箕輪初心:生方▲西沢淳男著「大岡忠相の登用された代官」『代官の日常生活』

西沢淳男(高崎経済大学教授)著「徳川吉宗の享保の改革」『代官の日
常生活』P85~94において、『享保の改革』の最大の改革は『足高制』=
人材登用で、新田開発をしたとしている。西沢氏は「大岡忠相は江戸
南町奉行として有名であるが、「関東地方御用掛」の兼任していたこ
とは、あまり知られていない。本来は勘定奉行の関東農政であるが、
大岡忠相の「関東地方御用掛」が農政の一端を担っていた。
「関東地方御用掛」の長である大岡忠相の配下に異色の代官集団がいた。
町奉行に直結していて、享保の改革の目玉「新田開発」を担当していた。
大岡は地方御用掛を遂行するため、様々な人物を配下の役人として登用
する。幕臣に限らず、在野の浪人や宿場名主など多様で、特に地方巧者と
呼ばれる治水・灌漑に長けた者たちが多かった。」としている。

西沢淳男(高崎経済大学教授)著『代官の日常生活』はウィキペディアに
引用されている。
①岩手信猶…小普請無役から登用。⇒死去
②荻原乗秀…小普請無役から登用。⇒西の丸御納戸役
③小林平六…浪人。⇒罷免・追放。
④野村時右衛門… 浪人。⇒罷免・追放
⑤田中休愚(喜古)…川崎宿名主。⇒死去
⑥蓑正高… 猿楽師。⇒勘定奉行支配
⑦田中喜乗…田中喜古の子。父の死後、跡を継ぐ。⇒死去。
②上坂政形…南町奉行所与力。⇒勘定奉行支配
⑨川崎定孝…武蔵国多摩郡押立村名主。⇒勘定奉行支配
以上9名は大岡を「御頭(おかしら)」と呼んでいた。
上坂安左衛門・蓑笠之助・田中喜乗の3人は、「大岡支配下の三代官」
と呼ばれ、大岡の腹心として活躍した。
町奉行の大岡忠相に所属しており、享保年間には地方御用掛の人件費の
予算・決算書類は町奉行所で作成されていた。
画像


箕輪初心:生方▲『暴れん坊将軍』・義務教育『徳川吉宗』・西沢淳男著
『享保の改革』
https://ubu3blog.at.webry.info/201906/article_4.html





【1】徳川吉宗の享保の改革
・享保元年(1716)
  
・享保2年(1717)8月、徳川吉宗が8代将軍に就任。
正徳の治を主導した新井白石や間部詮房らを解任。
  紀州藩の人材を多く幕臣に登用。
  紀州藩士による御庭番を創設。
  新金銀交換を強制(享保小判金)
   
・享保4年(1719) 相対済令(11年後に実質廃止)
  享保3年(1718)に持ち込まれた公事(民事訴訟)は35790件、
   (内金銭トラブルは33037件)で、公務ができなくなった。
吉宗は金公事を永年にわたって取り上げないことを宣言した。
  ただし、利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、
 相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされた。
 享保14年(1729年)買米資金調達を順調にするため、廃止した。

・享保5年(1720)
 ・江戸大火⇒火事対策は江戸町火消しいろは四十八組の創設
 ・防火建築の奨励や火除地の設定、(元は秋葉原…火の神様)
 ・享保6年(1721)深川に十六組を設置
 ・町代の廃止や町名主の減員による町政改革と税金の収入の推進。
・キリスト教に関係のない洋書輸入を解禁(後、蘭学が発展)

・享保6年(1721)
  ・庶民の要求や不満の声を直接訴願の「目安箱」を設置
・私娼や賭事、心中など風俗取締りや出版統制。

・享保7年(1722)
  ・足高の制を導入
  (各役職ごとに授与される給与を定め、地位についている時に
   元の禄高に足されて支給。役に就いているときだけ、禄を足す。)
  ・江戸の都市政策は南町奉行の「大岡忠相」が主導。
  ・町奉行所や町役人の機構改革。
  ・貧病民救済のための「小石川養生所」設置
  ・「上米の制」(9年後廃止)
    諸藩に1万石につき100石の割合で一時的に課した献上米。
    代償に参勤交代の際の江戸在府期間を1年から半年に緩和。
  ・「三分一米納令」
  ・検見法(田の種類で税を徴収)⇒「定免法(5公5民)」を導入
    結果、農民にとっての過重負担⇒百姓一揆の増加
  ・「江戸町方公役銀納令」
  ・江戸の六上水のうち「本所上水、青山上水、三田上水、千川上水の廃止」
  ・新田開発奨励の高札を日本橋に掲載。
   ⇒「治水や新田開発」
   勘定奉行の関東農政+「関東地方御用掛(地方御用掛)」を設置。
●大岡忠相が南町奉行に関東地方御用掛(地方御用掛)を兼帯
  ・助郷制度の整備。
 ・青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究
  ・朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励
  ・薬草の栽培。
  ・サクラやモモなどの植林。
 ・流地禁止令(翌年廃止)
・日本絵図作製、人口調査。
 ・孝行者や善行者に対する褒章政策。

・享保10年(1725) 口米永代蔵令

・享保13年(1728)幕府創設以来の「四公六民制」⇒「五公五民制」の導入
         倹約と増税による財政再建が目的
結果、農民にとっての過重負担⇒百姓一揆の増加。
・享保15年(1730) 諸大名に対して買米令
     (翌年には大坂商人達にも同様の命令)
大坂堂島米会所の開設…米の取引所。
「享保16年(1731)米仲買株441株を許可し、米方年行司を定め、
  享保17年4月に521株、享保20年7月に351株を許可し、
  合計1313株となった。別に米方両替株50をも許した。」

