箕輪初心:生方▲2019竹井英文先生講演会『戦国の「名もなき武士」里見吉政・・』レジュメ

令和元年(2016) 11月16日、竹井英文先生の『里見吉政の覚書』の講演会を
拝聴させていただいた。私は現在、天正18年(1590)井伊直政の上野国関係の
25名+αの武将が分かっている。井伊直政家臣の里見義政について
も『新修彦根市史』・『侍中由緒帳』で知っていた。講演会
も行く前から興味があった。『里見吉政の覚書』には井伊直政の家臣
:石原吉次、岡本半介、宇津木泰繋、庵原朝昌、鈴木重好、木俣守勝(狩野
主膳に子で木俣守勝養子:守安)などが出てくる。竹井英文先生が話し上手
なのでとっても楽しく拝聴したしました。大変ありがとうございました。感謝
申しあげます。ブログ掲載の許可を得ていませんが、掲載させてください。
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群馬八幡荘再発見伝 第6回歴まち連続講演演会 2019/11/16 竹井英文
 戦国の「名もなき武士」里見吉政の生き様を探る

はじめに
■里見吉政という男
・地元里見出身、戦国時代に数々の大名家を渡り歩き、幾多の戦場を駆け巡って、最終的には
 彦根藩井伊家の重臣(1000石)にまで上り辞めた、実在の武士
・これまでは、詳細不明の無名の武士。ところが、一千菓県館山市の館山市立博物館に、彼が
 執筆した長文の「覚書」(「里見吉政戦功覚書」。博物館での登録名は「里見内蔵丞吉政由緒書」。
 以下、「吉政覚書」とする)が所蔵されていることが判明。
・この他にも、彼に関する史料が相当数残っていることも判明。彼の人生が徐々に明らかに
・このたび、多くの方々のご協力により、彼の一生を追った拙著『戦国武士の履歴書』(戎光祥出版)
   を刊行させていただいた。地元出身の「名もなき武士」のドラマチックな生き様を通して、
 地元の方々の心に何か響くものご提供したい。それがさまざまな形で地域の活性化に繋がれ
 ばなお幸いである

1.戦国「渡り歩く武士」と「戦功文書」
・「渡り歩く武士」とは?
・「戦功覚書」とは?
・「吉政覚書」概観」・・・戦国末期の関東での数々の合戦から、秀吉の九州攻め、小田原合戦、関ヶ原の
戦いに至るまで、自身が経験した合戦について詳細に記録。普通の噸功覚書」は戦功のみを淡々
と記すが、「吉政覚書」は失敗談や教訓も記載。単なる「戦功覚書」ではないところに特徴。
・宛先人は、里見金平・源四郎の2人。金平は、吉政の次男武右衛門であることが確実。源四郎臥
三男弥次左衛門の可能性が高い。つまり、息子たちに書き残したもの。一種の遺書ともいえる
・里見吉政自体は、最終的には彦根藩重臣になったものの、戦国史研究者であっても誰も知らない
ような、正真正銘の「名もなき武士」。そうした一武士の人生から、中世から近世へという激動の
時代の様子を知ることができるという意味で、極めて貴重な史料

2.里見吉政の出自
・里見家・・・里見郷を根拠地とする土豪・地侍レベルの家と推定
・中里見の里見館は、あるいは吉政の屋敷か。光明寺も、吉政と深い関係にあると考えるのが無難。
・吉政の父親は不明。しかし、倍濃高遠藩内藤家の家臣となっていた、吾政の子孫と思われる里見
家が残、した系図(江戸後期か)によると、吉政(義政)の父として、景家(里見左近・蔵人)
なる人物が登場する(『国立国会図書館所載里見叢書』(越前鯖江藩里見氏の編纂記録)。滝川恒昭
氏のご教示による)
・「善政覚書」には年齢が記されており、そこから逆算すると、吉政は天文21年(1562)生まれ
・天正5年(1577)=26歳になってようやく史料上に登場。それ以前の動向は一切不明

