箕輪初心:生方▲2019『八王子城2回目』とウィキペディアの間違い「横地監物」

平成31年(2019)4月27日、箕輪城甲冑クラブの旅行に参加した。
川越城⇒深大寺「嶋田屋ランチ」・深大寺⇒八王子城にいった。
八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西
に位置する軍事上の拠点であった。北条氏照の城である。
八王子城は小田原城・山中城・箕輪城と並んで超技巧的である。
八王子城は本郭までは行けなかったが、ガイドさんがよかった。
今回もウィキペディアや外のHp、ガイドさんの説明を参考にした。
でも、ウィキペディアの歴史解説にまた間違いがあった。他もHp
も人の書いたものをコピーしているから同じ間違いなる。「天正18
年(1590)横地監物吉晴は自刃した。」とあった。でも、彦根の史料
に「慶長3年、横地監物は、井伊直政に箕輪で出仕。しかも、慶長
7年には彦根藩で1000石、つまり、家老になった。一族の戸塚も
1000石で家老になっている。」ウィキはとっても参考にはなるが、
全て信じる訳にはいかない。私の師匠などは殆ど信じていない。
柳沢先生、ありがとうございました。
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箕輪初心:生方▲2019『川越レトロ町並散策』
https://ubu3blog.at.webry.info/201904/article_49.html

【3】八王子城
● 八王子城跡トンネル
2004年に、城山要害部の西端直下を通る首都圏中央連絡自動車道の
八王子城跡トンネルが竣工した。

●あきる野市IC
 八王子城址に行くまでに、北条氏照の墓や、私設の八王子城址歴史
 資料館(有料)がある。

●駐車場
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●駐車場の先を100mほど進むと1992年(平成4年)に完成した
 八王子城跡管理事務所がある
 スタンプ台とトイレが整備されている。
  ガイドさん「4時半までです。」
 5人、今日はいらっしゃった。
 ガイドさんは2人頼んだ。

●ガイダンス施設
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●米軍機の撮影した航空写真に書かれた縄張り図

1945年(昭和20年)ごろは、山頂付近を除く城山一帯が戦時中の木材伐採
のため禿山となっていたのが、戦後米軍機の撮影した航空写真(国土交通
相保管)に残されている。
戦後、ヒノキなどが植林され、現在の状況となった。
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縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 ~3 kmの
範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用しる。
①要害地区
 山頂の本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した。
 要害地区には多数の砦を配し、連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎
 を建てるための曲輪などが造成されていた。
②居館地区
 城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で
 防衛している。
③根小屋地区
城山川に沿った麓に城下町を形成した。

④攻撃要害地区
 太鼓曲輪は居館地区の南側尾根にある。5つの深い堀切で区切られ、
 南側を石垣で固め、容易に尾根を越えられない構造となっていた。
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●弓矢(かじや)
城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶
屋村があった。
ガイド「弓矢(かじや)と呼んだ。」

●城下町
滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの
宿場があった。


●出城
 搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城
などがあった。


●散策~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

●ガイドさんの話
「ここは本来の道ではありません。」

●堀跡
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・郭
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●橋

●大手門前郭と掘
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●大手門
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・土塁
・本来の道
・古道と大手の門跡
当時御主殿へ入る道として使われていた。門の礎石や敷石が1988年の
確認調査で発掘されたが保存のために埋め戻された。
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●太鼓曲輪
「山城である八王子城・・・ 八王子市文化財課が管理する現在の
「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が
含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。」

八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、
侵入してくる敵に対しいたる所から上から矢・鉄砲をを射かける仕組みに
なっている。
★理由は、私見では武田信玄への警戒のため、地形を利用した山城と
 安土城を見てきているので、さらに、技巧的になっている。
 織豊系城郭と比較すると、八王子城・山中城はより堅固な縄張りに
 なっている。と考えられる
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●野鳥観察
「オオルリ、サンコウチョウが渡りをする。今はオオルリのシーズンだ。」

●山頂への景色
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「標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現城山)に築城された。」
★比高約240 mだもの40分~50分かかる。速く歩いて30分。
「質問で、高円寺⇒吉祥寺⇒国分寺⇒八王寺でしょう。でも「寺」で
 はありません。」
「深沢山は華厳菩薩妙行が延喜13年(913)に山頂で修行した山で、
修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916)に
八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられました。」