・享保20年(1735)田方勝手作仕法(田畑勝手作禁止令の見直し)

・元文元年(1736) 元文改鋳(享保の改鋳政策の放棄)
徳川吉宗は米価引き上げ策を講じて、財政に困窮する武士・農民
  を救済しようと試みるが思うような効果がなかった。
  大岡忠相らの提案を受け入れ、貨幣の品位を低下させ、通貨量を
  増大させる吹替えに着手した。旧金100両に対し、新金165両
  なので、純金量を約44%低下させる吹替えであった。
 慶長金100両二 文金165両
  新金100両二 右同断(文金165両)
  元禄金100両二 文金105両位
  乾金200両二 文金165両
交換は通貨の発行当初は急激なインフレーションになった。

・寛保2年(1742)  公事方御定書制定
松平乗邑を主任に寺社奉行、町奉行、勘定奉行を中心に編纂させた
  幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事
  判例集。
例、蟄居…部屋の中にいなくてはならない。
閉門…屋敷から出てはいけない。
逼塞…昼間が家の中、夜は外出可能。
遠慮…自分で判断して、・・・


・延享元年(1744) 神田に天文台設置
(★ウィキペディアより引用・加筆・西沢淳男先生の話)




【0】大岡忠相
・延宝5年(1677)1700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸で生ま
れた。
・貞享3年(1686)、1920石の旗本・大岡忠真(大岡忠右衛門)の養子
 となり、忠真の娘と婚約した。
・その後、江戸幕府書院番→目付→山田奉行→普請奉行→
・享保2年(1717)2月3日普請奉行から江戸南町奉行に異動となった。
大岡忠相は江戸町奉行(南町奉行)となった。相役の北町奉行は中山
 時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と
 同じ「能登守」であったため、大岡忠相は「越前守」と改めた。
 
 8月徳川吉宗が将軍に就任した。
  ※吉宗は享保の改革(幕政改革)に着手。
  大岡忠相は新井白石や間部詮房らの屋敷代にも携わった。
  大岡忠相は江戸の都市政策のため評定所一座にも加わり司法にも
  携わった。
  奉行所体制の機構改革で中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が
  拡大した。大岡忠相の就任時には町奉行の権限が強化された。
・享保4年(1719)本所奉行を廃止して本奉行所の機構改革も行った。
・享保5年(1720)町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」
  の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や
  火除地の設定、火の見制度の確立などを行った。
  江戸の防火体制は強化された。
・享保6年(1721) 町代の廃止や町名主の減員など町政改革も行なった。
  木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編を行った。

●享保7年(1722)6月28日 大岡忠相は相役の町奉行・中山時春と
 ともに「関東地方御用掛」を拝命した。
 大岡忠相は農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田
 の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わった。
 儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒賞も積極的に行った。

・享保7年(1722)目安箱に町医師・小川笙船から貧病人のための
 養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から命じられ、小石川薬園内
 に小石川養生所が設置された。
 
 青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作され
 ていたサツマイモの栽培を助成した。
 将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の指導を
 行った。
 物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通
 量の拡大を進言している。

・享保8年(1723)相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となった。

・享保10年(1725)9月、大岡忠相は2,000石を加増され3,920石となる。
  風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。

・元文元年(1736)幕府は町奉行の大岡忠相と勘定奉行の細田時以を
 最高責任者とした貨幣改鋳を実施した。

・元文元年(1736)8月12日、寺社奉行となった。
・元文3年(1738)公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、
  公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集
  させ、これも分類整理する。
  2,000石を加増され5,920石となり、足高分を加え1万石の大名
 格となった。

箕輪初心:生方:2019年3月東京④目黒「目黒不動尊」と『青木昆陽の墓』
https://ubu3blog.at.webry.info/201903/article_20.html


【3】『徳川吉宗の享保の改革』と「足高制による大岡忠相の登用」
1)中学生・高校生までに教わった歴史「徳川吉宗の享保の改革」
徳川吉宗の享保の改革・松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革
が凄い改革とされる。
 8代将軍:徳川吉宗の時代が武士・農民の倹約令と新田開発はいい面
で捉えられている。しかし、徳川吉宗の定免制は一律の年貢なので、災害時
であっても税が厳しいことになる。農民に倹約を強制し、税を搾り取ろうと
するものであった。吉宗の幕府財政は大幅な改善した。吉宗の代に新田開発
が進み、米・雑穀が増加すると人口も5代綱吉の時代に比べ2倍増加した。
反面、えた・非人も増加した。9代将軍家重の代には増税は百姓一揆の増発と
なって現れ、経済破綻した。有る意味では、封建制度の矛盾が既に現れていて
徳川吉宗の享保の改革は失敗であった。と考えざる得ない。

2)西沢淳男著「享保の改革」と私見
6代:家宣、7代:家継、8代:吉宗初期の時代には、経済破綻した代官
の粛正が行われ、死罪・改易が行われた。
8代:吉宗は大胆な人事整理を始めた。
①家宣・家継時代に権勢を振るった間部詮房を更迭した。
 (高崎藩から村上藩に移封)
②大奥の女性たちも減らした。

