箕輪初心:生方▲2020『初日の出は箕輪城、初詣は長純寺』&『高崎市観光協会紹介の箕輪』

最近の4年定番:大晦日でも梅の剪定→17:00弟と酒を飲みながら、
漫画を見る。20:00~21:00就寝。正月は04:00~05:00に起床。
箕輪城付近で初日の出、おせち料理といっても、餅を入れた汁物、
村のお年賀会のレジュメ書き、年賀状の返事書き、長純寺に年賀、
適当にLunchして、・・・1年の始まりであった。
高崎観光協会 会報「縁起のいい町高崎市」『戦国の歴史が語り継がれる
里』に龍門寺・石上寺・東向八幡宮・箕輪城・長純寺・梅の里のことが掲載
されていた。ちょっとコメントしよう。書くのに5時間かかった。
無駄な時間を過ごした。これから、梅の剪定に行こっと、・・・


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箕輪初心:生方▲箕輪城№292『箕輪城てくてくマップ』
&イタリア厨房『パターテ』
https://ubu3blog.at.webry.info/201912/article_19.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№291『小学生を御案内』
&パスタの店「バンビーナ」
https://ubu3blog.at.webry.info/201912/article_18.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№290?『可愛いお嬢「友と珈琲と城と肝臓」
さんを御案内』
https://ubu3blog.at.webry.info/201912/article_17.html


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箕輪初心★「イブ大晦日→大晦日&元旦の過去20年」
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201101/article_1.html
2006年からは日本にいる。
2006年・・・群馬県:月波神社 
2007年・・・群馬県:月波神社  
2008年・・・長野県:善光寺&蕎麦
2009年・・・栃木県:ばんな寺&満願寺&蕎麦 
2010年・・・茨城県:雨引山&
2011年・・・茨城県:笠間稲荷&アンコウ鍋&笠間城
2012年・・・群馬県:月波神社&16番水沢寺&榛名湖&
榛名神社&蕎麦&15番長谷寺
箕輪初心◆2012年箕輪城№75&初詣バイクツアー◆
https://53922401.at.webry.info/201201/article_1.html

箕輪初心▲埼玉【2015年初詣:坂東10番正法寺=岩殿観音2回目】
https://53922401.at.webry.info/201501/article_5.html

箕輪初心★2019最近の元旦定番『初日の出は箕輪城付近、初詣は長純寺』
https://ubu3blog.at.webry.info/201901/article_1.html


【1】箕輪城付近で初日の出
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【2】おせち料理といっても、餅を入れた汁物、
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【3】長純寺に年賀、
僕んちは長純寺の檀家である。1月1日は和尚様に挨拶に行かなく
 てはならないのだ。
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長野信道和尚様「今は金富山長純寺ですか、再建前は、金剛山長純寺
 ではあるませんか。高崎の金剛寺もどこから移ったが不明です。
 高崎から彦根長純寺に行った可能性がありませんか?」
 和尚様「彦根は金剛山長純寺で基本的には末寺です。・・・
  末寺と同じ名前が付けません。」
 「金富山は金敷平と富岡からという地名から採ったと言われて
 いるようですが、?」
「山号は大切なので、代えないと思いますか、・・・」
「ありがとうございました。」
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★「長中山正法寺は長野氏と中沢氏の姓をとって付けた。
 井伊直政は井伊谷の万松山龍潭寺、箕輪の万松寺・・・」
彦根の長純寺は寺号は「金剛山」であった。高崎の金剛寺
は長純寺のことなのかな?そして、戦国時代、長純寺の鷹留
長野氏の和尚は、高崎の大信寺・大雲寺、→彦根の大信寺・
大雲寺・長純寺・宗安寺、そして、長純寺和尚:愚明正察は
彦根清涼寺を開山した。じゃあ、彦根長純寺は誰が?・・・
愚明正察ではないだろうか?・・・ 


箕輪初心:生方▲井伊直政№172彦根22『長野業実』と縁者開山の寺
http://53922401.at.webry.info/201802/article_18.html

箕輪初心:生方▲箕輪城238『長純寺・石上寺・東向八幡・字輪寺
・信玄家臣:塚越伴七調査』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201701/article_2.html
★永禄10年の生島足島神社にある起請文に母方先祖が
名前がある。

箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭
http://53922401.at.webry.info/201403/article_27.html

箕輪初心:生方★箕輪城№260?【長純寺】:長野業政供養塔に初詣
https://53922401.at.webry.info/201802/article_36.html

【4】箕輪城散策
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青柳さんがいた。「初詣は箕輪城にしました。」
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 ★赤城地蔵岳が真っ白だった。


【5】高崎観光協会『戦国の歴史が語り継がれる里』
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榛名山の東南麓に位置する箕郷町。歴史が刻まれた家屋や門扉が城下町
の情緒を伝え、箕輪城跡をはじめ古寺や石仏が里山の風景に溶け込んで
いる。早春の野では、温んだ水が流れ出し、蝋梅が芳香を放ち白梅の花の
つぼみがほこる 2 月下旬から3 月上旬頃には、西側の丘陵に広がる箕郷
梅林が開花期を迎え、満開の梅の花が訪れた人たちを桃源郷に誘う。

榛名山麓の伏流水が地表に流れ出す井伊家の香華寺(こうげじ)
 
榛名山が迫るなだらかな丘陵。榛名湖に通じる県道28号線沿いにあり、
箕輪城跡のすぐ北東に位置する場所に、唐破風造りの唐門の山門が
見える。箕輪城最後の城主であった井伊直政公が開基した井伊家
の香華寺「榛名山龍門寺」だ。香華寺とは仏前に香や花を供える役割
を担う寺のことで、菩提寺に近い存在である。
 
山門は1796年(寛政8)、開基二百周年を記念し井伊家によって再建
された。門の正面には、井伊家の家紋「丸に橘」、裏側には「細平井桁」
が刻まれている。
 
境内に足を踏み入れると、京都の寺院のような侘びの庭が趣深に進む
とせせらぎの音が聞こえ、渡り廊下の床下を水が流れる光景に出くわ
す。寺の裏の杉林から伏流水が池に流れ込み境内へ向かう。高崎市内
を流れる井野川の源流となる地蔵川が近くを流れ、この辺りは井野川の
始まりの地でもある。
 
この龍門寺は、井伊直政公が1598年(慶長3)3月に、中山道と三国街
道沿いの烏川河岸の和田を「高崎」と改名し、高崎城を築いて移った時
に一緒に移った。「高崎」命名の発案者は、直政公より相談を受けた龍門
寺の白庵秀関和尚で、若松町にある「高崎山龍廣寺」の開山の祖である。

箕輪初心コメント
①間違い「中山道」
 中仙道(最初は山でなく仙です。)の正式は慶長6年(1601)です。
 東山道または奥大道が正しいです。
②間違い「一緒に移った。」
 正しくは「分寺された。」です。
③間違い「高崎と改名し、「高崎」命名の発案者は、」
「榛名山龍門寺、高崎山龍廣寺です。」
『高崎の名前の由来』は井伊直政が「高崎」と命名したということ
なっている。一般的には、
①井伊直政が「恵徳寺の開山:大獄山瀧澤寺4世大光普照禅師龍山
 詠譚和尚」と相談した説(恵徳寺石碑)
②「龍廣寺(箕輪龍門寺末寺)開山:白庵和尚」と相談した説
『高崎志』川野辺寛著:寛政元年(1789)の記述は白庵和尚を
紹介している。『高崎城:ウィキペディア』では「龍山詠譚和尚」を
あげ、『高崎市:ウィキペディア』では「龍廣寺:白庵和尚」載せ
ている。高崎市の「歴史巡りマップ」にも「龍廣寺が地名ゆかりの
寺」とある。
しかし、高崎の由来については、『高崎市史(昭和2年)』には、
井伊直政は「高崎」命名以前に、反町文書などに「高崎」の文字が
掲載され、『中仙道宿史』根岸省三編:高崎市社会教育振興会1974
にも天正2年(15749)の鉄下駄に「高崎」の文字が彫られていると
絵入りで掲載されている。『高崎漫歩』土屋喜英著:高崎地方史料
普及会1989 にもあった気がするが記憶が定かではない。

