 - 支倉常長日西文化協会
https://hasekura.info/story

箕輪初心★メキシコ旅行「俺&田中勝介&支倉常長」
https://53922401.at.webry.info/201108/article_14.html

2011年08月17日
箕輪初心●天正遣欧少年使節&Myヨーロッパ旅行
https://53922401.at.webry.info/201108/article_15.html

2018年06月16日
箕輪初心:生方▲長崎5回目30ー1大村市『天正遣欧少年使節団の像』
★支倉常長の相棒セテロの死んだ場所でもある。

箕輪初心★山田長政=シャムに渡った英雄
https://53922401.at.webry.info/201108/article_16.html

箕輪初心◆海外№24【スペイン周遊8日間】
https://53922401.at.webry.info/201412/article_22.html



【1】無名の日本人
  田中勝介以前にも、太平洋を横断した可能性はある。
  多くの日本人がルソン島に渡っている。山田長政など。・・・
・慶長14年(1609) 9月30日 前フィリピン総督ドン・ロドリ
  ゴが ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)への帰任に際、
  台風のためサン・フランシスコ号が遭難し、上総国岩和田
  村(現御宿町)に漂着した。乗組員317人が岩和田村の人
  達に救助された(死亡・行方不明者56名)。
  サン・フランシスコ号の乗組員に日本人がいて通訳をした(伝)。
 (★フィリピンのマニラのサンデェゴ要塞・・・日本も使用。)



【2】田中勝介(しょうすけ・生没年不詳)達のメキシコ使節団
  歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、太平洋を往復した日本人である。
  ・記録が残存する最初の人物。
 ・慶長15年(1610) 京都の貿易商人:田中勝介は徳川家康の命を受け、
   前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷に同船し、ヌエバ・エス
   パーニャ(現メキシコのノビスパン)へ向かった。

  翌年、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより
  派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノ(=エスパーニャ
  国王フェリペ3世の親書を携えて来日。全権大使)とともに戻った。
※使節団・・・・
   アロンソ・ムニョス神父は徳川家康の使節としてエスパーニャ本国へ
   3名・・・ヌエバ・エスパーニャに残り、
   17名・・田中勝介などが日本に戻ってきた。。
  ※エスパーニャとの通商を試みての渡航であったが、通商に関しての
   具体的合意には至らなかった。合意には至らなかったのは、
   ビスカイノと大御所徳川家康との間で行われた協議の結果であり、
   田中勝介の責任ではない。
  ※徳川秀忠に五色羅紗と葡萄酒を献上した。
      (★ウキペディア参考に作成)
 
*******************************
◆カトリックの苦境とスペインの斜陽・没落開始~~~~~
16Cの前半、ドイツのドレスデンのルター、スイスのジュネー
ヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教世界
をカトリック教会とプロテスタントに二分することとなった。
社会と政治の変動をもたらす宗教改革となった。宗教改革はヨ
ーロッパの精神世界と政治世界においても最高権威であったローマ
教皇を頂点とした教会支配を脅かすものであった。カトリック教会
でも対抗宗教改革に対抗した。また、ルネサンス、大航海時代との
密接に結びついた。新旧二派の対立は、深刻かつ広範囲な宗教戦争
に転化していった。戦争や虐殺・修道院が破壊・財産が没収などが
おこった。
 スペインでも宗教改革の後、カトリックと新興勢力プロテスタント
が競い合った。プロテスタントに対し、カトリック派は世界に目を
向けた。
大航海時代にヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくって
いた。植民地活動で先行していたのはカトリックのスペイン、ポ
ルトガルである

・天文10年(1541)フランシスコ・ザビエルはインドのゴアへ赴いた。
ザビエルはインドで多くの信徒を獲得した。
マレーシアの港町マラッカで出会った日本人ヤジローの話から
日本と日本文化に興味をもった。
・天文18年(1549)に来日。種子島で鉄砲を伝えた。2年滞在して
 困難な宣教活動に従事した。ザビエルは日本人へ精神的影響を与
 えるために中国の宣教が不可欠といういう考えで中国本土への
 入国を志したが、果たせずに逝去した。
 
 スペインは新世界やフィリピンにカトリシズムを持ち込んだ。
スペインの国王は教皇による「内政干渉」からの独立を要求し、
国王の領域にいた司教達はスペイン王を通じてでなければ教皇に
報告する事が禁止された。スペインの次の主要目的地は、人口の
多い中国の「明」。それから、おまけで「日本」に目を向けた。
教皇グレゴリオ13世は、イエズス会に理解を示し、日本布教の独
占権を付与した。本格的な布教が始まった。
16Cのイエズス会士たちは中国と日本への宣教の拠点としてポル
トガルはマカオを利用した。