●享保8年(1723)6月18日、徳川吉宗は「足高の制」を制定した。
8代:吉宗中期の時代からは、「飢饉や災害等で経済が破綻・・・。」
家宣・家継の時代から減らした人材をどう補うのか?
吉宗の時代には「禄高に禄を足す」から足高の制となる。
「家柄はどうでもいいから、優秀な人材を集めないと幕府が崩壊して
しまう。自分に都合のいい人材を登用する」というのはいつの改革も
同様である。徳川吉宗も自分の治世を支えてくれる有能な人材登用を
考えた。

●収入の基本
①大名は、幕府の与えた領地から得る米が収入の基本であった。
不作の年には収入は減るので定免制をしいた。
大名は出費がかさむ。
参勤交代の費用・幕府から課せられる土木工事なども負担が大きかった。
大名はかなり厳しい状態となる。
飢饉や地震~~~~。
しかし、高崎藩などの藩主は老中が多く、幕末まで年貢の利率は高かった。

●上米に代わりに、参勤交代の江戸在を1年から半年にした。
●幕府から課せられる土木工事なども負担した。
●飢饉や地震に備えた作物を生産を奨励した。
 (サツマイモ・ハトムギなど)
●上米・・・郷蔵の建設

②旗本などで領地がない場合は「禄」という給料をもらっていた。
米での支給で生活は楽ではない。

「武士は食わねど高楊枝」という狂歌があるが、武士にとっては面子が
重要視された。江戸城に上がるにしても、しきたりがあった。収入が少な
くても、麻上下など正式の身なりや生活は一定のレベルを保たなくてはな
らない。
身分の低い人を取り立てると、収入が少ないので、急に身分が高くなった
としても、支出が多く、家計は苦しいことになる。

そこで、『足高制』となる。
吉宗は、「身分の低い者も取り立てられた場合は、家格・家禄と身分が吊り
合わないので差額・不足分を「禄高に足す」足高制で禄を上乗せして出し
てやるから、役職に専念しろ」という考えを持った。

●吉宗は従来の譜代門閥層を重んじる行政組織に戻した。
●吉宗は実務官僚には門地・家格にとらわれない登用を行った。
 大岡忠相が最も有名な人物である。

吉宗は足高の制により「大岡裁き」で有名な大岡忠相が抜擢した。
町奉行は5000石の家格・家禄でないと町奉行になれない。大岡忠相の
生まれた家は1700石・養子先での1920石で町奉行になった大岡忠相
は1080石の足高を受けている。それ故、約3000石を足して、奉行レ
ベルになった。
寺社奉行は10000石クラス出ないと寺社奉行となれない。吉宗は10000
石として、登用した。(西沢)

吉宗以前にも足高制が行われていたが、吉宗によって制度化された。
例えば、2000石位の人を大目付にするために、500石~1000石を足して
あげだことはあった。昇給するのと同じことなので、大目付をやめたと
しても、2000石や2000石は持ったままとなり、子孫が継続した。
しかし、才能があるからといって家禄=給料を上げていたら、幕府の出費が
かさみむ。加増分が子孫たちへ世襲されてしまうのも財政負担が大きくなる。
吉宗は「足高の制の対象になるのは本人だけ」と一代限りと制限することに
よって、取り立てられた人の子孫の代になっても高禄のまま引き継がない工
夫をした。足高制度は「役職についているときのみ」で役職を引退したら、
元通りの家禄に戻ってしまう算段をしたのだ。

 しかし、足高制も「一度高い収入になったのに、また下げられてしま
うのか?」と思う登用人材もいて、思惑通りにはいかなかった。加増された
分が子孫たちへ世襲されてしまうケースもあった。
★まあ、現代人だって一度上がった給料が下がるのはイヤですyoね……。
役職は上がって、給料が下がる。定年退職後、仕事は同じような仕事なの
に、給料が下がる。私no再雇用は40%引きの仕事になってしまった。
吉宗の「足高の制」は人材登用策であるとされる。しかし、財政削減策と考
えたほうがいいようである。

江戸時代には「一度できた前例をめぐる争い」の話が多くある。
「柳沢吉保⇒正徳の治⇒享保の改革⇒田沼の政治⇒寛政の改革⇒()
 ⇒天保の改革」
★改革も繰り返す。

幕府の財政危機の対策は、税収を増やすか、歳出を削るかしかない。
幕府は、農業のみを財政基盤としているから、税収を増やそうと思
えば、定免制で増税するか、新田開発くらいしか方法がない。
田沼のように商業を振興してそこから税収を図るのが合理的である。
 
江戸時代の問題は「戦国時代の仕組みを、平和の時代に当てはめた」
ことに起因しているかもしれない。
「改革を行おうとする若い藩主or藩主に抜擢された人」
 VS
「家老を中心とした守旧派」

箕輪初心:生方▲2019年映画『居眠り磐音』あらすじ
&『田沼意次の資本主義』
https://ubu3blog.at.webry.info/201905/article_35.html
★「お家騒動」の小説も多い。



【4】西沢淳男著「大岡忠相の登用された代官」『代官の日常生活』
『代官の日常生活』P85~94において、『享保の改革』の最大の改
革は『足高制』=人材登用で、新田開発をしたとしている。
画像

