箕輪初心:生方▲伊香保№37≪アーネスト・サトーM10 ・M28≫

伊香保温泉には明治時代、大正時代には、著名な外国人が多数訪れたと
いう記録が残っている。幕末には伊香保は、横浜外国人居留地の指定
保養地でもあった。明治時代にはイギリスの公使:アーネスト・サト
ー、幕府軍軍事顧問のフランス軍将校:デシャルム大尉などたくさん
外国人が来ている。日本駐在の当時のハワイ国総領事:ロバートウォ
ーカー・アルウィン氏は伊香保に別荘を持っていた。アーネスト・サトウは
①明治10年(1877)二俣尾、大菩薩峠、甲府。伊香保、榛名、浅間山、
草津白根、赤城山、金精峠、男体山。箱根、須山口から富士山、箱根・
②明治28年(1895) 夏 アーネスト・サトーは伊香保温泉で過ごした。

画像



【1】伊香保温泉
①明治10年(1877)二俣尾、大菩薩峠、甲府。伊香保、榛名、浅間山、
草津白根、赤城山、金精峠、男体山。箱根、須山口から富士山、箱根・

②明治28年(1895) 夏 伊香保温泉で過ごした。日光金谷ホテルに
 行った。



【2】草津温泉
箕輪初心:生方▲草津100ー46「アーネスト・サトウ」イギリス人
 外交官M10/M15
https://53922401.at.webry.info/201804/article_26.html



【3】日光
 英国大使館別荘記念公園はアーネスト サトウの別荘だった。
栃木県日光市中宮 祠 2482



【4】「日本旅行記1、2」に収録されている旅行場所。
★明治4年(1871年)
  藤沢、箱根、三島、熱海、江の島
★明治5年(1872年)
  宇都宮、日光
  八王子、小仏峠、道志、宮ケ瀬、厚木
★明治6年(1873年)
  大山、丹沢札掛、宮ケ瀬
★明治7年(1874年)
  日光、戦場ヶ原
★明治10年(1877年)
  二俣尾、大菩薩峠、甲府
  伊香保、榛名、浅間山、草津白根、赤城山、金精峠、男体山
  箱根、須山口から富士山、箱根
★明治11年(1878年)
  高崎、碓氷峠、上田、大町、針ノ木峠、ザラ峠、立山温泉、室堂、
  神通川、高山、野麦峠 木曽福島、
  御嶽、奈良井、松本、和田峠、軽井沢、碓氷峠、高崎
  八丈島
★明治13年(1880年)
  秩父、志賀坂峠、八ヶ岳赤岳県界尾根天狗岩まで、善光寺、戸隠神社、
  飯縄山、妙高山、新潟、小千谷、苗場山、三国峠、上州
  伊勢神宮、京都、法隆寺、琵琶湖、美濃、三州街道、松本、御坂峠、
  河口湖、汽船で四日市まで、
  庚申山、足尾銅山、日光
★明治14年(1881年)
  大河内、柳沢峠、黒平、金峰山、木賊峠、権現岳、赤岳県界尾根
  天狗岩まで、宮田、飯田、秋葉街道、青崩峠、秋葉神社、千頭寸又峡、
  安倍川、静岡、、白糸の滝、身延山、奈良田、農鳥岳、間ノ岳、富士川舟運 
★明治15年(1882年)
  飯能、名栗、栃本、雁坂峠、笛吹川、塩山、甲府、富士川舟運
  浜名湖、箱根、富士登山、
  太田、赤城。草津、

アーネスト・サトウの旅行は以下の①・②の時代であった。
①江戸時代は参勤交代等や経済活動によって、舟運を含めて国内交通や物資
 輸送が極めて盛んであった。
 馬・駕籠・歩きであった。
② 明治初期・・鉄道の出来る前。
移動は人力車、馬車、駕籠・舟を利用した。
駕籠は小さくて足が出てしまったようである。
③明治中期
 輸送の主体が、舟運から鉄道に変わって行った。
 京都、琵琶湖の一部を除いて、大半が鉄道が敷かれる以前であった。
 私鉄が敷設された。東京近郊の東急・小田急は東京の糞尿を運ぶ列車で
 あった。

