箕輪初心:生方▲伊香保№23『江戸時代の旅と飯盛女』&『伊香保に町人来訪』

日本人は昔から温泉が好きである。温泉は火山活動が活発な場所に
湧くので温泉地が発達した。温泉に入るのは、病気平癒・薬事効果が
あることは知られていた。
 戦国時代には万里集九によって「有馬温泉・下呂温泉・草津温泉」
が3大温泉として紹介された。武士の療養場所・怪我の平癒として、
温泉が利用された。
江戸時代、もともと旅は禁止されていた!
武士や庶民の区別なく人々の自由な移動は制限されていた。
庶民が旅をすることは各藩の法律によって禁止されていた。
当然、農民も、・・・
しかし、江戸時代の法律の抜け道があった。
①湯治は病や怪我を癒すための治療行為として認められていた。
江戸時代、武士も温泉に行くことが多かった。東海道沿いでは熱海
温泉や箱根温泉も有名であった。関西では有馬温泉が有名であった。

②神社仏閣を巡るといった信仰目的の旅ならば、行くことができた 。
代表的なものとして、例えば、
伊勢にある伊勢神宮への集団参詣“おかげまいり”である
天狗の面を背負って香川県の金刀比羅宮を参拝する“金比羅参り”
などである。
①湯治、②神社仏閣廻り名目で届けを出せば、奉行所・役所は認め
ざるを得なかった。
 従って、通行手形(木札)を発行した。

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・江戸時代初期
 江戸時代の主要道路であった五街道が整備された。五街道は将軍を
中心とした国家支配を強化する目的で整備されたものである。
 東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で最も重要な
街道であった。
中仙道も整備された。
 井伊直政は箕輪城主時代から高崎城主時代の、中仙道を整備をした。
井伊直政の支配地には倉賀野宿・高崎宿(旧中仙道は新中山道より2本
東の道を通らせせた。)~烏川の舟橋を渡り、豊岡分岐~板鼻宿~安中宿
~松井田宿~碓氷の関所(現在地は井伊直勝の安中藩時代)等の宿と街道
を併せて管理した。一里塚・杉並木(目的は反乱者が来た時に馬・大砲の
進路を妨げるため)なども整備した。
 豊岡の分岐~榛名~倉渕も支配下であった。
板鼻~板東十五番:白岩観音~箕輪~坂東十六番札所:水澤寺~伊香保
温泉も井伊直政の支配地であった。
 また、井伊直政は三国街道の整備も任された。高崎宿~金子宿(後天領
神保家が代官)~吉岡分岐~小倉~渋川~
吉岡の分岐~野田宿~水沢観音~伊香保~榛名まで支配地であった。

慶長19年(1614)、「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、
上野山寛永寺の支配下におかれた。その後、榛名神社信仰は「榛名
講」として広がった。
板東十五番:白岩観音・坂東十六番札所:水澤寺、榛名神社詣(含
『榛名講』)、観光名所:榛名湖などと合わせ、伊香保に来る巡礼者、
旅人、湯治客は増加した。又、倉賀野宿(旅籠:飯盛女は異常に多い)
・高崎宿(旅籠は少ない)~板鼻宿(飯盛り女は多かった。)は江戸から
の善光寺参りの中継地点であり、余裕があれば、梅毒やライ病の草津温
泉、伊香保温泉によることも増えていった。

寛永16年(1639)に引湯権に関する温泉構造の規定が定められた頃
には、温泉の引き湯口を持つのは14氏になっていた。
1)大屋12軒と干支
「子」小暮武太夫  「丑」小暮八左衛門 「寅」小暮金太夫 
「卯」島田平左衛門 「辰」岸権三衛門  「巳」岸六左衛門 
「午」永井喜左衛門 「未」大島勘左衛門 「申」岸又左衛門 
「酉」千明三右衛門 「戌」後閑弥右衛門 「亥」島田治左衛門