★群馬には藤岡に「子王子山城」がある。北条氏は「子王子山城」
 を拠点に平井城を攻撃した。のを思い出した。
★群馬榛東村~前橋にかけて牛頭川が流れ、桃井城・大藪城が近く
 にある。北条氏が入ったときにも箕輪城支城になっている。
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★幅広い所から、橋の手前で急に1人用の道になる。上の武者走りから、
 幅の広い場所で敵が詰まって固まるので、より攻撃しやすい。
 石を落としたり、矢や鉄砲を射かけたりする構造になっている。ことが
 分かる。青柳さん、面白い縄張りですよ。凄いですよ。


●曳橋(ひきはし)
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昭和26年(1951)6月9日、国の史跡に指定されて発掘調査や整備
が進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元された。
古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋である。
・絵地図
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「絵地図には2つの橋があった。」
「残された絵地図から復元されたが、絵地図からは(平面なので)
実際の橋がこの長さか不明である。」
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「橋台の西の石垣は、林道整備のために削られ、移築されている。」
「御主殿側の橋台の位置は築城当時より5mほど東側にずれている。
橋の先は少し高くなり、段差ができてしまったため、石段が設けら
れている。」
「橋脚の資料が発見されていないため、橋脚以外の部分は現在の
建築技術で16世紀当時の道筋を再現して架けられた鉄筋の橋に
なっている。「真田丸」のロケ候補になったけれど、橋が新しす
ぎて、滝山城の本郭の橋になった。」
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橋の築城当時の構造については諸説ある。
例1、敵の侵入時に板を外せる構造や
例2、橋桁ごとスライドする構造(八王子城管理事務所内所蔵)
例3、直ぐに壊せる簡易な橋の構造


●大手口枡形 マムシ注意
★マムシは湿地帯にいることが多い。
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「マムシではなく、アオダイショウが時々暖かい日に出てくる。」
「安土城の真似、・・・」
★確かに似ている。左右に秀吉・前田・滝川の家がある場所だ。
虎口石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に
 復元されている。
★太田金山城より忠実である。

●御主殿跡へ通じる枡形と虎口
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●冠木門
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御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は当時の門をイメージして復元
された。冠木門は、老朽化のため2010年に新築されている。
★「しかし、私は高麗門であると考えている。主殿にしては、防御
 が甘すぎるからである。北条氏の縄張りだよ。こんなに甘くない
 はず。・・・」

●御主殿跡
・出土品
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「一番重要なのはペルシャのガラス品です。あの復元された部屋の
 部分の中程から出土しました。」
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・主殿

・排水溝

・国有地と私有地の境


落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、落城当時の
ままの状態で保存されている。
2006年発掘調査の結果、60cmの下から礎石を沢山つかった建物の跡や
水路の跡、多数の遺物が出土した。
2012年から地中の遺物のレプリカを地上に設置する整備が行われ、
2013年に完成した。

★トレンチ後埋め戻しされて、復元された。
 礎石は土砂で被われ表面は芝生となっている。
「上は模造品で、60cmの下に戦国時代、発掘した時の本物
  があります。」
・庭園
「庭園にある石の1つのみは戦国時代当時のものです。」


●御主殿跡から望む曳橋



●滝上の土塁
御主殿の西・・・橋の50m上った滝の上の林道には、高さ3m、
幅10m程の土塁が残っている。
「元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半
分以上が削られている。」
土塁をダムにして、上流に御主殿の先まで続く大きな溜め池があったと
する説が有力である。
★私も山中城に本丸下にあるような水の手曲輪と考えている。
ガイド「霊が強い人が分かる死んだ場所です。」
●御主殿の滝
●城山川
麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと
伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずき
の汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、
この逸話がもとになっているといわれている。



◆八王子城の歴史**********************
・永禄9年(1569) 箕輪城が武田の支配下に入った。
 
・永録12年(1571) 武田信玄49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 ★おそらく、箕輪城代:浅利信種と合流した。  
旧長野家臣も多く従った。
富岡国峰城主:小幡憲重・信貞も合流した。

 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・内藤昌豊(松本城)・馬場信春
 ・曽根昌世・浅利信種・小幡信貞・・・・・etc。

9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)