●鉄道が開通した
・明治16年、上野~熊谷
・明治17年 上野~高崎
・明治18年 上野~横川
・明治21年 軽井沢~直江津、長野~篠ノ井
・明治22年 東海道線全線開通
・明治24年 上野~青森
・明治26年 横川~軽井沢アプト式
・明治38年 上野~新潟


【5】アーネスト・サトー
◆アーネスト・サトウと日本***************
・天保14年(1843)アーネスト・メーソン・サトウはイギリスは
ロンドンで生まれた。
 スウェーデン人の父とイギリス人の母との間に生まれた三男で
 あった。
 ロンドンのユニバシティ・カレッジを18歳で修了した。
 『エルギン卿遣日使節録』ローレンス・オリファント著を読んで、
 アジア極東にある島国=日本に憧れた。

早速、日本語を学び始めた。
サトウはイギリス外務省の通訳生の試験を受験し合格した。
 入省直後に、希望していた日本駐在を命じられた。

・文久元年(1861) 19歳のサトウはサザンプトン港を出港した。

・文久2年(1862)
・8月15日(9月8日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として
  横浜に着任した。
 代理公使のジョン・ニールは、午前中を日本語の学習にあてる
 ことが許した。
  当時、横浜の成仏寺(東神奈川)で日本語を教えていたアメリ
 カ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや医師・高岡要、
 徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。
 また、公使館の医師:ウィリアム・ウィリスや画家兼通信員:
 チャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。


・8月21日(9月14日)、生麦事件が勃発した。
 ニールとサトウは幕府との交渉にあたったが、オランダ語を
 介して行われた。

・文久3年(1863)
5月 5月9日(6月24日)付けの小笠原長行の
 ニールへの手紙をサトウが初めて「日本語通訳」を訳した。
 「5月10日をもって攘夷を行うと、将軍・徳川家茂が孝明天皇
  に約束したことを知らせる内容」を翻訳した。

8月、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド
 ・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、鹿児島に向か
  った。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船
 していた。
 交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。
 サトウも薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会った。
 五代友厚・寺島宗則(松木弘安)が捕虜となっている。
 開戦後、青鷹丸は焼却された。
 アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を
 目撃する。

・元治元年(1864) 駐日公使オールコックから昇進に尽力すること
を約束したので、日本に留まることを決意した。
 オールコックはサトウに日本語の学習に勤めた。

 7月 長州藩の伊藤博文(伊藤俊輔)と井上馨(志道聞多)がヨー
 ロッパ留学から帰国した。
 サトウは伊藤・井上を長州(山口)まで送り届けた。
 しかし、伊藤・井上らは藩主・毛利敬親を説得できなかった。
   下関戦争 (長州藩 VS 
四国艦隊総司令官となったキューパー提督付きの通訳となり、
 サトウは英・仏・蘭の陸戦隊による前田村砲台の破壊に同行した。
 長州藩との講和交渉では高杉晋作(宍戸刑馬と名乗る)と交渉の
 通訳を務めた・伊藤博文・井上馨も通訳として臨席した。

・慶応元年(1865) 4月、通訳官に昇進した。
  伊藤弘文や井上馨との文通が頻繁になっていった。
  往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館
 の立場などを互いに情報交換した。
 
 サトウはこの頃「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い
 始めた。
10月、新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行した。
11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣
  に同行した。神戸・大坂に上陸した。
  薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員:西郷隆盛もと交わった。

この頃から、日本語に堪能な英国人として、サトウの名前が広く知ら
 れるようになった。

・慶長2年(1866)3月16日から5月19日
  アーネスト・サトウが週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』
  (横浜で発行)に匿名で3回、寄稿した。
『英国策論』の骨子は。
①将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約は
 その将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほ
 とんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
②独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
③現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本
 の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