2)干支が与えられなかった大家2軒
「乾」福田金左衛門 「坤」島田権右衛門


・永亨3年(1746) 大屋に十二支が名付けられた。

・寛政・元禄時代 伊香保にお客が著しく増えた。

・元禄年間(1688 ~1704)「元禄文化」が花開いた。農村での商品
作物生産の発展と都市町人の台頭による産業の発展・経済活動の活
発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた。経済力を背
景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にす
ぐれた作品を数多くうみだされた。庶民の生活・心情・思想などが
出版物や劇場を通じて表現された。担い手は上層町人武士階級出身
の者も多かった。
 また。次第に東国にも文化が広まった。元禄時代の『紀行文』と
いえば、『奥の細道』を思い出す。松尾芭蕉の紀行文・俳諧「奥の細道」
と山代温泉で「山中や 菊はたをらぬ 湯の匂」と詠んだ。
 
 近世後期:18C後半から19C中頃にかけて「化政文化」が隆盛した。
化政文化は江戸の中小商工業者が中心だった。化政文化の特色は江戸
を中心にした町人文化で、洒落や通を好む退廃的・刹那的・享楽的な
時代風潮は、洒落本・黄表紙・人情本などの文学を流行させた。物事
を科学的・実証的にとらえようとする批判精神は、儒学・国学・洋学
などの学問・思想を発達させた。


旅ブームのきっかけ****************
・文化文政の頃には、武士や庶民の旅が盛んになった。
庶民の間でも旅行ブームが起こった。

旅ブームのの前提は庶民は字が読めるようになったことが人気に拍車を
かけている。武士階級の識字率は100%であった。
しかし、庶民も『寺子屋』通って、、「読み書きそろばん」を習った。
江戸時代後期の江戸での就学率は70%~86%程度だったといわれて
いる。識字率は江戸のような都市部の方が高かった。
識字率は世界でもっとも高かった。
 本を読める町人が著しく増加した。それに伴い、出版や教育の普及は、
さらに庶民層に文化を浸透させた。町人も温泉療養にでかけることが多く
なった。

例えば、以下も本や絵が旅ブームの直接の要因の一部になった。

①享和2年(1782)十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』が発刊
放蕩のあげく神田に逼迫していた遊び人:弥治郎兵衛と、食客
:喜多八の江戸っ子2人組が、借金取りから逃げるため、東海道を
 辿る旅に出る。道中で繰り広げられる滑稽と醜態の失敗談が、駄
 洒落、狂歌、各地の風俗、奇聞をまじえながら語られる。
 江戸時代の最大のベストセラーとなった。
弥次喜多道中にも窺えるように、江戸時代は一般庶民もかなり
 安全に旅行ができるようになっていた。

③文化7年(1810)≪八隅芦庵:≫『旅行用心集』
 江戸時代は温泉地は 292 ヶ所であった。
  (現在は 3,170 ヶ所:総務省調べ)
 江戸時代の旅の心得61ヶ条
 旅支度は
 「道中所持すべき物、懐中物の外、成丈事少にすへし、品数多きれば、
  失念物等有之、却而、煩はしきものなり」
 旅に用心はつきもの、道中の心得などを事細かに記した用心集である。

伊香保は
「上野伊加保 高崎より6里、湯宿12軒壺湯3か所洗い場1か所
づつあり。」
「右伊加保、草津の両所各名湯にして優劣あるべからず、然れども
 伊香保の効草津に増るものあり、草津の効伊香保に増るものあり、
故に同国にしていずれも行わるる事猶箱根と熱海の如し。」

③文化14年(1817) 『諸国温泉功能鑑(こうのうかがみ)』
  (下半分:草津温泉)


④文政3年(1820) 「諸国行程大日本道中指南車」が発刊された
 旅先に所持品
「・衣類、股引、脚絆、足袋、手甲、下帯(ふんどし)、矢立、手拭、
 糸と針、扇子、常備薬、鼻紙、道中記、財布、巾着、指刀、提灯、
 蝋燭、合羽、火打石、笠、麻綱(洗濯物を干す)などを紹介している。

⑤天保4年(1833)~天保5年(1834)歌川広重『東海道五十三次』保永堂版
  天保3年(1832) 歌川広重が東海道を初めて旅した。
 翌年、風光明媚な風景が描かれた浮世絵の名作『東海道五十三次』
 が発刊された。

