箕輪初心:生方▲福島旅行①『会津』横山常守と海老名季昌・新島八重・小栗道子

平成30年(2018) 11月21日~22日、福島県旅行に行った。
会津若松城5回目、大内宿3回目が含まれている旅行である。基本は
「会津若松城→大内宿→磐梯熱海温泉→金刀比羅神社→塩屋崎灯台」
である。今日は、会津若松城で『TVドラマ「八重の桜」』でも、思
い出しながら、そういえば、小栗上野介の妻:道子も会津戦争中に
倉渕村(現高崎市)から西郷邸・会津若松城に行ったんだっけ、・・
山川浩、田中茂手記&横山常守と海老名季昌の海外留学生も会津戦争
にも触れてみよう。
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【1】会津藩:横山常守と海老名季昌とパリ万博
慶応3年(1867)のパリ万国博覧会の江戸幕府の使節団は総勢33名
の中に、会津藩:横山常守と海老名季昌かいた。
1)横山常守
・弘化4年(1847)、山川兵衛重英の4男として江戸の会津藩
  邸内で生まれた。
  山川浩兄弟姉妹は従兄妹弟である。
 (山川二葉、山川浩、山川健次郎、山川常盤、大山捨松)
  養父は会津藩江戸家老横山常徳である。。 
横山家当主は、名家老と呼ばれた横山常徳であった。
  江戸の「三家老」…会津藩横山常徳・水戸藩武田耕雲斎・宇都宮藩
  戸田忠至・・・。
 横山常守は父の横山常道は、藩内で代々家老職を務めていた
 横山家の養嗣子となる予定だったが、若くして早世したため、
 遺児である横山常守が代わって横山家の養子となった。
 横山常守は養父:横山常徳の厚い薫陶を受けて育ち、藩校の日新館
 で抜群の成績を挙げて、藩内でも注目を浴びる存在となった。
 父:横山常徳は京都守護職就任の内命を松平春嶽から受けた。
 父:横山常徳は秋月悌次郎、広沢安任を抜擢し、京にあって会津藩
 を指導した。病に倒れ帰郷した。
・元治元年(1864)、養父:横山常徳が禁門の変直後に病死した。
 享年25。横山常守は17歳で家督を継いだ。1000石を相続、
 養父の代わりに京へ上り、京都守護職を務めていた藩主・松平容保
 の側に仕えた。御書簡勤として藩主:容保に仕えた。
・慶応2年(1866)樺太の日露国境交渉に派遣された幕府外国奉行小出
 大和守秀実に随行して、 山川浩・田中茂手記は幕府の使者と同行
 してロシアへ渡航した。
  ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を悟った。
 山川浩(大蔵)・田中茂手記とともにペテルブルグに派遣され、パリ
 の万国博も見にきた。
 11月横山常守・海老名季昌は、パリ万国博覧会に使節団として派遣され
 る徳川昭武14歳の随員として選ばれた。
 ■横山主税(常守)は、パリ万博行きの為、小栗又一からフランス語を
 2カ月程習った。小栗上野介や母:よき子や妻:道子などとも顔見知り
 であった。



2)海老名季昌
・天保14年(1843) 会津藩士:海老名季久の長男として、会津若松
 城下の天寧寺町に生まれた。
・天保15年(1844)1歳の時に患った天然痘の後遺症で歩行が困難に
 なった。
 常に病気がちの生活を送っていた。
 日々学問・武道に精進し、藩校の日新館でも注目を浴びるように
 なった。
・文久3年(1863)父:海老名季久が隠居した。
 海老名季昌は20歳ので家督を継いだ。
 京都に赴任して藩主松平容保の側に仕えや。
・元治元年(1864)7月 「蛤御門の変」
  武功を立て御使番を務めた。
  海老名季昌の非常に重い地位についた。

横山・海老名は、藩内に認められる存在になっていた。
 
・慶応2(1866)11月、会津藩主・松平容保は、横山と海老名に、
 パリ万国博覧会参列のため、フランスに渡航する徳川昭武の使節団に、
 伝習生=留学生として、随行するように命じた。
 松平容保が2人に海外留学を命じたのは、将来を嘱望していたからで
 あった。
・慶応3年(1867)1月11日 横山常守と海老名季昌は横浜からパリに
 向けてフランス船アルファ号で出港した。
 当時、横山は20歳、海老名は24歳であった。
 横浜→上海→香港 →サイゴン(ベトナム)→シンガポール 
 → セイロン(スリランカ)→ アデン(イエメン)→スエズ
 (エジプト)に到着した。
 当時、スエズ運河はまだ開港されていなかったため、一行はは汽車
 に乗り換えたエジプトのカイロ→アレキサンドリア。
  フランス船「サイド号」に乗り換えた。
 メッシーナ(イタリア)→フランスのマルセイユに上陸した。
 