「天皇を元首とする諸大名の連合組織が支配権力の座につくべき」
と、倒幕派が喜ぶ内容が書かれていた。・・・
実際にはイギリスの立場は、幕府に接近するフランスライバル視し
ながらも、表向きは中立の立場をとっていた。
(小栗上野介はフランス式の陸海軍の軍隊を設立していた。)
にも関わらず、イギリスは水面下では、薩摩や長州に接近しようと
している状況であった。

サトウは日本語師匠:徳島藩士の家臣である沼田寅三郎に手伝
 ってもらって、日本語に翻訳した。
 沼田は徳島藩主:蜂須賀斉裕に見せた。内容が写本されて方々へ
 広まった。
 日本文が英人サトウの『英国策論』が大坂や京都の全ての書店で
発売されることになった。

横浜の大火の後、公使館が江戸高輪の泉岳寺前に移ると、近くの門良院
で2等書記官アルジャーノン・ミットフォードと同居した。

パークスの訓令により、予定されている大名会議や長州征討の事後処理
について、また兵庫開港問題や一橋慶喜の動向などについて情報収集す
るために長崎を訪問した。

・慶長2年(1866)末~慶長3年(1867)始め
鹿児島で大坂から来た西郷隆盛と会い、薩摩藩の考えを聞いた。
 宇和島では前藩主:伊達宗城が『英国策論』を読んでいたことを知った。
伊達はサトウの論に賛同していることが分かった。

  将軍となった徳川慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出、
  および兵庫開港問題などについて情報収集するために
2月 サトウは兵庫・大坂を訪問し、薩摩の小松帯刀とも会った。
4月 パークスが徳川慶喜に拝謁した際に、サトウは通訳を務めた。
 大坂からの帰路は、チャールズ・ワーグマンと共に東海道を通った。

 ▲アーネスト・サトウ襲撃事件
 掛川宿で日光例幣使の家来に襲われたが、無事であった。

7月、日本海側の貿易港選定のため、パークスに随行して箱館経由で
  日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を調査した。
 サトウは七尾でパークスと別れ、ミットフォードと共に北陸道
 を通って大坂まで旅した。

長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報
があったため、阿波経由で土佐に向かうこととなり、パークスも
同行した。
サトウは通詞として土佐では後藤象二郎を交渉相手とし、前藩
 主・山内容堂にも謁見した。
土佐藩船「夕顔」で下関経由で長崎に向かい桂小五郎と初めて会った。
関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への
嫌疑は晴れた。
開成所教授:柳河春三から戊辰戦争中佐幕派の情報収集にもあたった。

12月、大政奉還の詳細を探知するためと、兵庫開港の準備のために
 サトウとミットフォードは大坂にで、土佐の後藤象二郎・薩摩の
 西郷隆盛・長州の伊藤博文らと会談した。


・慶長4年(1868)1月、サトウは兵庫開港準備に伴う人事で通訳と
  しての最高位である「日本語書記官」に昇進した。
 王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った慶喜
 とパークスの謁見で通訳を務めた。

※サトウは「尊王攘夷運動⇒倒幕へ」と、幕末、維新の歴史をおし進める
大事件が外国の勢力と相交錯しながら、次ぎ次ぎに展開したことに関わっ
た。オールコック公使やパークス公使の秘書としてサトウは革命前夜の
日本国内を縦横無尽の活躍をした。

 やがて、徳川幕府が崩壊し、明治の維新政府が成立した。
 
▲鳥羽・伏見の戦い
徳川慶喜は旧幕府軍が敗北し、大坂城を脱出した。
旧幕府から「各国外交団の保護は不可能」との通達があったため
兵庫へ移動した。
 岡山藩兵が外交団を銃撃するという神戸事件が勃発した。
 サトウは新政府使節・東久世通禧とパークスらとの会談で通訳に
 あたった。
 その後、大坂・京都で西郷隆盛・後藤象二郎・桂小五郎・品川弥
 二郎・大久保利通らと会談した。
 神戸で岡山藩士・滝善三郎の切腹に臨席した。
 堺事件解決後に京都に赴き、三条実美・岩倉具視を訪問、天皇謁見
 の際もパークスに随行した。
大坂でパークスの信任状奉呈式に同行し、初めて天皇に謁見した。
イギリス外交団が横浜に戻った。
サトウは江戸で勝海舟などから情報収集にあたった。

