箕輪初心:生方▲竹井英文先生講演会「『吉政覚書』井伊直政家臣:里見義政の生涯」に感謝して

令和元年(2016) 11月16日、竹井英文先生の『里見吉政の覚書』の講演会を
拝聴させていただいた。私は現在、天正18年(1590)井伊直政の上野国関係の
25名+αの武将が分かっている。
井伊直政家臣の里見義政について
も『新修彦根市史』・『侍中由緒帳』で知っていた。講演会
も行く前から興味があった。『里見吉政の覚書』には井伊直政の家臣
になった里見義政が井伊直政の年寄(家老)である鈴木重好、木俣守勝
(狩野主膳一庵の子は木俣守勝養子:木俣守安)・長野伊予(長野業親か?)
庵原朝昌、および、後に井伊直政の家老となっていく石原吉次、岡本半介、
宇津木泰繋などが出てくる。実に興味深かったです。竹井英文先生が話し
上手なのでとっても楽しく拝聴したしました。大変ありがとうございまし
た。感謝申しあげます。竹内先生の本を2冊購入させていただきました。
竹井先生にブログ掲載の許可を得ていませんが、掲載させてください。
感謝の意を込めて、補足や蛇足を掲載したしました。失礼な項目があるか
もしれませんが、ご了承いただけたら、幸いです。それでは、・・・

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井伊直政の家臣として最終1000石知行の里見義政
父が不明であるが、徳川家康や井伊直政が名門といわ
れる武将を家老・侍大将などの重臣に取り立てる傾向
がある。
①安房里見里見義尭の子で長野業政の養子になった里見
義樹の孫なのか?
②箕輪城着到帳にある「十二家客分大身小身知行地方持
衆(高家)」 里見河内守宗義なのか?
③弟:里見修理亮義宗の関係者なのか?
④永禄年間の里見河内守義光の子なのか?
⑤里見河内守義弘の子であるのか?
不明である。

・天文15年(1546)里見義尭の次男が長野業政の養子とな
った。「石井泰太郎氏の所蔵長野氏系図」)には長野業政
 の養子里見義樹と記される。安房稲村城主:里見義堯
 の次男:文悟丸である。長野業正の妹を里見義堯室と
 している。
この系図を黒田基樹氏「西上州の中世」と、大東文化
 大学の里見繁美先生が支持している。
【父】安房里見義堯
 【母】箕輪長野憲業の娘(かつては長野業政の妹説)
 しかし、現在は箕輪城主は長野憲業→(信業)→厩橋
  長野方業
 (飯森説は方業=業政、黒田説は方業の子業政説)
 長野業政の子どもは
  →長男:吉業
  →養子:里見義樹
  →次男:長野業盛(文書では氏業)

・弘治3年(1557)長純寺の奉加帳「柱三本里見衆」とある
 代表は里見義樹(石井讃岐守信房)・里見河内守宗義
 であろう。
・永禄元年(1558)の箕輪城着到帳「十二家客分大身小身知
 行地方持衆(高家)」客分に「鷹留城主石井讃岐守信房」
 が掲載されている。
(「箕郷町誌」・「群馬県立文書館マイクロフィルム」)
(長野正弘所蔵のものもあるそうです。結局4種かな。)
弟:里見河内守義宗も「河内守」を名乗っているようだ。
【長野業盛の母】
※①長野弾正忠・正弘氏の系図・・高崎市史②
「長野氏業=(長野業盛)母は里見河内守娘 信玄御内」
※極楽院長野氏所蔵系図「母:保戸田腹(保渡田)」
極楽院は足利義昭文書・武田信玄制札・北条氏邦制札・
 徳川家康の制札2通あるので、信憑性が高い?
※②里見義成氏「永禄7年(1564)に仁田山から来た里見河
  内守宗義は里見郷に住んだ。」・・・
 里見宗義(河内)・弟里見義宗(修理亮)
 『甲陽軍鑑』にも「里見河内」とある。
 ・宗義は白岩の戦いの前に死んだ説
 ・宗義が永禄9年に死んだ説がある。(「甲陽軍鑑」)
 ・弟の里見義宗が安中に移りすんだ。
 (里見義成『里見氏』p100)
★長野正弘氏所蔵系図が正しいのか、着到帳が「河内守
 宗義」か正しいのか、里見義成氏『里見氏』が正し
 いのか分からないことになる。
・永禄6年(1563) 2月21日 石井信房没(31歳)。
・永禄年間に里見河内守義光・義弘が登場する。
 里見繁美氏「里見河内守義光&里見河内守義弘」が
 いたとする。
・里見にいる里見一族の方はどう捉えているのだろうか?
「守」は付くのは里見氏の関連では以上の5人はでてくる。
ちなみに長野氏は「伊予守業政」・「信濃守業政」を名乗っ
ている。極楽院「出羽守方業?」もいる。
里見義政は
里見義樹の孫か
里見河内守宗義の子か
里見修理亮義宗の子か
里見河内守義光の子か
里見河内守義弘の子か
諱「義」が物語っているので誰かの子に違いない。

○箕輪初心:生方の井伊直政の家臣団調べの履歴****
・2010年頃から、ブログで箕輪城主:井伊直政について調べ
掲載を始めた。既に家臣の里見義政についても知っていた。
もちろん、箕輪城関係なので、長野氏時代・武田氏時代・
滝川氏時代・北条氏時代も古文書を使って調べている。

・2013頃から、井伊直政の家臣団研究をはじめた。井伊谷龍たん
寺3回(武藤住職から井伊家家譜・井伊年譜を見せていただ
 いて写真も撮らせていただいたこともある。)・長篠城博
物館2回(「井伊谷三人衆」や「内藤昌豊」本を購入)
・彦根城博物館5回(野田浩子先生にも講演をいただいた
 こともある。)・京都井伊美術館1回(井伊達夫先生に
「井伊軍志」を安くしてくださった。)にも行った。
井伊直政の家臣の情報を得て、井伊直政関係を書いている。

・2014年?竹井英文先生から私のブログにコメントいただいた。
すぐに歴史の専門家だと分かった。
 井伊直政の家臣団をブログに掲載した
 戸田書店の中島さんの紹介で「里見吉政戦功覚書」を知った。

・2015年群馬県高崎市里見(旧榛名町)の「里見郷委員会」発刊
『ぐんま里見の郷再発見伝』第3号で竹内英文先生の『千葉大
学人文研究』43号(2014)での館山市立博物館所蔵の「里見吉
政戦功覚書」(里見内蔵丞吉政由緒書)について解説した。
「里見吉政戦功覚書」は里見吉政が寛永5年(1628)2月9日に
息子である里見金平・源四郎に残した里見吉政自身の戦歴を書
き綴った覚書である。吉政は天正5年(1577)生まれで。
里見吉政は秋間に善応寺(現在山吹保育園)に葬られたそうで
ある。里見家の墓には里見金三郎や里見源三郎の墓碑銘、正面
左の供養塔があった。新幹線榛安中駅開設為入り口道路ため、
下秋間(後閑北野寺近く)に集団墓地が移ってきた。
高崎市の戸田書店で販売。定価500円
http://www3.wind.ne.jp/book_haruna/index.htm
集団墓地にも行った。

・2016年から『井伊直政の家臣団の形成』・「箕輪城の城主や城代」
 をテーマにしてまとめたこともある。

・2019年は『井伊直政の徳川における位置』をテーマに
している。
2019年10月18日、竹井英文『戦国武士の履歴書~「戦功覚書』の世界~」
が発刊された。定価1800円+税
※竹井英文『戦国の城の一生』定価1700円+税
 (★出てくる城の半分くらいは登城している。)
(2016) 11月16日、中嶋講二氏の仲介で竹井英文先生の『里見吉政の覚書』
の講演会が開催された。竹井英文先生の本を2冊購入した。
その後、竹井先生とお話させていただきました。ぶしつけで失礼しました。
ごめんなさい。
『里見吉政の覚書』は井伊直政の家臣になった上野国里見郷の里見義政の
不明だった動向が分かる優れた書籍である。翻刻が大変な上、登場する場所
も調べるのに大変だったであろう。凄いなあ。私などは古文書が50%~80
%くらいしか翻刻できないないので、意味など分かるはずもない。