・永禄4年(1561)琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。

・永禄6年(1563)、ルイス・フロイス31歳で大村領横瀬浦(大村
純忠の貿易港、現長崎県西海市北部の港)に上陸し、大村純忠
 のもと、日本での布教活動を開始した。

・永禄7年 (1564) ルイス・フロイスは平戸から京都に向かった。
ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布
教活動を行った。
日本でのイエズス会事業は、ルイス・フロイスやグネッキ・ソ
 ルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった宣教師
 たちの活躍で大きく信者をふやし発展した。
 
・日本人初のイエズス会士は薩摩国(鹿児島県)出身のベルナルド
 で、日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、修道
 士となった。

・永禄8年(1565)スペインはフィリピンを植民地とした(~1898年)
スペインはフィリピンを植民地としてマニラ・ガレオンなどで多く
 の利益を上げた。

箕輪初心:生方:▼2019海外№86フィリピン10-②SARAさんの
案内でマニラ観光
https://ubu3blog.at.webry.info/201909/article_3.html

 ポルトガルはマカオ(100年租借)を拠点にしていた。
 植民地活動で遅れをとっていたプロテスタントのイギリス、オラン
 ダも、遅れを取り戻すべく積極的な活動を始めた。

・天正8年(1580) 大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託した。
 大村純忠は長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がも
 たらす貿易利益を独占しようとした。
 イエズス会はキリスト教に改宗しない領民を奴隷として海外に
 輸出する港を探していた。
 連れ去られた奴隷の数は数千人とも数万人とも言われている。
 イエズス会は「日本人を奴隷することが目的だった」。
 結果的に宣教師が「日本を植民地支配するための先兵だった」
 とまでは行かないだ、・・・

・天正10年(1582) イエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・
 ヴァリニャーノが天正遣欧少年使節を計画し、実現となった。
 九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代と
 して4名の少年を中心とした使節団ローマへ派遣された。

・天正18年(1590)天正遣欧少年使節帰国。

・天正15年(1587)豊臣秀吉はスペイン・ポルトガルによる日本征服
の第一歩ではないかと疑いの目を向けた。長崎を取り上げて直轄領
とした。

2018年06月16日
箕輪初心:生方▲長崎5回目30ー1大村市『天正遣欧少年使節団の像』
★支倉常長の相棒セテロの死んだ場所でもある。

※天正16年(1588)アルマダの海戦 
スペインの無敵艦隊がイギリス・オランダに大敗した。
スペインが没落をし始めた。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
 
 オランダの商船リーフデ号は豊後国(大分)臼杵の黒島に漂着した。
  徳川家康はウィリアム・アダムスとヤン=ヨーステン・ファン
  ・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールト
   らを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
  徳川家康は大坂城て英国人:ウィリアム
  ・アダムスを尋問した。
  徳川家康はをイギリス人ウィリアム・アダムスを外交顧問とした。
 
  徳川家康の御用商人:馬込勘解由の娘・お雪を妻とした。
  アダムスは三浦按針と名乗り、250石の旗本となった。

・慶長9年(1604) 三浦安針により浦賀にスペイン商船が
  入港することになった。

・慶長14年(1609) 徳川家康は平戸にオランダ東インド会社の
  商館の開設を許可した。三浦按針が就職した。

・慶長17年(1612) 徳川家康はイギリスから新式大砲を購入
  した。
  ●宇津木泰繁は徳川家康の前で長距離狙撃用鉄炮86挺
   の試し撃ちを敢行した。
 
箕輪初心:生方▲真田丸130【カルバリン砲は三浦按針が?】
https://53922401.at.webry.info/201611/article_21.html



【3】支倉常長のローマ使節団***************
   メキシコ→スペイン→ローマ使節団
 
・元亀2年(1571)山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑
 (現山形県米沢市立石、米沢市立関小学校付近)で生まれた。
 支倉六右衛門常長誕生した。
  はじめ「与市」、のち「五郎左衛門」を名乗った

・天正五年(1577)3月 伯父:支倉紀伊守時正(1200石)の
  養子となった。
7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現宮城県柴田郡川崎町支倉
 地区)の上楯城で青年期を過ごした。
 

・天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻撃。
 伊達政宗は秀吉に服属した。
 秀吉は奥州仕置によって“日本統一”を達成した。
 大崎氏・葛西氏等は、小田原攻撃に参陣しなかったことを理由に
 秀吉により取り潰された。
 伊達政宗も秀吉により征服した領地等を没収された。
 