1)西沢淳男著「享保の改革」
●吉宗は給米から年賦返済をさせることにより家名を残す方向に変えた。
1725年、幕府は口米・口永方式をやめ、一端幕府に収納し、役所運営
に必要な予算を地域や支配高に応じて支給する方法をした。
 出張旅費規程・経費支払方法の改正を通じて、代官の負金・滞納を理由に
処罰は減少した。
例えば、伊豆の韮山の江川家がそれに当たる。
1)父祖からの負金
6代:家宣、7代:家継、8代:吉宗初期の時代には、経済破綻した代官
の粛正が行われ、死罪・改易が行われた。8代:吉宗中期の時代からは、
給米から年賦返済をさせることにより家名を残す方向に変わった。

例、伊豆の江川氏・・・例外的に没収されなかった金谷村の私有地
 (田畑・山林・宅地・まぐさ場など)の年貢を納めた後の名主的な
 業務を行っている。負金の返済のため、旧韮山城一帯の新田開発が許可
された。作徳米も返済に充てられ300俵余りが私的財源になった。
1750年から勘定奉行から関東代官に復帰した。・・・その後、代々、韮山
代官として続いた。

2)西沢淳男著「門地・家格にとらわれない登用」
1725年、幕府は口米・口永方式をやめ、一端幕府に収納し、役所運営
に必要な予算を地域や支配高に応じて支給する方法をした。
 出張旅費規程・経費支払方法の改正を通じて、代官の負金・滞納を理由に
処罰は減少した。

●吉宗は従来の譜代門閥層を重んじる行政組織に戻した。
●吉宗は実務官僚には門地・家格にとらわれない登用を行った。
 大岡忠相が最も有名な人物である。

私見…江戸幕府は基本的に、徳川家という戦国大名がそのまま規模が大
きくなったものである。戦国大名の仕組みとは、家臣が石高のある領地
を貰い、石高に応じた人数の兵隊を養っておき、戦さに引き連れて馳せ
参じる。つまり、戦争費用は全て家臣の自分持ちとなる。
幕府のどんな役職も石高を貰っている大名・旗本しか、部下を任命できな
かった。
大岡忠相は名主・町人・浪人・配下などを新田開発のために雇いいれた。
「江戸町奉行」になったので、奉行所の運営にかかる費用一切は大岡
持ちだった。


3)西沢淳男著「異色の代官集団」
大岡忠相は「江戸南町奉行」として有名である。しかし、一方で、「関東
 地方御用掛」の兼任していた。
本来は、勘定奉行の関東農政の一端を担っていた。
「関東地方御用掛」大岡忠相の配下に異色の代官集団はいた。町奉行に
直結していて、享保の改革の目玉「新田開発」を担当していた。

大岡は地方御用掛を遂行するため、様々な人物を配下の役人として登用
する。幕臣に限らず、在野の浪人や宿場名主など多様で、特に地方巧者と
呼ばれる治水・灌漑に長けた者たちが多かった。
①岩手藤左衛門信猶: 小普請無役から登用。⇒死去
②荻原源八郎乗秀: 小普請無役から登用。⇒西の丸御納戸役
②小林平六 :浪人。⇒罷免・追放。
④野村時右衛門: 浪人。⇒罷免・追放
⑤田中休愚右衛門喜古 :川崎宿名主。⇒死去
⑥蓑笠之助正高 :猿楽師。⇒勘定奉行支配
⑦田中休蔵喜乗: 田中喜古の子。父の死後、跡を継ぐ。⇒死去。
③上坂安左衛門政形 :南町奉行所与力。⇒勘定奉行支配
⑨川崎平右衛門定孝: 武蔵国多摩郡押立村名主。⇒勘定奉行支配

以上9名は大岡を「御頭(おかしら)」と呼んでいた。
上坂安左衛門・蓑笠之助・田中喜乗の3人は、「大岡支配下の三代官」
と呼ばれ、大岡の腹心として活躍した。
町奉行の大岡に所属しており、享保年間には地方御用掛の人件費の予算・
決算書類は町奉行所で作成されていた。



①岩手信猶
・元は紀州藩士岩手九左衛門信安(のぶやす)の子で、勘定組頭:
 岩手信上(のぶたか)の養子となった。
・元禄16年(1703)11月27日に岩手家を継ぐ。
 岩手信猶の妻女は元は細井助九郎の娘で、信上の養女となって信猶に
 嫁いだ。
・宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉との初の御目見えを果たした。
●享保7年(1722年)6月27日、小普請無役であったが、関東支配の
 代官に任じられた。
7月 町奉行の配下に属することになった。通常は
 代官は勘定奉行の配下となるが、町奉行であった大岡越前守忠相と
 中山出雲守時春の2名が関東の農政を掌る関東地方御用掛に任命され
 たため、配下として働くべく5万石支配を命じられた。
 武蔵野新田の支配を承り、相模国の酒匂川の普請事業などに携
 わった。
・享保11年(1726年)8月晦日、支配地の農民が御禁制であった鉄砲を
  撃った咎で謹慎を命じられるが、10月晦日に許される。
 7月13日には、岩崎信猶と荻原乗秀は関東筋新規御代官を拝命して
  5万石支配を命じられ役料300俵を与えられた。

・享保17年(1732)閏5月2日、逝去。法名は日忠。
(西沢先生・ウィキペディア)