 
今も龍門寺の檀家の人たちにとって、井伊直政公は畏れ多い殿様で、「井
伊さま」「直政公」と呼んでいる。この地には戦国の世に土着した武田の家
臣たちもいたが、戦が終われば武田衆も箕輪衆もないと出自を詮索しない
暗黙のルールが綿々と受け継がれてきたという。


室町時代の石造物は史実をひも解く鍵
 龍門寺の山門を出て道路を渡ったところに、長野氏が祖と仰ぐ在原業平箕輪初心コメント
「戦が終われば武田衆も箕輪衆もないと出自を詮索しない暗黙のルールが
 綿々と受け継がれてきたという。」は正確ではありません。
天正10年(1582) 徳川家康から井伊直政に旧武田家臣が付けられた。
 寛政譜117人、木俣家譜117人以上・・・ということは、武将117人
 足軽は含まない。
 山県昌景の寄子、土屋昌恒の寄子、原昌胤の寄子、一条信龍の寄子
 です。甲州同心の長野(浜川1500貫文)・広瀬・三科・石黒・脇・輿石
 ・大久保・長坂などが直政の家老・足軽大将クラスです。
天正18年(1590)が箕輪城に分封(正しい歴史用語です。)された
時に直政の甲州同心衆が箕輪・高崎に来きました。
旧武田家臣は箕輪から移ってきた11寺のどこかに所属しています。 

の草創と伝えられる石上寺がある。箕輪城の鬼門の寺として、代々城の
祈祷所とされてきた。1557年(弘治3)、武田信玄の攻撃を受け炎上した
が、1591年(天正19)に井伊直政公により再建されたと伝わる。直政公が
城を高崎に移したときに一緒に移転した。現在、箕郷町東明屋にある石上
寺は、移転後も地域の信徒によって護られてきたという。ここでは輪廻塔
〈1491年(延徳3)〉、六地蔵石幢(せきどう)〈1474年(文明6)〉など、室町
時代の石造物が風雪にさらされながらも刻まれた歴史を伝えている。
 

●箕輪初心コメント
「寺伝では貞観4年、在原業平が・・・」箕輪初心コメント
「弘治3年、炎上しました。」「井伊直政が再建しました。」
 出典がかいてありません。実際はどの軍記物にもありません。
「龍門寺縁起」だと思いますが、・・・
「「龍門寺縁起」慶長7年
   (略)
   北方五六丁程隔丸山御
    蔵場にて御座候 此地尤と被仰上候
    得婆境内四方五百軒地形被致候
    処近所寺院之内御取立に預り度
    願各々有之候得共御樣引無之為 (略)


「寺伝しかありません。在原業平は上野国には来ていま
せん。」在原業平は
伊勢に行っていたので「伊勢物語」を書いています。
「寺伝では貞観4年、在原業平が創建したとされています。 
 実際には文明6年(1474)に年号が入っている石憧(せきどう)が
 あることから、これ以前に、石上寺は長野氏の菩提寺として箕輪城
 の鬼門に造られたと考えられます。」

また、鍛冶町通りにある「東向八幡宮」は、長野業尚公が1474年(文明6)に山
城国(京都府)石清水八幡宮から勧請創建し、箕輪城総鎮守として祀ったと伝わる。
本殿北側にある石幢(せいどう)には「文明6年」の銘がある。石上寺の石幢にも同
様の年号が刻まれており、専門家によると、箕輪城築城の年が1474年、あるい
はそれ以前であると推測する根拠の一つになっているという。
箕輪初心コメント
「専門家によると、箕輪城築城の年が1474年、あるいはそれ以前であると推測
する根拠の一つになっているという。」
これは箕輪初心:生方の説で、ほかには誰もいません。
★高崎観光協会 会報「縁起のいい町高崎市」『戦国の歴史が語り継がれる
里』の筆者がはじめて、私の説に賛同してくださった。ありがとうございます。
箕輪城築城は通説は1500年頃となっている。7説ほどあるが、・・・・

【1】1474年かそれ以前説・・・箕輪初心:生方世知
石上寺・東向八幡宮の石どうから、・・・

【2】1477年~1497年説・・・秋本太郎先生の以前の説
箕輪城の出土品から、・・・

【3】延徳4年(1492)説・・・・近藤義雄先生説  
1992年に示唆した。「長年寺建立。」

【4】明応5年(1496)説・・・・石上寺記の説


【5】明応6年(1497)説・・・・??先生
     「菩提寺:長純寺建立。」


【6】1500年頃説・・福島武雄説1929・秋本説
 「長野業尚は椿山に築城→長野信業が大規模改修。」


【7】永正9年(1510)説・・・久保田順一先生の以前の説 
  箕輪城より鷹留城が先の可能性がある。

【8】永正17年(1520)説・・・山崎一先生説
  「惣社長尾氏が北条氏綱に通じたことが契機
   となった。」

【9】1524年説・・・久保田順一先生の最近の説

指定史跡・日本百名城遊歩道を歩いてスケールを実感

④箕輪城
「郭馬出」
直政公によって埋め立てられた大堀切が、底の杉を伐採
し9 メートル程の深さまで再現されている。実際は20
メートルほどの深さがあり、全国級のスケールという。
旧下田邸
城門「郭馬出西虎口門」の復元
城跡にはいくつかの遊歩道があり、戦国の世をしのびな
がらの自然散策がおすすめだ。


 
榛名山東南麓の丘陵上に位置する「箕輪城跡」は、昭和62年に群馬県
の戦国時代を代表する城郭跡として国史跡に指定され、平成17年に「日
本百名城(日本城郭協会認定)」に認定された。歩いてみると豊かな自然
が残り、高崎市街を見渡せるすがすがしい場所であり、地形を巧みに利用し
た城の構造が実感できる。
 
最初の箕輪城主長野氏は、平成天皇の皇子阿保親王の第五子在原業平
の後裔とされる。在原業平は「伊勢物語」の主人公で優れた歌人であり、恋多
き美男子として知られる人物だ。
 
箕輪城は、長野業尚公が築城し、子憲業公、孫業政公により強化された。長野氏
約70年間の箕輪城主の中で、智仁勇を兼ね備えた名将の誉れ高い業政公が西
上州に君臨した35年間が全盛期といえる。難攻不落といわれた箕輪城は、業政公
の子・業盛公が武田軍の総攻撃に屈して落城して以降、武田・織田・北条・徳川と
城主が替わった。しかし、今も歴史を愛する地元の人たちにとって、殿様といえば
長野氏という。

箕輪初心コメント
「約70年説は一般説で語られている説・・・」私の説は
長野氏は約100年、・・・天正18年(1590 )長野業実(なりざね)は
井伊直政の家臣として、浜川1500貫文ではいりました。
後、長野氏は第3家老になるました。

 
近年、高崎市が史跡公園としての環境整備・遺構整備を進め、井伊直政公時代の
荘厳な城門「郭馬出西虎口門」が復元され、シンボルとなっている。関ヶ原の戦い
以前で復元された城門の中では、関東地方最大規模の門という。

直政公によって埋め立てられた大堀切が、底の杉を伐採し9 メートル程の
深さまで再現されている。実際は20メートルほどの深さがあり、全国級のス
ケールという。
城門「郭馬出西虎口門」の復元城跡にはいくつかの遊歩道があり、戦国の
世をしのびながらの自然散策がおすすめだ。


江戸時代の書院造と庭園が残る旧下田邸
箕郷支所に隣接し、塀を越えて外に伸びた立派な松の幹が目をひく旧下
田邸。
長野氏の重臣下田大膳正勝の子孫が落城後に土着し、房州勝山藩酒井
大和守の所領の代官として居を構えた。一部が書院と回遊式の庭園として
残されて、貴重な近世の様式を伝えている。書院は随所に数寄屋風の意
匠が見られ、葡萄とリスを透かし彫りにした優美な桃山風の欄間装飾が残
っているという。残念ながら内部は立入禁止だ。

県内でも数少ない江戸時代の庭園は、『忠臣蔵』でおなじみの堀部安兵衛が
築庭したと伝わる。
●箕輪初心コメント
加筆「安土桃山様式なので、井伊直政の時代の欄間が残って
  いたのかもしれません。箕輪城に庭園がないことから、
  この場所は井伊直政のお茶室がったかもしれません。」
加筆「堀部安兵衛は青翠園や金竜寺庭園、妙福寺庭園も
  造ったという言い伝えがあります。」


アカマツやヤマモミジなどの樹木が植えられ、蓬莱島や亀島と呼ばれる石
の島が配された池もある。武家屋敷の品格を伝える邸宅は、四季折々の
表情に趣があり、特に紅葉の名所として知られる。


 梅の里を従えるような古寺は長野氏の菩提寺
 
箕郷町富岡地区にある「曹洞宗金富山長純寺」は、長野業政公が中
興開基した長野氏の菩提寺。裏山は箕郷梅林に続いており、見晴らしの
良い場所に業政公の供養塔がある。寺の開基堂には業政公の木像が
安置されている。ご住職も長野姓だ。
 
箕輪初心コメント
文中「中興開基」は正しいです。解説すると、
「明応六年(1497)長野業政の父:長野信業が現高崎市箕
郷町上芝に創建した(伝)。しかし、明応6年(1498)長純寺
が(高崎市箕郷町上芝)榛名白川の洪水で流出した。墓は崖
の上に移したという。弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:
長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。(★長純寺文書)
「弘治3年の奉加帳が残っていて、長野氏の同心(一緒に
  戦う契約をしている武将)が木材を寄付しました。」

周囲の梅が開花期を迎えると、長野氏の家紋「檜扇」が刻まれた山門がひと
きわ輝く。参道の前のユニークな2体の石像を手前に山門を眺めるのが、絶好
のビューポイントだ。


桃源郷でいただく御茶一服
 
高崎は東日本一の梅の産地。箕郷梅林は、「群馬三大梅林」のひとつで、
標高140mから390mの丘陵に10万本もの梅の木が植えられている。
開花期には大地が歓喜の声を上げるように純白に染まり、桃源郷に一変
する。
 
「梅は寒さに耐えて春に先駆けて咲く花の王。気品があり高潔なことから
君子にたとえられ、菊・竹・蘭と並び〝四君子〞と呼ばれています。箕郷で
は、養蚕が衰退した後、梅が農家の貴重な収入源となり、りっぱな梅林を
育んできました」と話すのは、3月1日から3月下旬まで箕郷梅林で開催さ
れる「みさと梅まつり」で、週末に野点を行う茶道家の佐藤先生。
 
梅の木で囲った炉に梅の木で作った炭をくべて茶釜でお湯を沸かす。
昔から暮らしに欠かせない道具の素材となった竹も用いてお手前の空間
をしつらえる。「農業は人々の暮らしの礎。自然の織りなす森羅万象と
うまく折り合いをつけ共生してきた暮らしの知恵が息づいています。農
業への感謝を表し、この梅の里の素晴らしさを伝えることで、いつまで
もこの地の自然と農業を守る一助になりたい」と言葉をつなぐ。
 
梅林の野点で用いる茶釜は「兜釜」と決めている。兜型の釜は、武田軍を
何度も退けた名将長野業政公や、武田軍に囲まれ持仏堂で自害した若き
城主業盛公など、この地に散った武将や兵士たちをしのぶもの。その兜釜
には、閻魔大王のかぶりものに似た形の蓋が付く。そこには、お彼岸に墓
参りに帰ってきた人たちをもてなす思いが込められている。
 
「御茶一服差し上げたく…」。箕郷梅林限定のおもてなしの一服は、生きる
喜びと感謝に満ちた清涼感のある一服となる。

箕輪初心:生方▲2017【群馬:箕郷梅林】と『梅&万葉集・菅原道真・戦国武将』
http://53922401.at.webry.info/201703/article_7.html

箕輪初心:生方▲2018【群馬:箕郷梅林:梅満開】&「赤字を生む我が家の梅林」
https://53922401.at.webry.info/201803/article_22.html


★明日は?暇がない。

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この記事へのコメント

2020年01月03日 15:56
ブログが引っ越ししていたなんて、知りませんでした。おかしいなあ、どうしたのかなあ、とは思っていたんです。年賀状のブログURLもエラーになったので、検索してみて見つけました。