・天正19年 (1591) 6月) 葛西・大崎の一揆
 伊達政宗は秀吉の処分に不満を抱き、大崎氏と葛西氏の旧臣を扇
 動して葛西大崎一揆を起こさせた。
 しかし、伊達政宗の一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、伊達政宗は
 秀吉から葛西大崎一揆の鎮圧を命じられた。
支倉常長は伊達政宗が宮崎城を攻める際、政宗の使いを務めた。
 伊達政宗は佐沼城から秀吉の家臣・木村吉清を救出し葛西大崎一
 揆を鎮圧した。
 伊達政宗は領地の多くを秀吉に没収され、旧・大崎領と旧・葛西
 領を与えられた。
9月 米沢城72万石から玉造郡岩手沢城=岩出山城に
    58万石に減封。岩出山城に移封・・・。  
    ※現在の岩手県の南部、宮城県全域、福島県の北部など
    20郡、58万石であった。

伊達政宗は岩出山城を築き、大崎市一帯は伊達領の一部となった。
 支倉常長は大崎(大崎城)の一揆の鎮圧に活躍した。
  葛西(石巻城)一揆の鎮圧にも貢献した。

箕輪初心★松尾芭蕉23『奧の細道』⑫【岩出山~封人の家】
http://53922401.at.webry.info/201208/article_7.html



・文禄元年(1592)~慶長3年(1598)
1月5日 豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、兵3000を率いて
     岩出山城を出発した。
   豊臣秀吉から割り当てられた倍の兵3000人で上洛した。
    (★1500人という記録もある。)
   支倉常長も加わった。
名護屋城に着いた。
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箕輪初心●佐賀【名護屋城】=豊臣秀吉朝鮮出兵の城
https://53922401.at.webry.info/201112/article_15.html

・文禄2年(1593)4月 政宗は朝鮮に渡海。釡山に着く。
 文禄・慶長の役・・・
 支倉常長は足軽・鉄砲組頭として戦い活躍した。

2019年08月30日
箕輪初心:生方▲韓国ドラマ『ホ・ジュン』補足編
「豊臣秀吉の朝鮮出兵」
https://ubu3blog.at.webry.info/201908/article_46.html

箕輪初心:生方▲真田丸112【豊臣秀吉の朝鮮侵略&
「火の女神ジョンイ」&出番のなかった真田:丸島説】
https://53922401.at.webry.info/201608/article_43.html


・慶長元年(1596) 養父:支倉時正に実子・久成が誕生した。
 伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなった。

・慶長3年(1598) 太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結
 した。
 伊達政宗は豊臣秀吉が死ぬと徳川家康の政権奪取に協力した。

・慶長4年(1599)12月 支倉常長の子:常頼(「勘三郎」)誕生
 した
  伊達政宗は仙台城縄張始めた。
  伊達政宗、「千代」を「仙台」と改めた。

・慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い
支倉常長も従軍した。

・慶長6年(1601) 伊達政宗は仙台城を築いて仙台藩62万石
  が成立した。

・慶長10年(1605)徳川秀忠が将軍となった。

・慶長11年(1606)12月 伊達政宗の長女五郎八姫が徳川
 家康の子息松平忠輝に嫁いた。

・慶長13年(1608)10月 伊達政宗は支倉常長に下伊沢の
   小山村(現岩手県奥州市)など二ヶ所の知行地知行高
   600石余りを与えた。

慶長14年(1609) 平戸にオランダ商館を設置した

慶長14年(1609)前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行
 のサン・フランシスコ号が副王領ヌエバ・エスパーニャ(現
 メキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現千葉県
 御宿町)の海岸で座礁難破した。
 地元民に救助された。
 徳川家康が前フィリピン総督ドン・ロドリゴ一行にウィリアム
 ・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船「サン・ブエナ
 ・ベントゥーラ号」を贈り、ヌエバ・エスパニャ副王領へ送還し
 た。これがきっかけに、幕府とエスパーニャ(スペイン)との
 交流が始まった。

・慶長15年(1610)7月(太陽暦 5月)
 12月 伊達政宗、江戸から駿府に到着した。
  十余日間滞在中の家康に会った。
 
 伊達政宗は江戸の屋敷を訪れた将軍徳川秀忠をもてなした。


・慶長16年(1611)
・?月 答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王
 フェリペ3世の親書を携えて来日した。
 しかし徳川家康は、「スペイン側の要求であるカトリックの布教を
 許せば、植民地化されかねない・」というアダムスの進言もあり、
 友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植
 民地帝国であった。マニラとアカプルコの貿易船(ガレオン船)
 でマニラ・ガレオンで利益を上げていた。
 徳川家康はスペインの植民地:ヌエバ・エスパニャ(現メキシコ)
 金銀の採掘に興味を持った。・・・しかし、