②荻原乗秀
・????勘定奉行を務めた荻原重秀の子として生まれた。
・元禄5年(1692年)11月1日に時の将軍・徳川綱吉に御目見を果たす。
妻は中山下野守直好の娘で、村上彦太郎義愈の娘を後妻に迎えている
荻原重秀は勘定奉行として元禄の貨幣改鋳を行った。
・正徳3年(1713)9月26日に父・重秀の死、
・正徳4年(1714)3月15日に重秀の私曲を理由に3000石を減石され
 越前国坂井郡の内の700石を相続。小普請入りし謹慎の身となる。
・正徳5年(1715)9月26日に許される[3]。
●享保7年(1722)5月3日、上総国東金領に赴き、新規に開墾する
 地を調べる仕事を命じられる。
  7月13日に、南町奉行の大岡忠相所属の代官となり、5万石支配を
 命じられ、大岡支配下の代官・岩手信猶とともに役料300俵ずつを与え
 られた。
 8月7日には御用を務めた褒美として時服2領と黄金2枚を下賜される。
●享保14年(1729)11月24日、支配所である武蔵国入間郡下奥富村
 (埼玉県狭山市)の名主の不正が発覚したことにより拝謁を留められた。
  12月27日に許された。
・享保17年(1732年)6月12日、武蔵国内の2万石の支配地増加を命ぜ
 られた。
・享保19年(1734)正月19日、江戸城西丸の御納戸頭に任ぜられる。
 荻原乗秀が西城御納戸頭に転任した後は、大岡支配下の代官上坂政形が
 武蔵野の支配地を受け継いだ。

 2月15日に佐渡奉行となり、4月22日には布衣の着用を許される。
 5月26日に佐渡奉行所に到着。佐渡奉行・萩原美雅と交代する。
・享保20年
閏3月1日に、乗秀の妻・かずも死亡した。
 4月11日、「左右共不自由」となり、医師の投薬により
  回復するが、18日に再度発病。
 4月26日、在任中に佐渡の地にて死去。
  同地の本典寺に葬られた。
 

③小林平六、④野村時右衛門*************
・享保7年(1722)、5月荻原乗秀は代官の池田喜八郎季隆(すえたか)と
ともに上総・下総国両国の見分に赴くよう命じられた。
東金(千葉県東金市)に5万石ほどの荒れ地を発見した。
 東金見分に同行した浪人・小林平六と野村時右衛門は「目安箱」
 に東金(千葉県東金市)の開発を投書した。新田として開墾されること
 が決まる。小林平六、野村時右衛門は元締手代となった。
・享保12年(1727)9月、2人は「新田開発方役人」となり武蔵野新田
 経営を担当した。
・享保14年(1729)12月、年貢滞納などを理由に2人は罷免される。
 2人の罷免された。
 小林と野村が担当していた武蔵野新田と岩手信猶・荻原乗秀を勘定奉
 行所属とするか、大岡は老中:水野忠之に問い合わせた。
 老中:水野忠之引き続き両名とも大岡支配下とし、新田も2人の支配
 とする回答されている。
 この後、乗秀は小林・野村の強引な年貢増徴方針を修正したが、新田
 経営は十分な安定化は果たせず、年貢未進・遅滞が続いた。



⑤田中嘉古(よしひさ)田中休愚・丘愚「民間省要」
・寛文2年(1662) 武蔵平沢村(あきるの市)の名主で絹物商を兼業す
 る農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる。
(窪島家は元武田家の家臣だったが、武田氏滅亡後に農家となった。
 田中嘉古は子供の頃から「神童」の誉れが高かった。
 兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となった。
 その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の
 田中源左衛門(旧武田家臣)家で暮らすようになる。
  
 東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いだ。
・宝永元年(1704)、43歳の時、川崎宿本陣名主と問屋(といや)
 を務めた。
・宝永6年(1709)に関東郡代の伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、
 江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿が請け負う
 許可を幕府から得たことで、付近の村の村民が人足に駆り出され
 ることがないようにし、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築
 いた。
※大岡支配の役人:蓑正高は田中休愚の娘婿である。
・正徳元年(1711)、50歳の時、猶子の田中太郎左衛門に問屋を
  譲り、江戸へ出た。
  荻生徂徠から古文辞学を学んだ。
  成島道筑から経書と歴史を学んだ。
・享保5年(1720)、四国33カ所の巡礼から帰宅した。
  農政・民政の意見書『民間省要』の執筆を開始した。
・享保6年(1721)田中丘隅『民間省要』全15巻を完成させた。
  田中丘隅『民間省要』を師の成島道筑に上呈された。
  成島道筑は関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に
  献上した。
  八代将軍・徳川吉宗は、大岡忠相と伊奈忠逵を呼んで田中休愚の
  人柄を尋ねた。
・享保8年(1723)田中休愚は徳川吉宗はに呼び出された。
  田中休愚62歳は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について
  意見を述べた。
  田中休愚は支配勘定並に抜擢され、10人扶持を給され、川除御
  普請御用に任命された。下僚として手代3、4名も附属された。
  荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水
  の改修工事などを行った
 
・享保8年(1723)、田中休愚は酒匂川を巡察した。 
  特に、宝永4年(1710)相模国酒匂川(神奈川県小田原)は富士
  山の宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた。
※『民間省要』に「1年富士山の砂の難ニかゝりし相模酒匂川入の
  人民御救として、砂除・砂凌?、郷村田地のたの御普請有りし、
  諸侯人夫ニ命令を下り、其国其領の人民を費やし集メ、はなはだ
しく金を出して曾てその験なし。金空しく商客の有になりて、御
慈愛の御心、民中へ届かず事こそ口惜しけれ。」
※西沢淳男先生「復興事業を大名に命じられたので、良民から多額の
  費用を出したが、効果はなく、商人が儲けただけで、慈愛の心が
  民には届かなかったことが悔しい。・・・無駄な公共事業を苦々しく
 思っていた田中休愚は提言した技術を元に理想を追求していくことに
 なる」
・享保10年(1725)田中休愚は酒匂川の浚渫・補修を命じられた。
  田中休愚は酒匂川治水の支配勘定格に取り立てられて30人扶持を
  給され、3万石の地の支配を任された。