3.吉政の人生①~北条・安中・滝川氏のもとで~
■下野小山にて
・天正5年(1577)、26歳の吉政は、戦国大名北条氏の有力一族・北条氏照に仕え、結城氏・佐竹
 氏ら反北条勢力との境目であった下野小山祇園城に在城。里見右衛門尉を名乗る。
・同年、小山木沢口の戦いでの大失態
・天正6年、小山土塔塚(愛宕山古墳)の戦いでの大活躍
  ・剛の者・大田十左衛門との格闘
  ・尾張牢人の荻谷氏との旗指物をめぐる争い
■北条氏邦のもとで
・天正8年(1680)段階で、29歳の吉政は氏照のもとを離れて、同じ有力一族である北条氏邦に
 仕えていた。氏邦は、天正6年の御館の乱を経て上野沼田城を押さえていた
・後閑橋の戦いでの大活躍
■武田氏滅亡前後
・天正10年3月、織田倍長によって武田氏滅亡。30歳となったその頃の吉政は、氏邦のもとも
 離れ、地元里見に特選=牢人状態○ほどなく、地元の国衆安中氏や信長重臣滝川一益に仕える
・安中で、国衆小幡氏と激突
・沼田城の明け渡しをめぐっての活躍
・神流川の戦いでの活躍
・信濃川中島での活躍
・上野金山城攻めでの死骸の引っ張り合い
・金山城攻め後、関東を離れ上方へ。豊臣軍の一点として、天正15年の秀吉の九州出兵に従軍。
 吉政は35歳
・秀吉の筑前岩石城攻めの見聞。その後、秀吉軍本隊に近いところで従軍し、薩摩伊集院まで南下
 し、九州の西側諸国を見聞
・天正18年(1590)、38歳の吉政は、秀吉家臣の浅野長吉(長政)に仕え、小田原合戦に出陣。
 著名な武蔵忍城攻めに参加
・忍城攻めでの真田軍の失態を見物。自身は「本城」まで攻め込む大活躍

5.吉政の人生⑨~井伊直政との運命的な出会い~
■井伊氏家臣として
・小田原合戦後、井伊直故に仕官。天正19年の陸奥九戸城攻・めに従軍
・九戸城攻め時の井伊軍の活躍。宇津木治部右衛門の軍令違反
・慶長5年(1600)、吉政は48歳。関ヶ原の戦いでも、直政の側近くに仕えて活躍。直政が狙撃
 された直後もすぐに駆け付け警護。この頃まで、里見喜兵衛と名乗る
・関ケ原の戦い後、井伊直政は近江彦根(佐和山)に転封。吉政も従い彦根に移住。里見内蔵丞と
 名乗るように

■彦根藩重臣として
・50歳となった慶長7年(1602)分限帳では「御供(詰)之衆」で500石。直政没後の慶長9年、
       井伊直継(直勝)から直政以来の知行である上野国内と近江神埼郡本庄村内・犬上郡甘呂村の600
 石を安堵。この頃、長男喜兵衛、次男武右衛門が誕生か
・慶長10年、井伊家の家中騒動勃発。吉政は、家老鈴木石見方へ肩入れ
・慶良12年、近江浅井郡中野村内・坂田郡抜木村内で300石加増。同16年、直継から近江愛知郡
  吉田村内等で200石加増、5与歳にして都合1000石に。その間も、重臣としてさまざまな活動
・吉政の屋敷は、彦根城の中心部である内曲輪佐和口近く。重臣としてふさわしい場所
・慶長19年、故あって直継は領地の一部である上野安中へ下り、62際の吉政も従う。翌年、弟の
 直孝が家督を継承、直継は安中藩主に。それにともない、吉政は安中から彦根に戻る。この間、
 大坂の陣が勃発するも、吉政は参加できず

6.吉政の人生⑥~晩年の青政~
・元和2年(1616)、66歳の吉政は、何らかの理由により若き当主である直孝から勘当され、多賀
 大社の慈性に預けられる。同4年には復帰、同9年、松平忠直改易に伴う越前北庄出陣計画では、
 72歳にして1000石で槍奉行、騎馬1騎とあり

・寛永7年(1630)、隠居料300石を与えられ、同年に79歳で死去という

・それより前、両親・自分・子孫のために、吉政は六十六部の活動を行い、諸国の寺社に法華経を
 納める。さらに、故郷の里見郷に、本塚を合わせて経塚を67基築く

・異説の存在…いつの頃か、彦根藩牢人の「里見内蔵之助」なる人物が、先祖由緒の地ということ
 で上野里見郷にやってきて住み着く。その後、隣の秋開村へ移住し、手習い等の指南をして生計
 を立て、秋間にて死去。全(善)応寺に葬られる(越前鯖江里見家家伝文書)


7.吉政の子孫
・長男喜兵衛…初め平七郎を名乗ったか。諱は義章か。1600~1606年頃に誕生か(=吉政は50歳
 頃にして初めて子を授かった?)。吉政没後、1000石のうち600石を継承したが、「長病」とな
 り知行を上表し、途絶える
・一方、先述した信濃高遠藩内藤家の家臣里見氏の系図によると、喜兵衛は「父死後家督減少二付
 彦根を立退無程病死」となり、その子孫が内藤家に仕える
 ⇒先述した、江戸期に里見郷へやって来た彦根藩牢人の「里見内蔵之助」は、吉政ではなく、
 長男喜兵衛の可能性がある(滝川恒昭氏のご教示による)
・次男武右衛門…初め金平。諱は義治か。吉政没後、1000石のうち400石を継承
・三男弥次左衛門…吉政60代半ば頃に誕生か。彼が「里見源四郎」か
  ⇒「吉政覚書」は、次男武右衛門(金平)、三男弥次左衛門(源四郎)宛て、となる
・子孫のうち、三男の弥次左衛門家のみ、幕末まで彦根藩士として存続。最終的には50石ほど
  ⇒里見家は、藩政初期では有力家臣だったが、次第に中小家臣へ変化


8.「吉政覚書」の魅力
・名だたる有名武将が数多く登場。広く東国史・日本史全体にわたる出来事と、吉政という一武士
 との関わりが具体的に見えてくる
・一方で、普通の史料ではほとんど確藩できないような無名の武士も数多く登場。現場で活躍して
 いた彼らのリアルな姿が垣間見える
・後に吉政とともに井伊氏家臣となった武士も数多く登場。いつ、どのようにして彼らは出会い、
 ともに彦根藩を支えていったのか。藩の成立過程・初期藩政の一端が垣間見える
 ⇒石原吉次、狩野主膳、岡本半介、宇津木泰繋、庵原朝昌、鈴木重好、木俣守勝・守安…
・リアルな戦場の実態が克明に記されている。軍令違反、死骸の引っ張り合い、城攻めの様子など、
 やはり普通の史料ではなかなか見えてこない姿が垣間見える
・そして、何よりも、時には大活躍し、時には大失態を犯しながらも、戦国という時代を巧みに
 生き抜いていった一人の「普通」の武士の生き様が浮かび上がってくる点が最大の魅力


9。「吉政覚書」に記された最大の謎~法華経と経塚の行方~

・六十六部…日本六十六ケ国をめぐり、各国の著名な寺社に六十六回書写された法華経を一部ずつ
 奉納することを目的とする廻国の巡礼行者・廻国聖のこと。また、その活動のこと
・吉政も、晩年に法華経を全国の寺社の宝蔵に収めたという。中世的な経筒を奉納するかたちか
 ⇒調べた限り、1点も発見できず。どこかに1点でいいから無いか?上野だと榛名神社か
  貫前神社あたりに奉納した可能性が極めて高い。ぜひご協力を‥・
・里見郷に、経塚を66基、本塚1基、合わせて67基の経塚を築いたと記す。しかし、これも1基
 も見つからず。1基でも見つかれば大発見!
 ⇒里見郷周辺は、浅間山の噴火、烏川大洪水など、繰り返し災害に遭う。そのせいで消失して
  しまったのか?ぜひご協力を…
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おわりに
・「戦功覚書」という史料を積極的に活用し、新たな戦国史・近世史像を措いていきたい
・吉政の一生を、今後も引き続き、追いかけていきたい
・吉政の事俵を活かした地域活性化
 ⇒他地域の憤り歩く武士」との比較研究・シンポジウムの開催、吉政が足跡を残した地域
  との交流促進。ドラマ化、絵本化、グッズの開発などしたら、面白そう…。

【参考文献】
・あまりに多いので、拙著『戦国武士の履歴書』の参考文献一発をご参照ください



【付録】「吉政覚書」全文現代語訳(一部意訳・省略)史料
原文は拙書収録

①…自分のことを自分で申し立てるのは如何なものかと思うが、第一に子孫のため、
第二に若いころ
 諸国を修業したのに今ではその甲斐もなく面目ないものの、そのありましを記して
 おく。
②昔のことは言わなくてもいいのだが、元をたださないと道理に叶わないので、書
 き記す。北条氏照が切り取った下総の城は古河・栗橋・小山・榎本であるが、その
 うち小山は敵の手先の近くであった。