6月 (太陽暦7月)伊達政宗は江戸路上で
 スペイン人大使:ビスカイノと偶然出会った。


11月 伊達政宗は仙台に着いたビスカイノを接見しもてなした。
  ビスカイノは塩釡を出港し、三陸沿岸などの測量を始める

慶長16年(1611)12月(太陽暦10月) 慶長大地震が起こった。
慶長大津波は仙台藩を襲った
 2011年の3,11東日本大震災からちょうど400年前の~~~~
 東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を
 襲った。
 震災により仙台領だけでも5,000人を超える死者を出した。
 (伊達政宗が徳川家康に出した報告『駿府記』)
1,783人の死者を出した
 (仙台藩の正史『貞山公治家記録』)
 セバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸沖の海上で大津波
 に遭遇した。

 
 伊達政宗は慶長大津波から二週間後、造船と慶長使節派遣の
 構想を明らかにした。

12月 ビスカイノは仙台に帰着した。
  仙台滞在中、不在中の政宗に代わって重臣から造船やメキシコと
 の通商を望む構想を聞く
 ビスカイノは仙台を出発し、江戸へ向かった。


・慶長17年(1612)
 1月 (太陽暦11月)伊達政宗は江戸の
 屋敷にビスカイノとソテロを招いてもてなした。

3月  伊達政宗は幕府船手奉行の向井将監忠勝に大工派遣の
   礼状を書く

3月(太陽暦4月21日)江戸幕府最初の禁教令が出された。
江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教
の禁止を命じた禁教令を布告した。幕府直轄地に対するものであった。
 諸大名についても「国々御法度」として施策を行った。
江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
 教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト
 教徒の捜査が行われた。該当した者は場合によって改易処分に
 付されるなど厳しい処置が取られた。
しかし、伊達政宗は全国規模ではないので、・・・???

4月 伊達政宗はソテロから書状を受けた。
   伊達政宗は遣欧使節の派遣準備が大体整ったことで返書
した。
   伊達政宗は江戸を出た。
   伊達政宗は駿府に到着した。
   伊達政宗は徳川家康に銀子一千両などを贈る。
★伊達政宗が将軍に松平忠輝を据えたいと考えて
 いたのかもしれない。貿易のこともあった。
    
 伊達政宗は駿府を出発し、江戸へ戻った。

8月頃  ソテロは江戸で布教や医療の活動をしていた。
  ソテロも捕まり、火あぶりの宣告を受ける。
  伊達政宗は寸前のところで助けた。

8月 伊達政宗は仙台城で「南蛮人阿牟自牟」と接見した。

9月 江戸幕府の使節団・・・
徳川家康はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの話を聞き、
 ソテロをイスパニアに派遣して通商の途を開く決心をし、新た
 な船の建造を命じていた。「サン・セバスチャン号」であった。
 「サン・セバスチャン号」が完成した。
  ソテロが浦賀より出航した。
 しかし、暴風に遭い座礁し遭難した。
 徳川家康はスペイン領のメキシコの金銀の採掘と製錬技術に
 強い関心を持っていた。また、家康のエスパ~ニャ(メキシコ)
 の交易による金銀の獲得計画の思惑は失敗した。


伊達政宗はこの計画を仙台藩で引き継ぐことを徳川家康に提案し、
許可を得た。
キリスト教禁令が全国に発布される直前であった。

※家康はなぜ使節派遣を許可したか?
 政宗の使節派遣は幕府の許可を得ており、大船の建造も船奉行
向井将監の監督下で行われた。家康はスペイン領のメキシコの金
銀の採掘と製錬技術に強い関心を持っており、マニラ―アカプル
コ間のガレオン(貿易)に関わることを望んでいた。
(大泉光一『支倉常長』中公新書p.26 1999)


9月 (太陽暦9月) 支倉常長の実父常成は切腹した。
 ★切腹は武士扱いの刑なので、伊達政宗の命令、・・・
 
9月 ソテロが江戸から仙台へ向かった。
 伊達政宗が南蛮人2人を招いて協議した。
 向井将監に奉呈書を書いた。
 日本人キリスト教信者らがローマ教皇あての書状を書いた。
 カトリック信者は伊達政宗の後押しを依頼した。