【0】箕輪初心:生方の「里見義政」関連で知っていること
●天文元年(1532) 里見義樹(後、石井信房)が生まれた。
里見氏始祖義俊16代目:安房稲村城主(館山市)
の里見義堯の次男として生まれた。
  母は箕輪城主:長野憲業の娘であった。
  幼名を文悟丸と言った→里見義樹と名乗った。
●里見義樹(1532~1563) 
「石井泰太郎氏の所蔵長野氏系図」には長野業正の養子
里見義樹と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:
文悟丸である。
系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。
★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。
1)里見繁美先生はこの説を強調している。
箕輪初心●箕輪城№81「大塚實氏&里見繁美氏の講演会」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html

2)黒田基樹「里見義樹」『西上州の中世』安中ふるさと学習館
 も石井系図を引用している。
・天文4年(1535) 上杉憲政の制札:榛名神社
・天文5年(1536) 武田晴信書状写:里見家文書
・天文15年(1546) 川越の合戦・・・長野吉業没? 
 ★里見義樹が長野業政の養子となり、長野義樹となった。
  になる。
・天文16年(1547)長野氏業(業盛)が生まれた。
長野義樹は業盛が生まれたので・・・・
・????年長野義樹 石井城主となった。
 石井城(現前橋市富士見)→
 里見義樹(長野信房)は石井城(前橋市富士見町石井)
 を任され、石井信房を名乗った。
 下田姓が多い。
 ①最初から第2家老:下田大膳が富士見にいた説
(★棟治氏説)
 ②石井が永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となったので、
  下田大膳が富士見に入った説
 (★西原巌説)

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
https://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html


・天文18年(1549) 三寺尾の合戦
   里見義光没 
  
・天文20年(1551) 長野信業没説
 長野弾正系図や極楽院長野正夫系図には信業はいる。
  11月7日に没した。法名は「南方長宗」である。  
 ※黒田基樹氏は長野信業はいなかったと否定している。
長年寺の墓にはない。
 2月 長野(後石井)信房が鷹留城守将となった。

・弘治元年(1555) 里見河内が雉郷城に入城。
(里見義成『里見一族』)

箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】
&武田信玄の長野業正の親戚衆への攻撃・調略
https://53922401.at.webry.info/201606/article_19.html

・弘治3年(1557)長野業政の長純寺再建。
奉加長に「柱同三本里見衆」がある。

箕輪初心:生方★箕輪城№260?【長純寺】:長野業政供養塔に初詣
https://53922401.at.webry.info/201802/article_36.html
★私の家が檀家なので、「長純寺史」に出ている
ので、掲載したつもりであるが?

・永禄元年(1558) 石井(里見)讃岐守信房は鷹留城主であった。
  客分筆頭に、石井左京大夫讃岐守信房:鷹留城主とある。
 (「箕輪城着到帳」『箕郷町誌』)
 (別の着到帳は群馬県立古文書館にマイクロフィルム所蔵)

箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説
https://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html

・永禄3年(1560) 里見義尭が長尾景虎に越山要請
  (『正木家文書』)
 長尾景虎の第一次関東出兵
◆春日山に証人(人質)で行った長野一族
 (日銀や台湾総督府を造った建築家:長野宇平治先祖)

箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
https://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html


・永禄4年(1561) 長野業政没 
  長野氏業(業盛)が14歳で家督を継ぐ。

・永禄6年(1563) 2月21日 石井信房没 討死。31歳。
 ◆里見義樹=長野義樹?=長野信房?=石井左京大夫讃岐守
 信房

・永禄年間 里見河内守は雉子郷城にいた。
  里見河内守は誰か?
 ①※長野正弘氏の系図・・高崎市史②
 「長野氏業=(長野業盛)・・母は里見河内守娘 
  信玄御内 ・・・」
 ②里見繁美氏・・・里見河内守義光&里見河内守義弘
 ③里見義成氏・・・永禄7年(1564)に仁田山から来た
  里見河内守宗義としている。
 ④里見郷の里見一族の方々子孫はどう考えているか
  不明。
里見河内守の子孫と考えているのかなあ。

・永禄9年(1566) 9月29日(11月2日)箕輪城落城
 ◆長野氏業(業盛)自刃
  (室田長年寺受連の制札)
 したがって、長野氏は
 ①箕輪に残った長野氏
 ②上杉謙信の人質になった長野氏
 ③武田信玄の人質になった長野氏
 ④室田長野氏は殆どが僧になって、後、彦根の寺の住職3人。
 ⑤徳川家康小姓から井伊直政の家臣になった長野業実
 長野氏系図は19かな?

里見一族は?

・永禄九年から天正十八年まで~~~~~~~~~~~~
・里見喜兵衛が不明?????????
 ・和田信業(跡部勝資の子息長男か?・内藤昌明(保科正俊
  の次男)・小幡信貞家老:熊井戸業実(息子は岡本半助)
宇津木氏久・安中景繁・小幡信貞などは滝川一益の家臣
から北条氏直の家臣になった。
・天正十年、石原作右衛門(石原主膳吉次)は和田信業の居候
 客分になって、3男の右兵衛(主殿)の人質のお供で小田原
 城に行った。北条家臣となった。
(久保田順一先生『高崎市史資料編』では石原主膳吉次)
   武田家臣団人名辞典P80では石原作右衛門の子石原
  次郎三郎としている。)

・天正十年(1582)以前に長野業実が井伊直政の家臣になった。
若神子の陣に参加。
(彦根藩『侍中由緒帳長野十左衛門家』)
※天正十一年(1583)長野業実が井伊直政の家臣になった。
  (『寛政重修諸家譜』)

・天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め
  3月4日 宇津木泰繁は山中城に行くように命じられた。
(『宇津木家文書』)
(後、宇津木康繁は井伊直政家臣100石)
6月 石原主膳(山県昌景の鉄砲奉行→和田信業
 (跡部勝資長男)の客人。和田信業の子のお供で小
 田原城にいた。北条氏家臣で北条氏鉄砲奉行となった。
 北条氏照の八王子城にいたことがある。
 (後、石原主膳吉次は井伊直政家臣)
6月7日和田信業の子ども:和田信矩が百人余りと小屋
 を焼いて、家康に助けを求めた。
 (後和田右兵衛主膳が井伊直政の家臣)
・天正十八年(一五九〇)六月七日「豊臣秀吉より加藤清正
に遣れる書状」
  「…(略)…夜日及難堪、缺落之輩雖有之、於其場被加御成
  敗、又者追返候間、上下被爲干殺を相待つ迄二候、昨夜和田
  (信業)家来之者百餘、徳川江相理、小屋/\二火を懸走出
  候、雖可被成誅罰候、家康江兼而心合之由候條、被助置候、
  …(後略)」
(徳川義宣『新修 徳川家康文書の研究  第2輯 』p155
  吉川弘文館 平成18年 )
つまり、和田右兵衛主殿が徳川家康の家臣になった。
(後、和田右兵衛主殿が井伊直政の家臣)
6月27日 八王子城攻め
 前田利家・上杉景勝の先導をなった大導寺政繁が
 先導を勤めた。城代家老の一人狩野一庵が討ち死にした。
 狩野一庵の妻は井伊直政の叔母・子どもは井伊直政の
 第一家老:木俣守勝養子:木俣守好である。
 横地監物が降伏した。
 (後、横地監物は井伊直政の家臣)