9月26日 別働隊岩殿城主:小山田信茂1000が出陣し、小仏峠を越えた。
(★『甲斐国志』)
 北条家臣:横地監物・中山勘解由ら2000は檜原で、待ち受けた。
箕輪初心▲埼玉飯能市『中山家範館』:北条氏照の重臣
http://53922401.at.webry.info/201407/article_2.html

9月27日 武田勝頼が拝島から北条氏照の滝山城を攻撃した。
滝山城は広大かつ多くの郭馬出や内枡形を備えた近世的な平山城
 であった。
 1日で、攻撃をやめたが、滝山城は落城寸前だった。
箕輪初心▲滝山城:北条氏照の武蔵進出拠点の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_3.html

箕輪初心▲東京【八王子城】:北条氏照築城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
 ★八王子城を造るきっかけになった。

9月28日 武田信玄は小仏峠から入った小山田氏らと合流した。
  牛ヶ渕の合戦・・・
相模国へ進入した。・・・

10月1日 武田信玄は上杉謙信同様、幸田門(今の幸田門でない。)
 に着陣した。
  北条氏康の小田原城を囲んだ。
※永禄3年(1560) 12月上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかっ
 た堅城であった。・・・・ 
  
※小田原城は有名な惣構えが着工前であった。
 武田信玄は上杉謙信と同じく、幸田門(今の幸田門より二の丸
 より)・・小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。
  ⇒小田原城攻め

箕輪初心▲武田信玄:鉢形城~滝山城~小田原城~三増峠の戦い
https://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html

○箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

 しかし、北条側は小田原城を出なかった。

10月4日 小田原の守りが固いと見るやすぐさま撤兵した。・・・
 (★『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

10月5日 小田原城城下周囲を放火して軍勢を引き上げた。
 小田原を出発し、平塚から相模川沿いに厚木→中津→角田
 →三増と進んだ。
 
 北条氏康は北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せ
 することとした
 (★『甲陽軍鑑』)。


※滝山城などの北条方
甲州街道守備軍の北条氏照・・・滝山城
秩父方面守備軍の北条氏邦・・・鉢形城
北条綱成 北条氏忠 高城蔵人 原胤栄
上田朝直
八王子片倉城で合流した。
箕輪初心▲東京八王子【片倉城】:カタクリの里
http://53922401.at.webry.info/201411/article_18.html

・軍勢2万が要所である三増峠
(相模原市緑区根小屋~愛甲郡愛川町三増)に着陣した。


武田信玄は、小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条氏方
の津久井城の抑えとした。
 武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡憲重&
 信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。
★小幡憲重は小幡信貞の父。重貞、重定ともされる。
   妻は長野業正の娘?妹とも?
★小幡重貞→信貞→信実→
  妻は長野業正の娘・・・長野正弘系図(高崎浜川来迎寺)
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html


また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後
に回らせた
(★『甲陽軍鑑』)。

10月6日 早朝、武田軍と北条軍が対陣した。
さらに北条氏政が2万余りを率いてやってきた。
北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃し、殲滅する作戦であった。

 内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして志田峠を進んだ。
 (『甲陽軍鑑』)
 小荷駄隊が武田軍の先頭だった。
 北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている。
 (『山吉文書』)。


10月7日 北条氏政本隊は到着前であった。
 北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと
 していた。
 武田信玄はこれを察知して、部隊を3隊に分けた。
 ①本隊・・北条軍の攻撃を正面から受けて立つ
 ②左翼・・浅利信種隊や浦野重秀(大戸城)隊・・・上野隊
 ③右翼・・山県昌景隊 
2部隊は北条軍を横から急襲する作戦であった。

10月8日 三増峠の戦い
現神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺・・・・

武田信玄2万  VS 北条氏照&北条氏邦 6,000〜2万
北条氏は甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に展開した。
 武田軍は損害を受けた。
 北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀
 が討ち死にした。
浅利信種は鉄砲に当たって討ち死したのだ。
  (★『北条記』)
 浦野重秀(上野国大戸城)も戦死したのだ。
  一説には、武田側は200余人の犠牲者を出したとされる。

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、成果を
 上げた
 (★『上杉文書』『北条五代記』『北条記』)。




しかし、山県昌景率いる武田の別働隊が志田峠 (三増峠南西約1km)
に機動した。高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
 山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北
 した。
  (★『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)