・和暦3月6日(4月11日)
 日付変更線のため3月7日かな?パリへ到着した。
 横浜港を出航して56日間の長旅であった。

 海老名は日記の中で
「パリスに着く。その広大奇麗、盛賑は各国各都の冠たり」
(フランスのパリは広大で、街の綺麗なこと、盛んで賑わっている
 風情は、全世界のどの都市の中でも王様=一番凄い。)

横山常守と海老名季昌はパリでは先に渡欧していた会津藩の従兄弟
:山川浩、田中茂手記と再会した。
横山常守と海老名季昌は欧米諸国の視察を命じられていた。
横山・海老名の2人は徳川昭武一行と分かれ、見聞を広めるために、
ヨーロッパ諸国への巡歴の旅へと出かけた。
スイス、イタリア、バビール国(ギリシャ)、エジプト、オーストリア、
ロシア、プロシア(ドイツ)、オランダ、ヘルジム(ベルギー)、イギ
リスを訪ねた。
横山常守と海老名季昌&山川浩、田中茂手記は旅の中で、発達した
西洋文明を目の当たりにし、国際感覚を身につけていた。


11月3日のパリ万博が終了した。
11月3日(11月28日) 帰国の途についた。
12月、2人は西洋知識という土産を持ち帰り、横浜港に帰国した。

しかし、日本では大政奉還が行われるなど会津藩を取り巻く情況は
切迫していた。




【2】幕府全体の動き*********************
・慶応元年(1865) 幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明した。
 
・慶応2年(1866)
 出展の選定は、オーストリアの公使館員:シーボルト(H. Siebold)は
「東洋のエキゾチシズムをアピールするには、人目を引く大きなものが
 よい。」と勧めた。
 ドイツ人のお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)は
 「日本では近代工業が未発達であるため、西洋の模倣でしかない機械
 製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよい。」
 と判断し、日本全国から優れた工芸品を買い上げた。
勘定奉行:小栗上野介に資金を依頼した。

 若年寄格・駐仏公使:向山一履(かずふみ)はパリ万博後の
 徳川昭武・箕作麟祥などのフランス留学をさせる計画であった。
フランス政府は留学生の指導と教育をメルメ・カションに担当させる
 予定であったが、向山一履は大反対した。カションは「日本は一種の
 連邦国家であり、幕府は全権を有していない」という論説をパリの
 新聞に寄稿した。アーネスト・サトウやシャルル・ド・モンブラン
 ら薩摩寄りの人物と同一の主張であった。フランス政府も無視できず、
 結果として小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が取り
 消されてしまった。

11月28日 15代将軍徳川慶喜の弟:徳川昭武14歳に将軍の名代
 としてフランス派遣の内命が下った。
結果、慕府が187箱(原価4万7190両余)、佐賀藩が506箱、
薩摩藩が506箱、清水卯三郎が157箱(2万両)、計1356箱
がパリへ送られることになった。