8月4日、井伊直政は小幡信貞を家臣にしたかったようで
 ある。
 小幡信貞に小幡領は没収されていまいそうです。・・・
 (八月四日 岡田新八郎宛井伊直政書状断簡(切紙)
戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」『加賀小幡文書』
『源喜古文書目録』など3通)
~~~~~~~~~~~~
 旧武田家臣から旧北条家臣を経て井伊直政の家臣になった
上野国関係者は以下である。
①内藤昌明三男:内藤信矩
慶長7年1500石


②和田信業の子ども:和田主殿(この時は和田信業の孫)
 慶長7年1500石

③熊井戸半右衛門の子岡本半助宣就
 小幡信貞の第一家老
 (※群馬県立博物館所蔵岡本半助の甲冑での家紋は長野
  業政と同じ檜扇。長野家と岡本家は親戚か?)
系図によっては熊井戸業実の妻は長野業政の娘
というのもある。
 100石→300石→上泉流後継者で500石
 井伊軍法の制定
 慶長5年関ヶ原で軍監
 慶長7年1500石

④宇津木氏久の子:泰繁
  九戸攻めで家康より鎧拝領。500石
  慶長7年800石
  元和2年1500石

⑤里見家子孫里見内蔵允義政
 (永禄9年~天正18年まで不明)
 ※箕輪落城後、おそらくは武田家臣、滝川一益家臣。
 それから、北条家臣。・・・が予想される。
★里見里見義樹(石井信房)の孫か里見河内守の子か不明
 である。
 「里見内蔵允義政が上州召し抱え」
 (彦根藩『侍中由緒帳』)
慶長7年500石


~~~~~~~~~~~~~~~~
天正19年(1591)井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に出陣。  
●10月15日 豊臣秀吉朱印状
「今度九戸居城へ相詰、仕寄等無由断申付
(今度、油断しないことを申しつける)
・・・会津少将(蒲生氏郷)言上候・・・]

箕輪初心:生方▲岩手⑤「紫波」の『陣ヶ岡』:有名武将の陣場
http://53922401.at.webry.info/201710/article_27.html
★井伊直政も来てるよ。
 おそらく宇津木・岡本・里見・石原なども行ったよ。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い

・慶長7年(1602)里見喜兵衛が500石であった。
 (★「分限帳・家並帳「彦根藩井伊家文書」『新修彦根市史』
   P357)
 中村達夫氏(井伊達夫氏)は里見喜兵衛=里見内蔵允義政
  としている。
(井伊達夫所蔵文書『新修彦根市史』・『井伊軍志』)

・慶長12年(1607)里見喜兵衛が400石であった。  
(『井伊年譜』『新修彦根市史』P364)

・慶長19年(1616)大坂冬の陣
岡本半助は軍監
 宇津木は鉄砲奉行
 里見は鑓奉行
 石原は旗奉行

・慶長19年(1616)井伊直継に、安中に移るにあたり93名が
 つけられた。
 里見内蔵丞殿、和田主殿殿。浜野喜兵衛(大工頭)など
(『新修彦根市史』P374)
里見内蔵丞は安中藩700石であった。
(『安中市誌』)

・元和9年(1623) 井伊直孝、北庄出陣の軍団編成
 「一千石、  鑓奉行 里見内蔵丞 」 P386
 「二〇〇石  里見平七郎
        同  金平」 P388

※『侍中由緒帳』は「上野国里見郷出身」
※『貞享畏譜』は「安房里見」…里見義尭の子とすれば、
   正しいことに)
箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
https://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
https://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html

箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の
親戚衆への攻撃・調略
https://53922401.at.webry.info/201606/article_19.html
①『里見一族』里見義成著では永禄年間(1558~)初期に里見城主
:里見河内守によって築かれたとしている。
桐生仁田山城・大間々要害から里見築城説である。
②長野憲業の娘は里見義尭に嫁ぎ、生まれた里見義樹は長野業正の
養子になっている。(黒田基樹氏・里見繁美氏説)、従って、永享
~天文初期には箕輪近辺に戻ってきている。
③箕輪城着到帳では雉子郷城の守備は「高橋氏」となっている。
 しかし、高橋氏の城か里見氏の城か不明である。守備に入った
 と考えることもできる。
④『関東古戦録』:久保田順一訳では安中景繁が秋間の礼応寺城・
辻城を落とし、雉郷城に迫り、那波無理之介が若田原から出陣し
雉子ヶ峠がら雉郷城を攻略した。とある。









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【2】2019竹井英文先生講演会『里見吉政の覚書』
令和元年(2019) 11月16日 群馬八幡荘再発見伝 第6回歴まち連続謙演会
 2019/11/16 竹井英文
戦国の「名もなき武士」里見吉政の生き様を探る

はじめに
■里見吉政という男
・地元里見出身、戦国時代に数々の大名家を渡り歩き、幾多の戦場を駆け巡って、
  最終的には彦根藩井伊家の重臣(1000石)にまで上り辞めた、実在の武士
・これまでは、詳細不明の無名の武士。ところが、一千菓県館山市の館山市立
  博物館に、彼が執筆した長文の「覚書」(「里見吉政戦功覚書」。博物館での
 登録名は「里見内蔵丞吉政由緒書」。
  以下、「吉政覚書」とする)が所蔵されていることが判明。
・この他にも、彼に関する史料が相当数残っていることも判明。彼の人生が徐々
  に明らかに
・このたび、多くの方々のご協力により、彼の一生を追った拙著『戦国武士の
  履歴書』(戎光祥出版)を刊行させていただいた。地元出身の「名もなき武士」
  のドラマチックな生き様を通して、地元の方々の心に何か響くものご提供したい。
  それがさまざまな形で地域の活性化に繋がれば、なお幸いである

1.戦国「渡り歩く武士」と「戦功文書」
・「渡り歩く武士」とは?
・「戦功覚書」とは?
・「吉政覚書」概観」・・・戦国末期の関東での数々の合戦から、秀吉の九州攻め、
  小田原合戦、関ヶ原の戦いに至るまで、自身が経験した合戦について詳細に
 記録。普通の噸功覚書」は戦功のみを淡々と記すが、「吉政覚書」は失敗談
 や教訓も記載。単なる「戦功覚書」ではないところに特徴。
・宛先人は、里見金平・源四郎の2人。金平は、吉政の次男武右衛門であることが
 確実。源四郎が三男弥次左衛門の可能性が高い。つまり、息子たちに書き残し
 たもの。一種の遺書ともいえる
・里見吉政自体は、最終的には彦根藩重臣になったものの、戦国史研究者であっ
 ても誰も知らないような、正真正銘の「名もなき武士」。そうした一武士の人
 生から、中世から近世へという激動の時代の様子を知ることができるという
 意味で、極めて貴重な史料

2.里見吉政の出自
・里見家・・・里見郷を根拠地とする土豪・地侍レベルの家と推定
・中里見の里見館は、あるいは吉政の屋敷か。光明寺も、吉政と深い関係にある
 と考えるのが無難。
・吉政の父親は不明。しかし、倍濃高遠藩内藤家の家臣となっていた、吾政の子孫
 と思われる里見家が残、した系図(江戸後期か)によると、吉政(義政)の父と
 して、景家(里見左近・蔵人)なる人物が登場する(『国立国会図書館所載里見叢書』
 (越前鯖江藩里見氏の編纂記録)。滝川恒昭氏のご教示による)
里見景家・・・里見吉政・・長男:喜兵衛
次男:武右衛門
3男:弥次左衛門
(『彦根藩士里見家系図』)
中村達夫(井伊達夫)先生は「喜兵衛=内蔵允義政」としている。

・「善政覚書」には年齢が記されており、そこから逆算すると、吉政は天文21年
  (1562)生まれ
・天正5年(1577)=26歳になってようやく史料上に登場。それ以前の動向は一
 切不明
【付録】「吉政覚書」全文現代語訳(一部意訳・省略)史料
原文は拙書収録

①…自分のことを自分で申し立てるのは如何なものかと思うが、第一に子孫のため、
第二に若いころ諸国を修業したのに今ではその甲斐もなく面目ないものの、そのあ
りましを記しておく。


3.吉政の人生①~北条・安中・滝川氏のもとで~
②‥昔のことは言わなくてもいいのだが、元をたださないと道理に叶わないので、書
 き記す。北条氏照が切り取った下総の城は古河・栗橋・小山・榎本であるが、その
 うち小山は敵の手先の近くであった。


箕輪初心:生方の補足等
 栗橋城は富永助盛(猪俣邦憲)の父が在城した。



■下野小山にて
・天正5年(1577)、26歳の吉政は、戦国大名北条氏の有力一族・北条氏照に仕え、
 結城氏・佐竹氏ら反北条勢力との境目であった下野小山祇園城に在城。里見右衛
 門尉を名乗る。
・同年、小山木沢口の戦いでの大失態

③…天正五年(1577)五月、結城晴朝が小山・榎本を攻撃し、その退却時に押さえ
 のために祇園城近所の喜択という在所に太田道誉・梶原政景の軍勢を置いた。
 その中から、郷人に紛れて切所に軍勢を置いた。北条側はそれらを攻撃しよう
 として色々と議論したが「手立ては尤もだが、皆指物を置いていて敵味方の判別
 がしにくいので、手柄次第に馬上から突き落として、もたつくことなく突き
 落としたものには目もくれないようにしよう」と決めた。人馬を選び十三騎を派
 遣したが、その後武者大将から十二騎へ一言伝えることがあるということで、
 私が使者として派遣された。その時悪い欲が出て、名を名乗らない者を一人馬上
 にて突き落とし、約束を破って馬から降りて首を取ったのだが、無数の鑓で攻
 撃され、馬と死人の間をかけ分けて退却したが、おみ左右衛門が負傷した。
 これでは手柄にならないと思い、引き返して負傷人を連れ帰り、私も存命した。
 子孫の者に言いたい。約束事を破ってはいけない。自分の身だけを立てようと
 すると命を失いかねない。私は敵味方両方で手柄を立てたと批判された。この
 奥に誓詞がある。一言も偽りはない。私が二十六歳の時のことである。


箕輪初心★栃木【祇園城=小山城】&小山一族の栄枯盛衰の歴史
https://53922401.at.webry.info/201312/article_10.html

箕輪初心○栃木[小山氏城跡②]=【鷲城】&小山義政
https://53922401.at.webry.info/201312/article_11.html

箕輪初心●栃木小山【中久喜城】=鉄道で真っ二つの城
https://53922401.at.webry.info/201312/article_12.html



・天正6年、小山土塔塚(愛宕山古墳)の戦いでの大活躍
  ・剛の者・大田十左衛門との格闘
  ・尾張牢人の荻谷氏との旗指物をめぐる争い

④…天正六年七月、結城晴朝が小山・榎本を攻撃し、その退却時に押さえのために
 土塔塚に軍勢を置いたが、小山衆が無理に攻撃を加えた。その時、私は抜きん出
て故に懸り、水谷伊勢の内衆・長野伊予と申す人も抜きん出て、鑓を合わせ手柄を
立てた。
 しかし、小山衆は無勢だったので、南側から崩れ、北側にいた私は多くの手柄を立
て、敵をひっかけまわして退却した。その際、両国にて有名な厚木左京亮という人
を突き落として、その父子の首を取った。岸源十郎・石原主膳と私三人が負傷した。


箕輪初心:生方の追加・蛇足等*****************
・天正5年(1577)
 5月28日、宇都宮広綱・芳賀高継・大掾資幹の軍勢は結城城の東方の
 小川台(茨城県筑西市)に布陣した。
 6月結城晴朝が小山秀綱の調略に応じ、上杉謙信、佐竹義重と
  結び北条氏政と敵対した。
 閏7月に北条氏政は弟の北条氏照・北条氏邦に命じ、結城城を
 攻撃した
 8月28日 山川口(結城郡)で結城軍と北条軍は衝突した。
 10月、宇都宮広綱の次男:宇都宮朝勝は水谷勝俊の交渉で
  結城晴朝の養子となった。宇都宮氏、結城氏、佐竹氏は三者
 同盟を結んで北条氏政に対抗した。
・天正6年(1578)、後北条氏が常陸国に侵攻した。
 小川台合戦 北条氏照VS 三者連合軍
 結果・・北条軍が優位に進めていたが、撃退された。
(ウィキを参考にした。)

A長野伊予・・・長野伊予守が出てくるのは長野伊予守業政(信濃守業政)で
 永禄4年(1561)に死んでいる。永禄9年(1566)武田信玄(実際は大将
  義信)の侵攻で箕輪城が落城、長野氏業(業盛)は自刀した。
  永禄4年以降は「伊予守」は外の史料・資料上にはでてこない。
  「長野出羽守」もいる。長野出羽守勝業かもしれない。
  天正6年であるとすれば、里見義政が言っている
 長野伊予守は勘違いかもしれないし、長野業政の子:
 長野業親(長野業実の父)を長野伊予と言っているか
 もしれない。
 長野業実は天正十年以前に井伊直政の家臣になった。
 (『侍中由緒帳』)
長野業実は天正十一年井伊直政の家臣になった。
 (『寛政重修諸家譜長野家』)
 とあるので、天正6年段階で、長野氏宗家は北条氏に
 参加したことになる。
B岸源十郎・・・永禄元年(1558)白井長尾の一族で箕輪城の長野業政の高家客分
        剣術指南の一族であろうか?
C石原主膳・・・甲斐出身の石原作左衛門=次郎三郎が石原主膳吉次と思っていた
 が、天正十年に和田信業の客分になったと思うが違うかもしれない。
 天正6年であれば、石原主膳が武田勝頼家臣の山県昌景
 の寄子として鉄砲隊長として活動しているはずである。 
 石原主膳吉次は山県昌景の寄子なので、後、井伊直政の
 家臣になって家老になった元山県昌景の寄子:広瀬信房
 ・三科形幸・孕石泰時(今川時代の時代に家が徳川家康
 の隣の家)らと一緒に活動していたと考えられるが、・・・
※私の行った甲斐の石原家には三枝家に養子に行った三枝
 守友もいる武田氏の名門家系。・・・
山梨県:石原家文書
①和田信業は武田家側近の跡部大炊守勝資の子で和田業繁
の娘をもらって養子に入ったこと 
②和田信業は一五八二年の武田氏滅亡で、小田原城の北条
氏直の家臣になった。信業は人質として、「御料人様」
(信業の娘)を小田原に差し出すことにした。
七歳の女子が初めて帯をしめるお祝いである「帯とき」に、
後北条氏重臣の垪伯はが(垪和伯耆守康忠)に立ち会いを頼む
など祝儀の準備は進んだ。「御料人様」の慰め役に石原作
右衛門が命じられていること 
③御北様(穴山梅雪の妻=信玄娘)は小田原に百疋を届け
るため、同行者に大久保長安と石原作右衛門を頼んだこと
(現地で写真を撮らせていただいたが、当時は翻刻できなか
 たので、内容を解説させていただいた。)

・天正10年に赤坂和田城主(現高崎市)和田信業のところに客分
 になっている。
  (『高崎市資料編』・『武田氏家臣団人名辞典』)
 ※下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』には石原主膳は出てこない。
(石原は一人掲載、石原安定で、家康家臣であった。)
和田信業の客分という『高崎市資料編』・『武田氏家臣団人名辞典』が
正しいと考えられる。
 私見ではあるが、里見義政が「石原主膳」との出会いは
 時代の勘違いか人物の勘違いもしれない。