⑥天保6年(1835)~天保8年 (1837)頃、『木曽海道六十九次』
 浮世絵師・渓斎英泉および歌川広重により描かれた
 浮世絵木版画の連作
 図版の表記は「街道」ではなく「海道」として記載された。
 出発地点の日本橋+江戸・日本橋と京・三条大橋を結ぶ中山道の
 69カ所の宿場、合計70枚で構成されている。
 当初の連作を刊行したのは保永堂版(竹内孫八)途中からは錦樹堂
 (伊勢屋利兵衛)が携わった。

 旅行のガイドブックにあたるものとしては、「道中記」や「細見記」
がある。形式や内容は、時代、編者によっても異なる。
宿場間の距離や旅籠賃、人足賃、馬賃、名所や茶店、土産物などが記
されているものもある。
 また、道中記と並んで紀行文や各地の名所図会も出版された。

 江戸時代後期、文化文政時代以降、武家だけではなく、庶民はさかんに
旅に出た。
 人々は、やれ湯治だ、やれ参詣だと理由をつけては物見遊山の旅へ
と出かけたのだ。

金持ちの商人の妻や娘たちは神社仏閣廻り、温泉、買い物三昧という
のも納得できる。
町人:商人も職人も例外なしに旅を楽しんだ。
(★西沢淳男先生「町人は○○町(ちょう)に住んだ。
        「武士は□□町(まち)に住んだ。」
路銀はどうやって工面したのか?
「江戸の町人は旅に出るとき、家の家財を質に入れた。
 空き巣、泥棒さんに盗まれないように、・・・」
 (★大和田守編『江戸の旅』)

 榛名神社も信仰を集め、榛名講・榛名詣の帰りに案内人「御師」の
 案内で湯治をかねて多くの人が訪れるようになった。
 榛名・伊香保温泉は観光名所となっていった。

 伊香保の湯治は大ブームとなって各藩の武士、町人や農民などが
 伊香保を訪れるようになった。
 「子宝の湯」「婦人の湯」とも呼ばれ、女性客も増えた。
 往来する者が増えたので、口留番所(関所)が設けられた。
多数の来客の中で氏素性のわからぬ人がたくさん集まること
 から幕府は関所を設けた。天領ということで岩鼻代官所が管理した。
女性は取り調べは苦痛であっただろう。遊興保養地として栄えた。

 伊香保温泉は遊興保養地として隆盛した。
 ※当然、売春宿も多かった。
 
旧群馬町の国府小西の寺には、梅毒になった女郎が平癒のため
 石造りの男根(本当は緑泥片岩の薬研用の棒)=珍棒
 に願いを込めた。「治りますように・・・」


農民には各藩のさまざまな法令できつい縛りがあった。
なぜ旅が可能になったのだろうか?
 (★田植えの後、稲刈り、籾すりのあと、親戚や共同作業の
  後の温泉旅行は許されていたようである。私の村も伊香保温泉
  に食べ物を持って行く(自炊)習慣があったようである。) 

高崎経済大学の千葉貢先生は「農村では農閑期に湯治温泉に行くこと
もあった。稲作には共同作業で行なわれることも多かった。田植えと
田植え歌での共同作業、稲刈りの共同作業の後は祭りや冬への備え作
業が終わったら、近くに温泉があれば、温泉に行く地域もあった。
岩手県一関市花泉町では田植えと共同作業後、『早苗振り(さなぶ
り)』と呼ばれる輪番制の慰労会を行い、お年寄りたちは鳴子温泉郷
の東の玄関口にある川渡(かわたび)温泉に、米や野菜類を持って、
『湯治』にでかけた。私も10歳頃、祖父に付いていった。私は1泊
だったが、お年寄りたちは1週間から10日間、自炊生活をする。
また、他の食べ物は売りに来る人がいて、不足分は補った。稲刈り共
同作業後も慰労会をし、その後、有志で 川渡(かわたび)温泉に湯治
に出かけた。多くは出稼ぎをした。」説明して下さった。
※ちなみに川渡(かわたび)温泉は古くから脚気川渡「かっけかわたび」
の名で親しまれてきた温泉である。
 田植えや稲刈りは親族、「結」や「講」などの集落内の集団の共同
作業で行なわれることが多かった。稲作文化からきた言葉に「泥落と
し」・「鍬洗い」・「鎌洗い」という言葉があるが、農繁期(田植え、
稲刈)後、慰安会や旅として近くの温泉に休養に行くこともあった。
群馬県でも親戚同士・共同作業の田植え後、稲刈り後、慰労を兼ねて
温泉にいくことが場所によってはあった。近くに温泉があれば、温泉
に出かけた。
 