北越戦争下にある新潟視察とロシアによる国後島・択捉島占領の真偽
を確認するために蝦夷地(北海道)を旅行した。
 ★世界遺産「知床」に行った。

・明治2年(1869)、パークスとともに、東京で天皇に再度謁見した。

2月24日 暇を賜って、一時帰国するためオタワ号で横浜を出港した。
 上海・香港・シンガポール・ボンベイ・スエズ・アレクサンドリア
 を経由してイギリスに到着した。

※第一期(サトウ「わが生涯の最も興味ある時期」)の日本滞在期間は
約6年半であった。


・明治3年(1870) 11月、サトウは日本に戻った。

・明治4年(1871)、 鹿児島から上京してきた西郷隆盛と会った。

○明治4年(1871)代理公使:アダムズらと箱根・江ノ島に旅行した。
○明治4年(1871)/8/22~31 ヒューブナーと箱根山中を彷徨した。
 
 廃藩置県後、アダムズと岩倉具視との会談で通訳をした
「廃藩置県断行の状況や農民に対する課税問題、神仏分離令など」
アダムズとオーストリア貴族ヒューブナーが明治天皇と謁見する際に
通訳をした。

 アダムズと木戸孝允との会談で通訳をした。
  木戸孝允から「太政官三院八省制」について説明をうけた。
アダムズとともに岩倉具視と会い、条約改正準備のための遣外使節団
派遣やキリスト教解禁問題、日清修好条規をめぐる攻守同盟疑惑につ
いて話し合った。

●関東一円を旅行した。

◆この頃、日本人女性:武田兼と結婚した。


・明治5年(1872)
●アダムズとともに甲州を旅行した。
1月17日~26日 「富士山麓で神道を勉強」
●さらにワーグマンを加えて日光を旅行した。
3月13日~22日 「日光案内記」

●鎌倉・江ノ島を旅行した。

●参議・大隈重信、工部大輔・山尾庸三とともに西国巡遊の旅行をした。
 横浜港を出港し途中、下田・鳥羽に寄港して伊勢神宮に参拝。
 大阪・神戸を経由して讃岐の金毘羅宮に参拝。
 長崎まで行き大阪に引き返す途中、厳島神社に参拝。
 京都を旅行。
 中山道を経由して東京に帰った。
 箱根を旅行した。


・明治6年(1873)
▲11月23~27日 丹沢登山
  「丹沢でアトキンソンが遭難」


・明治7年(1874)
▲9月24日~10月1日 日光の別荘⇒中禅寺湖⇒戦場ヶ原
   「秋色に染まる戦場ヶ原」


・明治8年(1874) 二度目の暇を賜りイギリスへ帰国した。

・明治10年(1877)1月 日本に戻った。
  パークスの命で直ちに鹿児島視察に派遣された。
 2月 サトウの鹿児島滞在中に西南戦争が勃発した。
 出陣直前の西郷隆盛に会ったが、ほとんど話すことはできなかった。
 西南戦争は9月まで続いた。

・明治10年(1877)
▲4月17日~ 7月24日 大菩薩峠登山と甲府滞在
「 新緑の大菩薩峠と甲州の変革」
 
▲7月25日~8月1日 富士登山
 「ディキンズと富士山へ」

▲9月12日~10月1日 日光白根山登山
「日光白根山中で道を失う」


●アーネスト・サトウ①草津編*****************
●伊香保


▲10月
 浅間登山を行った。草津では植物採集をした。
この時は山本館に宿泊した。草津の家々を「スイスの山小屋
のようだ」と述べた。
(『日本旅行日記2』アーネスト・サトウ著/庄田元男訳:東洋文庫1992)