この父子の首を結城方が受け取りに来たのだが「昨日の戦いで大活躍した白□・白御幣
の指物の武者は誰か」と聞いてきたので、北条方は「一人は忍牢人の手島左馬介、もう
一人の白御幣は上野牢人の北小次郎である」と伝えた。何事も昔のことは言わなくてい
いものだが、そうなってしまったことを記しておく。これもー言も偽りはない。私が
二十七歳の時のことである。



③…合戦に関する出来事ではないが、小山にいた頃のことなので、書いておく。大田十
左衛門という人が氏照から狩野主膳に預けられたのだが、二回も法度違反を犯したので
捕縛することになり、狩野源十郎・石原主膳が私に相談してきた。


箕輪初心:生方の補足・蛇足等*****************
八王子城主北条氏照から城代家老:狩野主膳一庵である。
 妻は井伊直政の叔母で、子どもは井伊直政家臣木俣守勝の養子:
 木俣守吉である。


十左衛門は年齢といい体格といい、私は若年だった土ともあり頼もしく思っていたので
親しくしていた。
その関係から私へ相談してきたので、拒否できず簡単なことであると彼を捕縛した。
その時、まずは捕縛の理由を述べ、次に納得いかないならここから出ていけと言うと、
十左衛門は納得したので捕縛した。このことは誰も信じてくれないだろうが、年月を経
て番衆がいながら、十左衛門は高手小手の状態で二重に縄を縛られながら脱獄して私
の寝屋へ向かってきた。私は裸の状態で起き、組み合いながら「助けてくれ」と叫んだ
が、彼の剛腕ぶりを皆知っているので、助けが来ないところに、石原主膳がやってきて
助けられた。このことが氏照の耳に入り「戦場での活躍は覚悟のうえでのことだが、
不意に寝屋へ飛び込んできた剛の者を裸の状態で組み止めたことは、七度の鑓にも増す
手柄である」と褒美に預かった。これも二十七歳の時のことである。小山は、故に囲ま
れ日夜頻繁に小競り合いが起きていた。今では手柄に藩定されるようなことも沢山あっ
たが、あまりに多いので書かない。無駄な苦労をしたもので、今では何の役にも立っ
ていない。あまりに残念なので、書いておく。若い人は主君の命令を守りきちんと奉公
すること。

                                   l
⑥…砥園城に番手として青めていた時、仮にではあったが尾張浪人荻谷氏という人が、
 金色の宝珠の玉に白御幣の指物をしていた。私も金色の酒林に白御幣の指物だった。
 荻谷は私に指物のことを説明してきたが、私は納得せず争った。そのうち下野鹿沼城
 へ荻谷を物頭とした鉄砲隊を加勢として派遣することになった。荻谷が武具をまとっ
 て私のところへやってきて「私が悪かった、暇乞いに指物を頂けないか」と言って
 酒肴を持参して色々と懇望してきたので、仕方なく気味よく指物を与えた。それより
 私は白御幣の指物を止めた。




■北条氏邦のもとで
・天正8年(1680)段階で、29歳の吉政は氏照のもとを離れて、同じ有力一族で
 ある北条氏邦に仕えていた。氏邦は、天正6年の御館の乱を経て上野沼田城を
 押さえていた。

箕輪初心:生方「沼田・川場・白沢・昭和・片品・水上の城一覧
16/60城
https://53922401.at.webry.info/201808/article_3.html

箕輪初心●群馬【沼田・片品・みなかみの城一覧53城】
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201202/article_18.html

箕輪初心:生方▲沼田『沼須城』&「流浪の武将:藤田信吉」
https://53922401.at.webry.info/201807/article_37.html

箕輪初心●群馬みなかみ【明徳寺城】&『水上温泉』
https://53922401.at.webry.info/201202/article_23.html
★北条氏の真田対策の前線基地の城で月夜野後閑にある。

箕輪初心●群馬【名胡桃城①】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_21.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城②】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心:生方▲名胡桃城発掘の三宅敦気先生講演会「名胡桃城」
http://53922401.at.webry.info/201611/article_19.html

箕輪初心:生方▲スキー№13『神楽』
&真田丸86【名胡桃城のガイダンス施設】
http://53922401.at.webry.info/201604/article_17.html


・後閑橋の戦いでの大活躍
⑦…その後、氏照のもとを引き払い氏邦に仕えた。氏邦が沼田城を抱えていた時、
 小川可遊斎が謀反を起こして、真田昌幸に付いて武田勝頼に従属した。氏邦が
 沼田仕官のため逗留中、昌幸は西上野・信州佐久郡・小県郡の軍勢を率いて沼田
 へ天正八年四月八日に出陣した。後閑というところに利根川にかかる大きな橋が
 あった。その橋の向こう岸に大量の「しほり」を立てていたが、昌幸自身が
 攻撃し、一重目が破られ残り一重になってしまった。橋のこちら側に歴々の物頭
 達がいながら一文えもなく取られたことは余りに見苦しかったので、若いことも
 あって見かねたので、黒澤帯刀・冨永勘解由左衛門と三人で鑓にて反撃し、「しほり」
 を取り返した。その時私は然るべき場所にて負傷した。二十九歳の時のことである。

 敵と育っても敵による。普通に働いたので取り返せたのだ。橋を越えるときは矢・
 鉄砲に当たり、討死する者も少なくないが、私達は目立つ場所で不思議と無事
 だった。このようなことは末代までの手柄である。一言も偽りはない。日本の神々も
 ご照覧あれ。偽りなら七代まで冥利尽き果てるだろう。


箕輪初心:生方の補足・蛇足等*****************
 冨永勘解由左衛門・・・土肥の北条№4富永一族。江戸城二の丸、栗橋城主。
子どもは藤田(北条)氏邦同様、富永助辰は猪俣家に養子に
 入り、猪俣邦憲・その弟:冨(富)永勘解由左衛門である。
箕輪初心●西伊豆⑳【土肥高谷城】後北条№3の富永一族の本拠地
https://53922401.at.webry.info/201609/article_23.html

箕輪初心●西伊豆21:土肥「丸山城」=天正17年富永助盛
=猪俣邦憲は?
https://53922401.at.webry.info/201609/article_24.html


■武田氏滅亡前後
・天正10年3月、織田信長によって武田氏滅亡。30歳となったその頃の吉政は、
 氏邦のもとも離れ、地元里見に戻った=牢人状態。ほどなく、地元の国衆安中氏や
 信長重臣滝川一益に仕える

・安中で、国衆小幡氏と激突
⑧…氏邦のもとを引き払い、国本で引き籠っていた時、天正十年信長が武田氏を
 滅ぼし、武田方の大名・小名は思い思いに国元へ引き籠った。そのうち、小幡
 信貞が三月十日に安中領へ出陣し放火をして郷原へ乗り込んだので、私は指物
 を指して出陣し、松井田近所の名山という山に登り、歩兵・馬を俄に集め、馬上
 にて敵を突き伏せ、若衆に首を取らせた。それから十六の首を取り、近辺を乗
 り回し、引き上げ時には五十ほど首を取っていた。このことは、岡本半介の父
 喜庵も半介殿へ話しているだろうか。表だって言いにくいことだが、男として
 晴れがましいことなので、仕方なく書いておく。このことは私自身が棟梁とし
 ての分別で行ったことである。三十一歳の時のことである。