・享保11年(1726)に酒匂川西岸73カ村は小田原藩領から幕府領となり、
 復旧に取りかかった。
①丈夫な木製の枠に●石を積めた弁慶枠
 ②栗石や砕石などを詰めた蛇籠・・・流れに沿って強固な堤防を
 造った。従来のものよりも強固な堤を築いたのである。
田中休愚は創案した手法で堤防の改修を行った。
 後に田中休愚の娘婿:蓑正高も普請事業に加わった。
・享保12年(1727)5月に工事は終了した。
田中休愚は 酒匂川の補修が成功した後、褒章として受け取った金
 100両を用いて、夏王朝の始祖・禹王の碑「黄河の治水」を建て、
 普請の顛末を記した。堤は「丘隅堤」または「文命堤(ぶんめいづ
 つみ)」と呼ばれている。
 補修により酒匂川下流の村落は、水害に見舞われることは無くなった
 という。
(相模国小田原藩の酒匂川は、田中休愚(丘隅・喜古)による治水事業
がなされた後、川の東岸は岩手信猶の支配地となった。しかし、西岸に
比べ小田原藩領である東岸は治水が不十分で後に堤防が決壊したため、
沿岸の村民たちは幕府代官支配へと替えてくれと訴願した。
・享保17年4月に要求が通り、両岸ともに岩手信猶の支配地となった。
5月に岩手信猶が在任中に死去した後、酒匂川両岸地域は、荻原乗秀が預
かり、さらに大岡配下の田中休愚の娘婿:蓑正高の支配へと移った。

・享保14年(1729)7月19日、田中休愚は代官となった。
 大岡支配下の役人として、武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち3万石を支配
 した。
 殖産政策にも携わり、橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)から櫨(ろうそく
 の原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている。

・享保14年(1729)12月22日、江戸浜町(現中央区日本橋)の役宅
 で病死した。享年68。
  墓は妙光寺(神奈川県川崎市幸区)と広済寺(東京都秋川市)にある。
 『民間省要』、『走庭記』『玉川堂稿』『続夢評』『玉匣』『作法書』
 『治水要法』『冠帯筆記』などの著書がある。
・死後、子の田中休蔵(喜乗)が支配勘定格を引き継いだ。
・元文4年(1739)150俵2人扶持となった。
・1740年、現役で没した。

田中休愚著「肥料の変化」『民間省要』
「夫れ田地を作るの糞し、山により原に重る所は、秣を専ら苅用ひて
 田地を作るなれば、郷村第一秣場の次第を以て其の地の善悪を弁べし。
 近年段々新田新発に成尽して、草一本をば毛を抜ごとく大切にしても、
 年中田地へ入るゝ程の秣たくはへ兼る村々これ有り。古しへより秣の
 馬屋ごへにて耕作を済したるが、段々金を出して色々の糞しを買事世
 上に専ら多し。仍て国々に秣場の公事絶えず、又海を請たる郷村は、
 人を抱へ舟を造りて色々の海草を、又は種々の貝類を取てこやしとす。
 其外里中の村々は山をもはなれ海への遠く、一草を苅求むべきはなく、
 皆以て田耕地の中なれば、始終金を出して糞しを買ふ。古へは干鰯金
 一両分を買ふて粉にして斗り見るに、魚油の〆から抔は四斗五六升より
 漸く五斗位にあたりて、いかやうの悪敷も六斗にはあたらず。是享保子
 年まで五六年の間の相場なり。是を一反三百歩の田の中へふりて見れば、
 大桶の水へ香薫散を一ぷくふりたるにひとし。よって能入るゝと言者は、
 一反へ金弐両の内外入ざれば其しるしなし。惣て一切の糞しは皆干鰯を
 以て直段の目あてとす」

斉藤司著『田中休愚「民間省要」の基礎的研究』
~将軍吉宗への政策提言書の構成と内容~
近世史研究叢書43 (横浜市ふるさと歴史財団/1960年生まれ)
11800円 (税別)


⑥蓑正高****************************
・貞享4年(1687)松平越後守の家来で江戸小沢家の長男に生まれた。
  宝生座巳野庄之助兼正の養子となり、巳野(蓑)庄次郎を名乗った。
蓑家は三代前までは服部を名乗っていた。
 「家康の伊賀越え」の功績で、「蓑笠之助」と名乗った代官であったが
罷免されて、猿楽師になっていた。
 (★西沢淳男『代官の日常生活』P90)
蓑正高は田中休愚の家に出入りし、普請技術を学んだ。
・享保5年(1720)頃、田中休愚の娘と結婚した。
・享保11年(1726)義父:田中休愚による酒匂川補修工事に途中から
 参加した。
・享保12年(1727)に「相州酒匂川堤井御修復御用」を拝命す、正式
  に役人として普請に当たった。
・享保14年(1729)8月に、「関東地方御用掛」を兼帯する南町奉行の
 大岡忠相に抜擢され、「在方普請役格」となり、支配下となった。
 「蓑笠之助」に改名した。
 義父:田中休愚のグループに加わり、酒匂川の治水に当たった。
・享保17年(1732)支配勘定格に昇格となり、天領のうち33,500石余り
 を預かった。
・享保19年(1734)3月2日、相模国津久井県(神奈川県津久井郡)に
 おいて支配地が1万620石余増加された。
・元文元年(1736)、村役人の自覚を求めた『農家貫行』を徳川吉宗に
 献上した。
 備作物として「よくい仁(ハト麦)」を奨励した。