  草津には、小林一茶や十返舎一九・鈴木牧之などの俳人・作家、
堀秀成・藤田東湖・清河八郎などの儒学者・国語学者なども訪れた。
 また、交通の発達は都市と地方を結んだ。寺社参詣が盛んになり、
あるいは個人によって、あるいは講を組織した人びとによって、各地
の文化・情報が相互に交流した。学者・文化人らの間で、全国的な交
流が行われるようになった。 
湯治や物見遊山などの旅行が流行し、伊勢参り・善光寺参り・金比
羅参りなどの寺社参詣や西国三十三カ所・四国八十八カ所・坂東三十
三カ所などの聖地・霊場を巡る巡礼が、盛んに行われた。とくに、伊
勢神宮参詣の爆発的流行がほぼ60年周期(これを「おかげ年」といった)
でおこり、1830年には熱狂化した500万人もの人びとが伊勢神宮へ
と集団参拝に向かった。御蔭(おかげ)参りといった。
 
 例えば、江戸時代の高崎市倉賀野の「浅間山」『名所図会』では、
高崎市倉賀野の浅間山古墳の山頂で、富士山をみる場所として紹介さ
れている。
「榛名講」では、榛名講の案内人が榛名社家町の宿屋に案内し、榛
名講の終了後、伊香保温泉に案内した。また、「草津温泉の梅毒・ラ
イ病治し」のための湯治と知られ、多くの湯治客が来た。坂東三十三
カ所の聖地・霊場では15番「白岩観音」・16番「水沢観音」ある。
そして、上州は江戸からの「善光寺参り」の中間地点となっている。
 
 
 一方で、オランダ・中国以外のロシア・アメリカ・イギリス・フラ
ンスが日本への通商を求めてやってくる時代に入った。蝦夷地探検など
地理的な研究が進んでいった。
 
幕末、横浜に来た外国人が伊香保温泉に来た。




◆参考史料
江戸時代の旅行事情はどうだったのであろうか?
1)八隅芦庵『旅行用心集』現代語訳(八坂書店)★アマゾンで957円
文化7年(1810)八隅芦庵『旅行用心集』
 『旅行用心集』は江戸時代の旅行マニュアルガイドブック本である。

2)大和田守編『江戸の旅』(河出書房新書)
①江戸時代初期、尼さんは体を売って、旅をした。
② 『こんなに面白い江戸の旅』には、
 「江戸っ子は宵越しの金を持てなかった者も多く、家財道具を質に入
  れた。温泉などに行く時などは旅行費用・空き巣から守るため家財
  道具を質に入れ、身軽な格好で湯治に出かけた。」とあった。 
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3)板坂耀子『江戸の紀行文』(中公公論新書2011)
① 松尾芭蕉「奥の細道」・・・こんなのはみたいな?
②「江戸時代における「紀行文」は、各地の「名所」を巡るための
 ガイドブックとしての意味合いを鮮明にしていく。むしろ、「地誌」
 や「名所記」としての情報の正確さの方が求められ、その文面もあ
 っさりとしたものである。そのような「紀行文」こそが、後代の人
 たちにとって欠かせないものであり、物見遊山をするときに「名所
 図会」を携えて、「娯楽」として旅を享受するのである。」とある。

4)石川理夫『温泉の日本史』(中公新書)★アマゾンで買った。
 ★温泉数№3?の群馬・・・なのに
 第3章 鎌倉・室町時代「草津しかでてこない。頼朝伝説など』
第4章 戦国時代「武田信玄の草津入湯禁止令
第5章 江戸時代「伊香保温泉」

5)金森敦子
①『江戸庶民の旅』―旅のかたち・関所と女 (平凡社新書2002)
  ¥ 389円 +送料¥ 350円
②『奧の細道』(平凡社新書) ★正規値段で買った。
③『伊勢詣と江戸の旅』 (文春新書)
『江戸庶民の旅』では
 A、十返舎一九『東海道中膝栗毛』
  1802年に出版された。
 まだ売れない作家だった十返舎一九はこれが大ベストセラーになる
 とは夢にも思っていなかった。
 しかし、ベストセラーになるにはそれなりの背景があった。
 理由…貨幣経済が発達し、商人はもちろんのこと、搾取されっぱなし
 の農民にも多少の蓄えができはじめ、旅行が夢物語ではなくなった。
 ★農民に多少の蓄えなどあろうはずがない。 俗にいう7公3民、
  8公2民とも言われている。特に幕末の高崎藩