・明治11年(1878)
▲3月4日~17日 三宅島~八丈島
   「流人の島,八丈へ」

●7月、信州、北陸方面へ旅行。
▲7月17日~8月13日
長野県大町市から北アルプスを横断する立山新道を経て富山県富山市へ
至っている。
  「悪絶険路の針ノ木峠と有峰伝説」

・明治12年(1879)
▲11月15日~翌年1月2日
 伊勢・紀和・京阪に歴史をたずねる旅をした。

・明治13年(1880)
長男・栄太郎が生まれた。
アーネスト・サトウは考古学に興味を抱いていた。
彼は大室での発掘調査や出土品についての情報を群馬在住の知人から
入手していた。
3月6日~10日 大室・前二子古墳の現地調査
 大室(前橋市)を訪れ、前二子古墳の出土品のスケッチや測定を行った。
4月13日、調査内容を日本アジア協会で発表した。
(『日本アジア協会紀要』第8巻第3号に「上野地方の古墳群」)
 紀要に石室内部の遺物の出土状況を非常にわかりやすくスケッチして
いるほか、石室に塗られた赤色顔料やガラス玉のサンプルを持ち帰り、
それぞれ酸化鉄FeOとカリガラスという化学分析の結果も報告している。
※日本で初めて行われた科学的分析として大変意義深いものである。
(★群馬県埋蔵文化財の記述の要約)


箕輪初心◆群馬の古墳⑧「前橋:大室古墳群」=豊城入彦命の墓伝説
http://53922401.at.webry.info/201103/article_28.html

※明治15年(1882)『上野における古代の塚』を37歳の時に書いた。
サトウはモースの「大森貝塚」・シーボルトの「日本考古学ノート」・
 ジョン・ミルンの「蝦夷の研究」の影響を受けたと記述している。
「・・二重の山になっていて二子山・双子山と呼ばれている。
 (現在は、「前方後円墳」と呼ばれている。)
 大屋村(前橋)に2基、大室村(前橋)に3基ある。
・・・・
 最南端の古墳(大室の前二子山古墳)・・・高さ30フィート、
 長さ372フィート、巾284フィート、・・・
 墓の入り口は南で東より開口していて、石室の長さは33フィート
 で、入り口の巾は3フィート、中に入るにつれて、巾が広くなり、
 後端でで4,5フィートになる。玄室に入ると、6フィートになる。
 ・・・・・
 (全景のスケッチ:サトウ画)
・・・17個の土器(須恵器・土師器・・)・・・
 青銅の馬具・多量の鉄鏃・鉄の鎖が発見された。
 (石室内の遺物状況:サトウ画)
 アトキンソンの分析によると、いくつかの玉の破片はカリと石灰の硅酸
 塩ででできていて、鉄の硅酸塩が含まれていたコバルトの酸化物
 で色づけられている。ガラスは鉛を含んでいない。比重は2,38
 鉄製品は全て錆びていて、青銅のものもかなり錆びている。鏡は
 無傷で発見された。・・・・
 ・・・・
  (四神付飾土器:サトウ画)
 ・・・・
  (伝阿久山古墳出土埴輪:サトウ画)
・・・・
  以上、埋蔵されていた人については確定できなかった。しかし、
  地方の伝説は、その身元の手がかりを与えてくれる。
 『新撰姓氏録』は非常に早い時期に天皇が別れ、・・・
 『日本書紀』にあるように、両氏の先祖は崇神天皇の皇子で、・・
 西暦紀元48年であり、トロイ(★見に行ったよ~ん)陥落が
BC1184年あることから考えて、年代は不確実である。
 東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる
 ・・・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫:彦狭島王
 (ひこさしまおう)東国支配者の地位を受け継いだが、都から
 上野に来る途中でなくなった。・・・遺体を上野に葬った。
 彦猿島王の子:御諸別王が父の跡を継いだ。・・・・
 彦猿島王の遺体はどこに葬られたかは確定していない。・・・
 これらの古墳は・・・古代の英雄達の埋葬された場所であるとして、
 日本の年代については採ることができない。正しい年代は考古学者に
 よって特定されなければならない。
 ・・・・
  (★「アーネスト・サトウ」唐沢定市『青い目の旅人たち』
    みやま文庫:昭和59)
 ★唐沢定市先生の専門は「吾妻の真田氏」研究で群馬の真田研究の
  第一人者である。柴辻俊六先生の「真田昌幸」にも唐沢先生に
  協力を得たことは記されている。


・5月24日~6月15日 赤岳登山から新潟開港場へ

・9月24日~10月2日 庚申山(群馬県)⇒足尾銅山⇒日光へ

・明治14年(1881)
 7月14日~8月21日 秘境奈良田から南アルプス初登頂
・明治15年(1882)
・5月17日~24日 雁坂峠越えて富士川下りをした。
・8月20日~9月6日 富士登山
  「富士は婦人の山」である。

●アーネスト・サトウ草津②********************
 ・明治15年(1882)
・11月18日~30日「秋冷の上州路に温泉をたどる」
11月下旬、草津にやって来た。
『草津では冬のためにほとんど の旅宿が閉ざされ筵(むしろ)で
囲われていた(略)』と冬住みについて記述した。また、サトウは
湯畑前の松の湯と新湯に入浴した。
(『日本旅行日記2』アーネスト・ サトウ/庄田元男訳/東洋文庫1992)
新湯は、この時期 にできた浴場で浴場名がないため 新湯と呼んで
いたのだろうと思う。これが今も残っているか、どこの浴場を指す
のかは不明です。
雪の中、白根登山も行いました。 ベルツやナウマンが白根噴火の
調査をした3カ月後のことです。
(★今井貞三郎)


・明治16年(1883) 次男・久吉(後の武田久吉)が生まれた。

3度目の暇を賜りイギリスに帰国した。

1884年~1887年シャム駐在総領事代理
  バンコックに赴任。翌年公使に昇任。
・1884年11月8日~15日:バンコックから休暇で日光を訪問した

1887年 イギリスに帰って、弁護士(barrister-at-law)の資格を獲得した。
1888年 イタリア、スペイン、ポルトガルを旅行した。
   耶蘇(やそ)会活動の歴史に関する文献を調べた。

1889年~ 1893年ウルグアイ駐在領事
1893年~1895年モロッコ駐在領事

・明治28年(1895) 7月28日、サトウは駐日特命全権公使として
 日本に戻った。(東京には5年間勤務した。)
 日清戦争直後の三国干渉の時であった。
 日本にあって、ロシアなどの対日動向を監視すると共に、日英関係
 の強化につとめた。日英同盟の話も始まったと言われる。

●明治28年(1895) 夏 アーネスト・サトーは伊香保温泉で過ごした。

・明治30年(1897) ヴィクトリア女王の即位60周年式典のために
一時帰国した。

・明治32年(1899) サトウは日本での治外法権の撤廃にも立ち会った。

 サトウの後任としてクロード・マクドナルドが初代の駐日英国大使
 となった。

・1900年~1906年 駐清公使
ロシアの東洋に対する動向を常に監視して、日英同盟締結の陰の
  役割をつとめたが、サトウの駐シナ公使時代に日露戦争が起こった。

  北京から帰国の途上、日本に立ち寄った。

・明治39年(1906)イギリスに帰った。
  7月、枢密院顧問官となった。

・明治40年(1907)、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使
になった。

・明治39年(1906)引退後はイングランド南西部デヴォン州オタリ
・セーント・マリーに隠居した。
 晩年の22年間は、読書と庭いじりを道楽として暮らした。
 著述にも専念した。
キリシタン版研究の先駆けとなって、研究書を刊行するなどし、
のちの南蛮ブームに影響を与えた。

・昭和4年(1929)8月26日 永眠した。86歳であった。



●▲■箕輪初心:生方▲温泉ブログ(群馬編)***********

箕輪初心:生方▲2018『草津温泉』・『草津に歩みし141人+α』のブログ一覧
https://ubu3blog.at.webry.info/201809/article_55.html

箕輪初心:生方▲『温泉百話―東の旅』(ちくま文庫2018年)
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_1.html

◆総論編**************************
◆◆ 箕輪初心★『伊香保の歴史詳細&訪れた文人墨客』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_5.html

箕輪初心▲伊香保温泉&【文人墨客】復刻版
https://53922401.at.webry.info/201503/article_30.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201503/article_30.html

◆各論編**************************
◆◆【古代~平安時代の伊香保・榛名】************
伊香保№00『エロ解釈万葉集伊香保編9首』古代~鎌倉時代
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_13.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集東歌:エロい伊香保9首』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_9.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集上野国エロ東歌』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路の万葉歌碑』①山名駅~山名
八幡宮~山上の碑』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_22.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路のエロ万葉歌碑』②山上の碑
~山名城大手口まで4句碑』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_23.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路万葉歌碑』③山名城2回目
http://53922401.at.webry.info/201510/article_24.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【山名万葉句碑】④山名城4番~10番
&根小屋城の句碑
http://53922401.at.webry.info/201510/article_25.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路万葉句碑』⑤根小屋城2回目
https://53922401.at.webry.info/201510/article_29.html


◆◆【鎌倉時代の伊香保・榛名】******************
箕輪初心:生方▲伊香保№00補足篇≪鎌倉時代の歌人たち≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_23.html


◆◆【南北朝時代の伊香保・榛名】******************
箕輪初心:生方▲伊香保№12『伊香保神社縁起』と南北朝時代『神道集』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_24.html

◆◆【戦国時代の伊香保・榛名】******************
箕輪初心:生方▲箕輪城№233かみつけの里【榛名神社文書】の解説
&久保田順一先生説
https://53922401.at.webry.info/201612/article_6.html

箕輪初心:生方▲伊香保№32榛名神社の歴史「座主→武将の俗別当
への移行」
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_6.html


箕輪初心:生方▲伊香保№01≪長尾景仲→景信→景春→上杉定昌
の伊香保温泉開発?≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_3.html

箕輪初心:生方▲伊香保№02≪堯恵(ぎょうえ)文明18年(1486)≫
『北国紀行』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_4.html

箕輪初心:生方▲伊香保№03≪宗祇:文亀2年(1502)≫連歌師
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_5.html

箕輪初心:生方▲伊香保温泉№4≪宗長≫ 連歌師:『宗祇終焉記』・『東路の津登』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_6.html

箕輪初心:生方▲伊香保№4≪真田昌幸:天正4年(1576)石段街の基礎造成≫
と真田3代ブログ一覧
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_7.html

◆おまけ***********************
箕輪初心▲武田信玄&真田幸綱(幸隆)の侵攻①信濃編ブログ一覧
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_8.html

真田幸綱(幸隆)の上野侵攻②上野編150城ブログ一覧
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_9.html

箕輪初心:生方▲2016年NHK大河D【真田丸】:真田昌幸&真田幸繁
(幸村)ブログ一覧
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸7【真田の隠し湯&ゆかりの温泉14】
https://53922401.at.webry.info/201601/article_9.html

箕輪初心:生方▲井伊直政№261久保康顕先生初出史料『西郷正次・
椋原政直と榛名神社』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_54.html

箕輪初心:生方▲高崎№27▲久保康顕先生講演会『戦国時代の榛名神社』
と井伊直政
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_53.html

◆◆【江戸時代の伊香保・榛名】*****************
箕輪初心:生方▲伊香保№13『江戸時代の文学:伊香保・榛名総集編』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_25.html