 伊達政宗は仙台城の大広間でビスカイノと対面した。
  従者24~5人いた。
スペイン大使:ビスカイノはサンフランシスコ号が大破し、帰国
 できないでいた。
 エスパーニャとの交流ができたことにより、支倉常長の主君
である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。

9月 ソテロが仙台城に登城した。
 伊達政宗がローマ教皇、スペイン国王などにあてた書状を書いた。
①伊達政宗の慶長遣欧使節の主目的は「仙台藩とスペインの通商交
 渉であった。」と言われる。
 ②「スペインとの軍事同盟、利用しての倒幕があった」とする説
 もある。
 ③「使節はルイス・ソテロが宣教師兼通訳と言う立場を利用して
  布教上の目的から企てたものであった。」
 ④「伊達政宗らの権威が利用されたに過ぎない」という説もある。

伊達政宗の派遣目的は何だったか?
 表面的にはメキシコ(ノビスパン)との通商交渉と欧州への宣教
師派遣の要請であったが、支倉常長と宣教師ソテロがスペインとロ
ーマまで行った理由はもっと深い理由がある。政宗は1613年の
使節を派遣した時点では、大坂冬の陣・夏の陣の前であり、徳川家
康の権力も万全ではないと見ていたようだ。もし家康が敗れたとき
は、政宗にも天下を取るチャンスが来るかも知れない。その時に備え
てスペインと同盟し、その軍事力を利用しようと考えていたらしい。
ただこの説を証明する明確な史料は当然残っておらず、唯一、仙台
領で布教にあたっていたイエズス会宣教師アンジェリスのイエズス
会本部宛書簡に記されているだけである。政宗は娘を家康六男の
松平忠輝に嫁がせており、秀忠に代わって忠輝を擁立することも
構想していたのかも知れない。
政宗に使節派遣を働きかけ、同行したフランシスコ会宣教師ソテ
ロは、イエズス会に対抗しているフランシスコ会の日本布教での
主導権をローマ教皇から認めてもらいたいという野心があった。
(大泉光一『支倉常長』中公新書p.26 1999)