箕輪初心:生方の補足・蛇足等*****************
A、小幡信貞は甘楽国峰城・・・井伊直政が小幡の城の確保をしようと
がんばったが、だめだった。(井伊直政からの文書が3つあり。)
B、岡本喜庵は熊井戸半右衛門(熊井戸業実・実業)小幡信貞第一家老
C、岡本半介(熊井戸業実の子ども・・・後、井伊直政家臣)
上泉流の継承者、井伊直政100石→300石→字が読め上泉流500石
井伊軍法→関ヶ原で軍監、慶長7年1500石
箕輪初心●群馬:旧安中の城【山崎26城<井上35城】
https://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html

箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町②国峰城=武田24将:小幡重貞
https://53922401.at.webry.info/201104/article_16.html
★本当は24将ではない。

箕輪初心●群馬の城:甘楽編④「麻場城&小幡城(織田信雄)」
https://53922401.at.webry.info/201104/article_20.html
★熊井戸業実(長野家と家紋同じ「檜扇」)の里城(小幡城代)


・沼田城の明け渡しをめぐっての活躍
②…沼田において、滝川儀大夫と藤田信吉にもめ事があり、両者の使者を務めた。
 信吉は「滝川一益が上方へ上るので、私に沼田城を返してもらいたい」と言ったが、
 儀太夫は「何事も前橋からの指示次第に城を明け渡す」と何度も主張しだが渡さな
 かった。


★箕輪初心:生方
 このときは前橋は「厩橋」であり、滝川一益は箕輪城から厩橋城に入った。
A、滝川儀大夫は滝川一益の弟
B、藤田信吉は寄居の藤田康利の長男とも言われている・・・
 藤田康利の娘「大福」が北条氏邦が養子として入ってきて、藤田姓にな
 ったので、北条氏から離脱し、上杉謙信の家臣になって、沼田にいた。
天正6年(1578) 上杉謙信が死んだ。御館の乱が起こ
 った。藤田信吉が北条氏邦の家臣として、越後の坂戸
 城に迫った。雪が降ってくるので、北条軍は撤退した。
天正8年(1580)8月、武田家臣・真田昌幸の調略を
 受入れ、武田氏に沼田城を引き渡した。
 その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となった。
沼須城(沼田市)は、沼田大地の片品川沿いにある。
 武田勝頼から5700貫の所領を拝領した。
 藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与え
られ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った。

 
 
 結局、昌幸に渡されることに決定し、六月十三日に昌幸は軍勢を率いて城の受け取り
 にやってきた。その時、私は信吉のもとへ赴き、無理に備えを出させて「もう城が渡さ
 れる望みはないのだから、退かれるのがよい」と言い、退かせた。そして戻ろうとした
 時、加勢の真田軍が私を討ち取ろうと襲ってきたので、肥田を渡って石塚に登り「私は
 里見右衛門尉と申す者である。儀大夫と信吉との間にもめ事があり、使者を務めた。
 侍はお互い様なので、無理に退かせた。不当に何かと理由を付けて襲うのであれば、
 物頭の者として鑓を交じえたい」と叫んだので、納得され、その場は済んだ。物頭は
 長根縫殿介だった。わかってもらえたので戻ろうしたところ、敵味方の区別がつかない
 状況で襲われたので、馬を出し、敵もろとも崖へ飛び込み討ち取った。儀大夫からは、
 「最近いろいろと苦労していたうえでの今回の件で心配していたところ、高名を挙げ
 見事である」と褒美の言葉を預かった。


箕輪初心:生方・・・長根縫殿介は上野国吉井の長根城主である。


・神流川の戦いでの活躍
③・六月十九日、滝川衆と小幡衆が武蔵で合戦した時、朝の合戦は滝川方が大勝
 した。その先衆を引き上げさせる時手違いがあったので、私が使者として派遣
 された。物見にも行った。ニ度目の合戦の時はあまり役に立たなかったが、随分
 と奉公した。敵への紳時、私は馬を負傷させてしまい、一度馬から降りたが、再
 び乗った。


箕輪初心:生方の補足・蛇足等
 滝川一益の味方していたのは内藤昌明・小幡信貞(含熊井戸
 業実・岡本半助)・和田信業・木部氏・安中氏など・・・
箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
https://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html



・信濃川中島での活躍
⑪滝川が敗れ上洛すると、北条氏は信州へ打ち入り、川中島まで軍勢を派遣
 した。真田隠岐守が牧野島城にいたところ、上杉景勝が川中島へ、徳川家康が
 上諏訪まで出陣してきたとの一報が北条氏直へ届いた。牧野島城から真田隠岐
 守を引き取るため、北条方は夜備えを出した。


箕輪初心:生方▲【信濃牧之島城】:香坂氏→馬場信春の武田流
の丸馬出&三日月堀
https://53922401.at.webry.info/201604/article_20.html


信州侍十三頭のうち、先手真田昌幸、二番内藤昌月、三番小幡、四番安中、五番和田と
して八幡原に備えを出したが、夜に総崩れとなった、私は年寄でもなかったが、安中氏
の使者として小幡のもとへ行き、乗りかえして小幡を見舞うよう才覚して、さらに内藤
のもとへも安中と一緒に行った。内藤は「奇特なる事」と安中を褒め、羽織・腰物を与
えた。安中も内藤に鷹、腰物を進上した。私は安中に頼られたので奔走した。その頃は
里見右衛門と名乗っていた。安中は「吉政のお陰で褒美に預かった」と喜んでいた。
「虎口の儀」は大事である。子どもたちは心得ておくように。


★神流川の戦い後の北条氏に付いた真田・内藤・和田・里見の
 ことが分かる史料である。

・上野金山城攻めでの死骸の引っ張り合い
⑫・‥天正十一年十月二十八日、金山城の本丸呑嶺いう所に、新田三蔵院の屋敷と、
 その向かいの小金井越前の屋敷にて敵と戦い、味方が崩れて辻屋敷という所まで
 六・七町ほど退いたが、敵が追撃してきた。そこで江戸遠山氏の同心で有名な武
 士であった中条出羽守が討死した。私はその首いて、敵に首を取らせまいと思い
 死骸の引き合いになり、引き勝った。私が若い頃の事である。それ以後は上方へ
 上ったので、関東のことは一切知らない


★箕輪初心:生方補足・蛇足等*****************
箕輪初心●群馬『太田金山城現地説明会20140316』
https://53922401.at.webry.info/201403/article_22.html

箕輪初心●群馬『太田金山城3回目前編』
http://53922401.at.webry.info/201403/article_23.html

箕輪初心●群馬『太田金山城』1回目=石垣の見事な100名城
http://53922401.at.webry.info/201311/article_8.html

箕輪初心●群馬【太田金山城跡ガイダンス施設】&『太田金山城』2回目
http://53922401.at.webry.info/201311/article_10.html

箕輪初心★井伊直政家臣:宇津木
http://53922401.at.webry.info/201301/article_16.html

箕輪初心▲熊谷:【中条氏館】:常光寺&中条家長&子孫
https://53922401.at.webry.info/201409/article_1.html

遠山氏は富永氏・笠原氏を江戸城を守っていたこともあった。

・金山城攻め後、関東を離れ上方へ。豊臣軍の一点として
・天正15年の秀吉の九州出兵に従軍。吉政は35歳
⑬・⑭‥・秀吉の九州攻めの概要説明なので省略

・秀吉の筑前岩石城攻めの見聞。その後、秀吉軍本隊に近いところで従軍し、
薩摩伊集院まで南下し、九州の西側諸国を見聞

⑮天正十五年四月十七日の夜、日向の高城へ島津軍三万にて豊臣軍の先衆へ夜懸
をした。その時宮部継順が活躍し、四八三人を討ち取った。その後、秀吉は肥後
・薩摩境目まで来たので、夜懸のことを申し上げた。その時、木食上人と細川幽斎
を薩摩に派遣して九州は静□になった。私は豊後口・日向口とは違う方面にいたの
で知らないが、このような様子だったとのことなので、そちらの方面
のことを記しておく。


⑯・‥三月三日、秀吉は赤間関を渡り、豊前へ上陸して攻め込み、筑前岩石城
 の近辺に陣取った。秀吉が「ここから敵城へどのくらい近いのか」と尋ねると
 「秋月と申す者の脇城である岩石城があります」と申し上げると「ここまで
 下向してきたことを知らない城がないだろうに、無礼者である」と言い、秀吉
 自身が近くまで出陣した。城攻めの軍勢を配置して、二方を開けて城の者を逃
 げさせるようにした。蒲生飛騨の軍勢が早く着き、小丸二つを落とし、ホラ月
 を吹いて鬨の声を上げて二方より攻めかかった。城の者は逃げて討たれなかっ
 た。その時、蒲生源左衛門が秀吉の目の前で活躍したので、褒美に預かった。
 その後、秀吉は筑前・筑後・肥後へ進み、薩摩伊集院まで出陣し、大隅を片付
 けて、山中で道を間違えて再度肥後へ出て、長門赤間関を経由して諸方面の仕
 置を行い京都へ帰陣した。


★箕輪初心:生方の補足等
・天正15年(1587)4月の豊臣秀吉による九州攻めで前田利長
 ・蒲生氏郷が攻め寄せて一日で落城させた。
 私は福岡県田川郡添田町の近くに2回行ったが寄っていない。

箕輪初心●福岡【秋月城】=小京都の城
https://53922401.at.webry.info/201110/article_19.html

箕輪初心●鹿児島【一宇治城→鹿児島城】=島津家本城
https://53922401.at.webry.info/201110/article_6.html



・天正18年(1590)、38歳の吉政は、秀吉家臣の浅野長吉(長政)に仕え、
 小田原合戦に出陣。著名な武蔵忍城攻めに参加
・忍城攻めでの真田軍の失態を見物。自身は「本城」まで攻め込む大活躍

箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
https://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html

箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』
https://53922401.at.webry.info/201409/article_8.html


⑰…小田原合戦の時は、浅野長吉衆として参降した。武蔵忍でのことである。
⑱…真田昌幸は忍城皿尾口の担当だった。ある時昌幸が長吉のもとへ来て「私の
 請取口は城内の者も知っているので、二・三町攻め込んで曲輪の二つ三つ、明日
 渡って攻め取りたい」と言ったので、長吉も「尤もである。そうであるならば私
 の軍勢も出そう」と言った。しかし、昌幸は「それは無用です」と言って帰った。
 明け方から長吉は軍勢を出し、それから昌幸に使者を派遣したが、うまくいかず
 に敵方に知られてしまったので、浅野軍だけで皿尾口を乗っ取った。二之丸・三
 之丸に構わず本城の堤の内に入ったが、そのニケ所に沢山の仕寄があった。その
 一重目を破り、二重目を破つたところ、長吉から使者がやってきたので引き返した
 ところ、真田軍がやってきた。昌幸は失態を犯した。皿尾口に構わず本城の壕の内
 へ入った衆は、浅野右近・佐藤才三郎・すかの平兵衛・上村豊後と、この時も私だ
 った。

⑲…長吉は忍城桜ヶ馬場から行田口を請けもっていた。七月五日の朝に行田口を破った
 が、浅野軍は多勢だったので埠へ乗り上げられず、私が一騎にて行き、堤の南方を
 五・六町も泥ふけ田を乗り渡り、篠垣がある所で馬から降りて、水堀を二重越えて、
 その奥に「節家橋」の橋を引いていたところへ、強烈に弓鉄砲で撃たれたので、
 歴々衆が多く討死した。城中の者共は勢いづいて逃げる浅野軍を追撃したので、
 さらに沢山討たれた。私・石本善介・浅野次郎左衛門・広瀬与八郎、この四人
 にて一方の殿をした。これは町の左の方で、右の方は浅野右近とその内衆数人、
 その後に岡野弥右衛門・小嶋大介その他二人、一方は我等四人がそこでさまざま
 に活躍した。



5.吉政の人生⑨~井伊直政との運命的な出会い~
■井伊氏家臣として
・小田原合戦後、井伊直故に仕官。
・天正19年の陸奥九戸城攻めに従軍
・九戸城攻め時の井伊軍の活躍。宇津木治部右衛門の軍令違反
⑳…天正十九年奥州九戸城攻めの時、井伊直政にお供して出陣した。いつもの
 ように九戸城へ諸大名衆が押し寄せたが、井伊家が一番早く押し寄せた。一夜
 の内に一気に堀際まで押し寄せた。蒲生飛騨は二晩かけても出来なかった。
 浅野長吉は二晩かかった。堀尾吉晴は三日かかった。井伊家が早く取りついた
 ので、城中から直政へ降伏の使者が来て、九戸城は開城した。御手柄は申すま
 でもないと下々まで話していた。その他、書いておきたいことはたくさんある
 が、いずれも人々の間で語られるだろうから、ここには書かない。


21…九戸城へ攻め寄せた時、庵原助左衛門が鉄砲に撃たれ負傷した。日比野左近
 が直政へ伝えたので、人を派遣して引き上げさせた。かなりの深手だった。

箕輪初心:生方の補足等**************?
今川家親戚庵原助左衛門が井伊直政に天正16年にいったん付いたが、後天正
 18年、家臣となった。妻は井伊直政の叔母である。

22…九戸城を長期間包囲して、諸大名が蒲生氏郷と寄合をして惣談合をした。城
 にて謀反を企てた衆を成敗した時、宇津木治部右衛門が法度に違反してその場へ
 出て鑓で走り回った。それを開いた直政は「成敗するべし」と言ったが、宇津木
 は仙石徳斎を通じて浅野右近の預かりとなり、長吉の嘆願により許された。その
 場と私は谷を隔てていたが、宇津木の所行を見ていない者はいなかった。
 秋田・酒田・最上衆がよく見ていた。

箕輪初心:生方の補足等******************
箕輪初心:生方▲岩手⑤「紫波」の『陣ヶ岡』:有名武将の陣場
http://53922401.at.webry.info/201710/article_27.html

箕輪初心★箕輪城№97【井伊直政配下:宇津木蔵人泰繁】
https://53922401.at.webry.info/201301/article_16.html
 宇津木泰繁は戦功により上野福島(高崎市玉村)に600石
 を賜った。元258石+600石=858石かな?
 徳川家康より拝領した具足と脇差も賜った。

箕輪初心★箕輪城№96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
https://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

・慶長5年(1600)、吉政は48歳。関ヶ原の戦いでも、直政の側近くに仕えて活躍。
 直政が狙撃された直後もすぐに駆け付け警護。この頃まで、里見喜兵衛と名乗る

箕輪初心●岐阜:関ヶ原の戦い=天下分け目の合戦
https://53922401.at.webry.info/201109/article_12.html

23…関ケ原の戦いの時、直政が鈴木石見守に「里見喜兵衛にも十騎命じたが、私が
 病気なので、木俣土佐と両人と申しながら、石見の事は、気分が悪い時は度々
お前を呼ぶので、その時はお前の後に喜兵衛を乗せて、いっ私が呼んでもその場
を崩さないように乗せるように」と命じた。十人のうち三人が病気になったが、
残り七人のうち、私の他に上野棒大夫・野村勘左衛門・加藤杉右衛門ほか
 五人が高名を遂げた。証人は鈴木石見である。特に私の活躍ぶりは石見が駆けつ
けご覧になった。これは私が一番である。争われることはない。                    
…直政が負傷した時もその場へ駆けつけ、相応の働きをした。」