箕輪初心:生方▲伊香保№23『江戸時代の旅と飯盛女』&『伊香保に町人来訪』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_46.html

箕輪初心:生方▲伊香保№25『榛名講』での御師の役割と『伊香保温泉』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_47.html

箕輪初心:生方▲伊香保№15≪中川内膳正妻:寛永年間(1624~1645)≫
『伊香保記』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_27.html

箕輪初心:生方▲伊香保№16≪跡部良顕:元禄11年(1698)≫『伊香保紀行』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_29.html

箕輪初心:生方▲伊香保№17≪建部涼袋:延享2年1745≫『伊香保山日記』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_33.html

箕輪初心:生方▲伊香保№18≪油谷倭文子(ゆやしずこ):寛延3年(1750)≫
『伊香保の道行きぶり』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_35.html

箕輪初心:生方▲伊香保№25≪塩原太助:宝暦12年(1762) ≫:榛名神社で祈願
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_50.html

箕輪初心:生方▲伊香保 №06≪高山彦九郎:安永2年(1773)≫
尊皇思想家『赤城行』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_11.html

箕輪初心:生方▲伊香保№19≪平沢旭山:天明5年(1785)≫漢学者・国学者
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_37.html

箕輪初心:生方▲伊香保№20≪吉田芝渓:寛政元年(1789)≫千明仁泉亭
『浴泉奇縁』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_39.html

箕輪初心:生方▲伊香保№07≪奈佐勝皐(かつたか)天明6年(1787)≫
『山吹日記』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_15.html

箕輪初心:生方▲伊香保№21≪関重嶷:寛政12年(1800)≫伊勢崎藩家老
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_41.html
★嵩山彦九郎と仲良しだった。

箕輪初心:生方▲伊香保№29≪清水玄叔(烏涯)享和3年(1803)≫
『上州榛名詣』
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_4.html

箕輪初心:生方▲伊香保№22≪小林一茶:文化5年(1808)≫『草津道の記』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_44.html

箕輪初心:生方▲伊香保№22≪八隅芦庵:文化7年(1810)≫『旅行用心集』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_43.html

箕輪初心:生方▲伊香保№30≪香川景樹:文政元年(1818)?≫歌人
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_5.html

箕輪初心:生方▲伊香保№26≪清水浜臣:文政2年(1819)≫『上信日記』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_52.html

箕輪初心:生方▲伊香保№08≪十返舎一九:文政2年(1819)≫文学者
・エロ浮世絵師
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_14.html

箕輪初心:生方▲伊香保№09≪千葉周作:文政6年(1823)?≫:木暮武太夫泊
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_16.html

箕輪初心:生方▲伊香保№09≪樋口定輝:文政6年(1823)?
伊香保神社掲額事件≫馬庭念流
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_20.html

箕輪初心:生方▲伊香保№11≪滝沢馬琴:文政年間?≫①『伊香保の額論』
&②『南総里見八犬伝』
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_21.html

箕輪初心:生方▲伊香保№100番外編≪司馬遼太郎『北斗の人』≫
https://ubu3blog.at.webry.info/201810/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊香保№27 ≪安積良斎:天保9年(1838)≫榛名神社
・木暮武太夫
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_1.html


◆明治時代編************************
箕輪初心▲伊香保№33≪新居守村:明治3年(1870)≫榛名神社の神仏分離取締
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_9.html

箕輪初心:生方▲伊香保№35群馬県立土屋文明記念文学館
「榛名・伊香保文学紀行46人」
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心:生方▲2018高崎№30『鼎談』と【小栗上野介忠順企画展】
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_10.html

箕輪初心:生方▲伊香保№35≪デシャルム大尉:M6≫フランス人将校
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_12.html

箕輪初心:生方▲伊香保№36≪三遊亭円朝M7≫落語家『霧隠(陰)
伊香保湯煙』
https://ubu3blog.at.webry.info/201811/article_13.html



★明日の伊香保・榛名はベルツ

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