・元文4年(1739)代官となり、廩米(蔵米)160俵を給された。
・寛保3年(1743)7月5日、蓑正高の支配地が再び増加され支配地が
  7万石となった。
・延享2年(1745)、大岡忠相が関東地方御用掛を辞任したことに伴い、
 蓑正高は最後まで大岡の支配下に残っていた川崎平右衛門とともに勘定
 奉行支配下へと異動となり、大岡役人集団は解散となった。
・寛延2年(1749)出仕を止められ小普請となるが、許された。
・明和8年(1771)8月7日に死去。享年85。墓は芝の増上寺。



⑦田中喜乗
・享保14年(1729) 田中休愚の子の田中休蔵(喜乗)が支配勘定格を
引き継いだ。
・元文4年(1739)150俵2人扶持となった。
・元文5年(1740)現役で没した。

⑧上坂政形
・当初は大岡忠相の南町奉行所の与力を勤めていた。
・享保17年(1732)武蔵野新田支配の代官となり、200俵を給された。
・元文元年(1736)、本所中之郷(墨田区)に拝領屋敷が与えられる
  ことが老中:松平信祝より大岡忠相を通して伝えられる。
・寛保3年(1743)支配地が再び増加され、勘定奉行支配の代官に
 移管された。
・延享3年(1746)3月14日に勘定組頭に昇進した。
・延享4年(1747)正月19日に御三卿:田安家の郡奉行になった。

⑨川崎定孝
・ 元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現東京都府中市押立町)
の代々名主の家の長男に生まれた。
・享保7年(1722年)大岡越前守忠相は関東の農政を掌る関東地方
 御用掛という職に就いており、配下の野村時右衛門と小林平六に
 武蔵野新田の開発を命じた。
 野村と小林は押立村の名主だった川崎定孝に開発を請け負わせた。
 後、野村と小林2人は不正や納入する年貢の滞納などを理由に罷免
 された。
 新田の開発は川崎定孝に任された。
 完成した後、同地は大岡の配下の役人・上坂政形の支配所となる。

定孝は上坂の下で、武蔵野新田の竹林や栗林の植林などの御用を務
めた。
・享保8年(1723)、押立村名主となった。小金井原を開拓した。
  徳川吉宗に栗を献上した。
・享保年間、樹木や竹など土木を扱った。私財を投じて武蔵野新田の窮
 民の救済を行った。新田の開拓は82に上る。
 押立町を含む多摩川の40キロに渡る治水工事、凶作時の農民救済、
 生活安定の基礎となる井戸掘り公共事業、作業者へのわけへだてない
 報酬、私財を投じて六所宮(大國魂神社)随神門修理などを行った。
 武蔵野新田を預けられ月俸10口(役料10人扶持)を給されていたが、
 後に支配勘定格となり月俸は20口に加増される。

・享保17年(1732年)川崎定孝名主・農政家として活躍するかたわら、
 薬の販売にも携わっていた。
 (西沢「篤農家だけであなく、売薬業の商業センスも持っていた。)
 象洞や白牛洞という薬の発売を出願・許可されている。
 象洞は、象の糞を乾燥させて作った丸薬である。
 川崎定孝は江戸で疱瘡に効くとの触れ込みで売り出した。

・元文3年(1738)新田は大凶作に見舞われる。
 大岡は上坂に御救米や御救金を与えるよう指示を出した。
 川崎定孝を役料10人扶持の新田世話役に任命し、下役2人にも、
 それぞれ金10両2人扶持を与えた。
 川崎定孝は復興のため「飲水堀用水」と「出百姓立帰料(でひゃく
 しょうたちかえりりょう)」の費用として、1ヵ年250両の6ヵ年
 支給を大岡を通して幕府に申請し、認められる。
 農業精励の度合いに応じて褒美を与える奨励金制度を設けたほか、
 江戸からの肥料の仕入れをまとめて行うことで費用を安くし、収穫
 した大麦や小麦などをその年の相場の1、2割増しで買い上げ、各
 村に備荒用に貯蔵させるなど様々な施策を行った。
  また、困窮した民を救済するための「御救普請」も実施し、その際
 に人足役を仁・義・礼・智・信の5段階に分けて扶持米を支給してい
 る。

・元文4年(1739年)8月8日に「南北武蔵野新田世話役」に任命され
 た。
 川崎定孝が新田世話役に任命された後、押立村の名主役は弟の川崎平蔵
 に譲られた。
 川崎定孝は各村の村役人を案内人とし、下役2人とともに百姓家を1軒
 ごとに、その暮しの様子を細かく調査・記録して実態把握と指導につと
 めた。
 上坂は、1500両の新田開発料を、年1割の利息で農民に金を貸付け、
 利金を新田開発にあてる公金貸付政策に運用したが、定孝は4060両
 の資金を追加して新田経営の安定化を図る。


・元文4年(1739)、名字帯刀を許される。
武蔵野台地に82の新田を開発する。

・元文5年(1740)4月に上坂政形の下から独立し独自に裁量する
 権限を与えられた。

・寛保2年(1742)8月に関東一帯が大洪水に見舞われた。
 徳川吉宗は定孝を指名した。
 被害状況の実地見分と救済対策の立案を命じている。
 洪水の影響で玉川上水の濁りがひどくなったため、
 9月22日に泥の除去作業を行うことが決まった。