 B、「伊勢神宮へのお陰参り
「伊勢にお参りしたら病気が治った。」
「伊勢でお祓いをしてもらったりお札が降ったのが契機で思わぬ幸運
 に恵まれた。」
 など、口こみと伝わり、われもわれもと旅へ出た。
 集団での旅も多く、今でいうツアーを組んでの伊勢参りだった。
 「御師(おし)」といわれる旅行ガイドもいた。
 ★『榛名講』にも「御師(おし)」がいて、雨乞い希望の農村団体や物見
 遊山の町人団体を受け入れた。
 『富士講』にも「御師(おし)」がいて、日蓮宗を広めた。
  
 C、旅の難所
   旅で大変なのが関所であった。
   女性は髪の中まで入念に調べられ、通行手形も簡単には出してもら
   えない。
 ★入鉄砲出女・・・
   女性の取り調べは女性がするが、陰部・又の付近までも調べた。
江戸幕府は全国で53箇所の関所を設けた。
  中でも東海道の箱根関所と新居関所、中山道の碓井の関所と木曽
  福島の関所である。 
  関所が厳重にチェックしたのは入り鉄砲に出女。つまり鉄砲は江戸
 で反乱が起きるのを防ぐため、出女は人質として江戸在住を強制され
  ている大名の奥方が、国許への逃亡を防ぐためである。
  出女の監視は厳しかった。
  「改め婆(人見女)」と呼ばれる女性が、女手形に記された人相、
  体型、髪型と合致しているかを調べた。
  髪をといて密書の有無の検査、更に怪しいと思えば陰部の性チェ
  ックまで行った。
  (★箱根の関所には人形と説明書きがある。)
  若衆姿に変装した娘が、股間を調べられてばれた。

 
 D、行脚僧や巡礼者のへの喜捨
   庶民が喜捨をし、行脚僧や巡礼者「札所廻り」の旅をした。
   ★板東15番:白岩観音、板東16番:水沢観音、善光寺参りなど
    
  ★『月山登山』は山小屋に喜捨をする方々が未だ
  多くいらっしゃる。



6)今野信雄『江戸の旅』(岩波新書)
 街道と宿場、飛脚制度、大名行列、本陣、旅篭、旅の携帯品と費用、
 道中案内書などを紹介している。
 ①旅に必要な路銀は1日にどのくらいかかったか?
  旅篭代が最大の出費で一泊二食付き150文〜200文。
  木賃宿で自炊をするなら50文〜60文。
  1日様々なものを含めて800文(現在の価値で8000円)くらい。
  旅篭とはいっても粗末な宿が多く、ノミ・シラミはウヨウヨいる。
  相部屋だからゴマノハエという窃盗にも狙われる。
  風呂もどろどろの汚いお湯だったようだ。
  
②日程
 朝は七ツ(午前4時)には追いたてられるように出発する。
 1日30~40Kmを歩かなければいけない。

飯盛女の夜伽の値段はいくら?
 客と飯盛女の間で決め、その代金も直接飯盛女に渡されていた。 
 そして安政期の東海道の大きな宿場の揚代は500文~700文
 (9,500~13,300円)、中規模の宿場では300文(5.700円)
 くらいで、他に酒1本と肴1品程度の酒肴代が400文(7,600円)、
 番頭や仲居へのご祝儀が200文(3,800円)くらいだったと記
 されている。 
 東海道中膝栗毛では、飯盛女は200文(3,800円)とある。


*****************************
・江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみ
 で営業が許されていた。旅籠などの宿泊施設ではで遊女を雇い入れる
 行為は法律で禁じられていた。
  しかし、実態は売春婦、夜鷹=安い鳥追い女も多くいた。

・江戸時代前半は旅をするのは男性が殆どであった。
 宿場では、「飯盛女」を使い、名目上では配膳などの仕事をさせる
 事になっていた。
 飯盛女は現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者もさし
  ていた。