③天正五年(1577)五月、結城晴朝が小山・榎本を攻撃し、その退却時に押さえ
 のために祇園城近所の喜択という在所に太田道誉・梶原政景の軍勢を置いた。
 その中から、郷人に紛れて切所に軍勢を置いた。北条側はそれらを攻撃しよう
 として色々と議論したが「手立ては尤もだが、皆指物を置いていて敵味方の判別
 がしにくいので、手柄次第に馬上から突き落として、もたつくことなく突き
 落としたものには目もくれないようにしよう」と決めた。人馬を選び十三騎を派
 遣したが、その後武者大将から十二騎へ一言伝えることがあるということで、
 私が使者として派遣された。その時悪い欲が出て、名を名乗らない者を一人馬上
 にて突き落とし、約束を破って馬から降りて首を取ったのだが、無数の鑓で攻
 撃され、馬と死人の間をかけ分けて退却したが、おみ左右衛門が負傷した。
 これでは手柄にならないと思い、引き返して負傷人を連れ帰り、私も存命した。
 子孫の者に言いたい。約束事を破ってはいけない。自分の身だけを立てようと
 すると命を失いかねない。私は敵味方両方で手柄を立てたと批判された。この
 奥に誓詞がある。一言も偽りはない。私が二十六歳の時のことである。

④天正六年七月、結城晴朝が小山・榎本を攻撃し、その退却時に押さえのために
 土塔塚に軍勢を置いたが、小山衆が無理に攻撃を加えた。その時、私は抜きん出
て故に懸り、水谷伊勢の内衆・長野伊予と申す人も抜きん出て、鑓を合わせ手柄を
立てた。
 しかし、小山衆は無勢だったので、南側から崩れ、北側にいた私は多くの手柄を立
て、敵をひっかけまわして退却した。その際、両国にて有名な厚木左京亮という人
を突き落として、その父子の首を取った。岸源十郎・石原主膳と私三人が負傷した。
この父子の首を結城方が受け取りに来たのだが「昨日の戦いで大活躍した白□・白御幣
の指物の武者は誰か」と聞いてきたので、北条方は「一人は忍牢人の手島左馬介、もう
一人の白御幣は上野牢人の北小次郎である」と伝えた。何事も昔のことは言わなくてい
いものだが、そうなってしまったことを記しておく。これもー言も偽りはない。私が
二十七歳の時のことである。

⑤…合戦に関する出来事ではないが、小山にいた頃のことなので、書いておく。大田十
左衛門という人が氏照から狩野主膳に預けられたのだが、二回も法度違反を犯したので
捕縛することになり、狩野源十郎・石原主膳が私に相談してきた。
十左衛門は年齢といい体格といい、私は若年だった土ともあり頼もしく思っていたので
親しくしていた。
その関係から私へ相談してきたので、拒否できず簡単なことであると彼を捕縛した。
その時、まずは捕縛の理由を述べ、次に納得いかないならここから出ていけと言うと、
十左衛門は納得したので捕縛した。このことは誰も信じてくれないだろうが、年月を経
て番衆がいながら、十左衛門は高手小手の状態で二重に縄を縛られながら脱獄して私
の寝屋へ向かってきた。私は裸の状態で起き、組み合いながら「助けてくれ」と叫んだ
が、彼の剛腕ぶりを皆知っているので、助けが来ないところに、石原主膳がやってきて
助けられた。このことが氏照の耳に入り「戦場での活躍は覚悟のうえでのことだが、
不意に寝屋へ飛び込んできた剛の者を裸の状態で組み止めたことは、七度の鑓にも増す
手柄である」と褒美に預かった。これも二十七歳の時のことである。小山は、故に囲ま
れ日夜頻繁に小競り合いが起きていた。今では手柄に藩定されるようなことも沢山あっ
たが、あまりに多いので書かない。無駄な苦労をしたもので、今では何の役にも立っ
ていない。あまりに残念なので、書いておく。若い人は主君の命令を守りきちんと奉公
すること。
                                   l
⑥…砥園城に番手として青めていた時、仮にではあったが尾張浪人荻谷氏という人が、
 金色の宝珠の玉に白御幣の指物をしていた。私も金色の酒林に白御幣の指物だった。
 荻谷は私に指物のことを説明してきたが、私は納得せず争った。そのうち下野鹿沼城
 へ荻谷を物頭とした鉄砲隊を加勢として派遣することになった。荻谷が武具をまとっ
 て私のところへやってきて「私が悪かった、暇乞いに指物を頂けないか」と言って
 酒肴を持参して色々と懇望してきたので、仕方なく気味よく指物を与えた。それより
 私は白御幣の指物を止めた。