 スペインは、ガレオン船の建造技術を国家の最高機密としていた。
 造船技術を外国に漏洩した者を死刑に処していた。
 建造に当たっては、仙台藩とスペイン人のセバスティアン・ビス
 カイノの間で契約が結ばれた。
  仙台藩とビスカイノの間で交わされた契約の内容は、
①伊達政宗が造船の費用や船員の俸給を負担すること、
②ビスカイノが船の指揮を取ること、
③ビスカイノの商品の積み込みを許すこと、
~~~~などであった。
「サン・ファン・バウティスタ号」は仙台藩が所有するものであった
 が、スペインの技術で建造されることになった。
 仙台藩の船奉行として秋保頼重(刑部)と河東田親顕(縫殿)が
造船に携わり、江戸幕府の船奉行向井将監忠勝も協力した。
また、船の建材については気仙郡、磐井郡、江刺郡、本吉郡から
調達された。
慶長遣欧使節に同行したシピオーネ・アマチによれば、
「船の建造には大工800人、鍛冶700人、雑役3000人が関わり、
45日を要した。」
造船には、江戸幕府から派遣された船大工も参加していた。

伊達政宗は仙台領内において、セバスティアン・ビスカイノの協力
によってガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。 
 現石巻市雄勝町あるいは月の浦で建造したガレオン船
「サン・ファン・バウティスタ号」で挑戦することになった。
★短期間なので、「サン・セバスチャン号」の改造船は「サン
 ・ファン・バウティスタ号」とも考えられるとあった。

伊達政宗が向井将監から書状と黒船「バウティスタ号」のための
お守り札を受け取った。

 支倉常長が使節に選ばれた。
一般的には「文禄の朝鮮出兵の際海外で過ごした経験や
鉄砲組・足軽組頭の経験から一行を統率する能力を評価
された。とされる。

※支倉常長が何故使節に選ばれたか?
 本来なら、伊達政宗の一族か家老級の重臣が使節となるべきで
あるが、支倉常長は中級の藩士といったところであった。彼が選
任された理由についてはイエズス会宣教師のアンジェリスは、彼
の父がある罪を犯し、彼も本来なら斬首されるところだったが、
政宗はこの使節がもし幕府から咎められたり、失敗したときに責
任を取らせるにはこのような軽輩がよいと考え、死刑と同じ渡海
の苦痛を与え、「おそらく航海の途中で死ぬだろうと思って大使
に任命」したと証言している。<p.33>
(大泉光一『支倉常長』中公新書p.26 1999)

10月 支倉常長、向井将監の家人ら使節、ソテロ、ビスカイノら
合わせて180人以上がバウティスタ号で仙台藩・牡鹿半島の月浦
を出帆する運びとなった

 伊達政宗は遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師
ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使とし、家臣・支倉常長を副
使とし、180余人から組織された。
一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)を経由して、
スペインおよびローマへ派遣することになった。
 
伊達政宗の命を受け、支倉常長は遣欧使節になった。
 正使・・エスパーニャ人のフランシスコ会宣教師
  :ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)   
副使・・支倉常長。
遣欧使節として通商交渉を目的に180人余~~~~~。
   

12月 伊達政宗は仙台を出発し江戸へ向かった。

****************************
◆◆ 箕輪初心★支倉常長:遣欧使節団 ◆◆      
http://53922401.at.webry.info/201108/article_14.html

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 (宮城県Hp)
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 (支倉常長物語 - 支倉常長日西文化協会より引用)
https://hasekura.info/story


・ 慶長18年(1613)9月15日(10月28日)挑戦~~~~
石巻で建造したガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」
で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエ
バ・エスパーニャ(現メキシコ)の太平洋岸のアカプルコへ
向かった。
○9月15日石巻の月ノ浦を出帆。~~~~太平洋~~~~。
3か月~~~~
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 (無料画像)

○ 慶長19年(1614)
1月28日、アカプルコ入港。
 ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の太平洋岸のアカプルコ
 に入った。

○3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。
現メキシコシティー・・・先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を
無礼討ちにした。武器を取り上げられた。

○3月24日、支倉常長ら本隊がメキシコシティ入りした。   
 メキシコ総督が支倉常長ら10人を除き、使節の武器を取り上げ
 るよう命令した。
★支倉常長が洗礼を受けた教会
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★支倉常長の泊まったホテルが残存。
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○5月8日、メキシコシティを出発。
 支倉常長ら31名がメキシコを経由してスペインに赴くことに
 なった。
陸路大西洋岸のベラクルスに向かった。

○6月10日、ベラクルスサン・フアン・デ・ウルアからスペイン
 艦隊の「サン・ホセ号」で出港した。
 スペイン戦艦に乗って出港した。
 
→~~~大西洋~~~~~~~~~~~。
ハリケーン:嵐のためキューバのハバナ港に寄港
することになった。

○7月23日、キューバのハバナに到着した。

★支倉常長銅像
http://sendaiikuei-cuba.jp/i_cuba_ex_ha.html

○8月7日、キューバのハバナを出港した。

 9月 支倉常長はスペインのセビリア市あてに洋上で
  書状を書いた。

○10月5日、スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダ
 (スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着した。
 小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリ
 ア・デル・リオに上陸した。
 セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入った。

★コリア・デル・リオ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AA
コリア・デル・リオには Japon(ハポン、日本)の姓を持つ人が
約600人おり、使節団の一員として来訪したまま現地に留まった
者の子孫とする説がある

○10月6日慶長遣欧使節団はエスパーニャ(スペイン)の
 セビリア近くにあるコリア・デル・リオに長期滞在した。
  
 ※支倉常長の銅像がある。
 ハポン(Japon=日本)姓&Xapon姓の人が数百人住んでいる。
 この使節団の中で日本に帰らず現地に移住したキリスト教徒の
  仙台藩の侍や使節の現地人水夫などの子孫であると言われている。
 平成6年(1996)に駐スペイン日本国大使:坂本重太郎が
 ハポン姓650人や使節ゆかりの東北地方の裏千家メンバー
 などを集めた「ハポン・パーティー」をセビリアで開催した。
 (TV報道・世界不思議発見で放送)  
10月セビリアへ
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※ 1614年 大阪冬の陣

 10月27日、支倉常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べた。
 11月25日、使節団はセビリアを出発した。
 
○12月20日、使節団はスペインの首都マドリードに入った。


・慶長20年(1615)1月30日(太陽暦1月2日)
  支倉常長はエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見した。
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 (★写真は一眼レフと撮った写真をデジカメでとった。
    隣が支倉常長が洗礼をうけた修道院)
    →スペインとの交渉は成功せず。

○2月17日、支倉常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院
 の付属教会で洗礼を受けた。
支倉常長「ドン・フィリッポ・フランシスコ」の教名を
 与えらた。

元和元年(1615) 大坂夏の陣・・・

○8月22日、使節団はマドリードを出発した。
 支倉常長一行はサラゴサを経てバルセロナに到着した。

○?月?日バルセロナ
  市の議会の協力を得て、イタリアに渡る船の手配を受ける
 ことになった。
  支倉一行の乗船したフリゲート船は、悪天候の
 ために南フランスのサン・トロペに避難すべく寄港した。

○南仏サン・トロペ
 南フランスのサン・トロペ2~3日、滞在した。
 支倉常長一行は最初にフランスの地を訪れた日本人であった。
◆参考サイト 
ボルドー便り vol.122
http://perfectnet.jp/bordeaux/122bordeaux/index.html
慶長遣欧使節一行が日本人最初にフランスの土を踏んだ。

南仏サン・トロペで鼻紙で鼻をかんだ行為が珍しがられた。
ヨーロッパ人はハンカチで何回もかむのが習慣だった。
「彼らは支那絹の紙の手巾で鼻をかむ毎にその紙を地に捨てて決して
同じ手巾を二度と用いることはなかった。彼らは懐中に相当の量を所
持していた。サン・トロペの人々は日本人の外出を待ち受け、日本人
の誰かが手巾を使用して捨てると駈け寄ってそれを拾った。中でも最
も貴重視されたのは支倉その人の手巾であった。」
(『サン・トロペ侯爵夫人の手記より』(参考資料よりの意訳)」
レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000131763