江戸幕府の使節団は総勢33名。
①徳川慶福の弟:昭武を団長として、・・・・
②若年寄格・駐仏公使:向山一履(かずふみ)
小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が取り
 消されてしまった。後任の海軍奉行職を栗本鯤(鋤雲)に事務を引き
 継ぎ、パリを出立した。
③渋沢栄一(水戸藩士のお目付け役)
  水戸藩:含7人・・・
④蕃書調所(後の東大箕作阮甫の孫 :箕作貞一郎(隣祥):留学者
 旧幕府軍の従軍医師として、
⑤幕臣:榎本武揚:
⑥幕臣:大鳥圭介
⑦医師:高松凌雲…一橋家の専属医師を経て、幕府奥医師
⑧幕臣:山内六三郎(堤雲)医師・松本良順の甥
⑨幕臣:小柳津要人(おやいづ かなめ):大鳥圭介の縄武館
  ・中浜万次郎に師事・・・後丸善3代目社長
⑩幕臣:幕臣:田中芳男…昆虫標本・動植物学者
万博に昆虫標本の出品を決定することとなった。
田中芳男は幕府からパリ万国博覧会への出張と昆虫
 標本採集と製作を命じられた。博物学者の子阿部為任と関東一円で
 採集を行った。
 ・・・・(上野動物園設立貢献)
 (田中芳男・平山成信編 『澳国博覧会参同記要』森山春雍 1897)
⑪幕臣:平山成信…神道家の平山省斎養嗣子「日本博物館協会」
⑫幕臣:塩島浅吉
⑬商人:清水卯三郎…外国人相手に商売を始めたが、オランダ語が
  役立たなかったため、急遽英語を学習した。横浜のアメリカ領事
  館の書記官に日本語を教える代わりに英語を教えてもらった。
  イギリス言葉(英語)を立石得十郎・立石斧次郎らから英語を教
  わっていた。
 ★立石斧次郎(アメリカではトミーと呼ばれていた。)は小栗上野介
 らがボーハタン号で日米修好通商条約の通訳として参加していた。
  万延元年に「ゑんぎりしことば」(イングリッシュ言葉)という商
  人用の英会話辞典を出版していた。
  清水卯三郎は勘定奉行:小栗上野介に願い文を提出し、幕府から
  2万両を借り受けた。そして、刀剣、火縄銃、弓矢、陣羽織など
  の武器・武具から、酒、醤油、茶など飲料・調味料、化粧道具、
  鏡、人形、屏風、提灯などの工芸・生活道具まで、幅広く買い集め、
  慶応2年12月、157箱の積み荷を横浜から幕府がチャーターした
  船便でパリに送った。
   (今井 博昭「清水卯三郎」…アマゾンで840円だった。)
  清水卯三郎は箕作麟祥の大叔父:箕作秋坪の勧めにより、パリ万国
  博覧会に日本人商人として唯一の参加・出品を行こととなった。
  徳川昭武を団長とする幕府の万博参加使節団(渋沢栄一も随行)と
  共に渡欧することになった。
  清水卯三郎は柳橋の芸者も3人を引き連れて海を渡りパリ万国博覧
  会を目指した。
  吉田六左衛門等の商人、旅芸人の浜碇定吉一座や松井源水一座も各
  国を巡業しながら万博の開催地へと乗り込んだ。


・慶応3年(1867)1月11日(岸田吟香は1月17日と書いている。)
 フランス郵船アルフェ号で横浜を出発した。
  一行はフランスまで約2ヶ月の船旅だった。
 シンガポールやスエズ運河を経由した。エジプトから機関車を用い
 て日本国から持ち寄られた美術工芸品などと共に一路フランスへと
 向かった。
 マルセーユ経由でパリに向かった。
 渋澤栄一は日記を記録した。
 田中芳男も記録を残していた。 
 
2月27日(陽暦4月1日)パリ万博はすでに始まっていた。
3月6日 徳川昭武たちがパリに辿り着いた。
 幕府はフランスにきて薩摩藩が出展することを聞き大いに驚いた。
 モンブラン伯爵やグラバー率いる薩摩藩と佐賀藩などの者たちが
 ナポレオンⅢ世の許可で出展予定になっていた。
 パリ万博は、日本が国際社会にデビューする重要な舞台であり、
「ヨーロッパで日本を統治する支配者は誰なのかを示す必要があった。
 幕府は幕末の激動の真っただ中・・・。 パリ万博の参加は重要な
 意味を持っていた。しかし、薩摩・琉球国が独自の勲章をつくり
 ナポレオンⅢ世に贈るなどの行動していたために、フランスの新聞
 には「将軍は有力大名の1人であり江戸幕府は諸藩のなかの強大な
 存在でしかない。」と報道した。

 外国奉行:公使の向山一履などが岩下方平に抗議した。
 薩摩藩家老:岩下方平団長とモンブランは幕府と交渉して次のように
 決着をつけた。
 外国奉行:公使の向山一履などが
 ①出展者名から「琉球」の2文字と島津家の家紋の旗章を削ること
 ②「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の名を「松平修理大夫」のみ
  に改めることを求めた。
 薩摩藩代理人のモンブランと薩摩藩家老:岩下方平に外国奉行:公使
 の向山一履などに
 「薩摩太守の政府の名前は譲れない」として談判した。
 結局…幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、
 ともに日の丸を掲げることで妥協となった。

 「幕府(日本大君政府)・薩摩藩(薩摩大守政府)・佐賀藩(肥前大守政府)
  の「3政府」ということになってしまった。
 (★ウィキペディア「シャルル・ド・モンブラン」)
・慶応2年(1866)末には新納久脩の息子:新納竹之助は
  シャルル・ド・モンブランの世話になっていた。


・慶応3年(1867)からは、薩摩藩家老・岩下方平の息子:岩下長十郎も、
  モンブランの世話でフランスで留学生活を送っていた。
モンブランはナポレオンⅢ世の承認を受け、異例の日本総領事とな
 った。