⑦…その後、氏照のもとを引き払い氏邦に仕えた。氏邦が沼田城を抱えていた時、
 小川可遊斎が謀反を起こして、真田昌幸に付いて武田勝頼に従属した。氏邦が
 沼田仕官のため逗留中、昌幸は西上野・信州佐久郡・小県郡の軍勢を率いて沼田
 へ天正八年四月八日に出陣した。後閑というところに利根川にかかる大きな橋が
 あった。その橋の向こう岸に大量の「しほり」を立てていたが、昌幸自身が
 攻撃し、一重目が破られ残り一重になってしまった。橋のこちら側に歴々の物頭
 達がいながら一文えもなく取られたことは余りに見苦しかったので、若いことも
 あって見かねたので、黒澤帯刀・冨永勘解由左衛門と三人で鑓にて反撃し、「しほり」
 を取り返した。その時私は然るべき場所にて負傷した。二十九歳の時のことである。
 敵と育っても敵による。普通に働いたので取り返せたのだ。橋を越えるときは矢・
 鉄砲に当たり、討死する者も少なくないが、私達は目立つ場所で不思議と無事
 だった。このようなことは末代までの手柄である。一言も偽りはない。日本の神々も
 ご照覧あれ。偽りなら七代まで冥利尽き果てるだろう。

⑧…氏邦のもとを引き払い、国本で引き籠っていた時、天正十年信長が武田氏を
 滅ぼし、武田方の大名・小名は思い思いに国元へ引き籠った。そのうち、小幡
 信貞が三月十日に安中領へ出陣し放火をして郷原へ乗り込んだので、私は指物
 を指して出陣し、松井田近所の名山という山に登り、歩兵・馬を俄に集め、馬上
 にて敵を突き伏せ、若衆に首を取らせた。それから十六の首を取り、近辺を乗
 り回し、引き上げ時には五十ほど首を取っていた。このことは、岡本半介の父
 喜庵も半介殿へ話しているだろうか。表だって言いにくいことだが、男として
 晴れがましいことなので、仕方なく書いておく。このことは私自身が棟梁とし
 ての分別で行ったことである。三十一歳の時のことである。

 結局、昌幸に渡されることに決定し、六月十三日に昌幸は軍勢を率いて城の受け取り
 にやってきた。その時、私は信吉のもとへ赴き、無理に備えを出させて「もう城が渡さ
 れる望みはないのだから、退かれるのがよい」と言い、退かせた。そして戻ろうとした
 時、加勢の真田軍が私を討ち取ろうと襲ってきたので、肥田を渡って石塚に登り「私は
 里見右衛門尉と申す者である。儀大夫と信吉との間にもめ事があり、使者を務めた。
 侍はお互い様なので、無理に退かせた。不当に何かと理由を付けて襲うのであれば、
 物頭の者として鑓を交じえたい」と叫んだので、納得され、その場は済んだ。物頭は
 長根縫殿介だった。わかってもらえたので戻ろうしたところ、敵味方の区別がつかない
 状況で襲われたので、馬を出し、敵もろとも崖へ飛び込み討ち取った。儀大夫からは、
 「最近いろいろと苦労していたうえでの今回の件で心配していたところ、高名を挙げ
 見事である」と褒美の言葉を預かった。

⑩・六月十九日、滝川衆と小幡衆が武蔵で合戦した時、朝の合戦は滝川方が大勝した。
 その先衆を引き上げさせる時手違いがあったので、私が使者として派遣された。物見
 にも行った。ニ度目の合戦の時はあまり役に立たなかったが、随分と奉公した。敵へ
 の紳時、私は馬を負傷させてしまい、一度馬から降りたが、再び乗った。