・関ケ原の戦い後、井伊直政は近江彦根(佐和山)に転封。吉政も従い彦根に移住。
里見内蔵丞と名乗るように

★箕輪初心:生方の補足等**************
A鈴木石見守は鈴木重好(母が井伊直政の叔母である。
 つまり、井伊直政の従兄弟。)
 鈴木重好の父の妹は新野の妻・・娘が殆ど井伊直政の重臣
 に嫁いでいる。狩野一庵・木俣守勝・戸塚佐太夫・三浦元
 貞など)
 井伊家家臣の中で木俣守勝と鈴木重好が最高ランクである。
B,上野棒大夫は南北朝時代ころ分かれた井伊家の分家



■彦根藩重臣として
・50歳となった慶長7年(1602)分限帳では「御供(詰)之衆」で500石。
直政没後の慶長9年、
       井伊直継(直勝)から直政以来の知行である上野国内と近江神埼郡本庄村内
・犬上郡甘呂村の600石を安堵。この頃、長男喜兵衛、次男武右衛門が誕生か
・慶長10年、井伊家の家中騒動勃発。吉政は、家老鈴木石見方へ肩入れ
・慶良12年、近江浅井郡中野村内・坂田郡抜木村内で300石加増。同16年、
直継から近江愛知郡吉田村内等で200石加増、5与歳にして都合1000石に。
その間も、重臣としてさまざまな活動
・吉政の屋敷は、彦根城の中心部である内曲輪佐和口近く。重臣としてふさわし
い場所
・慶長19年、故あって直継は領地の一部である上野安中へ下り、62際の吉政も
従う。翌年、弟の直孝が家督を継承、直継は安中藩主に。それにともない、
吉政は安中から彦根に戻る。この間、大坂の陣が勃発するも、吉政は参加でき


6.吉政の人生⑥~晩年の青政~
・元和2年(1616)、66歳の吉政は、何らかの理由により若き当主である直孝から
勘当され、多賀大社の慈性に預けられる。同4年には復帰、同9年、松平忠直
改易に伴う越前北庄出陣計画では、72歳にして1000石で槍奉行、騎馬1騎
とあり

・寛永7年(1630)、隠居料300石を与えられ、同年に79歳で死去という

・それより前、両親・自分・子孫のために、吉政は六十六部の活動を行い、諸国の
寺社に法華経を納める。さらに、故郷の里見郷に、本塚を合わせて経塚を67基築く

・異説の存在…いつの頃か、彦根藩牢人の「里見内蔵之助」なる人物が、先祖由緒の
地ということで上野里見郷にやってきて住み着く。その後、隣の秋開村へ移住し、
手習い等の指南をして生計を立て、秋間にて死去。全(善)応寺に葬られる
(越前鯖江里見家家伝文書)


7.吉政の子孫
・長男喜兵衛…初め平七郎を名乗ったか。諱は義章か。1600~1606年頃に誕生か
(=吉政は50歳頃にして初めて子を授かった?)。吉政没後、1000石のうち
600石を継承したが、「長病」となり知行を上表し、途絶える
・一方、先述した信濃高遠藩内藤家の家臣里見氏の系図によると、喜兵衛は「父死後
家督減少二付彦根を立退無程病死」となり、その子孫が内藤家に仕える
 ⇒先述した、江戸期に里見郷へやって来た彦根藩牢人の「里見内蔵之助」は、
吉政ではなく、長男喜兵衛の可能性がある(滝川恒昭氏のご教示による)
・次男武右衛門…初め金平。諱は義治か。吉政没後、1000石のうち400石を継承
・三男弥次左衛門…吉政60代半ば頃に誕生か。彼が「里見源四郎」か
  ⇒「吉政覚書」は、次男武右衛門(金平)、三男弥次左衛門(源四郎)宛て、
となる
・子孫のうち、三男の弥次左衛門家のみ、幕末まで彦根藩士として存続。
最終的には50石ほど⇒里見家は、藩政初期では有力家臣だったが、次第に
中小家臣へ変化


8.「吉政覚書」の魅力
・名だたる有名武将が数多く登場。広く東国史・日本史全体にわたる出来事と、
吉政という一武士との関わりが具体的に見えてくる
・一方で、普通の史料ではほとんど確藩できないような無名の武士も数多く登場。
現場で活躍していた彼らのリアルな姿が垣間見える
・後に吉政とともに井伊氏家臣となった武士も数多く登場。いつ、どのようにして
彼らは出会い、ともに彦根藩を支えていったのか。藩の成立過程・初期藩政の
一端が垣間見える
 ⇒石原吉次、狩野主膳、岡本半介、宇津木泰繋、庵原朝昌、鈴木重好、木俣守勝
・守安…
・リアルな戦場の実態が克明に記されている。軍令違反、死骸の引っ張り合い、城攻め
の様子など、
 やはり普通の史料ではなかなか見えてこない姿が垣間見える
・そして、何よりも、時には大活躍し、時には大失態を犯しながらも、戦国という時代
を巧みに生き抜いていった一人の「普通」の武士の生き様が浮かび上がってくる点
が最大の魅力


9。「吉政覚書」に記された最大の謎~法華経と経塚の行方~
24 …私の両親のため自分のため子孫のためと思い、日本全国一国に三部ずつ法華経を
奉納した。国元の里見郷こは六十大個の経塚を造り、本塚と合わせて六十七の塚を
 造り残した。これらは末代まで絶やしてはいけない。子孫の人は後見するように。
 お経は諸寺社の経蔵・宝殿に籠め置いたので、子孫の人は後世に所望して拝見す
  るように。このように菩提のためと思い、大俗の身としてお経を納めて、右の
  条々に少しも偽りがあったならば、お経の功徳は無になってしまうだろう。
 このことをもって、私の思いをよくよく汲み取り考えるように。

・六十六部…日本六十六ケ国をめぐり、各国の著名な寺社に六十六回書写された法華
  経を一部ずつ奉納することを目的とする廻国の巡礼行者・廻国聖のこと。また、
 その活動のこと
・吉政も、晩年に法華経を全国の寺社の宝蔵に収めたという。中世的な経筒を奉納する
 かたちか
 ⇒調べた限り、1点も発見できず。どこかに1点でいいから無いか?上野だと榛名
  神社か貫前神社あたりに奉納した可能性が極めて高い。ぜひご協力を‥・
・里見郷に、経塚を66基、本塚1基、合わせて67基の経塚を築いたと記す。しかし、
 これも1基も見つからず。1基でも見つかれば大発見!
 ⇒里見郷周辺は、浅間山の噴火、烏川大洪水など、繰り返し災害に遭う。そのせい
 で消失してしまったのか?ぜひご協力を…
                            
おわりに
・「戦功覚書」という史料を積極的に活用し、新たな戦国史・近世史像を措いていきたい
・吉政の一生を、今後も引き続き、追いかけていきたい
・吉政の事俵を活かした地域活性化
 ⇒他地域の憤り歩く武士」との比較研究・シンポジウムの開催、吉政が足跡を残した
  地域との交流促進。ドラマ化、絵本化、グッズの開発などしたら、面白そう…。

【参考文献】
・あまりに多いので、拙著『戦国武士の履歴書』の参考文献一発をご参照ください


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この記事へのコメント

宗春
2019年12月17日 15:36
 先生今日は、私も竹井先生の「戦国武士の履歴書」購入して読み始めたところです。「信長公記」みたいに大身の侍クラスでなく、いわゆる小身クラスの侍の活躍について知ることが出来る内容ですね。わたしの興味にドストライクです。岸家の物とされる長野業政家臣禄に、給人として二人の里見氏がありますが吉政の親か一族とも考えられて興味津々です。
 小田原の役で山中城を攻めた一武士の話もどこかで出てきましたが面白かったです。戦や城攻めとはどういった様子だったのか知るうえで貴重なお話でした。もっともっと一武士個人の覚書とか触れる機会があれば私の夢も広がろうと言うものです。軍記物の次は覚書ですね。
 それではまた。