~~~船~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
船がチビタベッキアの港に向かった。

○?月?日 チビタベッキア
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「チヴィタヴェッキア市と出航地の石巻市はその縁で姉妹
都市条約を結んでおり、支倉常長像は20周年記念とし
て1991年に慶長遣欧使節団の渡航ルートを示した碑と
ともに建てられました。」 
(イタリア政府観光局)

○10月25日、使節団がイタリアのローマに到着した。
クイリナーレ宮殿(当時、教皇の宮殿→現在イタリア大統
  領官邸)でローマ教皇パウロ5世の歓迎を受けた。
※支倉常長・ソテロなどの絵画が残存。

○10月28日 支倉一行はローマ市入場の大行進をサン・ピ
エトロ広場周辺からサンタンジェロ城、そして宿舎だった
アラコエリ(アラチェリ)教会へと移動した。

箕輪初心:生方★『18年前のイタリア旅行の思い出』
https://53922401.at.webry.info/201504/article_8.html

○10月29日、使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を
 行った。

○11月3日、(太陽暦9月12日)
 支倉常長やソテロらがヴァチカン宮殿でローマ教皇・パウロ
 5世に謁見した。
 伊達政宗からローマ教皇への親書が渡された。
 (ヴァティカン図書館所蔵)
支倉常長は宣教師派遣とメキシコとの通商を申し
 込んだ。
ローマ教皇は宣教師の派遣は同意したものの、通商
についてはスペイン国王に一任した。
支倉常長はスペイン国王にもう一度会わなければ
ならなくなった。
○11月9日 支倉常長と主な随行員にローマ市民権が与え
 られた。
 (イタリア政府観光局)
○11月20日、常長らにローマ市民権証書が授与され
 た。
支倉常長はローマ貴族に列せられた。


 教皇の甥で、ローマ滞在中の一行の世話役でもあった
ボルゲーゼ枢機卿が「支倉常長像」(ボルゲーゼ家所蔵)
を描かせた。
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・元和2年(1616)
○1月?日、教皇は伊達政宗への書簡や贈り物、旅の
  資金を渡した。
教皇から使節団への贈り物のなかには
 ①キリスト信者姿の絵画『支倉常長祈祷像』
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 ②『ローマ教皇パウロ5世像』
 (仙台博物館に所蔵・展示)
 現在では「国宝」及び「ユネスコ記憶遺産登録資料」
 である。

○1月7日、使節団はローマを出発した。
  再びスペインのセビリアを目指した。
※ 1616年 徳川家康没
また、マドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を
 続けた。
○7月 フェリペ3世は伊達政宗宛てに返書を書く。

○11月3日   ローマ教皇パウルス5世に謁見した。
使節派遣の意図と仙台藩の復興は失敗?
伊達政宗と支倉常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで
終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流も目的にあった。
しかし、達成はできなかったと評価してもいいのかな?