 次第に、宿場では「飯盛女」を置く旅籠(飯盛旅籠)が多くなった。
 飯盛旅籠は飯盛女がいない旅籠:平旅籠より繁盛した。
 表向きは食事の給仕が仕事であったが、「枕付飯盛」と言い、
 裏では夜のサービスもする遊女的な女性もいた。
 全てが「売春婦」というわけではなかった。
 
 東海道では品川宿、三島宿・・・・・・
 中山道では板橋宿、倉賀野宿は多かった。
 
   
 幕府は「宿場女郎」「飯盛女」の実態・事実を知っていたが、
 運送業などの公共事業だけでは、宿場が寂れてしまう。
 例えば、倉賀野宿では、間引きをされそこなったやくざが
 人足として働いた。
 幕府は宿場が寂れて、幕府財政に被害が飛び火する可能性
 があったため見て見ぬフリをしていたた。
 従って、飯盛女は「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認され
 ていた。
 
 しかし、夜のサービスをする飯盛女を置く旅籠が著しく増えて
 いった。
 当然、宿場の風紀は乱れていった。

・享保3年(1718) 幕府は法令(触書)を出した。
 ①「 旅籠1件ににつき飯盛女2人まで」と制限を設けた。
 ②「飯盛女」の名は俗称であり、「食売女(めしうりおんな)」と
  表記されている。
 ③条件…食売女には木綿の着物を着て相手させること。
 飯盛旅籠は表に木綿を着た飯盛女を並べていが、裏では従来通り
 夜伽もやっていた。
 この法令は殆ど効果はなかった。

・明和9年(1772) 食売女は千住宿150人、板橋宿150人、品川宿500人、
 内藤新宿に250人の制限をかけている
この法令も殆ど効果はなかった。
 御触れが出されても、守られることはなかった。


享和2年(1782)十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』が発刊
 された。
 「東海道中膝栗毛」では、女好きの弥次さん喜多さんも、宿ごとの
 飯盛女の誘いに金が続かず、何とか断る方法を思案した。

 違法に当たる「留女」という強引な客引きの迷惑行為もあった。
 文字通り客の腕を引っ張って強引に宿に引きずり込む飯盛女
 たちであった。飯盛女の勧誘はかなりのものだった。
 「東海道中膝栗毛」では飯盛女との夜伽料金は、200文
 (約3500円~4000円)あたりであった。
  

 東海道では
例、品川宿…「飯盛女」の取り締まりが実施された時には1300人
    以上が捕らわれたという記録も残っている。
例、三島宿…本陣2、脇本陣3、旅籠74。・・・三島女郎衆が有名
   である。実際は74×2で約150人であるが、もの凄い数
   の三島女郎がいた。天領なので、幕府の財政が潤った。
  ・三島宿の史料では400文(7~8000円)、500文(1万円)と
  700文(約1万2000円)あるので、旅籠によって、
  女の子の可愛さで違いがあった。
  天保時代頃の相場は300文~500文で、飯盛女の手に入る
  のは100文~250文であった。三島じょろ衆はの~え・・・
  ★値段=収入・・・。
 (1両=銀60匁=銭4貫(4000文)=4分「1分・1000文」
 =16朱「1朱・250文」・・・
・享保15年(1731)頃「蕎麦・蕎麦切・・・8文~10文」
・文政13年(1830)頃「「もり」「かけ」・・・16文~20文」
          「天ぷら蕎麦」・・・・28文~32文
          「並酒~上酒1合・・・20文~40文」
 ★寛永通宝4文銭・天保銭の影響で・・・4の倍数である。
   100年で、2倍の物価上昇・・・

 現在、かけ蕎麦1杯300円・天ぷら蕎麦500円として、
 飯盛女の手元に入る給料は1回1500円~3000円程度
 ということになる。



箕輪初心:生方▲静岡【箱根~三島宿】:東海道11番目の宿
https://53922401.at.webry.info/201508/article_4.html
★飯盛り女

箕輪初心:生方▲2015高崎【倉賀野の歴史&倉賀野一族】
https://53922401.at.webry.info/201510/article_1.html

中山道では
例、倉賀野宿は71軒×2人で約150人であるが、飯盛女を3~
 5人はいた。
 
 飯盛女:女郎を置いた家が倉賀野71軒、茶屋9軒があったという。
飯盛り女(女郎・商売女・・・間引きで売られてきた百姓の娘)も
 滅茶苦茶多かった。 
 ★三島宿と倉賀野宿の宿数・女郎衆は同数であろう。

※多胡碑の研究をした山名高台寺の木戸白満の「藤波屋」が有名
 で飯盛女が多かったらしい?吉井・高崎の煙草も扱っていたし?