・寛保3年(1743)7月、上坂政形が勘定奉行配下に異動し支配地が
 下総国内に代わったのに伴い、支配勘定格となった。
 川崎定孝は上坂が担当していた3万石の地の支配を任された。

・延享2年(1745)、大岡が地方御用掛を辞任した際、最後まで大岡
 配下の役人として残った川崎定孝と蓑正高は勘定奉行支配へと移管さ
 れた。

・寛延2年(1749)6月、川崎定孝と蓑正高は武蔵野新田の支配から
 退いた。
 以後、武蔵野新田の統治は関東郡代伊奈氏によって行われた。

・宝暦4年(1754)7月18日に美濃国の代官となり、150俵を給された。
・明和4年(1767)4月15日に勘定吟味役に昇進し、石見国の銀山の
 奉行を兼役する。
 5月15日、布衣着用を許される。
 6月6日に病死。享年74。法名は道栄。墓は押立村龍光寺。

・現在、府中市郷土かるたでは「ききん救った平右衛門」と読まれている。





4)西沢淳男著「構造改革の実施」


箕輪初心:生方▲『李氏朝鮮の身分制度と徳川幕府の身分制度の類似性』
https://ubu3blog.at.webry.info/201902/article_20.html


享保10年9月11日(1725年10月16日) - 石高2,000石加増。
元文元年8月12日(1736年9月16日) - 南町奉行から寺社奉行に異動し、石高2,000石加増。
寛延元年閏10月1日(1748年11月21日) - 奏者番を兼帯。石高4,000石加増で合計1万石(三河国西大平)となる。
寛延4年11月2日(1751年12月19日) - 病気依願により寺社奉行御役御免。
1912年(大正元年)11月19日 - 贈従四位。






2)田沼意次の資本主義
教科書では「田沼意次はインフレ政策は悪い。また賄賂が横行した。」と教え
られてきた。確かに、田沼意次が吉宗的な農本主義から重商主義・資本主義
に移行した。株仲間の奨励策による運上金・冥加金の徴収、町人資本による
印旛沼・手賀沼の干拓事業と非人の活用と・新田開発、江戸湾埋め立て・佃
島の造成。銅座などの専売制の実施、罪人を利用した鉱山の開発、蝦夷地の
探検・開発計画、俵物(いりこ・なまこなど)や磁器などの長崎貿易の推奨
などで財政立て直しを図った。農民からだけでなく、町人からも税を取る為
政者としては有る意味、凄い財政改革と思わざるを得ない。田沼意次の経済
政策は、徳川吉宗の倹約と違って、貨幣の改鋳(改悪)を利用し、江戸市中
・大阪に流れる貨幣の流通量と物価高騰速度をコントロールして行くもので
ある。具体的には田沼意次は南鐐二朱銀を市中に流す量を徐々にだして、
物価が急に上がるのを調整しながら、進めるというものである。内需の拡大を
図って、経済を活性化し、利益を得た商人に課税を課し、運上金・冥加金の
徴収によって幕府の赤字財政を回復させる目的があった。田沼意次の在任中
に幕府財政の貨幣収入が増えた。田沼意次は景気を刺激していく意味では資
本主義の走りとみられる。田中角栄の「日本列島改造論」「所得倍増計画」な
ととも似ているともいえる。
しかし、町人に特権を与えすぎて、商品作物も叩かれる結果となった。浅間
の噴火も大飢饉となって、数年間で約100万人が死亡した。一揆や打ちこわし
が続発し田沼意次は破滅していく。

3)松平定信の寛政の改革
 田沼意次の失脚後、松平定信は、株仲間や専売制を廃止した。田沼意次
が推進した南鐐二朱銀を丁銀に改鋳しなおして物価の抑制を図った。結果、
幕府財政は却って悪化した。松平定信は再び、南鐐二朱銀を復活させた。
約6年間、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。
江戸に流入した農民に帰農令を出した。また、石川島の人足寄場の設置し、
浮浪人・無宿人仕事をさせた。ある地区(書かないことにする)に集め、
非人の統制も行った。農村部のえた身分にも統制を加えた。つまり、身
分制度改定も行われた。
倹約は農民は当然であるが、幕府の役人だけでなく、庶民にまで倹約を強要
した。華美な服装・歌舞伎・相撲の見物、発禁本なと娯楽の制限もした。
学問は朱子学を幕府公認の学問と定め、陽明学・古学の講義を禁止した。
吉宗は洋書の方はOKだったが、松平定信は蘭学には厳しかった。寛政異学
の禁である。
 結果、吉宗同様な倹約、蘭学の禁止など極端な思想統制令・経済・文化は
停滞することになった。
また、飢饉に備え、諸藩へ囲米を命じ、江戸の町々にも七分積金を命じた。
『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。
★利用させていただいていますよ。


★誰が「江戸の3大改革」なんて言葉を使ったんだろう。私は改革がいい意
味で使われていると教わって来たけれど、今は疑問である。
江戸時代の権力者だって、ダメダメ将軍もいたけれど、・・・・」

箕輪初心:生方▲『李氏朝鮮の身分制度と徳川幕府の身分制度の類似性』
https://ubu3blog.at.webry.info/201902/article_20.html


★明日は山本隆志先生「

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック