箕輪初心:生方▲2019『伊達政宗』&【政宗ブログ一覧復刻版】

箕輪初心:生方▲2019『伊達政宗』&「伊達政宗ブログ一覧復刻版」
伊達氏は関東武士(下野)の末裔で源頼朝の奥州合戦で功を立てて

伊達郡に封じられた。鎌倉時代から陸奥国伊達郡(現福島県伊達市

と福島県伊達郡、福島市の一部)を中心に勢力を拡大した。

戦国時代、伊達政宗は常陸の佐竹義重や会津の蘆名盛氏らに勝利し、

奥羽の南半分を征服した。しかし、伊達政宗は豊臣秀吉に服属した。

天正18年(1590)小田原に遅刻し、豊臣秀吉の奥州仕置によって、

会津や伊達郡などを奪い取られた。伊達政宗は取り潰された葛西氏

・大崎氏の旧臣を扇動して、「葛西大崎一揆」を起こさせた。一揆

扇動は蒲生氏郷に露見し、伊達政宗は秀吉から一揆の鎮圧を命じら

れ、「葛西大崎一揆」を鎮圧した。戦後、秀吉は政宗の領地を現宮城

県・岩手県南部へ追いやった。伊達政宗は岩出山城(現大崎市)を

築いた。伊達政宗は徳川家康に接近した。慶長3年(1588)秀吉が死ぬ

と徳川家康の政権奪取に協力した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、

伊達政宗は東軍の重鎮として勝利に貢献した。伊達政宗は青葉山に

居城として仙台城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺

(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。仙台は多くの居住者

が暮らせる町に発展させ、62万石の仙台藩となった。






古代には、畿内から始まる海道(後東海道)と山道(後東山道)

の道の奥にあることから「みちのおく」「みちのく」とされた。

南部(南東北)に「道奥国」(みちのおくのくに)が設置された。

律令制の時代~戦国時代~江戸時代

陸奥(現青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)

出羽(現山形県、秋田県南西部)がおおよその範囲である。

「奥州=陸奥」+「羽州=出羽」=奥羽である。

・明治元年12月7日 (1869年1月19日)戊辰戦争の戦後処理の

一環として

陸奥国は磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国に5分割、

出羽国は羽前国・羽後国に2分割された。

明治4年(1871)7月14日、明治政府の廃藩置県によって、小さな

各県が誕生しはじめた。明治9年(1876)までには現在の各県の基

礎ができあがった。

明治の後半になると民間でも「奥羽」の範囲を「東北」と呼ぶのが

通例となり、公的にも「東北」が用いられるようになった。

奥羽→東北全部の地域となった。




■ 伊達政宗五常訓

儒教が説く「仁・義・礼・智・信」の五常に基づく政宗の教訓である。

早い話『過ぎたるが及ばざるがごとし』。最近は失敗ばかりである。

①『仁に過ぐれば弱くなる。』「人を思い過ぎると自分が弱くなる。」

②『義に過ぐれば固くなる。』「正しくし過ぎると融通が効かない。」

③『礼に過ぐれば諂となる。』「礼儀が過ぎると媚びとなり失礼になる。」

④『智に過ぐれば嘘をつく。』「利口が過ぎると嘘をつくようになる。」

⑤『信に過ぐれば損をする。』「人を信じすぎると損をする。」


箕輪初心:生方▲『伊達政宗の生涯』と「私のブログ一覧」


★今回は、この内容に書き加えした。


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真田幸村の次男・真田大八と3女・5女阿梅の2人

 片倉綱景の妻は真田幸村の娘である。


【1】伊達政宗の誕生********************

■永禄10年(1567) 8月3日(9月5日)、伊達家16代当主:

伊達輝宗の子として、伊達政宗が米沢城で生まれる。 

   父・・・伊達輝宗

   ○母・・・義姫19歳。山形城主:最上義守の娘。最上義光の妹

   幼名は梵天丸。

 その後、小次郎、2人の娘(夭折)を産んだ。


●元亀元年(1570)頃、最上家の内紛

 父:最上義守と兄:最上義光の間で家督争いが生じた。

エピソード①

  父:最上義守と兄:最上義光が家督相続で争った

  時には、義姫が刀で脅して相続を決めた(伝)。


5月、重臣:氏家定直の仲裁で父子が和解した。

8月説? 最上義光が家督を相続した。

   最上義守は隠居・出家して「栄林」と号した。


◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆



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◆箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆



■元亀2年(1571) 5歳。 伊達政宗が疱瘡にかかり、右目を失明した。

梵天丸と竺丸   

●母:義姫は醜くなった梵天丸を嫌った。

  梵天丸も人の前にでなくなった。(★NHK大河ドラマ)

●母:義姫は2年後に弟:竺丸を可愛がった。


★母ちゃんに嫌われ、愛情のない人生を歩み始めた。



■元亀3年(1572) 虎哉宗乙禅師に弟子入りする。



○天正2年(1574)1月、父:最上義守と子:最上義光の間が再び

  険悪になった。

 『天正最上の乱』

  伊達輝宗は伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、

  伊達輝宗が岳父:最上義守の救援の名目で最上領内に出兵した。

 最上義光と寒河江氏 VS 最上義守と伊達輝宗 

  最上義守と伊達輝宗に同調した天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真

  ・延沢満延らが義光派の寒河江氏を攻撃した。

  寒河江氏が降服し、最上義守側に付いた。

  義守派有利に和睦が進んだ。

  最上義光は敵対勢力を個別に撃破していった。

 9月10日 最上義光に有利な和議が成立して伊達輝宗も撤兵した。

 11月  白鳥長久の仲介で和議が結ばれた。

      最上義守は菩提寺龍門寺に隠居した。

箕輪初心:生方▲山形『左沢(あてらざわ)楯山城』


 ★詳細編はここをクリックする。


■天正5年(1577) 11歳。伊達政宗が元服した。

 伊達藤次郎政宗と名のる。


●母:義姫は伊達家を竺丸に嗣がせようと計った。

   父:伊達輝宗は家督争いをさけようとしたのだ。

  「政宗」は父:輝宗が伊達家中興の祖といわれる第9代当主:

   大膳大夫政宗(桑折西山城)にあやかって名づけた。

◆◆ 箕輪初心●福島『桑折西山城』 ◆◆



片倉小十郎(景綱)が伊達政宗に近習となった。


・天正6年(1578) 上山城主:上山満兼が夫:伊達輝宗と連合し、

  兄:最上義光を攻めた。

  最上義光は不利な状況に陥った。

●義姫は、駕籠で陣中を突っ切り、夫:伊達輝宗の元へ馳せ参じ、

  輝宗に抗議をし撤兵をさせた。


■天正7年(1579) 13歳 三春城主:田村清顕の娘:愛(めご)姫

        と結婚した。

◆◆ 箕輪初心●福島『三春の滝桜&三春城』 ◆◆




■天正9年(1581) 初陣で、相馬氏と戦った。

■天正6年(1581) 蘆名盛氏が死亡。→蘆名盛興は家督を継いだ。


■天正10年(1582) 相馬氏を掃討。

         伊具郡・信夫郡を奪還した。


■天正12年(1584) 18歳 伊達輝宗が隠居した。

   伊達政宗が伊達家17代の家督を継ぎ、当主となった。


  蘆名盛隆が柏木城を築城。

  戦国時代の東北最大の石垣の城。

★蘆名盛隆は群馬:太田金山城や武田信玄の築城法を学ばせていたのだ。

  

■天正13年(1585) 米沢の伊達政宗は会津の蘆名盛興に挑んだ。

★伊達政宗は「檜原の金山」を手中にしたかったのだ。

砂金が今でも取れるそうである。    

  →葦名盛氏の家臣:穴沢俊光の奇襲により

   伊達政宗は敗北。死者173名?

     

   伊達政宗は再び穴沢俊光を攻撃。

    →巌山城が落城。

   伊達政宗は穴沢俊光一族を皆殺しにした。

   ★結構、残忍な人格だ。 

   

   伊達政宗は小谷山城=檜原城を築城した。

    ・・後藤孫兵衛を城番にした。

   本丸、二の丸、袖郭で構成され、空堀や堀切がある。

   

   伊達政宗は檜原峠を越え、裏磐梯へ進攻。         

  →喜多方の関柴へも侵攻。

   

   伊達政宗は蘆名盛氏の防御のため、会津への攻撃は

   出来なかった。  

◆◆ 箕輪初心●福島「檜原の4城&歴史」 ◆◆



箕輪初心●福島『裏磐梯檜原4城』=伊達政宗の執念






・天正13年(1585)

4月  大内定綱が伊達政宗に背き蘆名側についた。。      

閏8月 大内定綱の支城:小手森城を攻撃。

   大内定綱の没落を間近で見た畠山義継は和議を申し出た。

    伊達輝宗の取りなしにより伊達政宗は5ヶ村のみを

    二本松領とした。


・天正14年(1586)

10月8日 父:伊達輝宗、畠山義継に拉致された。

   伊達輝宗は礼に来ていた畠山義継の見送りに出た所を

      拉致されたのだ。

   鷹狩りに出かけていた伊達政宗は、急きょ戻って畠山

      義継を追走した。

  伊達政宗は馬で畠山義継の後を追った。

   ★手を出せば、父:輝宗は殺されるのだ。

  伊達政宗は迷ったものの畠山義継を攻撃した。

   鉄砲を放って畠山義継と父:伊達輝宗もろとも一人残

    さず殺害した。  

 ※説①……伊達輝宗が二本松義継に殺された説 

※説②……伊達政宗は追いついたが既に輝宗死亡していた説

     畠山義継は伊達輝宗を刺殺、おのれも果てた。

 ※説③……伊達政宗による父殺しの陰謀説

     ・・・★伊達政宗は粗暴だった説

    

 ★二本松城攻撃では、父も一緒に殺してしまった。

    「高田原の悲劇」とは、後世の伊達政宗びいきの方が

   つけた名称であろう。


   その後、初七日法要を済ませた。


●母:義姫は未亡人となった。伊達輝宗を疎んじた伊達政宗が、謀殺

  したのではないかと疑い、伊達政宗に関して不信感を抱いたとさ

  れる。

  伊達政宗が各地に進撃する中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏に

  攻め込んだり、最上家の本家:大崎氏に攻め込んだことがより一層

  不快感を抱かせた。

●母:義姫は、「父を殺せしは政宗ぞ。」

   とますます憎しみを持った。(TVでは・・)

兄:最上義光も伊達政宗に警戒を強め、庄内侵攻を開始し、伊達

  ・最上間の対立もより深刻化していった。

  母:義姫は伊達家中での立場を悪化させていった。

   


◆◆ 箕輪初心●福島『二本松城』=伊達政宗父の弔い合戦 ◆





11月17日 畠山氏の居城:二本松城を攻めるが失敗。

引き揚げる時、佐竹・藍名連合軍に襲われた。


   《人取橋の戦い》   

伊達政宗 VS 佐竹・蘆名・岩城・石川・結城・二階堂、

相馬連合軍

 →伊達政宗がかろうじて撃退した。


◆◆ 箕輪初心▲『安達太良山』&二本松城 ◆◆




・天正15年(1587)

   二本松城を攻め落とした。

◆◆ 福島:二本松城 ◆◆



◆◆ 箕輪初心▲『会津駒ヶ岳&檜枝岐温泉』 ◆◆



◆◆ 箕輪初心▲『磐梯山』&白布温泉&米沢 ◆◆



◆◆ 箕輪初心▲『西吾妻山』&白布温泉&銀山平温泉 ◆◆



◆◆ 箕輪初心▲『平ヶ岳』&銀山平温泉 ◆◆





■●天正16年(1588)

1月 大崎氏家中の内紛


2月 ▲大崎合戦

  伊達政宗は兵10,000奥州探題の末裔、大崎義隆を攻撃した

   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北した。

   大敗した。

   伊達政宗が最上義光によって包囲され危機的な状況に陥った。 

  伯父・最上義光(TVでは原田義雄)が大崎側に立って参戦し

  たのだ。

  伊達領内に最上勢が攻めこんだ。

 ●母:義姫は両軍の間に輿で入った。

母、義姫の兄:最上義光が大崎氏に加勢したため、伊達政宗と最上

  義光は、伊達領と最上領の国境で対峙した。


  母:義姫は争いを止めさせようと、両軍の陣の真ん中に仮屋を建て

  て居座った。

  「両軍が戦うならば、まずは私を殺しなさい」

  とすごんでみせた。


   最上義光は諸大名の手前、和睦は屈辱であると感じたが、妹:義姫

  の頼みを断ることができなかった。

  80日程にらみ合いを続けた。

  休戦の後に両者は和睦している。

  

  最上義光は伊達・大崎間の調停に努めるが、伊達側は最上側に不信を

  抱きなかなかうまくいかなかった。最上義光が義姫に間を取り持つよ

  う哀願した書状が残されている。

 ★義姫が兄から信頼され、伊達家において発言権を持っていた。


 和議が成立し、軍を引いた。

 ●母:義姫が実家と婚家の対立という重大事を回避させたのは、義姫の

  決断と行動のたまものと言えるだろう。

  かくして、伊達政宗は窮地を脱した。   

  

一方、内乱に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきた。


6月  「郡山合戦」

   佐竹・蘆名軍と郡山で戦った。

伊達政宗は愛姫の実家:田村氏領の確保に成功した。


7月3日 佐沼城を攻略。

     大崎、葛西一揆を鎮圧する。

    交戦中の佐竹・蘆名・大崎・最上と和睦。


9月25日 飯坂氏(猫御前)との間に伊達秀宗が生まれた。



・天正17年(1589) 政宗23歳。

2月12日 最上義光から妹:義姫に充てた書状

 「義姫の活躍が豊臣秀吉や徳川家康にまで伝わっている。」

 「(豊臣秀吉の)惣無事令に違反して戦いを継続できない事情を

  説明し、伊達政宗に停戦の継続の執り成しを頼んでくれ。」

  を依頼した。


5月 伊達政宗は猪苗代城主:猪苗代盛国を味方に付けた。

     母成峠から猪苗代城へ入城した。

◆◆ 箕輪初心●【猪苗代城】&ふるさと歴史館 ◆◆




6月5日 磐梯山麓:摺上原(すりあげはら)の合戦。   

  伊達政宗23,000 VS 蘆名義広(佐竹からの養子)16,000  

  はじめは強い西風の影響で蘆名軍有利に進んだ。

  風向きが変わると伊達軍が猛反撃を開始した。

  蘆名軍をさんざんに打ち破った。

  蘆名義広は数十騎に守られて逃亡。 

  蘆名義広は黒川城を放棄して実家の須賀川:佐竹家に逃れた。

  →蘆名氏は滅亡。

  →伊達政宗の勝利。 


6月11日 会津黒川城に入る。


◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城1回目』 ◆◆



◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城2回目』 ◆◆





この後、伊達政宗はさらに兵を須賀川へ進めた。

  二階堂氏を滅ぼした。

  

 伊達政宗の傘下のとなった長沼一族も久川城の攻撃を開始。

◆◆ 箕輪初心●福島『久川城』 ◆◆ 


  

  それから常陸の佐竹氏を討つべく準備に掛った。

  豊臣秀吉の惣無事令を遵守して佐竹氏側から結城義親・石川昭光

  ・岩城常隆らが次々と伊達政宗に服属した。


12月 仙道制覇=奥州の覇王となる。

 ※伊達政宗は現山形県米沢を中心に現福島県の中通りと会津+南会津、

  宮城県の南部を領した。

 また、会津の白河氏といった南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部

 を支配していた大崎氏・葛西氏も勢力下においた。



・天正18年(1590)

※豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。

1月  豊臣秀吉より小田原参陣の命令が届く。

豊臣秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す

      催促状が既に幾度か届けられていた。

    しかし、伊達政宗はずうっと黙殺してきたのだ。

   ★伊達政宗は父:輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあった

ので、豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前

まで迷っていたのだ。


3月18日 小田原参陣について家臣たちと対応を協議する。

伊達政宗の腹心:片倉小十郎の決定に従い、小田原

     伺候とした。

●母:義姫や多くの家臣が、小田原に参陣しても、伊達政宗は切腹させ

 られ、伊達氏はお取り潰しになる可能性があると思っていた。

  母:義姫はお家を守るため、政宗を毒殺し、弟の小次郎を当主に

  据えようと考えた。


4月7日 伊達政宗.は出立の前夜、母の館に伺いをたてた。

●母:義姫=保春院は政宗に膳部をすすめた。

  伊達政宗は宴席に出された料理を食べた。

  伊達政宗は腹痛に襲われた。症状は軽かったが、・・・

  伊達政宗は「料理に毒が盛られていたに違いない」と考えた。

 伊達政宗は小次郎を呼びつけ詰問した。

 「母上が毒を盛った」と白状した。

  →小次郎は母をかばった。

   小次郎に罪はなかったが、母を斬るわけにはいかず、母の代わり

   に小次郎を成敗する。

   そこで、伊達政宗は弟:小次郎を殺害した。


 弟:小次郎を擁立した母:保春院に毒を盛られ、殺されかけたのだ。

   毒殺未遂であった。

  

 ● 嫌いな政宗毒殺に失敗し、溺愛した小次郎を亡くした母:

   義姫は実家:最上義光を頼って出奔した。

   山形城(山形市)に駆け込んだ。

    最上義光は義姫を受け入れ、面倒をみた。

  

   ★伊達政宗は母の冷たい仕打ちに泣いた。

  しかし、生みの母を斬るわけにいかなかった。

  母は弟:竺丸=小次郎がいる限り私を狙うのだと

  考えた。そこで。小次郎を殺そうかと思いついた。

      ・・・ 

※説①……毒殺未遂の根本史料は伝わっていない。

※説②……※通説・・・上記。

  伊達政宗は弟竺丸=小次郎を居間に呼んだ。

 「小次郎、私は明日、小田原へ出立するが

    お前がいると、母が心配である。

   私は幼いときから母の愛を知らずに育った。

   小次郎、死んでくれ。」

   といって死を迫った。小次郎は

  「はい、兄上。17歳まで生きてこられて満足です。」

   と泣きながら言った。政宗は

   「あの世で父にお会いしたらわびてくれ。」

  と言い、実弟:小次郎の首を刎ねた。

     てな、小説も読んだことがある。

  

※説③……「毒殺未遂事件」は伊達政宗の書いた反政宗派一掃の

      ためのシナリオだったという説。




※説④……伊達政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れた説。

   この件により母子の対立は頂点に達し、伊達政宗は弟・小次郎を

   斬殺したと伝わる。

※説⑤……伊達政宗は食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、伊達政

  宗はそのまま帰宅したとされている説。

   (★江戸時代の記録『治家記録』など)


 ★いずれにしても、父に続き、弟も殺してしまうとは非道と言わざる

  を得ない。やむを得なかったという考えもあろうが・・・。


5月初旬  五奉行筆頭:浅野長政から小田原参陣を催促された。


5月9日  伊達政宗は小田原参陣のため、会津を出発。

→米沢・小国・・・上杉景勝の所領:越後国・信濃国を

      経由して箱根に着いた。・・小田原に至った。

豊臣秀吉は政宗の遅参を責め対面を許さなかった。

      伊達政宗は豊臣秀吉が茶の名人:千利休を伴って

  

●母:義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしていた。    

 ※義姫は伊達家に留まっていた。

  伊達政宗と母:義姫は手紙のやりとりをしている。

  母:義姫が実家の山形城へ出奔したのは4年後である。


 豊臣秀吉の小田原攻撃中である。

 伊達政宗は石垣一夜城にきていることを聞いた。

      


6月5日  小田原着陣

  ※白装束で秀吉との謁見の場に出向いた。

★白装束でデモンストレーションをして臣下の礼を装った?

    伊達政宗は死を覚悟した(TVでは)

人気を博した。


6月9日伊達政宗は豊臣秀吉と会見。

  豊臣秀吉は伊達政宗の白装束に興味を示し、感嘆した(伝)。

  ※豊臣秀吉の派手好みの性格を知っての行いと考えられている。

 ★とっても、頭よかったのだ。


  伊達政宗は豊臣秀吉に服属した。


  前田利家らが遅参の詰問に来た時には、

  「千利休の茶の指導を受けたい。」

  と申し出た。

    

6月14日 小田原を出立した。    


7月5日 北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏した。

     北条氏直は徳川家康の陣に向かい、

     己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。

     豊臣秀吉に氏直の降伏を伝えた。 

  

7月17日 豊臣秀吉は小田原から下野国に向かった。

7月26日 宇都宮城に入城、宇都宮仕置。

      関東、奥羽大名に対する仕置を行った。


7月28日 伊達政宗が宇都宮入りした。

   伊達政宗は奥羽に150万石近い大領国を築いていた。

     豊臣秀吉は旧蘆名領=会津領を没収した。

      会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収した。

     ①伊達政宗が小田原に遅参したこと

     ②会津攻撃が惣無事令に違反していたこと

     などを理由に・・

     150万石から72万石の減封だが、伊達家の本領

     72万石を安堵したのだ。    


    会津黒川城には近江の蒲生氏郷が入ることになった

     42万石の領主である。


8月 蒲生氏郷が地理不案内のために伊達政宗が先導役を命じられた。

  伊達政宗は豊臣秀吉を案内した。秀吉は途中で宇都宮に戻った。

   会津:蒲生氏郷、浅野長政を筆頭とする奥州仕置巡察行軍を

   案内した。


8月9日 蒲生氏郷は会津黒川城(現会津若松城)に入った。



・その後、奥州仕置軍は平泉周辺までの諸城を制圧した。

  浅野長政の家臣が代官として検地などを行った。

  郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。


※豊臣秀吉の日本統一が達成された。

  

   

8月下旬   米沢に戻った。


10月26日 大崎・葛西一揆の鎮圧のため米沢から出陣。

11月14日 会津:蒲生氏郷と会見した。

11月28日 蒲生氏郷と和解・・・誓紙を交換する。

12月    関白:豊臣秀吉は関東&東北の諸大名・・・特に、

  関東の北条氏&東北の伊達氏に対して、惣無事令=私戦禁止令を

  発令した。

  しかし、伊達政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。

★この辺がしたたかである。



・天正19年(1591)

2月 伊達政宗は羽柴姓を許される。


    伊達政宗は蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定。

    伊達政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。

    蒲生氏郷が「政宗が書いた」一揆勢宛の書状を入手した

    からである。    

蒲生氏郷は伊達政宗に気を許さず黒川城から出そうと

    しなかった。

    蒲生氏郷は豊臣秀吉に「政宗に謀反の疑いあり」の書状

    を送った。

    伊達政宗は重臣2人を蒲生氏郷に差出したのに・・・

    

    ※伊達政宗と蒲生氏郷との不和が続いた。~~~

伊達政宗は会津黒川城から米沢城に戻ることになった。

    

    伊達政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物であると

    豊臣秀吉に弁明し許された。

★ま~ず、上手なんだから~~~でも・・・。


・それからやっと、伊達政宗の所領が決定された。

9月 米沢城72万石から玉造郡岩手沢城=岩出山城に

    58万石に減封。岩出山城に移封・・・。  

    ※現在の岩手県の南部、宮城県全域、福島県の北部など

    20郡、58万石なのだ。


・文禄元年(1592)

1月5日 豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、兵3000を率いて

     岩出山城を出発。

     豊臣秀吉から割り当てられた倍の兵3000人で上洛した。

    (★1500人という記録もある。)

街道では派手な軍装で人々の目を惹いた。

伊達軍は戦さ装束は非常に絢爛豪華なものであったらしく

    上洛の道中においても噂となった。

★全く、奇抜なんだから~~~


閏1月27日 豊臣秀吉に清洲で謁見。

3月     清洲から肥前:名護屋城に向かった。

  京都の住民も伊達軍の出で立ちの見事さに歓声を上げた

       という。

  ★ど派手な装いを好んで着る人を「伊達者」と呼ぶように

  なった。


4月19日 肥前名護屋城に着陣。      

      肥前:名護屋城近くに陣屋を築城。


◆◆ 箕輪初心●佐賀『名護屋城』 ◆◆



・文禄2年(1593)

3月 朝鮮に向けて出航。文禄の役に従軍。

4月 朝鮮半島では、日本軍の南部沿岸の築城が行われた。

   晋州城攻撃等に参加。・・・落城。

9月 帰朝命令→釜山を出航。


6月16日 長女:五郎八姫が生まれる。


●母:義姫は朝鮮で従軍中の政宗へ、現金三両と和歌を送った。

「秋風の 立つ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空」

を添付した手紙を届けた。

伊達政宗はこの書状に感激した。

伊達政宗は母への進物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を入手した。

「ひとたび拝み申したく念望にて候」

としたためた書状を送った。

(★ウィキペディア)


・文禄3年(1594) 伊達政宗の養育係:片倉喜多が蟄居を申付けられ

 た。


11月4日 母:義姫が岩出山城から出奔して山形に戻った。

(★『虎哉宗乙から京都の伊達政宗の大叔父への書簡』)

  ※出奔の理由や経緯は不明せある。


・文禄4年(1595)

7月 関白秀次事件・・・

   関白:豊臣秀次が豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられた

   豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に蟄居・・・切腹。

   伊達政宗の母方の従姉妹で秀次の側室となった最上義光の

   娘:駒姫は豊臣秀次の妻子らとともに処刑された。

    

   伊達政宗は豊臣秀次謀反の関与を豊臣秀吉に疑われた。

伊達政宗や最上義光が詰問された。



★最終的には無関係であるとされ、難を逃れた。


8月24日 豊臣秀吉から赦免された。

      伏見に屋敷を与えられた。

      従四位下右近衛権少将に任ぜられる。

しかし、豊臣秀吉に早くから服属している大名とは

      違い、五大老には選ばれなかった。


・文禄5年(1596) 伊達政宗と浅野長政が絶交した。

     

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉が没した。

  豊臣秀吉の遺品「縞(しのぎ)藤四郎の脇差」を受け取った。

豊臣秀吉の死後、伊達政宗と五大老・徳川家康は豊臣秀吉の

  遺言を破り、手を結んだ。


・慶長4年(1599)

1月20日 今井宗薫の仲介により

      長女:五郎八姫と徳川家康6男:松平忠輝が婚約する。


12月8日 正室:愛との間に虎菊丸(忠宗)が生まれた。



・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い

   東軍に味方した。

  伏見城にいた徳川家康は会津の上杉景勝を討伐を敢行した。、


7月25日 伊達政宗は上杉景勝の足を止めるため、

      登坂勝乃が守る白石城を奪還した。


8月 徳川家康より「100万石の御墨付」が届く。

徳川家康は伊達政宗に対して岩出山転封時に没収されていた

  上杉景勝領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を

  許す旨を書いた書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館蔵)