※出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。
※伊達政宗の手紙・・・常長の帰国後の扱いを危ぶむ手紙
  
しかし、支倉常長はエスパーニャやローマまで訪れた常長が、
 この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっていた。
 支倉常長の通商交渉は成功することはなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
元和2年(1616)6月20日(太陽暦9月30日)、ルイス・ソテロの
要求でサン・ファン・バウティスタ号は再びアカプルコを目指し
浦賀を出航した。
 仙台藩の横澤吉久(将監)やカタリーナ神父らスペイン人10
人、向井忠勝派遣の船頭ら日本人200人が同乗した。
航海中に悪天候で船頭を含む約100名の水夫が亡くなった。

・元和3年(1617)1月18日(太陽暦2月23日)にカリフォルニア
のロス・モリネスに到着した。その後、アカプルコへ航行した。
日本とスペインの関係は冷え切っていた。
サン・ファン・バウティスタ号の再来は歓迎されなかった。
しかし、船の損傷を修理する必要が生じた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

○元和3年(1617)
 支倉常長は再びスペインに戻ったが、長旅の疲れで健康を害し
 た上、旅費の欠乏の非常事態に陥っていた。


4月 支倉常長はセビリアでフェリペ3世に通商の許可を再度願
  う書状を書いた。
 支倉常長は国王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、
  使命の実現に努力したが、返答を得られないままやむなく
  帰路についた。

7月4日、支倉常長の使節団はセビリアを出発した。
 ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)まで戻った。
 ヨーロッパから戻ったソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコ
 で再会した。

○元和4年(1618)3月7日(太陽暦4月2日)、「サン・フアン・バウ
 ティスタ号」でアカプルコを出港した。

○元和4年(1618)8月10日、フィリピンのマニラに到着した。
 支倉常長がマニラから息子勘三郎に手紙を書いた。
 マニラでスペイン艦隊に船を買収された。
 サン・フアン・バウティスタ号をマニラで売却した。
 お金も無くなってきたし、・・・
 支倉常長は便船でソテロをマニラに残し日本に向かった。

・元和6年(1620)8月24日(太陽暦9月20日)長崎へ到着した。
 9月22日仙台に丸7年振りに帰国した。
  使節の目的だった外国との貿易協定も実現しなかった。

  

しかし、帰国した支倉常長を待ち受けていたのは、徳川幕府
  の禁教令であった。
  支倉常長は表舞台に立つことができなかかった。

9月 伊達政宗はフィリピンにいるソテロの扱いについて幕府
 重臣に指示を求めた。
※キリシタン追放令=禁教令・・・踏み絵
 許可されなかった。   

・元和8年(1622) 支倉常長(1571~1622)失意のうちに
  死去。
常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所 ある。
  仙台市青葉区北山にある光明寺
  川崎町支倉地区の円福寺
  大郷町の西光寺

・寛永17年(1640)息子の支倉常頼は召使がキリシタンで
 あったことの責任を問われて処刑され、支倉家は一度断絶。

ソテロ~~~~~~~~~
・元和8年(1622)10月22日(太陽暦 9月18日)、ソテロはマニラ
 から薩摩に潜入しようとして捕まり、大村藩の牢に投獄された」
11月 ソテロは牢獄から政宗に書状を書いた。

・元和9年(1623)7月 仙台藩の重臣石母田大膳が獄中の
  ソテロに返書を書いて送った。
※1623年 徳川家光将軍となった。
 閏8月 長崎奉行がソテロの件で石母田あてに書状を書く

・寛永元年(1624) 8月25日(太陽暦7月12日長崎の大村で
  放虎原で火刑により殉教した(49歳没)。
★俺って入り口まで行ったのに、長崎のハウステンポスに
  行っちゃった。

※寛永9年(1632) 徳川秀忠没
※寛永11年(1634) 長崎に出島が築かれた。
※寛永13年(1636) 5月 伊達政宗死去。

****************************
サン・ファン館Hp
・寛永17年(1640)、家臣がキリシタンであったことの責任を
問われて処刑され断絶した。
・寛文8年(1668)、支倉常頼の子の常信の代に許され家名を
再興した。
その後、第10代当主の代まで宮城県黒川郡大郷町に在住した。
 第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市
 に居を構え続けている。

・平成13年(2001)支倉常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係
資料」は仙台市博物館に所蔵されている。
国宝に指定されている。

・平成2013年にはユネスコの「世界の記憶」に選定された。
 支倉常長の肖像画である。日本人を描いた油絵としては最古
 のものとされる。
 また、支倉常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年
 (1812)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料
 となっている。とあった。
 なお、資料の中に「支倉」を古典ラテン語表記で FAXICVRA
 とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音していた証拠
 となっている。
(ウィキペディア)
******************************
某ニュース
「宮城県石巻市にある木造の復元船、「サン・ファン・バウ
ティスタ号」のライトアップは約1万個のイルミネーションが、
木造の船を光り輝かせている。
ライトアップは来年1月5日まで開催される。
2021年4月以降に船体の老朽化から、解体されるこ
とになっている。」とあった

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