⑪滝川が敗れ上洛すると、北条氏は信州へ打ち入り、川中島まで軍勢を派遣
 した。真田隠岐守が牧野島城にいたところ、上杉景勝が川中島へ、徳川家康が
 上諏訪まで出陣してきたとの一報が北条氏直へ届いた。牧野島城から真田隠岐
 守を引き取るため、北条方は夜備えを出した。
信州侍十三頭のうち、先手真田昌幸、二番内藤昌月、三番小幡、四番安中、五番和田と
して八幡原に備えを出したが、夜に総崩れとなった、私は年寄でもなかったが、安中氏
の使者として小幡のもとへ行き、乗りかえして小幡を見舞うよう才覚して、さらに内藤
のもとへも安中と一緒に行った。内藤は「奇特なる事」と安中を褒め、羽織・腰物を与
えた。安中も内藤に鷹、腰物を進上した。私は安中に頼られたので奔走した。その頃は
里見右衛門と名乗っていた。安中は「吉政のお陰で褒美に預かった」と喜んでいた。
「虎口の儀」は大事である。子どもたちは心得ておくように。

⑫・‥天正十一年十月二十八日、金山城の本丸呑嶺いう所に、新田三蔵院の屋敷と、
 その向かいの小金井越前の屋敷にて敵と戦い、味方が崩れて辻屋敷という所まで
 六・七町ほど退いたが、敵が追撃してきた。そこで江戸遠山氏の同心で有名な武
 士であった中条出羽守が討死した。私はその首いて、敵に首を取らせまいと思い
 死骸の引き合いになり、引き勝った。私が若い頃の事である。それ以後は上方へ
 上ったので、関東のことは一切知らない

⑮天正十五年四月十七日の夜、日向の高城へ島津軍三万にて豊臣軍の先衆へ夜懸
をした。その時宮部継順が活躍し、四八三人を討ち取った。その後、秀吉は肥後
・薩摩境目まで来たので、夜懸のことを申し上げた。その時、木食上人と細川幽斎
を薩摩に派遣して九州は静□になった。私は豊後口・日向口とは違う方面にいたの
で知らないが、このような様子だったとのことなので、そちらの方面
のことを記しておく。

⑯・‥三月三日、秀吉は赤間関を渡り、豊前へ上陸して攻め込み、筑前岩石城
 の近辺に陣取った。秀吉が「ここから敵城へどのくらい近いのか」と尋ねると
 「秋月と申す者の脇城である岩石城があります」と申し上げると「ここまで
 下向してきたことを知らない城がないだろうに、無礼者である」と言い、秀吉
 自身が近くまで出陣した。城攻めの軍勢を配置して、二方を開けて城の者を逃
 げさせるようにした。蒲生飛騨の軍勢が早く着き、小丸二つを落とし、ホラ月
 を吹いて鬨の声を上げて二方より攻めかかった。城の者は逃げて討たれなかっ
 た。その時、蒲生源左衛門が秀吉の目の前で活躍したので、褒美に預かった。
 その後、秀吉は筑前・筑後・肥後へ進み、薩摩伊集院まで出陣し、大隅を片付
 けて、山中で道を間違えて再度肥後へ出て、長門赤間関を経由して諸方面の仕
 置を行い京都へ帰陣した。

⑰…小田原合戦の時は、浅野長吉衆として参降した。武蔵忍でのことである。
⑱…真田昌幸は忍城皿尾口の担当だった。ある時昌幸が長吉のもとへ来て「私の
 請取口は城内の者も知っているので、二・三町攻め込んで曲輪の二つ三つ、明日
 渡って攻め取りたい」と言ったので、長吉も「尤もである。そうであるならば私
 の軍勢も出そう」と言った。しかし、昌幸は「それは無用です」と言って帰った。
 明け方から長吉は軍勢を出し、それから昌幸に使者を派遣したが、うまくいかず
 に敵方に知られてしまったので、浅野軍だけで皿尾口を乗っ取った。二之丸・三
 之丸に構わず本城の堤の内に入ったが、そのニケ所に沢山の仕寄があった。その
 一重目を破り、二重目を破つたところ、長吉から使者がやってきたので引き返した
 ところ、真田軍がやってきた。昌幸は失態を犯した。皿尾口に構わず本城の壕の内
 へ入った衆は、浅野右近・佐藤才三郎・すかの平兵衛・上村豊後と、この時も私だ
 った。
⑲…長吉は忍城桜ヶ馬場から行田口を請けもっていた。七月五日の朝に行田口を破った
 が、浅野軍は多勢だったので埠へ乗り上げられず、私が一騎にて行き、堤の南方を
 五・六町も泥ふけ田を乗り渡り、篠垣がある所で馬から降りて、水堀を二重越えて、
 その奥に「節家橋」の橋を引いていたところへ、強烈に弓鉄砲で撃たれたので、
 歴々衆が多く討死した。城中の者共は勢いづいて逃げる浅野軍を追撃したので、
 さらに沢山討たれた。私・石本善介・浅野次郎左衛門・広瀬与八郎、この四人
 にて一方の殿をした。これは町の左の方で、右の方は浅野右近とその内衆数人、
 その後に岡野弥右衛門・小嶋大介その他二人、一方は我等四人がそこでさまざま
 に活躍した。