  を送ったのだった。

  ※伊達政宗の作戦であった。

①南部利直領への侵攻許可を得る。

②上杉景勝との戦に勝ったら、領土を安堵してもらう。

   そのため、南部氏が西軍に通じていると、侵攻理由を徳川家康

   に訴えたのだった。まあ、要領がいいこと。


9月 関ヶ原の戦い

※徳川家康が畿内を離れた隙をついて、五奉行:石田三成らが

  毛利輝元を総大将として徳川家康に対して挙兵したため、

  小山まで北上していた家康は西へ向かった。


◆◎◆ 長谷堂城の戦い ◆◎◆

 上杉景勝の直江兼続軍 VS 最上義光+伊達政宗の援軍


◆ 箕輪初心●山形【長谷堂城】&直江兼続VS最上義光 ◆



◆◆ 箕輪初心●山形【上山城】&武家屋敷 ◆◆



▲箕輪初心▲百名山№2【蔵王4回】&サクランボ大将錦&佐藤錦 ▲



◆ 箕輪初心●【山形城】&山形博物館&最上義光歴史館 ◆



▲《長谷堂城の戦い=慶長出羽合戦》

9月15日 叔父:最上義光から伊達政宗に援軍要請がきた。

●母:義姫も伊達政宗に援軍を急かす書状を送っている。

  片倉景綱は伊達政宗に、最上軍と直江軍が疲弊するのを傍観して

  待つよう進言した。

  伊達政宗は母の安否を否を気遣い、援軍を派遣した。  

  伊達政宗は叔父:伊達(留守)政景率いる3,000の兵を派遣した。

ただし、伊達勢は戦況を静観し積極的に動かなかった。


9月25日 茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。

 ●戦後、義姫は伊達政宗と援軍の留守政景に対して感謝の書状を

  送った。


※関ヶ原の戦い・・・徳川方の勝利に終わった。

★関係ないけど、前田慶次郎と上泉泰綱(上泉信綱の孫)が討ち死に

 した。

 直江兼続は最上義光に敗れて米沢に逃げ帰った。


伊達政宗は兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越え

南進した。


10月6日 福島城主:本庄繁長を攻撃。

      福島城包囲戦は失敗した。

◆◆ 箕輪初心●山形『福島城』 ◆◆



・この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵した。

  結局は取り戻せなかった


  伊達政宗が南部領:和賀忠親による一揆を煽動し、

  白石宗直らに命じて南部領に4,000の兵を侵攻させた。

  →岩崎一揆の件がばれて、伊達政宗は60万石となった



・慶長6年(1601)

   居城をどこに移すか悩んだ。5ヶ所の候補地があった。

石巻城もその一つであった。

   仙台城に移すことに決定。



・慶長7年(1602) 37歳

1月11日 仙台城=青葉城の築城普請を始める。

  仙台城&仙台城下町の建設を始めた。

    仙台城は山城で天然の要害地形であった。

    仙台の城下町は新しく開発しなければ、ならなかった。

     のべ人数:100万人を動員した。



5月 仙台城が完成した。

   伊達政宗を藩祖とする仙台藩62万石が誕生した。

   1位・・加賀:前田氏、

   2位・・薩摩:島津氏

3位・・仙台:伊達氏 家臣を48ヶ所に配置した。

   岩出山城の回りの民を仙台に移した。


徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。



・慶長16年(1611)


4月 嫡男:虎菊丸(忠宗)と家康の孫娘:振姫の婚約が成立。

   

この頃、伊達政宗は海外に眼を向け始めた。

  ソテロと仙台城にて会見した。

    →キリスト教の布教を許可。


・慶長18年(1613)

4月25日 娘婿の松平忠輝の付家老:大久保長安が死亡。

      ・・・謀叛事件が発覚する。

      ・・・里見一族の倉吉に・・

  伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商を企図していた。

   

  伊達政宗は徳川家康の承認を得た。



  仙台領内において、エスパーニャ国王:フェリペ3世の使節

  セバスティアン・ビスカイノの協力によって、ガレオン船

  「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。

  船を仙台領:雄勝浜で造らせたのだ。

  ・・・五百t級のものといわれている。


9月15日 慶長遣欧使節の派遣

    ルイス・ソテロを外交使節に任命。

    支倉常長ら一行180余人を遣欧使節としてローマに

    派遣するのだ。

    ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)

     →エスパーニャ(スペイン)

     →ローマへ・・・教皇にあう。


   ★伊達政宗の真の目的は如何に?

キリシタン布教に名を借りて、諸外国と直接貿易をすべく計

   ったのである。そして、表向きは通商が目的であったが、イス

   パニア国王の支援を受けて徳川倒幕を決行するつもりであった

   という説が有力である。

   歴史家の中には、「伊達政宗は、徳川家康の側についていな

   がら、天下を奪う機会をねらっていたのだ。」と解釈する人も

   多くいるのだ。

   ★全く油断も隙もない男である。


    伊達政宗の命で支倉常長が月ノ浦港を出航。

    支倉常長が

     メキシコ→ヨーロッパ・・・


◆◆ 箕輪初心★支倉常長:遣欧使節団 ◆◆      



箕輪初心:生方▲2019『支倉常長と慶長遣欧使節』復刻版



・慶長19年(1614)

  最上義光が没した。

 ●母:義姫は兄の死後、最上家中がすっかり様変わりしたと嘆

  いていたという。


10月20日 大坂討伐命令を受け先手を命じられ江戸を出発。

    大坂冬の陣に参戦。大和口方面軍として布陣。

    真田幸村の守る真田丸の南西に長男:伊達秀宗と着陣した。

    大坂城真田丸を攻撃。

   ・・・大した戦闘もないまま和睦。

    

    和議成立後、伊達政宗軍は外堀埋め立て工事にあたった。

    

・慶長20年・元和元年(1615)

 大坂夏の陣に参戦する。

4月、大坂夏の陣に従軍。


5月6日 道明寺の戦い

     伊達政宗は騎馬鉄砲隊を率いて、後藤又兵衛基次、

     薄田隼人の軍と激突・・

     後藤又兵衛を討ちとった。

※伊達家:片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃した(伝)。

  さらに大和方面軍は誉田村に兵を進めた。

   伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受け、後退した。

    真田幸村軍と激突した。

    真田軍にゲリラ戦法で攪乱された。

  やがて被害が大きくなったため兵を引いた。

    伊達政宗は損害を恐れて深追いをしなかった。

    先鋒大将:水野勝成は伊達政宗に真田隊への再攻撃を

    要請するが、伊達政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを

    理由に拒否した。

     