※倉賀野宿では旅籠71軒に2人ずつの制限内でも単純に計算して
 142人の宿場女郎がいたことになる。しかし、実際には制限を無
 視して、3人~5人も置いていたので、実質2000人以上の飯盛女
 (宿場女郎)がいたことになる。 
 飯盛女(女郎)が1人の客をとると200文~300文であった。
 その金が全部飯盛女の所得になるのでなく、飯盛女の手に入る
 のは50文~100文であった。時代が下ると、100文~200文
 といったところであろうか?

 こんな倉賀野の女郎衆が貯めた給金で、お金を出し合って、洪水
 で流された橋を建て直したという。  
 
 男の子は間引きしない時、倉賀野の運送業の人足となれる。
 女の子は間引きしない時、倉賀野宿等の旅籠の飯盛女となる。
 飯盛り女たちは現代のようにお金儲けや好きで飯盛女になった
 わけでない。百姓の口減らし&家族の生活のため、間引きとし
 て売られてきた百姓の娘であった。
 年貢が厳しすぎるからである。
 ★当然である。高崎藩では、6公4民~7公3民であった。百姓が稼
 げる訳はない。
 百姓の父親から身売りであったので、旅籠屋から前借金という名義
 で身代金を親なり兄姉なりが先に受け取ることになる。飯盛女:女
 郎の年期奉公は3年~10年であったらしい。普通の飯盛女は7両
 ~10両で、上玉の飯盛女は10両以上であった。10両を親が3
 年以内に利息をつけて返せれば、娘を引き取ることができた。しか
 し、年期のあけるのを待つか、大店・金持ちの客に身代金を出して
 もらって、身請けされるかのどちらかのようである。
※倉賀野町にある上野国以外出身の娘の墓を調査した記録がある。
 上野国以外出身26人中、越後出身が19人である。
 12~29歳が多かった。
(★「高崎の散歩道 第二集」「高崎漫歩」)

 ★年期奉公が開ける前に死んでいった悲しい女性達であった。
  倉賀野の飯盛女の墓は九品寺などに多い。

①新町宿…飯盛女の専用の投げ寺があった。

②倉賀野宿…天保年間、旅籠は71軒
     飯盛女は実質2000人以上の飯盛女(宿場女郎)が
     いたことになる。 
飯盛女が洪水で流れた橋を自分たちの金を出し合って
     橋を架けた。

③高崎宿…宿屋は少なかった。風呂屋(銭湯)・本屋があった。
     飯盛女は少なかった。

④板鼻宿…置屋は7軒あった。私の親戚もその一つであった。

⑤安中宿…安中藩主:板倉勝明(かつあきら)は、飯盛女の稼ぎに
     税金をかけた。

⑥松井田宿…安中藩支配。飯盛女がいたであろう。


◆上州倉賀野宿 ( 群馬県 ) 群馬県近隣の名所・旧跡を訪ねて
http://blogs.yahoo.co.jp/minigter/70233951.html 
を参考に編集。素晴らしい研究である。
 

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7)深井甚三『江戸の宿』(平凡社新書)
 江戸時代の宿泊施設がテーマとなっている。
 大名の泊まる本陣、脇本陣、市商人の宿屋、行き暮れた旅人や僧侶・
 巡礼者などに提供される善根宿・報謝宿・強力宿、武者修行をして
 歩く人のための修行人宿、庶民の泊まる旅篭や講の宿などを紹介し
 ている。

8)深井甚三『歴史文化ライブラリー9 江戸の旅人たち』(吉川弘文館)


9)神崎 宣武「江戸の旅文化 (岩波新書)★アマゾン1円+送料



10)『講座日本風俗史 旅風俗 2道中編 街道で起きる事件の泣き笑い』
  (雄山閣出版)

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