北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別
働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けた。
左翼隊は戦死した浅利に代わって軍監:曽根昌世が代わりに指揮を
とった。
北条綱成の軍勢を押し戻すことに成功した。

緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
先に三増峠に布陣したのは武田軍で、布陣をを知らなかった北条軍が
不意の攻撃を受け、敗退したという。
(★『北条五代記』『北条記』)

有利に戦いを進めていた北条軍に対し、武田信玄は伏兵で反撃をし、
形勢を逆転させた。

武田信玄は、北条氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めた。
武田信玄は自軍の勝利と見ると、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで
移動させ、勝ち鬨を挙げた。その後、武田軍は甲斐に撤退した。
★武田信玄は賢明であった。
北条氏康&氏政父子の北条本隊2万は荻野(厚木市)付近に到着して
いたが、北条軍の敗北を聞いて小田原城に退いた。
 (★『甲陽軍鑑』)
結果・・・
①武田側・・・・1,000余(北条五代記)
900(甲陽軍艦)
②北条側・・・・ 2,000余(諏訪家文書・武田信玄書状)
         3,269(甲陽軍鑑)
しかし、本当に武田軍が勝ったのかは疑問である。

★もし、戦が長引いて、北条氏康&氏政父子の部隊が到着していたら、
武田軍は挟み撃ちにされて、大敗していた可能性があった。

★5回の川中島の戦いを期に上杉謙信との戦いをやめたのに続いて、
 三増峠の戦いを期に、後北条氏との決戦を避けているように
 感じられる。2年後には北条氏康が上杉謙信と手を切り、武田信
玄と再同盟するきっかけともなったのだ。
やがて、武田信玄は今川~徳川~織田へと戦いを挑んだ。
・元亀2年(1571)頃 北条氏康の3男:氏照が滝山城は危険なので
  八王子城築城し始めた。
  織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を
  行った。

・天正15年(1587)頃までに本拠とした。
  滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。、

・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の陣
  八王子城主:北条氏照は小田原本城に籠城していた。
 八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由
 家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と
 婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。

6月23日(7月24日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の
 軍勢に加わった上杉景勝(含真田昌幸)、前田利家の部隊1万5千人
 に攻められた。
実際は前田利常・上杉景勝軍は八王子城攻め・・・
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と
北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には
要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の
死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まった。
絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。

①北条氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃、
御主殿の滝に身を投げし、次々と身を投じたと言われている。
滝は三日三晩、血に染まった(伝)。

城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて
切腹している。
とウィキペディア・他のHpも切腹したとしている。
でも、全てのHpが間違っている。
横地監物(与三郎)吉晴は、出身は遠州、今川家臣から北条家臣、
慶長3年上州高崎で召し抱となった(★ 『彦根藩御家中筋目由緒帳』)
  井伊直政の家臣⇒慶長7年家老1000石(『彦根市史』)


狩野一庵が戦死した。
A 、父が北条氏照+氏照侍女=狩野主膳。
 狩野一庵の養子:狩野主膳の子どもが木俣守勝の養子:守安
    (井伊達夫「井伊軍志」)
B、狩野一庵+新野親矩の娘=子ども
木俣守勝との再婚説 木俣守勝・養子守安 (新野村誌)
C、狩野主膳+新野親矩の娘=木俣守勝
木俣守勝に嫁いだのは、狩野主膳に嫁いだ娘の姉説
    ・養子守安 (井伊氏系図)
  箕輪城の木俣に第一家老:木俣守勝・養子守安が入城した。
    
中山勘解由家範(現飯能市?)討ち死にした。子どもは水戸家家臣
  :中山備前守となって、水戸光圀に仕えた。

 ④近藤出羽守綱秀落は城の際に戦死した

6月29日付の上杉景勝宛の豊臣秀吉朱印状
「於八王子城虜之女共六十余人被差越候。則難可被加御成敗候、国可
 成忘所候と被思召、何茂被助遣候条、在々江如元麩二送届、可被返
 付侯。但、小田原二籠城之者共妻子ハ、最前請取候城々如並申付可
 被遣候。猶増田右衛門尉可申候也。」

7月5日 北条氏直、降服宣言
7月6日 小田原城開城 
7月11日 北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。
 徳川家康によって八王子城は廃城となった。

・平成18年(2006)4月6日、日本100名城(22番)に選定された。



★明日は

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