真田信繁=幸村は悠々と大坂城に引き返した。

    「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」

   (「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として

    居ない」)と嘲笑した(伝)。


5月7日 大坂城落城。→豊臣家滅亡。

     伊達軍は傍観に徹したため、戦功は大してない。

   ★落城を予感していたのであろう。


閏6月19日 正四位下参議に任じられる。

10月14日 片倉景綱が死去。

12月28日 戦後の論功行賞で2代将軍:徳川秀忠より長男

   =庶長子:伊達秀宗が

    伊予:宇和島に伊予宇和郡に領地を賜った。

伊達秀宗が伊予・宇和島10万石の初代藩主になった。

◆◆ 箕輪初心★愛媛【宇和島城】 ◆◆





・元和2年(1616)

2月22日 伊達政宗は駿府城の徳川家康を見舞った。

7月6日 娘婿長女夫:松平忠輝改易。

  五郎八姫実家に戻る。


 徳川家康が没した。

       

伊達政宗は領国の開発に力を入れた。

①運河を整備。北上川水系の流域の水田開発・石巻港の建設など。

②文化の向上・・・上方文化導入。技師・大工らの招聘。

  大崎八幡宮・瑞巌寺・塩竃神社・陸奥国分寺薬師堂など。



・元和6年(1620)

支倉常長が仙台に戻る。

  日本はキリシタン禁制となり、7年の航海も水の泡に終わった

  のである。

  ・・・鎖国政策に失望し、2年後には死亡した。

★支倉常長が太平洋横断をしたことは事実である。


・元和8年(1622) 最上氏がお家騒動→徳川幕府から改易の沙汰。

 母:義姫は行き場を失い、伊達政宗を頼った。

●伊達政宗は義姫を仙台城(仙台市)に呼び寄せた。

●母:義姫はすでに75歳、伊達政宗も56歳になっていた。

※晩年は、2人が交わした和歌の内容や伊達政宗の発言から

  母:義姫・伊達政宗母子は完全に和解していたとみられる。


●伊達政宗は母:義姫が少しでも過ごしやすいようにと、城の南東に

 屋敷を造り住まわせた。 「お東の方」と呼ばれた。



・元和9年(1623)

●母:義姫は目と脚が悪くなっていたようである。

 しかし、母:義姫は江戸にいる伊達政宗の正室:愛姫に手製の下げ袋

 を贈り感激させている。

●7月17日、 母・義姫は伊達政宗に見守られながら仙台城にて死去。

   享年76。


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№52番外編【母:最上の義姫と子:伊達政宗】



・元和9年(1623) 徳川家光が3代将軍になった。


・寛永3年(1626) 

5月20日 徳川秀忠秀忠、家光の供奉をして上洛した。

8月19日 従三位権中納言に任じられた。



・寛永5年(1628)

11月 若林の屋敷(保春院近く)に隠居した。



・寛永9年(1632) 徳川秀忠が没した。


・寛永11年(1634) 徳川家光の供奉をして上洛。

 伊達政宗は食事不振など体調不良を訴え始めた。


・寛永12年(1635) 徳川家光が参勤交代制を発布。

  伊達政宗は「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付け

  くだされ」と申し出た(伝)。


・寛永12年(1635) 伊達政宗は母:義姫の十三回忌にあたり菩提を

  弔うため、若林城の近くに臨済宗少林山保春院を建立した。



・寛永13年(1636)

4月18日 ●母:義姫を弔う保春院の落慶式を挙行した。

   伊達政宗は「死後はここに埋葬せよ」と言った。

   (宝暦2年:1757に火事で焼けてしまったが、伊達政宗が

    自ら作った母の位牌が残り、再建された保春院に安置され

    ている。

   ★行ったことがあるが写真がない。


4月20日 伊達政宗は参勤交代のため病をおして江戸に

      向かった。

   ★すでにこのとき、死を覚悟していたらしい。


4月28日 江戸入りした。

      絶食状態が続いた。

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5月21日、将軍:徳川家光の見舞いを受けた。

辞世の句・・・

  「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」


5月24日 江戸桜田伊達上屋敷にて死去(70歳)。

   死因はガン性の腹膜炎とも食道ガンともいわれている。

   「伊達男」は臨終の際には、妻子にも死に顔を見せなかった

   という。・・・★まあ、頑固だこと。


5月26日 伊達忠宗の家督相続が許された。

      

6月4日  遺体は仙台へ戻った。

      遺骸は仙台経ヶ峰=瑞鳳殿・・・に埋葬された。

      殉死者は家臣15名・陪臣5名。

★黄泉の国では母の愛は如何に?


箕輪初心●宮城:白石城&城下町



箕輪初心:生方▲真田丸30【真田昌幸と滝川一益との腐れ縁:友情】



箕輪初心:生方▲『仙台藩の大肝入と文通』籠橋俊光著と伊達政宗



箕輪初心:生方▲伊達政宗の兜→ダース・ベイダー&『フォースの覚醒』




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