箕輪初心:生方▲伊香保№78≪大町桂月M41石坂旅館≫「榛名山」『関東の山水』

草津温泉の湯畑の石柱には『大町桂月 明治41年(1908)随筆家』
とあり、草津温泉観光協会の本やHpに『明治41年(1908)晩秋 
大町桂月が「関東の山水」「雪の草津」を著した。』とあった。
「関東の山水」の第5章P205からは「上州の山水」である。
明治41年(1908)10月下旬 大町桂月は東京の家を出て、群馬
県の赤城山、吹割の滝(旧片品村)などを周遊した。沼田からは
馬車で鯉沢(旧子持村)へ向かった。鯉沢(現渋川市)から吾妻
川沿いを徒歩で行き、途中で馬車に乗って中之条を経て沢渡に宿
泊した。翌日、大町桂月は徒歩で暮坂峠を越えて草津に到着した。
草津では25日間、滞在した。下屋学と毎日、碁を打っていた。
帰りは川原湯、中之条、渋川で宿泊した。12月に入り、////
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12月30日に帰京した。

箕輪初心:生方▲草津100-56『大町桂月M41』旅・山・温泉を愛す
酒仙文学者・57『下屋学』
https://53922401.at.webry.info/201805/article_11.html


大町桂月『赤城山』

一 赤城の大沼

明治四十一年十月の末、われ三度目にて妙義山に遊び、去つて榛名山
の麓を過ぎて、赤城山に上りぬ。
 世に、妙義、榛名、赤城の三山を、上州の三名山と稱す。げに、
いづれも、名山也。されど、各其特色を異にす。まづ高さを云へば、
赤城は六千尺、榛名は五千尺、妙義は三千尺にも足らず。大きさを云へば、
妙義は二里四方、榛名は六里四方、赤城は十里四方の地盤を占む。
赤城にも、榛名にも、湖あり、溪流あり、瀑布あり。妙義には、全く
水無し。赤城は骨を露はさず、榛名は少し露はし、妙義は大いに露はす。
4殊にその石門の奇は、天下無比也。名山と云はば、三山皆洩れざるが
、高山と云はば、赤城也。大山と云はば赤城也、榛名も之に入る。奇山
と云はば、妙義の獨占に歸す。
 げに、妙義は奇拔也。されど、妙義の奇拔を喜ぶの趣味より推して、
赤城を平凡とのみけなさば、これ赤城の眞相を知らざる者也。赤城は壯
大也。されど、赤城の壯大を喜ぶの趣味より推して、妙義を狹小とのみ
けなさば、これ妙義の特色を知らざる者也。もし維新の三傑を以て、上毛
の三名山に比すれば、もとより全體といふわけには行かざれども、或點は、
西郷隆盛は赤城也、木戸孝允は榛名也、大久保利通は妙義也。今の大政治家
を以てすれば、山縣公は赤城也、伊藤公は榛名也、大隈伯は妙義也。
古の英雄に及べば、織田信長は妙義也、豐臣秀吉は榛名也、徳川家康は
赤城也。政治家や實業家は、赤城的なるが多く、宗教家も名僧となれば
赤城的也。學者や藝術家は妙義的なるが多く、軍人も士官時代は妙義的也。
概して、日本國民は妙義的也。日本國民の中にても、上州の人士は、妙義的
なるやうに見受けらるゝ也。
 われ二十一歳にして、始めて妙義に上りぬ。三十五歳にして、始めて
榛名に上りぬ。四十歳にして、始めて赤城に上りぬ。いづれも皆名山と感
服す。妙義は、當年見て奇と感じ、今日見ても奇と感ず。當年もし赤城を
見なば、平凡とけなししかも知れず。唯恥づかしく、平凡の資、青年時代
にも、妙義の奇を得ず、壯年時代になりても、赤城の大を得る能はざるこ
とを。
 赤城は四方八方より登らるゝ山なるが、われは、前橋驛に下りて小暮
路を取りぬ。その小暮路の手前を早く右へまがりて、前橋の市外に出で、
近く面前に赤城の荒山、鍋割、硯石の三山を見るものの、路多くして、
いづれを小暮路とも、わき難し。『小暮へは/\』と、七度も八度も人
に問ひて、漸く小暮路に出づれば、岐路あれど紛はず。路は高まるともな
く高まりて、顧みれば、上州の平原早や廣く開けたり。朱の鳥居の立てる
處、二三の飮食店あり、農家もあり。これ小暮村也。一店に休息し、
『前橋へは何里』と問へば、『二里』といふ。『赤城山までは』、『五里』
といふ。一時間ぐらゐ休息しても大丈夫と落ちつきて、微醉を買ふ。荷馬
車四つ五つ店前にとまり、四五人の若者どや/\入り來りて、茶を飮み、
菓子を食ひ、愉快げに語り、且つ笑ひ居りしが、『こら、往來の眞中に車
を置く』と怒鳴る聲を先だてて、思ひがけずも巡査あらはる。こりや青天
の霹靂、大いに恐縮せざるを得ず。若者一同しほたれて立ち上り、『誠に
相すみませぬ』。『名前を云へ』、『この度は、どうぞ御許しを』。『貴樣の名
は』、『苗字は』、『村は』、『番地は』、『年齡は』と、手帳取り出して、
一々書きつく。若者一齊に査公の前に立ち竝び、手を膝に體を幾んど直角
に曲げて、幾回となく頭を下に動かす。査公の鋭き目は、その若者に向は
ずして、却つて余の方に向ひしが、『將來を愼め』と一喝して、佩劍がち
や/\と肩をゆすつて去る。
 赤城の裾野をだら/″\と、上るともなく上ること凡そ一里半、水が
欲しくなりし頃、一軒の小屋を得て休息す。小屋の前に繋げる馬の主にや、
十六七歳の少年、腰かけて休み居たり。『あの馬は乘せるか』、『乘せます
る』と、相談一言にまとまりて、われ乘り、少年牽く。馬に騎りて上れ
る」を見ても、赤城山の嶮ならざることは、推して知るべし。鍋割、硯石
二山の間、谷さまで狹からず、白川といふ小溪ちよろ/\流る。木はあれ
ども、林をなさず、左右前後の眺望、いと暢びやか也。風やゝ寒ければ、
手拭を頬被りにす。路も危からねば、兩手を懷ろに收む。路、右に轉じて、
右方に荒山見え初め、處々に紅葉の點綴せるを見る。『秋の山は綺麗だ』
と、少年獨言のやうに云ふ。また暫くして、『秋の山は綺麗だ』と繰りか
へす。げに、山は秋、旅も秋也。
 箕輪とて、五六軒の農家ある處を過ぎて、さきの小屋より凡そ二里ば
かり來りし頃、馬は石に一寸つまづく。少年ふりかへりて、『鐵蹄がとれ
た』といふ。『下りてやらうか』、『さう願ひませうか』と相談又一言にま
とまり、下りて徒歩す。岐路あり。右は地藏の湯、左は赤城神社と、
木標人を導く。地藏の湯を經ても赤城神社に行かるべけれど、路やゝ遠
し。この湯、もと地獄谷温泉と稱したりしが、温泉湧出せぬやうになり、
この頃は、鑛物を水に溶かして沸かすやうにしたるが、それでも疝氣に効
能あるとかにて、近郷より來り浴するものありと聞く。少し山坂らしくな
りたるかと思へば、早や峠也。右に地藏ヶ嶽を仰ぎつゝ、だら/″\下り
て大沼に達す。湖面熨したるやうにて、げに、自然の一大明鏡也。湖を隔
てて、黒檜くろび山を仰ぐ。此方の大木は、葉既に落ちつくしたれど、黒
檜山の腰には、なほ紅葉あり。折しも夕日は對岸にのみ及びて、紅葉ひと
しほ鮮かに、黒檜山と共に水にうつりて、孰れか眞、孰れか影と疑はるゝば
かりに明か也。
 この美景をを眺めつゝ數町ゆけば、湖の東端水に背いて、可成り大なる
祠宇の立てるを見る。これ赤城神社也。前は長屋門に、後ろと左右とは、
樅の大木に圍まる。その長屋門の祠に面したる處に、茶菓を賣る店あるは、
めづらしき樣也。祠畔唯一つの人家なる旅店に投ず。可成りひろくして、
數十の客を容るゝに足れど、直ちに湖水に接して居らざるは、慊らぬ心地
す。
 山の湖は平地の湖とは異なりて、一種清幽の趣を有す。もし其大を言
はば、陸奧に十和田湖あり。關東にて最も大なるは、日光の中禪寺湖也。
箱根の蘆ノ湖之に次ぐ。この大沼は、周圍わづか一里ぐらゐなれど、山湖
の山湖らしき趣を見むには、却つて此位の大きさを可とす。この湖、南北
九町、東西十五町と稱せらる。中間やゝせばまりて、形ほゞ瓢箪に似たり。
東方即ち赤城神社のあるあたりが、其口にあたる。口に、ちよろ/\清水
をうくるが、尻も裂けて沼尾川となり、西に向ひ、鈴ヶ嶽の北麓を下りて、
利根川に注ぐ。岸に平かにして、路は近く水に接して、湖を一周す。東北
の方に、小島あり。平かにして、樹を帶びて、巖を帶びず。岸と相距るこ
とわづかに七八間、砂洲之に連なる。歩して行くを得べし。祠の外には、
人家なし、唯東西にわかれて、二軒の宿屋あるのみ也。

●明治41年(1908)晩秋 大町桂月が草津に来た。
  「関東の山水」「雪の草津」を著した。
(★草津温泉観光協会)
「関東の山水」の第5章P205からは「上州の山水」である。
浅間川・・・白根山・・・赤城山・・榛名山・・伊香保・・・
草津・・・鹿沢・・・四万・・・川原湯・・・・(略)

第8節 「雪の草津」
◎利根川・・・吾妻川・・岩井堂・・・沢渡温泉・・・大岩の滝
・・・暮坂峠・・草津温泉・・・□□岩・・常布の滝・・・毒水
・・・元白根山・・渋峠・・小□の滝・・・浮島(★現ラムサー
 ル条約批准地:芳が平)・・・白根絶頂・・・湯釜・・・婚仙滝
・・・西の河原・・・氷岩・・殺生が原・・・鞠子岩

★大町桂月は草津温泉に25日間滞在した。
「三 雪の白根山  P236
 草津温泉に一夜とまりて、明くれば、白根山に上り、・・・(略)
・・・あいにくの雨也。・・・・草津の案内記を取り寄せて読む。
『草津鉱泉療養法』といへるは、坪屋水哉の序あり。著者は下田
学氏、草津に住める医師也。
・・・(大町は下屋にあって、白根山のことを話すと11人で行く
ことになった。)

「四 草津温泉の二十五日   P243
「われ草津温泉に滞留すること、二十五日に及びぬ。
 草津温泉は、温泉場として、天下無類の特色を有す。在来、温泉
と云へば、必ず先ず指を草津に屈せしも、偶然に非ず。東京に、硫
黄花をわかす風呂あれば必ず草津の名を冠するを以て見るも、その
草津の効能が世に知れわたりたるを知るべし。されど、東京の諸処
の草津温泉の白濁せるを見て、本家の草津も亦然るべしと思はゞ、
これ大に誤れり。本家の草津温泉は、すき通るばかりに澄んで居る
也。硫黄も含硫酸、遊離□酸など多くを含めり。酸性泉にして、か
ねて硫黄泉なるもの也。酸性峻烈、強く人の体を刺す。梅毒のある
ものは言ふも更也。無きものとても、浴し居れば、『たゝ゛れ』を
生じ、あらゆる病毒を駆除し去る。言はゝ゛、この人の身體の噴火
にて、灸をすゑる同じ筆療法の東洋的療法也。『たゝ゛れ』出來ては
微温湯では、却つて疼痛を感ず。これに於て、時間湯なるものあり。
その数、六七、各、湯長ありて、号令して三分間を限りて入浴せし
む。一同揃つて、板にて湯を揉む間に、運動もすれば、湯気をも呼
吸して、げに、一挙両得のみにあらず。その時間湯の熱度、百二十
二三度より百二十五度に及ぶ。『あら可笑し、風呂へはいるに号令
かけて、揃つて三分、改正の二分、残つて一分、ちツくり御辛抱、
辛抱のしどころで飛び上る』と云へる俗謡は、よく簡単に時間湯の
有様を説明せるもの也。時間湯の外、総湯もあり、内湯もあり、湯
瀧もあり。温泉の性質の強烈なるのみならず、涌出の量の多きこと、
実に天下無比也。湯畑を始め、白旗の湯、地蔵湯など、いづれも直
に小川を成すばかりに熾に涌出す。西の河原の如きは、温泉、絶壁
より出でゝ流れて渓となり、かゝりて瀧となる。」

「草津は明治以前に有りて、関東唯一の遊山場也。…(略)…」
  
「草津温泉は、花柳病と癩病とのみに非ず、心臓病、肺病を除きて
は、あらゆる病気に霊効ありといふ。近年は、病人以外の遊山客も
増加したる由也。…(略)…今の処にても、一年二十万の客ありとい
ふ。他日更に交通の便加はり、旅館の改良をはからば、避暑の客、
遊山の客も多くなりて、草津当年の繁華を回復することも、決して
難しとせざるべし。」
 
「草津一五瀑の名あれども、観るべきは、常布と嫗仙との二瀑也。
…(略)…西に元白根の谷を上れば、氷岩とて、夏日も氷ある巌窟あ
り。草津よりほんの十二三町の程也。なお十二三町も上れば、殺生
河原あり。硫気一谷に薫じて、鳥獣の屍骸を見る。獅子岩は、形似
によりて名あり。(略)白根山頂の四池、小蓋の池など、池の数は
十数もあれど、いづれも小也。(略)小蓋池の浮島、鸚鵡岩、みな
遊客の徒然を慰むるに足る。げに、白根の活火山を控へたる草津温
泉は、関東の一大勝地と云ふべき哉。…(略)…」

「 むかしは、草津千軒と□(称の旧字)せられたりき。されど、地
勢により察するに、半分は、かけねなるべし。今が一等旅館と称する
は五六軒あり。二等三等より五等六等にいたり、数(旧字)は四五十
にいたり。…(略)…

「散歩するうちに面白く感ぜられたのは『入浴逝者之塔』『凍死人
供養塔』と也。察するに前者は…(略)…」

「薬研の底ともいふべき草津温泉場を流るゝ湯の川の上流を西の河
原と称す。賽の河原の字面を改めたる也。…(略)…」

「草津の民は、もと旧(異体字)歴の十月八日を以て、家をとざし
て。山下の里に下り、翌年四月八日に上り來たりしが、三十年前よ
り今のやうに冬も住むようになれり。…(略)…」
  
  
「下屋氏、隣房の客、宿の主人、みな笊碁の好敵手、二十五日の
間、一日も碁うたぬ日はなし。をり/\下屋氏の家に飲み、酒楼に
も飲みぬ。草津の地は、今や浴客幾んど無くなりて、心のどかに冬
籠りせむとす。われは、いつまでも、山中にのんきになりても居ら
れず。都には妻子…(略)…日頃相識れる人々、泣燈籠までと云ふ
を、この天気なればとて、辞すれど、なお五人ばかりは送りに来る。
地に五六寸の雪ありて乾坤一望白く、日は照りながら雪ちら/\降
れる朝なり。」

(★「雪の草津」草津温泉の二十五日『上州の山水』大町桂月著) 
(『関東の山水』国立公文書館デジタルP236~P251を部分引用写筆)

※下屋学…医師
「草津鉱(古い字)泉療養法」
序文
                 坪谷水哉(すいさい)

「草津鉱(古い字)泉療養法分析表」
調べた場所
①松ノ湯、②熱ノ湯、③鷺ノ湯、④地蔵ノ湯、⑤白畑の湯

「草津鉱(古い字)泉療養法目次」
一   温泉湧出の原理
二   草津温泉の気候風土
三   温泉の薬分及温泉の性状
四   温泉の健康体に対する作用(則ち生理作用)
五   温泉の医治作用(則ち病態に対する作用)
六   浴用の種類及其の功用
七   入浴方法及其の注意
八   入浴禁忌法
九   空気療養地としての草津温泉
十   温泉の蒸発器及其の吸入
十一  びうんの予防法
十二  入浴の起源
十三  草津温泉の内用
十四  温泉療養に兼ねる医薬の応用
十五  医療と療養
十六  入浴適応性病名
十七  精神保養
十八  長寿延命法
十九  入浴中の体力と其の結了後の体力の比較
二十  草津温泉浴医局
廿一 結論
  付録 草津温泉誌
(★国会図書館デジタルより写筆)




大町桂月「榛名山」

一 酔覚のい水
大いに酔ひて洋服着たるまゝにて、寝つきたるは夜の1時半。
  …(略)

二伊香保途上
前橋にて汽車を下りて立ち出づれば、休息店の楼上、
…(略)…
 伊香保に着きて、石坂恵十郎氏の旅館にやどりぬ。


三天神峠の眺望



四榛名神社


五榛名湖


六弁天瀑


七伊香保温泉

 「思ひきや 冬枯れはてし 伊香保根に
     かゝる言葉の 花さかむとは 」

八船尾瀑
・・・おわりになりぬ。十二月三十一日。

(大町桂月「榛名山」『関東の山水』昭和四十二年五月)


前夜、榛名山から下山し沼田、道の駅「白沢」で、隣接した「望郷
の湯」で温まり白沢で車中泊。
榛名山からイッキ走りで沼田「白沢」へ爆走したことでもあり、いや
はや疲れたのなんの、「望郷の湯」に浸かりビールを飲んだら、疲れ
た身体に湯上がりのビールは気が遠くなるほど「う・う・美味い!」
たちまちヘロヘロバタン”速攻休死〟朝まで前後不覚で爆睡だ。

よく朝、沼田から金精峠を抜け、奥日光で小休止散策。
金精峠は標高1,843m。 国内の峠道ではもっとも高所の峠。もうじ
き初雪が降り、金精峠も春の芽吹く5月E迄通行止めとなる。

金精峠を抜けたとたん山々のブナの紅葉が目にまぶしい。峠から見る
山々の景色が色鮮やかだ。
朝の陽を浴びて、木々が万華鏡の色彩を放って壮麗な趣に色変化。
ブナを始めとする樹林は紅葉し、さまざまなグラデーションの色彩が
縦横無尽に繁っている。






◆『大町桂月』のい略歴*********************
・明治2年(1869) 元土佐藩士の息子として生まれる。

・明治29年(1896) 東京帝国大学国文科を卒業した。

・明治32年(1899) 島根県で中学教師として奉職した。

・明治33年(1900) 博文館に入社した。

  大町桂月は与謝野晶子の才能を認めており、親交も深かった。
  
・明治37年(1904) 9月 『明星』に発表された与謝野晶子の
  「きみ死にたまうことなかれ」
  に対して、大町桂月は『太陽』誌上で
  「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり
   賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを
  得ざるものなり」
  と非難した。与謝野晶子は『明星』11月号で「ひらきぶみ」
  を発表し、「歌はまことの心を歌うもの」
  と弁明した。
 ★大町桂月は国粋主義者の要素があったようである。

 大町桂月は『文芸倶楽部』『太陽』『中學世界』などに随筆を書き
 美文家として知られた。
  韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であった。
  格調高い文体から擬古派と言われた。

・明治39年(1906) まで博文館の在籍した。



・明治41年(1908)、大町桂月は、十和田湖から奥入瀬渓流沿いに
歩いて蔦温泉に到達した。
 雑誌『太陽』に「奥羽一周記」と題する紀行文を発表した。
 「十和田湖」が含まれ、十和田の名が一躍有名になった。
和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。
 ★『太陽』の編集者は「坪屋善三郎(号は水哉:すいとん)である。
★十和田に行っているが、昔のことで写真はない。



・明治42年(1909)夏 大町桂月は松尾芭蕉に憧れていた。
  「五月雨を 集めてはやし 最上川 」
   目的は最上川の舟遊びをするためであった。
  大町桂月らは、大石田から乗船し、最上川を舟遊びし、(大石田町内)
  黒滝に上陸し、古刹である曹洞宗の黒瀧山向川寺に参拝した。

◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉24『奧の細道13』【立石寺】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201208/article_8.html

箕輪初心★松尾芭蕉25『奧の細道』⑭【最上川下り~
▲羽黒山・月山・湯殿山】
http://53922401.at.webry.info/201208/article_9.html


・大正2年(1913) 『人の運』が出版された。
  処世訓集として当時のベストセラーとなった。
  
  明治大学で教鞭を執った。
  
・大正7年(1918)  38年ぶりに故郷:土佐の土を踏んだ
同郷の愛弟子:田中桃葉(貢太郎)と桂浜に遊歩した。
「見よや見よ みな月の  みのかつら浜
    海のおもより  いづる月かげ」


・大正10年(1921) 大町桂月が北海道旅行に行った
 大町桂月は北海道の「層雲峡」や「羽衣の滝」の名付け親でもある。
 大雪山系の黒岳の近くには、大町桂月の名前にちなんだ「桂月岳」
 という山があるそうである。
 北海道各地を旅行して、魅力を紀行文で紹介した。
  

・晩年、朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしている。

・大正14年(1525) 4月 大町桂月は蔦温泉(現十和田市)に本籍
  を移した。青森県の十和田湖と奥入瀬を特に愛した。
 6月10日 胃潰瘍のため、蔦温泉旅館で死去、数え57歳。
   戒名は清文院桂月鉄脚居士

  与謝野晶子は大町桂月に「横浜貿易新報(現神奈川新聞)」
  に追憶を寄せた。
『蔦温泉帖』
「世の人の 命をからむ つたの山 湯のわくところ 水清きところ」


★終生、酒と旅を愛し、「酒仙」とも「山水開眼の士」とも称された。
★若山牧水と同じだった。



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