・慶応3年(1867) 4月1日~11月3日のパリ万博に参加した。
(和暦では、2月27日~10月8日)
 結局、「日本」は、幕府と薩摩藩・佐賀藩と商人:清水卯三郎
 の集合体だった。

 パリ万国博覧会の会場はセーヌ川と陸軍士官学校にはさまれた
シャン・ド・マルスに建設された。
イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、デンマークなどの欧州諸国
やアメリカ、エジプト、モロッコ、中国、日本・・・と万国がお国自慢
の品々を陳列した。
 各国の国王や皇帝・政府首脳も集まってパリは万博にわいた。


●日本館…
1)幕府のブース…葛飾北斎らの浮世絵、精緻な工芸品等
幕府は、 「ヨーロッパで日本を統治する支配者は誰なのかを示さねば
  ならない。また、新しい日本を全世界にアピールしなければな
 らない。」
 1,300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居、奥に神殿、
 神楽堂や反り橋を配置した。
 産業館にも浮世絵や工芸品を展示し、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の
 模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2m
 の大太鼓、直径4mの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いた。

 来省者が神社と日本庭園は大いに評判となり、展示物も飛ぶように
 売れ、うちわは1週間に数千本を売りつくした。
 皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場し、建設中の
 反り橋の渡り初めを行った。
 皇帝一行はカンナの削りくずに興味を持ち、女官に丁寧に折りたたん
 で持ってかえらせたと言われている。
「日本デー」では、映画の上映会やお茶の会、晩餐会が開催された。
来客には、扇子、団扇、手ぬぐいなどの景品が配られた。
現地の新聞や雑誌が一斉にこのイベントについてのレポートを
 掲載した。お客は「日本館」に詰め掛けるようになり、大盛況に
 なった。日本の文化はヨーロッパでも高い人気があった。 
  日本館の他に日本農家も建てられた。

展示ブース
 ●幕府は武器・図画・漆器・書籍など約1014点。
・和紙…
・書籍…
・錦絵…
・絹織物…
・象牙細工・金細工・銀細工…
・青銅器…「鏡」
・磁器…買い物後、包んであった浮世絵、クッション役の浮世絵が
    大人気を呼んだ。
    もちろん、美濃焼など陶磁器もである。
・漆器…
・武具… 日本刀、脇差、火縄銃、弓矢、陣羽織など
   買い物後、包んであった浮世絵、
・昆虫標本
  田中芳男はパリ万国博覧会で昆虫標本を展示した。
  昆虫標本が現地の研究者に高く評価された。



2) 薩摩藩…薩摩藩は琉球・薩摩特産物を出品、
 ●薩摩藩は、上布や砂糖といった琉球産品や薩摩焼など480箱。
  薩摩焼などの販売した。
 沈寿官窯の六フィート(約180cm)の大花瓶一対を含む幾多の
  作品群を発表し、絶賛を浴びた。
 ★私も沈寿官窯に行った。
箕輪初心■鹿児島:薩摩焼の歴史&第14代:沈寿官先生
https://53922401.at.webry.info/201109/article_18.html

韓国ドラマ-火の女神ジョンイ-あらすじ全話一覧-最終回まで
http://www.韓国ドラマあらすじおすすめ.jp/article/416918380.html

 

3)佐賀藩…有田焼・伊万里焼の陶磁器や白蝋、和紙、茶などの販売した。
●佐賀藩は伊万里の陶磁器を中心として506箱

  佐賀藩がヨーロッパ人の好みを知っていた。
佐野常民などは欧米の進んだ技術や制度の吸収に努めた。
 佐野は、明治政府の「博覧会男」として、ウィーン万博(1873年)
 参加することになる博覧会・博物館行政をリードした。
 また、パリ万博で「赤十字」を視察し、西南戦争(1877年)の際に
 「博愛社」(後の日本赤十字社)を創設した。


箕輪初心★佐賀:有田焼『九州伝統文化館』&『鍋島藩御用窯』
http://53922401.at.webry.info/201112/article_14.html

箕輪初心★佐賀『有田焼の巨匠』=柿右衛門・萬二・今右衞門
http://53922401.at.webry.info/201112/article_13.html

箕輪初心●北九州4県の旅「城&焼き物&グルメ」
http://53922401.at.webry.info/201110/article_13.html

箕輪初心:生方▲真田丸104【第30回「黄昏」】秀吉のボ
&韓国D「火の女神ジョンイ」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_5.html

箕輪初心:生方▲「全46話火の女神ジョンイ」のあらすじ1~15&
「ちょっと自分の陶芸作品」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_36.html

極東から運ばれてきた日本製品はパリっ子たちの興味をひいた。
神秘の東洋の国「ジャポン」の不思議な文化を目のあたりにした人々
 は驚きの声をあげて絶賛した。
重厚な漆器、金箔を施した陶磁器、高貴な絹織物、包み紙の緻密な浮
 世絵、描かれた花鳥風月の錦絵など流麗な線などに作家や画家、工芸
 家、音楽家たちは新鮮な衝撃をうけた。

4)清水卯三郎のブース「日本庭園の茶店」
 ・武具… 日本刀、脇差、火縄銃、弓矢、陣羽織など
  買い物後、包んであった浮世絵
 ・酒、醤油、茶など飲料・調味料
 ・化粧道具、鏡、人形、屏風、提灯などの工芸・生活道具
 (★清水卯三郎が送った品物157箱など)

パリ万国博覧会のメインパビリオンである楕円形の建物の周りには、
庭園が配されていた。各国が独自のパビリオンや売店を出すことが
できた。日本は日本庭園を設置して、商人の清水卯三郎が茶店を出
店した。人気を呼んだのは「茶店」である。
茶店は檜造りの六畳間で、土間とトイレも備えていた。
土間では、緋毛氈をしいた縁台がおかれて、客はそこで休んだ。
 お茶や味醂(みりん)酒を提供した。
 座敷では江戸の柳橋:松葉屋の芸妓柳橋の芸者:かね(賀袮)・
 すみ(須美)・さと(佐登)の3人がショーを演じた。
煙管で煙草を吸ったり茶を立てたりして日本の日常生活を演じてみ
 せていた。
 桃割れの髪、友禅縮緬の振袖、丸帯姿で手毬をついたり、客に酒の
 お酌をしたり、お茶のサービスをしたりしたのである。
 3人の芸者に給仕や芸をさせ、ひときわ人気を集めた。
 絹の和服姿の日本人女性がお茶を出したので余計に人気がでたのだ。 
 客商売姉さん達は物怖じもしなかった。
 3人はキセルをもってタバコを飲んだ。独楽も回した。
★5節句の御祝儀には煙草盆が出された。武士の嗜みであった。
 3人の芸者が優雅な姿で来場者を魅了した。
現代のイベントコンパニオンといったところである。・・・・
 新聞報道され、さらに大評判となった。
 来場者は艶やかな着物に見とれた。
 …絹の輸入はあっても、日本の絹織物の模様に感動した人もいた。
結果…茶菓の接待をした3人の柳橋の芸妓のあでやかな着物姿としとや
かな風情、屏風、ちょうちん、陣羽織など、日本の出品物がかもしだす
東洋情緒がパリっ子に「ジャポニズム・ブーム」をもたらすことになった。

まわりには、植木や風俗人形をかざった日本庭園がつくられていた。

清水卯三郎はナポレオンⅢ世から銀メダルを授与された。

5)軽業・芝居会場
 万博の会場外でも、各国から集まってくる見物客を当て込んで様々な
国の芸人たちがパフォーマンスを見せていた。
日本の芸人達:吉田六左衛門等の商人、旅芸人の浜碇定吉一座や松井源水
 一座も各国を巡業しながらパリ万博の開催地へと乗り込んだ。
 柳川蝶十郎という「浮かれ蝶」を演ずる手妻師もその一人だった。
 
会場では、好評を得た。  

・7月1日に、万博の褒賞授与式が挙行された。

褒賞授与式では、ナポレオン3世の演説が行われた。
日本の出品物の評判は、とても良かった。
出品物の養蚕、漆器、工芸品、和紙はグラン・プリに輝いた。
鑑定員の品評では、
・イギリス・アメリカ・プロイセン・日本が最高の賞が授与された。

・10月8日(陽暦11月3日)パリ万博が終わった。
渋沢篤太夫(栄一)は、水戸藩目付で、武士で計算に強い男として
 使節団に加わいた。
 揚子江、上海、香港、サイゴン、・・・スエズ等へ立ち寄った記録、
 パリ万博の見聞、欧州の政治、財政、美術、工芸、軍事、
風俗習慣まで、詳細に記録していた。
「磁器や漆器をはじめとする日本の工芸品や日本女性が茶を振る舞
う数寄屋造りの茶屋が大変な人気を博したことを「歐羅巴(ヨーロ
ッパ)人好事家を幻惑すべき諸玩物である」と記している。
ヨーロッパで株で儲け、帰国後は儲けた金を駿府の徳川慶福に渡した。

箕輪初心:生方▲埼玉『渋沢栄一:記念館&中の家』
https://53922401.at.webry.info/201509/article_3.html

箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」
http://53922401.at.webry.info/201409/article_14.html
★政府の役人として富岡製糸場を造ることを推進した。

箕輪初心:生方▲深谷3偉人③『渋沢栄一の住んだ誠之堂&
佐々木勇之助の青風亭』
https://53922401.at.webry.info/201509/article_4.html

箕輪初心:生方▲2018小栗上野介忠順(ただまさ)の生涯
:後編「帰国後の活躍」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_16.html
https://s.webry.info/sp/ubu3blog.at.webry.info/201811/article_16.html
★薩摩・長州・幕府の留学生のことを掲載。


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横山常守と海老名季昌・山川浩、田中茂手記・・・。
 西洋の新知識を習得した4人には知識を発揮する大きな活躍の場が
 やってこなかった。
 幕末騒乱の渦に巻き込まれていった。
 彼らを待ち受けていたのは、戦いの場であった。
・慶応4年(1868)1月3日、幕府軍と薩摩・長州藩の連合軍との間で
 「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した。
  会津藩は幕府軍として戊辰戦争に参戦した。

1)横山は京都の藩主・松平容保に付き従い、江戸から会津へと戻った。
 

2)海老名は、鳥羽伏見の戦いで会津兵を指揮して戦った。右足に砲弾を
 受けて負傷し、大坂から江戸へと送られ、さらに会津に戻った。
 
3)田中も鳥羽伏見の戦いで参陣した。大坂から船で江戸に戻って、
  新潟に向かった

4)山川浩 
 鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと戻った。
 若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。


慶応4年/明治元年(1868)会津戦争
◆白河口 ****************
白河藩は幕府直轄領であった。家
 老:西郷頼母の副大将として若年寄:21歳は白河口に
 進軍。
・慶応4年(1868)閏4月20日 (6月10日)会津藩は白河城に入城。
総督は会津藩家老:西郷頼母
副総督は若年寄:横山常守

・閏4月25日 (6月15日)薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、
 白河への攻撃を開始した
海老名の父は白河口防衛の会津藩部隊の軍事奉行として討死した。

*****************************
 閏4月29日 小栗道子夫人らが横山主税(常守)邸に到着した。
 会津・・・お腹の大きい小栗道子は横山主税常忠の家族に迎えられ
 て保護された。
●5月1日に横山主税が戦死した。
横山常守は稲荷山に現れた西軍を攻撃しようと山を駆け上がったが、
被弾のため戦死した。
家臣がが遺体を収めようとしたが、弾丸が集中し、首級のみを持ち帰
った。
★海外留学で得た知識を何も生かせぬまま、横山は銃弾の前に斃れた。

●5月1日 小栗道子は宿泊するはずの横山主税の戦死した。

横山邸に首が届けられた。 
小栗道子は会津藩主:松平容保と横山邸で横山の首に面会した。
・小栗護衛副大将の中澤兼五郎は尾瀬戸倉越えで夫人と会った

5月1日(6月20日)白河城を落城した。
 会津藩は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返し
 たが、奪回はならなかった。
※二本松の戦い
・慶応4年(1868)6月24日(18月12日)に棚倉城が落城。
 7月16日(9月2日)三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、西軍は
 北上した。
7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙を
 つき西軍は二本松城を攻撃した。城は落城した。
 二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。
 二本松藩は木村銃太郎率いる20名の少年兵部隊はほとんどが戦死
 した。

3)若松城下への侵攻
西軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。
大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、
板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。
板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。

西軍は二本松から若松へは脇街道:母成峠を衝いた。  

2)8月海老名は負傷していたが会津に帰還後各地を転戦した。
 

8月21日(10月6日)、西軍は母成峠の戦いで会津軍を破り、
 城下町に迫った。
8月23日(110月8日)朝、若松城下に突入した。
 会津藩は虚を衝かれ、大混乱になった。
 白虎隊などの少年隊も投入するが敗れた。

 西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など
一族21人が自刃した。
 城下町の火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部
 が飯盛山で自刃した。

会津藩は会津若松城に篭城して抵抗した。
海老名は会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となった。
この間、会津藩最後の家老に任命され、1カ月にも及ぶ篭城戦を
 藩士達と共に戦い抜くことになる。


新式兵器と豊富な兵站の新政府軍が優勢で、会津側はじりじりと
追い込まれた。

◆山本(新島)八重***********************
武家の子女も煮炊きや救護活動で籠城戦に参加した。
山本八重は新式の七連発スペンサー銃を手に、鉢巻、刀を差して、
前線の一兵士として男の兵隊とともに奮闘した。
三の丸の銃眼からの狙撃は男の兵隊より上手かった。

西軍は1日2000発の砲弾が撃ち込んだ。
会津若松城がボロボロになってきた。
山本八重は松平容保に「砲弾内部の鉄片が危害を加える。」と
分解して見せた。
山本八重は防衛態勢を進言したり、夜な夜な城を抜け出し奇襲をかけたり
した。
薩摩の砲兵隊長:大山巌は北出丸で劣勢に陥った土佐藩兵を救援すべ
く、大山巌が指揮をとった。城内から狙撃を右太腿を受けた。戦線離脱
して後方に移送された。
山本八重が撃ったと言われている。
(後、大山巌は横山主税の従妹:山川捨松を妻とした。日露戦争で貢献した。)
*******************************

佐川官兵衛、元新撰組:山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続け
た。
9月、米沢藩をはじめとする同盟諸藩は相次いで降伏した。

・明治元年9月22日(11月6日)西軍に降伏した。
 会津での残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地
 (北海道)へ向かった。

会津藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直
 し一揆)が起きた。

戦後処理
薩摩藩の軍監:桐野利秋や長州藩の参謀:前原一誠の計らいで、
松平容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸
(東京)に護送されることになった。
家老上席にあった西郷頼母は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘
において自刃していたため、次席:萱野長修が、戦争責任を一身に負
って切腹した。
松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、会津藩の重税
に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど
現れなかった。

2)海老名は、家老として戦争の責任を負わされ、東京に送還されて
 幽閉されることになった。
 海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署して
 いる。
 後、若松町長に就任し、戦後の会津の復興に力を注いだ。
 
3)田中茂手記は
 帰国して江戸から船での帰途、新潟港で家老梶原平馬に会い、梶原
 平馬を助けて新潟港を管理した。故郷会津に帰らないうちに西軍の
 新潟来襲で戦死した。

4)山川浩
日光口の戦いでは、土佐藩の谷干城が率いる部隊と戦ったは敗北
 した。会津西街道の藤原まで撤退したが、追撃してくる西軍を
 敗走させた。西軍は中村半次郎が日光口に来て、会津に向かった。
 会津戦争では、包囲された会津若松城に入城できなかったため、
 会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城した。
 籠城中は防衛総督として戦った、
 落城して妻・トセも爆死した。
 戦後は禁固謹慎に処せられた。
 明治3年(1870) 斗南藩権大参事に就いた。
高等師範学校(筑波大学の前身)校長。 最終階級は陸軍少将・・・
画像



【1】平成30年(2018) 11月21日
06:30高崎


10:30 ~11:50 会津若松城4回目…★★★★面白い。

新島八重は、現在明らかになっている限りでは、群馬県安中市を
1882年、1888年、1910年、1921年と4回訪れている。
・明治15年(1882) 新島八重は安中を訪れた。
新島八重1回目
新島襄39歳
5月
7月 新島八重と伊勢峰(山本覚馬の長女)は先に船に乗り横浜経由
 で安中に向かった。
 安中に行って、有田屋=湯浅治郎宅に宿泊?
(有田屋=湯浅治郎宅の集合写真)
伊勢峰=山本覚馬の長女・・・横井(伊勢)時雄の妻
 
 新島襄は徳富蘇峰も横井時雄達を伴って、中仙道
  をやってきた。
  「中仙道紀行」
※新島襄と徳富蘇峰たちは、蕎麦の大食い大会を
  した話も残っている。

7月19日 便覧社前で有田屋=湯浅治郎宅前で
 新島八重・湯浅治郎の出迎えを受けた。
 新島襄&新島八重は有田屋に7日間泊まった。
 ・30人が洗礼。
  柏木義円らを排出。
 (★有田屋のミニ博物館資料館より)

安中で合流した後、2人そろって福島県会津若松市へ向かった。
会津で鶴ヶ城を見学、戊辰戦争の生存者に話を聞いて深い悲しみ親しみ
を覚えた。東北伝道の情熱を持った。
新島襄は手紙の中で「スパルタン人種ニ近き人間之ある福島県下」と
記した。
・明治21年(1888) 夫妻で伊香保温泉に滞在した後、八重は1人で安中
  を訪れた。
(★山下智子「第8回 八重の故郷と襄の父祖の地」「同志社大学D」

・明治21年(1888) 新島八重2回目
  

・明治22年(1889)46歳 (★明治21年の間違いでした。)
 前橋や安中を訪ねて伊香保温泉にいた。

●新島八重2回目の群馬訪問。
 新島襄は伊香保温泉「千明仁泉亭」で療養生活をしていた。
 ★私は2回宿泊・・★風呂は深かった。
   写真が消滅したのでない。

8月16日山本八重=新島八重が伊香保療養中の新島襄を尋ね
  看病した。約1ヶ月いた。
 (★安中有田屋さん:湯浅治郎の子孫の方よりの説明)
  (★湯浅家資料)
 千明仁泉亭には書簡等が残されている。
9月16日新島八重は安中に行った。湯浅邸泊
(★明治21年の間違いでした。)