⑳…天正十九年奥州九戸城攻めの時、井伊直政にお供して出陣した。いつもの
 ように九戸城へ諸大名衆が押し寄せたが、井伊家が一番早く押し寄せた。一夜
 の内に一気に堀際まで押し寄せた。蒲生飛騨は二晩かけても出来なかった。
 浅野長吉は二晩かかった。堀尾吉晴は三日かかった。井伊家が早く取りついた
 ので、城中から直政へ降伏の使者が来て、九戸城は開城した。御手柄は申すま
 でもないと下々まで話していた。その他、書いておきたいことはたくさんある
 が、いずれも人々の間で語られるだろうから、ここには書かない。

21…九戸城へ攻め寄せた時、庵原助左衛門が鉄砲に撃たれ負傷した。日比野左近
 が直政へ伝えたので、人を派遣して引き上げさせた。かなりの深手だった。
今川家親戚庵原助左衛門が井伊直政に天正16年にいったん付いたが、後天正
 18年、家臣となった。妻は井伊直政の叔母である。

22…九戸城を長期間包囲して、諸大名が蒲生氏郷と寄合をして惣談合をした。城
 にて謀反を企てた衆を成敗した時、宇津木治部右衛門が法度に違反してその場へ
 出て鑓で走り回った。それを開いた直政は「成敗するべし」と言ったが、宇津木
 は仙石徳斎を通じて浅野右近の預かりとなり、長吉の嘆願により許された。その
 場と私は谷を隔てていたが、宇津木の所行を見ていない者はいなかった。
 秋田・酒田・最上衆がよく見ていた。


23…関ケ原の戦いの時、直政が鈴木石見守に「里見喜兵衛にも十騎命じたが、私が
 病気なので、木俣土佐と両人と申しながら、石見の事は、気分が悪い時は度々
お前を呼ぶので、その時はお前の後に喜兵衛を乗せて、いっ私が呼んでもその場
を崩さないように乗せるように」と命じた。十人のうち三人が病気になったが、
残り七人のうち、私の他に上野棒大夫・野村勘左衛門・加藤杉右衛門ほか
 五人が高名を遂げた。証人は鈴木石見である。特に私の活躍ぶりは石見が駆けつ
けご覧になった。これは私が一番である。争われることはない。                    
…直政が負傷した時もその場へ駆けつけ、相応の働きをした。」

24…私の両親のため自分のため子孫のためと思い、日本全国一国に三部ずつ法華経
 を奉納した。国元の里見郷は六十大個の経塚を造り、本塚と合わせて六十七の塚
 を造り残した。これらは末代まで絶やしてはいけない。子孫の人は後見するよう
 に。お経は諸寺社の経蔵・宝殿に籠め置いたので、子孫の人は後世に所望して拝
 見するように。このように菩提のためと思い、大俗の身としてお経を納めて、右の
 条々に少しも偽りがあったならば、お経の功徳は無になってしまうだろう。
 このことをもって、私の思いをよくよく汲み取り考えるように。

★翻刻と書き出し・意味と凄い

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この記事へのコメント

竹井
2019年12月11日 23:30
先日は大変お世話になりました。また、お葉書ありがとうございました。レジュメの掲載、まあ別にいいですよ。史料レジュメは図版もありますし、念のため控えておいて下さい。
とりあえず、『新田一族史』を見ないといけないなと思っております。