・明治23年(1890) 47歳
1月
  「いしがねも 透れかしとて ひと筋に
    射る矢にこむる 大丈夫(ますらお)の意地」
 
 八重夫人・徳富蘇峰・小崎弘道らに見守られて・・・
「真誠の自由を愛し、邦につくすような人物の養成・・
 「教職員は生徒を大事に取り扱うこと」
など10項目を遺言した。
 
 1月23日 神奈川県大磯で死亡。

棺は京都駅から同志社大学・・銀閣寺前・・南禅寺横
 ・・・若王寺山へ  墓
新島襄・新島八重・山本覚馬もここに眠っている。
★4年前に墓参りに行ってきた。礼拝~~合掌&「アーメン」

・明治43年(1912) 新島八重3回目
   新島襄先生永眠20年祈念会 ・新島襄没後20回忌
  新島八重も安中に来た。
( 新島襄の教え子:安中教会牧師の柏木義円『上毛教界月報』)

・大正10年(1921) 新島八重4回目、
 数え年77歳の時、新島八重は会津・山形からの帰りに安中に
 立ち寄った。
会津若松教会牧師:兼子重光は会津出身で、新島襄の教え子であった。
 同志社では会津藩主:松平容保の嫡男:容大の後見人を務めた。
米沢は会津若松城が落城・開城後、行った場所である。

8月・・・・・・新島八重が安中の湯浅家に宿泊した。
8月19日・・・新島八重は安中教会へいった。
8月28日・・・安中教会の礼拝に参加した。
8月29日・・・新島八重は旧新島襄宅へ行った。


◆◆箕輪初心★新島襄:安中&新島八重:会津若松 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_26.html

◆◆ 箕輪初心◆会津:新島八重を巡る旅 ◆◆
  山本覚馬・新島八重の実家跡&山本家の墓を掲載
http://53922401.at.webry.info/201304/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★京都の新島襄宅&八重さんの墓 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_13.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄1』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄2』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.htm

◆◆ 箕輪初心★新島八重周辺「湯浅治郎&八重さんの醤油」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_8.html

◆◆ 箕輪初心★住谷天来 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_20.html

箕輪初心★『新島襄&新島八重の上州』企画展in群馬
https://53922401.at.webry.info/201305/article_22.html


◆◆ 箕輪初心★『新島襄1』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄2』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.htm

◆◆箕輪初心★新島襄:安中&新島八重:会津若松 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_26.html

◆◆ 箕輪初心◆会津:新島八重を巡る旅 ◆◆
  山本覚馬・新島八重の実家跡&山本家の墓を掲載
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◆◆ 箕輪初心★京都の新島襄宅&八重さんの墓 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_13.html

◆◆ 箕輪初心★新島八重周辺「湯浅治郎&八重さんの醤油」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_8.html

◆◆ 箕輪初心★住谷天来 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_20.html

◆◆ 箕輪初心★住谷悦治 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★柏木義円 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_22.html

◆◆ 箕輪初心★内村鑑三 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_23.html

箕輪初心★『新島襄&新島八重の上州』企画展in群馬
https://53922401.at.webry.info/201305/article_22.html

箕輪初心★新島八重の周辺②『新島襄&徳富蘇峰』
https://53922401.at.webry.info/201302/article_7.html

◆◆ 箕輪初心★『伊香保を愛した徳富蘆花』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_6.html

箕輪初心★爽やかな秘話『新島八重子回想録』の紹介
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201302/article_10.html

箕輪初心★群馬【新島襄】=2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」夫
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

箕輪初心★『日新館&保科正之&新島八重のパネル展』
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201304/article_25.html

★平成30年(2018)11月21日、会津若松城に行った。
 山本八重(新島八重)にちょっと感じてきた。

箕輪初心:生方▲津和野【西周(あまね)&山本覚馬→新島譲】
&【森鴎外&羽鳥千尋】
https://53922401.at.webry.info/201512/article_12.html

箕輪初心:生方▲伊香保№55≪内村鑑三M16(1883)?≫ 「榛名湖水質
調査報告書」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_39.html

箕輪初心★★小栗上野介⑦「小栗道子夫人の会津への逃避行」
https://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

箕輪初心★★小栗上野介⑧「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」
https://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html




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